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磐田物語町内史跡めぐり60選 / 西之島学校跡

豊田・森下の記憶 | 町内史跡めぐり No.46

西之島学校跡
── 「遠州の三大学校」に数えられた洋風校舎

明治8年、若宮八幡宮の西側に洋風三階建ての校舎が建った。見付小学校、鎌田の坊中学校とともに「遠州の三大学校」と称された西之島学校の歴史と、井通小学校を経て現在の豊田南小学校へ至る変遷を読む。

磐田市森下、若宮八幡宮の西側、今は工場敷地となっている一帯に、かつて「西之島学校」と呼ばれる学校があった。明治の学制頒布からまもない時期に建てられた洋風三階建ての校舎は、見付小学校、鎌田の坊中学校とともに「遠州の三大学校」の一つに数えられたと伝わる。

この記事の要点

私塾から洋風校舎へ

明治5年(1872年)、日本で学制が頒布されると、全国各地で近代的な学校づくりが急速に進んだ。西之島でも、その翌年、熊谷敬三が私塾を発展させる形で西之島学校を発足させた。当初の校舎は手狭だったため、同志とはかり万難を排して、明治8年(1875年)、若宮八幡宮の西側に洋風三階建ての最新式の校舎を新築したという。

明治初期のこの地域で、三階建ての洋風校舎を建てるということ自体、相当な意気込みと資金を要する事業だったはずである。「万難を排して」という表現には、地域の人々が新しい教育制度に寄せた期待の大きさがにじんでいる。

「遠州の三大学校」

この西之島学校は、見付小学校、鎌田の坊中学校とともに、明治初年以来「遠州の三大学校」の一つに数えられたと伝わる。見付は旧見付宿の中心地、坊中(鎌田)は鎌田山医王寺の門前地区であり、いずれも江戸期以来の集落の核となってきた土地である。西之島もまた、天竜川左岸の要地として、こうした先進的な学校を早い時期に建てるだけの地域の力を持っていたことになる。三校がどのような基準で「三大学校」と称されたのか、詳しい選定の経緯は資料からは確認できないが、地域の誇りとしてこの呼び名が語り継がれてきたことは確かである。

井通小学校から豊田南小学校へ

その後、西之島学校は井通小学校と改称した。「井通」は、この地域一帯の村名(井通村)に由来する名である。児童数の増加にともない、昭和29年(1954年)に移転改築が行われ、これが現在の豊田南小学校となった。学校の名は変わっても、明治初期に地域の熱意で建てられた学び舎の系譜は、形を変えながら今日まで続いている。

一方、明治の初年に壮美を誇った元の洋風校舎は、しばらく羽田コンクリートの事務所として使用された後、取り壊された。『町内史跡めぐり』は「若し現存すれば貴重な文化財として顕彰されたことであろう」と惜しんでいる。今は工場敷地となった跡地に立っても、かつてそこに三階建ての洋館が建っていたことをうかがわせるものは何も残っていない。

失われた校舎を惜しむ

西之島学校の物語は、明治初期の教育熱と、その後の建物の喪失という、二つの側面を持っている。地域の人々が万難を排して建てた最新式の校舎は、時代とともにその役目を終え、姿を消した。しかし、井通小学校、豊田南小学校へと続く学校の系譜そのものは、今も地域の子どもたちの学びの場として生き続けている。建物は失われても、学び舎としての場所と精神は受け継がれている――西之島学校跡は、そのことを教えてくれる史跡である。

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主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。