失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

磐田駅から消えた二つの鉄路 | 子11・廃線後の記憶

廃線後の中泉軌道――遠足・祭り・石碑に残った細い鉄路

1930年(昭和5年)の営業休止、1932年(昭和7年)の全線廃止を経て、中泉軌道の車両やレールはほとんど残っていない。だが、その軌道敷は、戦後になって遠足コースや祭りの巡行路として再び使われ、いまも沿線各所の石碑に記憶をとどめている。

廃線は、記憶の終わりではなかった

中泉軌道は、1930年(昭和5年)に営業を休止し、1932年(昭和7年)2月7日をもって法的に正式な廃止を迎えたとされる。開通から数えて23年あまりでの終焉であった。しかし、軌道としての役目を終えたあとも、その空間的な痕跡は地域のなかに長く残り続け、思わぬ形で再利用されていったと伝えられている。

軌道敷の払い下げと戦後の使われ方

営業休止の翌年にあたる1931年(昭和6年)には、関係者の要望によって、軌道敷(線路跡地)が払い下げ・売却されたとされる。車両やレールという「モノ」は撤去されても、細長く続く軌道敷の「土地の形」そのものは、そのまま地域に残った。この土地の形が、のちに別の用途で生き続けることになる。

遠足と祭りに変わった線路跡

旧東海道の北側(細江線)から豊田会社にかけての、起伏に富んだ軌道跡地は、1947年(昭和22年)頃から、地元の学生たちの「10マイルの遠足(マラソン)コース」として使われ始めたと伝えられる。また、戦後の地域の祭礼においては、各町の思惑によって乱れがちであった巡行コースに対し、この軌道跡を通るルートが新たに重宝されるようになったとされる。軌道跡を通ることでコースに多様性が生まれ、戦後の祭りの形態が変わっていったとも記録されている。産業インフラとして敷かれた土地が、役目を終えたのちに地域の「ハレの場」として転用された例として、注目してよい経緯だろう。

池田橋・亀文商店北側・豊田会社北側の碑

現在、中泉軌道で使われていた人車や馬車などの車両は保存されておらず、レールなどの直接的な鉄軌道遺構もほとんど姿を消している。それでも、かつてそこに軌道が存在したことを伝える記念碑が、沿線の各所に建てられている。

終点であった天竜川左岸の堤防下、池田地区には、1992年(平成4年)に池田ふるさと振興会によって建立されたとされる、中泉軌道跡の記念石碑がある。磐田駅周辺の西新町、旧亀文商店の北側付近、軌道が北から西へ進路を変えた迂回地点にも、小さな「中泉軌道跡」の石碑がひっそりと残されているという。さらに、かつての沿線であった豊田会社の北側にも、軌道の存在を示す碑が建てられていると伝えられる。

車両がなくても、道の形が語るもの

記念碑だけではない。旧東海道の片側にだけ松並木が残っている様子や、森下周辺に残る「車一台がぎりぎり通れるほどの細い路地」の線形そのものも、中泉軌道が地域に刻んだ、目に見えにくい遺構だといえる。車両や線路がなくなっても、土地の形や道幅、石碑という形で、軌道の記憶は残り続けている。磐田市情報館などには、いまも中泉軌道についての問い合わせが寄せられることがあるといい、地域の歴史に関心を持つ人々の間で、静かに語り継がれている軌道だといえるだろう。

参考資料

  • アップロード資料「中泉軌道の詳細調査」
  • 磐田市立図書館所蔵資料(中泉軌道・光明電気鉄道関係)
  • 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)
  • 必要に応じて、旧東海道・天竜川水運・磐田駅周辺の郷土資料

本文は資料の転載ではなく、複数資料をもとに事実関係を整理し、磐田物語用に再構成したものです。断定できない事項は、今後の現地確認・郷土資料確認で補強します。

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