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磐田物語豊田地区 / 井通村の成立と近代の教育・水利

豊田地区の記憶 第二十一回 | 町村沿革

井通村の成立と近代の教育・水利 ── 天竜川左岸の豊かな低地を拓いた近代農村の歩み

明治22年(1889年)、低地の農業地帯である小立野、西之島、宮之一色などの村々が統合して誕生した「井通村(いどおりむら)」。学校の創設や共同水利の整備を通じて、近代農業のモデルとなった村の歩みを辿ります。

明治22年(1889年)の町村制施行により、天竜川左岸に広がる実り豊かな低地農業地帯の十数の村々が合併し、近代的な「井通村(いどおりむら)」が誕生しました。この村は、度重なる天竜川の水害と向き合いながら、近代的な教育の普及と水利共同体の組織化を通じて、遠州平野を代表する豊かな純農村コミュニティとして発展を遂げました。そして昭和30年(1955年)に隣接する富岡村と合併して豊田村となるまで、およそ六十六年にわたって独立した自治体としての歴史を刻んだのです。

本稿の要点

水と生きる村々が手を取り合った日

明治22年(1889年)4月1日、地方自治の近代化を目指す町村制の施行に伴い、天竜川左岸に広がる広大な低地帯において、大規模な合併が行われました。対象となったのは、古くから米作りを営んできた小立野・西之島・宮ノ一色・中田をはじめとする、十数の自然集落(旧村)です。具体的には、宮ノ一色村・下万能村・西之島村・源兵衛新田・森本村・森下村・立野村・中田村・気子島村・笹原島村・海老塚村・上新屋村・一言村(大部分)・森岡村・弥藤太島村・上万能村・小立野村が一つにまとまり、豊田郡井通村が発足しました。

これらの集落は、天竜川の旧流路に沿った低湿地や、わずかに高まる自然堤防の上に点在しており、日常的に天竜川の氾濫や、限られた水をめぐる村どうしの水利調整に直面していました。それぞれの集落は規模が小さく、単独では大きな治水・利水事業を担いきれません。近代行政区としての「井通村」の誕生は、バラバラだった集落が、防災と水利用という共通の課題に向けて一つにまとまり、まとまった財源と自治の力を備えるための、歴史的な大転換点となったのです。

もっとも、合併によって旧村の暮らしがただちに溶け合ったわけではありません。それぞれの集落には、固有の鎮守や氏神、祭礼の習わし、田畑の境や水の取り決めが長い年月をかけて積み重ねられており、人々の心の拠りどころは、依然として生まれ育った旧村にありました。「井通村」という新しい器に、これらの古い共同体をどう束ねていくか──その課題こそが、村の成立後に続く教育と水利の取り組みの根底に流れていたといえます。

地名「井通」に込められた水への敬意

「井通(いどおり)」という村名は、この地域の地形的な特徴を端的に表したものと考えられています。低地に成立した多くの集落を一つの新しい村にまとめるにあたり、いずれの旧村にも偏らない名が求められました。その際に選ばれた「井通」には、地域内を縦横に走る農業用水路──これらを遠州では「井路(いじ・いろ)」と呼びます──が網の目のように「通って」いる土地、という地形のありようが映し出されていると見るのが自然です。ただし命名の経緯を直接記した史料は乏しく、その由来については諸説あるとされ、なお調査が必要な点も残ります。

いずれにせよ、天竜川左岸の低地に暮らす人々にとって、水は二つの顔を持つ存在でした。一つは、田を潤し米を実らせる恵みの顔。もう一つは、ひとたび荒れれば家も田も押し流す災いの顔です。用水は農民の命綱であると同時に、限られた水をめぐる村どうしの深刻な争いの火種にもなりました。上流の村が多く取れば下流が枯れ、堰の普請や水路の浚渫をめぐっては、しばしば負担の押し付け合いも起きたのです。

こうした水との緊張関係のなかで、十数の旧村が一つの「井通村」へとまとまった意味は小さくありません。村という単位で水路の維持や水配りの取り決めを担えるようになったことは、個々の集落が孤立して水と向き合っていた時代から、地域全体で水を分かち合い、共に管理する時代への一歩を意味していました。水を分かち合うという営みそのものが、新しい村の連帯を内側から支える絆になっていったのです。

近代教育の光 ── 井通小学校とコミュニティの融和

井通村の誕生後、村の指導者たちが力を注いだものの一つが「教育」でした。明治の小学校制度のもとで、村は新しい行政区を単位とする小学校を整え、村内の子供たちが共に学ぶ場を設けていきました。現在この地には磐田市立井通小学校が引き継がれており、「井通」の名は学校を通じて今日まで受け継がれています。

近代教育がもたらしたものは、読み書き算盤の習得だけではありませんでした。それまで各旧村の小さな手習いの場に分かれて通っていた子供たちが、一つの校舎に集まり、同じ教室で机を並べて学ぶようになったことの意味は大きいといえます。年齢の近い子供たちが旧村の垣根を越えて友となり、やがて村を担う世代へと育っていく──学校は、合併によって生まれた新しい共同体を、次の世代の側からゆっくりと一つにまとめ直す装置でもありました。

さらに学校は、子供だけの場ではありませんでした。運動会や式典、地域の行事を通じて親たちもまた学校に集い、顔を合わせて言葉を交わすうちに、「小立野の者」「西之島の者」といった旧村ごとの意識は、少しずつ「我らは同じ井通の村人」という新しい帰属意識へと重なっていったと考えられます。教育がもたらしたこうした精神的な融和こそ、その後の大正・昭和期における井通村の歩みを内側から支えた、目に見えない原動力だったのです。

純農村・井通村の歩みと豊田村への合流

井通村は、その全期間を通じて、目立った市街地や工場を持たない純然たる農村として歩み続けました。村域は天竜川左岸の低地に広がり、後の東海道本線(現在のJR豊田町駅の北側一帯)にあたる平坦な水田地帯が、村の暮らしの土台でした。昭和25年(1950年)の国勢調査では、村の人口は4,306人を数えています。決して大きな村ではありませんが、水と土に根ざした堅実な農村社会が、半世紀以上にわたってこの地に営まれていたことがうかがえます。

制度の面でも村は時代の波を受けています。明治29年(1896年)の郡制施行に伴い、井通村の所属は発足時の豊田郡から磐田郡へと改められました。郡という枠組みは変わっても、村そのものの自治は、昭和の大合併の時期まで途切れることなく続いていきます。

そして昭和30年(1955年)3月31日、井通村は隣接する富岡村と合併し、新たに「豊田村」が発足しました。ここに井通村は、明治22年の成立から数えておよそ六十六年の歴史を閉じます。とはいえ村が消えたわけではありません。井通の名は小学校や地区の呼称として生き続け、合併で生まれた豊田村はやがて豊田町となり、平成17年(2005年)の合併を経て、現在の磐田市豊田地区へと受け継がれていきました。水と生きた低地の村々が一つにまとまった明治の選択は、形を変えながら、今日の地域の姿の中に確かに息づいているのです。

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主な参考資料

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