失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

磐田駅から消えた二つの鉄路 | 子10・駅北の景観

中泉駅北の歴史地層――御林・赤煉瓦・中泉御殿のそばを通った軌道

中泉軌道の起点は、東海道本線・中泉駅、いまの磐田駅に置かれていた。駅の北側には、御林と呼ばれた台地、赤煉瓦を焼いた工場の記憶、中泉御殿の堀跡や大乗院坂が重なっている。軌道が抜けたこの一帯を、近世と近代が重なる歴史地層として読む。

磐田駅北に重なる、近世と近代

中泉軌道の起点は、東海道本線・中泉駅、現在の磐田駅に置かれていた。レールは駅東側の貨物ホーム付近まで延び、ここで国鉄の貨物列車へ、鉱石や木材、福田石などの積み替えが行われていたとされる。駅から西へ向かう軌道は、しばらく東海道本線の北側を並んで進んだ。ここで立ち止まって見ておきたいのは、この駅北側一帯が、軌道が敷かれるはるか以前から、いくつもの時代の記憶を重ねてきた土地だということである。

御林と赤煉瓦の記憶

駅北側の台地一帯は、古くは「御林(おはやし)」と呼ばれていたと伝えられる。1889年(明治22年)の中泉駅開業にあたっては、この地に設けられた工場、現在の千寿酒造付近で焼かれた赤煉瓦が、駅のホーム築造に用いられたとされ、「磐田の煉瓦発祥の地」として語られることがある。中泉軌道(細江線)は、この歴史的な煉瓦工場の北側を通過し、石原の郵便局東側から北進して、西新町の旧家・亀文商店の北側を西へ抜けるルートをとったと伝えられる。

中泉御殿と大乗院坂の近くを抜ける

この付近には、徳川家康が造営し、のちに関ヶ原の戦いや大坂の陣の際には軍事拠点・休憩所としても機能したとされる「中泉御殿」の、堀と土塁の跡地が残っている。また、「大乗院坂」と呼ばれる旧東海道の坂道も、この一帯に位置している。中泉軌道は、こうした近世以前の歴史的な遺構が集まるエリアを避けるように進み、磐田久保川を渡って、徐々に北上していったとされる。

軌道は、古い町の縁を通った

近代のインフラである軌道が、近世の城館や街道の縁を通り抜けていったのは、単なる偶然ではないと考えられる。狭い旧東海道の道幅では軌道の車両が通りにくかったこと、また歴史的な遺構が密集する区域を避ける必要があったことなど、いくつかの事情が重なって、このような迂回するルートが選ばれたと推察される。近代交通が、近世以来の町の形を尊重するように、その縁をなぞって敷かれていった様子がうかがえる。

消えた線路が教える、駅北の読み方

中泉軌道の線路そのものは、いまはもう残っていない。しかし、御林、赤煉瓦、中泉御殿、大乗院坂といった地名や記憶をたどっていくと、磐田駅北側という土地が、近世の政治・軍事の記憶と、近代の産業・交通の記憶を重ねて持っていることが見えてくる。軌道が通ったルートの詳細については、既出の「旧東海道を走った軌道」であらためて扱っている。ここでは、軌道が抜けていった駅北一帯を、ひとつの歴史地層として読み直しておきたい。

参考資料

  • アップロード資料「中泉軌道の詳細調査」
  • 磐田市立図書館所蔵資料(中泉軌道・光明電気鉄道関係)
  • 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)
  • 必要に応じて、旧東海道・天竜川水運・磐田駅周辺の郷土資料

本文は資料の転載ではなく、複数資料をもとに事実関係を整理し、磐田物語用に再構成したものです。断定できない事項は、今後の現地確認・郷土資料確認で補強します。

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磐田駅北の歴史をたどると、いまの住宅地や道路の下にも、古い土地利用の記憶が重なっていることが分かります。

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