広重「見附 天竜川図」を読む ──
霧の川に描かれた磐田
保永堂版東海道五十三次 ── 空前のヒット作
「東海道五十三次」は、天保4年(1833年)ごろから版元・保永堂(ほうえいどう、竹内孫八)らによって出版された、歌川広重(うたがわひろしげ、1797〜1858)の出世作にして代表作である。日本橋から京都三条大橋まで、53の宿場に起点と終点を加えた全55図で構成される。前後して葛飾北斎の「富嶽三十六景」が風景版画のジャンルを切り開いていたが、広重の五十三次は、雄大な自然を主役にする北斎とはひと味違った。名所や名物を大きく見せるのではなく、宿場ごとの「なにげない旅の情景」── 雨、雪、夕暮れ、川霧 ── を、詩情ゆたかに切り取ったのである。
この揃物(そろいもの)は爆発的に売れた。旅ブームの時代、実際に東海道を旅する人も、旅に出られない人も、この55枚によって、まだ見ぬ、あるいは懐かしい東海道の風景を、居ながらにして味わった。それは、いわば江戸のベストセラー写真集であり、旅心を刺激する一大メディアだった。江戸に生まれ育ち、火消し同心の家に生まれながら絵師の道に進んだ広重は、この五十三次によって一躍、風景版画の第一人者としての地位を確立した。そして、その名を高めた55枚のうちの一枚が、ほかならぬ磐田を描いた「見附 天竜川図」なのである。数百年にわたって世界中の人の目に触れてきたこの一枚は、磐田がこれまで生んだ、あるいは磐田を描いた作品のなかでも、最も広く知られた「磐田の一枚」だといってよい。
絵のなか ── 川霧と、舟と、待つ人
「見附 天竜川図」に描かれるのは、天竜川の渡し場の朝景である。画面の大半を占めるのは、水と、中州の砂地と、空である。手前の中州には渡し舟が着き、菅笠(すげがさ)をかぶり棹(さお)を操る船頭たちの姿が小さく点じられている。そして遠景は、一面の川霧(かわぎり)のぼかしに沈み、対岸はほとんど見えない。人物は小さく、風景は広い。五十三次のなかでも特に静かで、余白の多い一枚として知られる。
ここで広重が用いたのが、木版画で霧やもやを表現する「ぼかし」の技法である。版木に絵の具の濃淡をつけて摺(す)ることで、川面に立ちこめる朝霧の湿った空気までもが、紙の上に立ちのぼる。にぎわいや名物ではなく、「大河を前にした旅の間(ま)」── 舟を待つあいだの、あの静かな時間そのものを主題にした構成である。実際の東海道でこの渡しを担ったのは池田の渡しであり、池田村の渡船方が舟を出した。つまりこの絵の舞台は、見付宿の市街地ではなく、そこから西へ下った天竜川の東岸、現在の磐田市豊田地区の河原ということになる。「見附」と題されながら、描かれているのは見付の隣なのである。
なぜ「見附」の絵が川なのか
広重は五十三次の各図で、その宿場を象徴する一場面を選び抜いている。日本橋には旅立ちの朝を、庄野には驟雨(しゅうう)に走る人々を、蒲原には雪を。では、見附になぜ「川」が選ばれたのか。答えは明快である。旅人にとっての見付宿の最大の意味が、「天竜川越えを控えた宿」だったからにほかならない。
見付宿で旅装を整え、一夜を明かし、翌朝、川原へ下りて渡し舟を待つ。増水すれば渡れず、天候をうかがい、舟の順番を待つ ── その緊張と、待つあいだの静けさこそが、東海道を旅した無数の人々の記憶に刻まれた「見附」の情景だった。広重は、宿場の家並みや旅籠のにぎわいではなく、その先にある川の渡しを描くことで、旅人の心に残る見付の姿を的確にすくい取ったのである。宿場の絵でありながら、宿場そのものを描かない ── この一見奇妙な選択は、広重一流の鋭い批評眼のあらわれでもある。町の顔は、必ずしも家並みや繁華街とは限らない。見付という町の本当の顔は、その足もとを流れる大河だったのだ。
保永堂版東海道五十三次の刊行時期(天保4年ごろ)・版元・全55図の構成、「見附 天竜川図」が天竜川の渡し場を描いた作品であることは、美術館解説等で確認できる。画面の細部の記述は現存作品の観察に基づくが、木版画は刷りの時期や版元によって色調・細部に違いがあり、初摺(しょずり)と後摺(あとずり)でも印象が変わる。本稿は代表的な図様に沿って記述している。広重の実地取材の有無については、後述のとおり学説が分かれる。
学説の整理 ── 広重はこの川を見たのか
説A:実走説
広重は天保3年(1832年)、幕府が朝廷へ馬を献上する「八朔御馬進献」の一行に加わって東海道を上り、その際の写生をもとに五十三次を描いた ── これは長く通説として語られてきた説明である。この立場では、「見附 天竜川図」の川霧も、広重が実際に見た朝の天竜川ということになる。
説B:非実走(部分実走)説
しかし近年の研究では、御馬進献への随行を裏づける確かな史料がないこと、五十三次の構図のいくつかが『東海道名所図会』などの先行出版物と類似することが指摘され、広重は東海道を(少なくとも全区間は)旅しておらず、絵手本や名所図会を再構成して描いたとする見方が有力になっている。この立場では、見附の川霧は実景ではなく、広重の画面構成の産物ということになる。
本稿の立場
広重が実際にこの川を見たかどうかを、磐田側の史料から検証することはできない。そこで本稿は、両説を対等に併記する立場をとる。ただし、一つだけ強調しておきたいことがある。仮にこの川霧が広重の実見でなく、絵手本を参考にした画面構成の産物だったとしても、それはこの絵の価値を少しも損なわない、という点である。なぜなら、実景か想像かにかかわらず、広重は「見附といえば天竜川越え」という当時の旅人の共通認識を、寸分たがわず正確につかんでいるからだ。絵の真価は、その場に画家がいたかどうかではなく、その土地の本質をとらえているかどうかにある。その意味で、「見附 天竜川図」は、まぎれもなく見付の絵なのである。
何度も描かれた見附
じつは広重は、生涯に東海道を主題とする揃物を、二十種以上も手がけたと言われる。保永堂版はその最初の、そして最も有名なシリーズだが、ほかにも「行書東海道」「隷書(れいしょ)東海道」、縦長の画面に収めた「竪絵(たてえ)東海道」など、さまざまな趣向で東海道を描き続けた。それだけ東海道の揃物が売れ、需要があったということでもある。
これらの別のシリーズでは、見附の絵柄も少しずつ異なる。天竜川の渡しを描くもの、宿場の風景を描くもの、構図や季節を変えたもの ── 広重にとって見附と天竜川は、繰り返し立ち返る画題の一つだった。同じ画家が同じ土地を何度も描き、そのたびに違う切り口を見せる。それは、見付・天竜川という場所が、それだけ絵になる ── 旅人の心に訴える力を持った土地だったことの証しでもある。数あるなかで、静かな川霧の朝を描いた保永堂版の一枚が、いまも見付を代表する絵として最も広く愛されているのは、その叙情の深さゆえだろう。にぎやかな祭りや名物ではなく、渡し場の静けさを選んだこと ── その抑制された美意識こそが、時代を超えて人の心を打ち続けているのである。
「見附 天竜川図」の基本情報
| 作品 | 歌川広重「東海道五十三次之内 見附 天竜川図」 |
|---|---|
| 刊行 | 天保4年(1833年)ごろ。版元は保永堂(竹内孫八)ら |
| 主題 | 天竜川の渡し場。川霧・砂州・渡し舟・船頭 |
| 実際の場所 | 池田の渡し(現在の磐田市豊田地区、天竜川東岸)に対応 |
| 論点 | 広重の実地取材の有無(実走説/非実走説) |
一枚の絵が磐田に残したもの
明治になると、天竜川には天竜橋が架けられ、やがて舟渡しは姿を消した。川霧のなかで舟を待つ、あの静かな渡し場の風景は、現実の東海道から失われて久しい。しかし、その失われた風景は、広重の一枚のなかに永遠にとどめられている。
「見附 天竜川図」は、いまや日本国内にとどまらず、世界中の美術館に収蔵され、画集や絵葉書に複製され、世界の人々に親しまれている。ゴッホをはじめ西洋の画家たちが広重に学んだことはよく知られており、この絵は、磐田の名を「Mitsuke」として、いまも静かに世界へ運び続けているのである。一地方の宿場の名が、これほど広く世界に知られている例は、そう多くない。
宿場の絵に、あえて宿場でなく川を選んだ広重の眼。それは結果として、磐田という土地の記憶の最も深い層 ── この町が天竜川とともに生き、天竜川に育まれ、天竜川に脅かされてきた土地だということ ── を、一枚の紙の上に永久保存することになった。名所を描いたつもりはなかったかもしれない。しかし広重は、磐田の本質を、誰よりも的確に一枚の絵にとどめたのである。それは、地域の記憶を後世に手渡すという、磐田物語の営みが目指すところと、静かに響き合っている。一枚の絵が、二百年近くたっても、なお土地の記憶を語り続ける ── 芸術の持つその力に、あらためて驚かされる。
主な参考資料
- 歌川広重「東海道五十三次之内 見附 天竜川図」(保永堂版、天保4年ごろ)
- Wikipedia「東海道五十三次(浮世絵)」(刊行経緯・実走をめぐる諸説)
- 各美術館収蔵品解説(文化遺産オンラインほか)
- 磐田物語「池田の渡し」「天竜川池田の渡船」「見付宿の成立と宿場範囲」「江戸の旅ブームと見付宿」
広重の実地取材の有無は学説が分かれており、本文中で両説を併記している。
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