磐田駅から消えた二つの鉄路 | 子9・運行実態
車丁が押した鉄路――中泉軌道の人車・馬力運行と旅客利用
中泉軌道は、開業から長きにわたり、蒸気機関にも電力にも頼らず、人の力で車両を押して走らせていた。軌間762mmの細いレールの上を、「車丁」と呼ばれる押し手が担った労働と、貨物・旅客の両方を支えた運行の実態を読む。
人が押して走った、中泉の鉄路
中泉軌道の最大の特徴は、開業時から長い間、蒸気機関や電力ではなく、「人車(じんしゃ)」と呼ばれる人力の車両で運行していたことにある。同じ天竜川の対岸、浜松側では浜松電気鉄道中ノ町線など、より高度な動力を備えた軌道がすでに動いていたとされるが、資本規模の小さかった中泉軌道は、長く人の力に頼らざるを得なかったと考えられる。
軌間762mmの細いレール
中泉軌道の軌間は762mmであったとされる。これは特殊狭軌、いわゆるナローゲージにあたる幅で、東海道本線などの官設鉄道が用いる軌間よりもさらに狭い。線路幅を細くすることで、敷設費用や用地の負担を抑え、限られた資本でも路線を通せるようにしたと考えられる。当時の記録によれば、保有車両は人車1両、軌道車(貨車)3両という、ごく小規模な編成から始まったとされる。
車丁の仕事と、人車運行の過酷さ
レールの上を走る車両は、「車丁(しゃてい)」と呼ばれる専属の押し手が、2人がかりで押して動かしていたと伝えられる。鉄の車輪がレール上を転がる摩擦抵抗は、土や砂利の道を荷車で牽くよりも小さく、人力であっても比較的重い荷を運べる利点はあったとされる。とはいえ、数十キロから数百キロに及ぶ鉱石や木材、あるいは満員の乗客を乗せた車両を、約6kmにわたって人力で押し続ける労働は、決して軽いものではなかったと考えられる。
貨物だけでなく、人も運んだ
中泉軌道が運んだのは、久根鉱山の鉱石や天竜川流域の木材、福田石といった大口の貨物だけではない。時代が下るにつれ、米や茶、さつまいもといった地域の農産物や生活物資も、日常的に軌道に載せられるようになったとされる。あわせて、6人乗りの人車を用いた旅客輸送も行われ、記録によれば旅客利用がピークを迎えた1913年(大正2年)には、年間約12,000人もの乗客が中泉軌道を利用していたという。沿線人口や当時の代替交通機関の乏しさを考えれば、年間1万人前後で推移したこの利用は、中泉軌道が地域の「足」として定着していたことを示すものと考えられる。
馬力化の申請が示す限界
輸送量の増加や人手不足を背景に、中泉軌道は1925年(大正14年)、動力を人力から「馬力(馬車鉄道)」へ変更する申請を行っている。これは、人が押して走らせる運行方式が、長くは続けにくい仕組みであったことを示す出来事でもある。もっとも、馬力への転換によって輸送力の限界がすべて解消されたわけではなく、その後もモータリゼーションの波には抗いきれなかったとされる。運行を支えた沿線の風景については、次のページ「中泉駅北の歴史地層」であらためて扱う。
参考資料
- アップロード資料「中泉軌道の詳細調査」
- 磐田市立図書館所蔵資料(中泉軌道・光明電気鉄道関係)
- 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)
- 必要に応じて、旧東海道・天竜川水運・磐田駅周辺の郷土資料
本文は資料の転載ではなく、複数資料をもとに事実関係を整理し、磐田物語用に再構成したものです。断定できない事項は、今後の現地確認・郷土資料確認で補強します。
家・土地・空き家の整理について相談する
人が押して動かした細い軌道のように、地域の暮らしは小さな道や土地の使い方に支えられてきました。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、「売る・貸す・残す」の前に一度整理して考えたい方は、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。