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磐田物語町内史跡めぐり60選 / 静大農学部跡

豊田・一言/富丘の記憶 | 町内史跡めぐり No.43

静大農学部跡
── 一言・富丘に残る、旧制農林専門学校の記憶

戦時中は129部隊が置かれ、終戦後は師範学校の仮校舎、県立農林専門学校を経て静岡大学農学部となった一言・富丘の跡地。昭和48年の静岡市移転までの変遷と、跡地に残る「かぶと塚」古墳をたどる。

磐田市一言・富丘の一帯は、昭和期のわずか30年ほどの間に、軍事施設、教員養成の仮校舎、専門学校、そして大学の学部と、めまぐるしく姿を変えた土地である。今は長く空地となっていたその跡地に、五世紀前半築造とみられる古墳「かぶと塚」が残る。

この記事の要点

129部隊から、教育の場へ

戦時中、一言・富丘の一帯には「129部隊」と呼ばれる軍事施設が置かれていた。豊田町域の広い台地が、軍の駐屯地として利用されていたことになる。終戦とともに軍の役割を終えたこの土地は、まもなく別の役割を担うことになる。戦後の混乱期、教員不足を補うための師範学校の仮校舎として使われたのである。

軍事施設から教育施設へという転用は、戦後の日本各地で見られた典型的なパターンである。広い敷地と既存の建物を活用できることから、旧軍用地が学校用地に転じる例は少なくなかった。一言・富丘の跡地も、そうした戦後復興期の土地利用の一例といえる。

県立農林専門学校から静岡大学農学部へ

昭和22年(1947年)、この地に県立農林専門学校が設置された。戦後の食糧難の時代、農業技術者の養成は国家的な急務であり、各地に農林系の専門学校が設けられた時代背景がある。その後、学制改革にともない、この学校は静岡大学農学部へと発展的に改組された。旧制の専門学校から新制大学の学部へという移行は、戦後日本の高等教育改革の縮図でもある。

昭和48年、静岡市へ移転

静岡大学農学部は、校地統合の方針により、昭和48年(1973年)に静岡市へ移転した。大学のキャンパス統合は全国的な流れであり、複数のキャンパスに分散していた学部を一つの都市に集約する動きが、多くの国立大学で進められた時期にあたる。移転後、豊田町域に残された跡地は、長く空地のままであったと『町内史跡めぐり』は記している。

跡地に残る「かぶと塚」

その空地に残っていたのが、五世紀前半の築造とみられる古墳「かぶと塚」である。名の由来には、一言坂の戦いで奮戦した本多忠勝が、この塚の松の木に兜をかけたという言い伝えがある。一言坂の戦いと本多忠勝の武勇については別記事で詳しくたどっているが、この古墳が、戦国時代の合戦の記憶と結びついた形で語り継がれてきたことは興味深い。

さらに、明治3年(1870年)の蓑笠一揆では、磐田郡南部73か村の庄屋を集めて作戦を練った場所とも伝わる。軍・学校という近代の記憶の下に、戦国の合戦、江戸から明治への一揆という、さらに古い層の記憶が埋め込まれていたことになる。一言・富丘の土地は、古墳時代から昭和まで、幾重もの時代の使われ方を積み重ねてきた土地なのである。

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主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。