古代の郷名を現代地図に戻す ──
中泉郷が伝える、律令の村の単位
郡と郷という、二重の行政単位
磐田物語の別稿で扱ったとおり、遠江国は磐田郡・山名郡・豊田郡といった郡から構成されていた。律令制のもとでは、この郡がさらにいくつかの「郷」という単位に分けられていた。郷は、現在の大字(おおあざ)や集落のまとまりに近い、行政の最も基礎的な単位である。郡が「県」に近い広がりを持つ単位だとすれば、郷は「町」や「村」に近い、より生活実感に近い単位だったといえる。
中泉郷という手がかり
磐田物語の別稿(磐田の地名をたどる)で扱ったとおり、現在の「中泉」という地名は、中世の資料に見える「中泉郷」に由来するとされる。徳川家康がこの地の飲料水を気に入ったという伝承もあるが、地名の成立を一つの水伝承だけで説明するのは慎重であるべきとされている。いずれにせよ、「中泉」という現代にも使われる地名の奥に、中世まで遡れる「郷」という古い行政単位の痕跡が眠っていることは、確かな事実である。
郷という単位の一般的な性格、中泉郷という具体例については、既存記事等で確認できる。一方、古代の磐田郡・豊田郡内にどのような郷が具体的にいくつ置かれ、それぞれが現在のどの範囲に対応するのかという網羅的な一覧は、今回のWeb調査の範囲では確度の高い情報を得られておらず、断定を避けている。
郷はどう区切られていたのか
律令制の地方行政では、原則として50戸をもって一つの「里(り)」を編成し、のちにこの里が「郷」と呼ばれるようになったとされる。一つの郡は、こうした郷がいくつか集まって構成されており、郷はさらに複数の「保(ほ)」や「村」に細分されることもあった。つまり、国・郡・郷という階層構造のなかで、郷は「顔の見える範囲の共同体」に最も近い単位だったといえる。中泉郷という名前が、単なる古い呼び名としてではなく、具体的な人々の暮らしの単位として存在していたことを、この階層構造は教えてくれる。
地名という手がかりの、使い方と限界
古代の郷名を現代地図に戻す作業は、しばしば地名という手がかりに頼ることになる。「中泉」のように、郷名がそのまま現代の地名として残っている例は貴重な手がかりだが、すべての郷が同じように地名を残しているわけではない。時代の変遷、村の合併、宅地化などによって、多くの郷名は地名としての痕跡を失い、記録のなかにしか残っていない場合も多い。磐田の地名をたどるで示されたとおり、地名由来の確からしさには段階があり、「事実」「推定」「伝承」を区別しながら読み解く姿勢が欠かせない。
「泉」の字が語りかけるもの
中泉という地名を考えるとき、「泉」という字そのものにも目を向けておきたい。清らかな水が湧き出る土地に、人々が集まり、郷としてのまとまりを形成していったことは、想像に難くない。磐田物語の別稿(中泉御殿のあった町)で扱ったとおり、のちに徳川家康がこの地に御殿を構えたのも、水に恵まれた土地としての性格と無縁ではないだろう。郷という古代の単位が、水・土地条件と結びついて形成され、その痕跡が地名として近世・近代・現代へと引き継がれていくという流れは、磐田という土地の成り立ちを考えるうえで、示唆に富んでいる。
郷という単位から見えてくるもの
郡という大きな枠組みだけでは、古代の人々がどのようなまとまりで日々の暮らしを営んでいたのかは見えてこない。郷という、より生活に近い単位に目を向けることで、古代の磐田に暮らした人々の、具体的な生活圏の輪郭が浮かび上がってくる。中泉郷という一つの手がかりから、磐田郡・豊田郡のなかにあったであろう、名も残らなかった数多くの郷にも思いを馳せてみたい。
| 郷(ごう)とは | 郡のなかに置かれた、より小さな律令制の行政単位。現在の大字・集落に近い |
|---|---|
| 中泉郷 | 現在の「中泉」の地名の由来とされる、確認できる郷の実例 |
| 網羅的な一覧 | 磐田郡・豊田郡内の郷の全体像は今回のWeb調査では未確認 |
| 読み方の姿勢 | 地名由来は事実・推定・伝承を区別して読む |
主な参考資料
- 磐田物語「磐田の地名をたどる」「古代磐田郡・山名郡・豊田郡」
本記事は、磐田物語の既存記事(c009・c071)を土台に、郷という単位に焦点を当てて再構成したものである。網羅的な郷の一覧等、確度の高い情報を今回のWeb調査では確認できておらず、本文中で明記している。
あわせて読みたい
この地域の家・土地・空き家について
古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。