今之浦川の舟の道 ──
見付と海を結んだ水の記憶
入り江だった今之浦
別稿(今之浦と大之浦)や磐田原から今之浦へで扱ったとおり、古代の磐田原台地の南には「今之浦」と呼ばれる入り江・潟湖が広がり、見付の町の南縁まで水が迫っていた。見付宿の南の境が今之浦だったのは、町の縁がそのまま水際だったからである。宿場の南に出れば、そこはもう水と湿地の世界だった ── そう考えると、見付という町が、なぜ台地の上に、水際を見下ろすように築かれたのかも、腑に落ちる。人は、水に浸からない高みに住み、水辺を暮らしの資源として使い分けてきたのである。水が引いた近世以降も、低地には大池などの水面と湿地が残り(その消滅は別稿)、今之浦川がその排水を海へ導いた。つまり今之浦川は「小さな川」なのではなく、「縮んだ海」なのである。
この「縮んだ海」という見方は、磐田の中心部の地形を理解するうえで、とても大切な鍵になる。いま見付の南に広がる平らな市街地は、もとから陸だったわけではない。ずっと昔にさかのぼれば、そこは水をたたえた入り江であり、潮の満ち引きとともに海水が出入りする、生きた水辺だった。それが長い歳月をかけて、川が運ぶ土砂の堆積と、人の手による干拓や埋立てによって、少しずつ陸へと変わっていった。今之浦川は、その壮大な変化のなかで最後まで残った、かつての海の「背骨」のような存在なのである。だから、この川を眺めることは、失われた入り江の輪郭を、そっとなぞることにほかならない。
丸木舟という物証
この水面が舟の道だったことを示す動かぬ物証がある。別稿(磐田の低湿地に残った木の道具)で扱った、見付の見性寺遺跡から出土した平安時代末期の丸木舟である。台地の下の低湿地から舟が出るということは、その場所まで舟が入れる水があったということにほかならない。国府の物資、寺社の造営材、低地の年貢米 ── 車も馬車もない時代、かさばる荷を運ぶ最良の手段は水の上だった。古墳時代の大乃浦の水運から数えれば、磐田の中心部は千年以上にわたって、水運の恩恵を受け続けてきた土地だといえる。
一艘の丸木舟が語ることは、思いのほか多い。まず、それが出土した場所には、かつて舟を浮かべられるだけの水があった。次に、その水は物を運ぶために使われていた。そして、それだけの手間をかけて舟をつくり、使う理由が、当時の人々にはあった ── つまり、運ぶべき荷があり、水路が陸路よりも有利だったのである。重い材木や大量の米俵を、人の背や牛馬で山越え・野越えして運ぶのは、途方もない重労働である。それにくらべて、水の上を舟で滑らせるほうが、はるかに楽で速い。だからこそ、水辺に恵まれた土地では、舟が暮らしと産業の要となった。見付の足もとから舟が出たという事実は、この地が単なる内陸の宿場ではなく、水運とともに開けた土地であったことを、静かに物語っているのである。
今之浦が入り江・潟湖であったこと、見性寺遺跡から平安末期の丸木舟が出土したこと、近世以降の低地の干拓と昭和の埋立ての経過は、別稿・資料で確認できる。一方、近世の今之浦川で定期的な舟運(年貢米の川下げ等)が行われていたことを直接示す史料は今回確認できておらず、本稿では可能性の指摘にとどめる。
近世 ── 川はどこまで使われたか
近世に入ると、水と陸の力関係は逆転する。見付・中泉の物流の主役は、なんといっても東海道の陸運になった。見付宿には問屋場が置かれ、人足と馬が行き交い、荷は街道を東西に流れていく。かつて水の道が担っていた役割の多くは、こうして整備された陸の道へと移っていった。入り江が縮み、水面が狭まっていったことと、陸運が主役になっていったことは、同じ一つの流れの表と裏だったといえる。
それでも、水の道が完全に消えたわけではない。低地の村々の米や薪が、小舟で川筋を下って掛塚湊方面へ運ばれた可能性は十分に考えられる。天竜川東岸の低地には池田・掛塚の渡しと舟の文化が根づいており、舟を操る技術と人は身近にあった。陸運が主役になっても、こまごまとした荷を近場で運ぶには、やはり舟が便利な場面があったはずである。大きな流れは陸へ移りつつ、暮らしの片隅では、なお水の道が細々と生き続けていた ── そう考えるのが、地形と周辺の状況からみて、最も自然だろう。ただし、今之浦川の舟運を明記した近世史料は手元でまだ確認できていない。村方文書に「舟役」「川舟」の文字を探すこと ── それがこのテーマの次の一歩である。
ここで、史料がないことをどう受け止めるかについて、ひとこと触れておきたい。「今之浦川で舟運が行われた」と断定できる史料が見つからない。それは、舟運が「なかった」ことの証明ではない。日々のありふれた営みほど、わざわざ文書に書き残されないものである。年貢のように公の記録に残る事柄と違って、村人が自分の小舟で薪を運ぶような日常は、記録の網の目からこぼれ落ちてしまう。だから歴史を考えるとき、私たちは「史料で確認できること」と「史料はないが、地形や状況から十分ありえること」を、慎重に、しかしどちらも切り捨てずに扱わなければならない。今之浦川の舟運は、まさに後者にあたる。丸木舟という物証、入り江だった地形、周辺の舟の文化 ── これらの状況証拠は、川が使われた可能性を強く示している。断定はできない。だが、その可能性を心にとめて川を眺めることは、決して根拠のない空想ではないのである。
排水路の時代、そして親水の時代へ
近代以降の今之浦川は、水運よりも治水の川になった。鉄道と自動車の時代が来て、荷を運ぶ役割はすっかり陸に奪われ、水の道としての川の出番は終わった。かわって前面に出てきたのが、低地の街を水害からどう守るか、という切実な課題である。低地の宿命として市街地の浸水と戦い続け、昭和の埋立てと改修で大池は姿を消し、川はコンクリート護岸の排水路として整えられた。かつて舟を浮かべた水面は、いまや一刻も早く水を海へ吐き出すための、機能一辺倒の水路へと姿を変えたのである。そして現在、今之浦川周辺は公園や遊歩道の整備によって、水辺に人が戻る親水空間へと役割を変えつつある。舟の道 → 排水の道 → 憩いの水辺。一本の川の役割の変遷は、磐田の土地と水の関係史の縮図である。
この役割の移り変わりには、その時代その時代の、人と水との向き合い方があらわれている。水運の時代、水は「恵み」だった。舟を浮かべ、荷を運び、暮らしを支えてくれる、ありがたい存在である。ところが土地が陸となり、そこに人が住み、田畑や家が増えてくると、こんどは低地にたまる水が「脅威」に変わる。ひとたび大雨が降れば、水は逃げ場を失い、家々に押し寄せる。そこで人々は、川を護岸で固め、水を一刻も早く海へ流し去る「排水路」につくり替えた。恵みだった水が、追い払うべき厄介者になったのである。そしていま、治水の技術が成熟し、暮らしに少しゆとりが生まれると、人々はもう一度、水辺の心地よさに目を向けはじめた。遠ざけていた水を、ふたたび身近に引き寄せようとする「親水」の時代である。恵み・脅威・憩い ── 今之浦川は、人が水にどう向き合ってきたかの、生きた記録なのだ。
今之浦の水運 ── 時代ごとの姿
| 時代 | 水面の姿 | 舟と水運 |
|---|---|---|
| 古代 | 今之浦の入り江が見付の南縁まで広がる | 大乃浦水運の系譜。国府の物流を支えた可能性 |
| 平安末期 | 低湿地と水路 | 見性寺遺跡の丸木舟(物証) |
| 近世 | 大池などの水面と湿地、干拓の進行 | 小舟利用の可能性(史料確認は課題) |
| 近代〜現代 | 排水路化、大池の埋立て、親水整備 | 水運の役割を終える |
川べりで千年を想う
今之浦川の遊歩道を歩くとき、足もとの水面が「縮んだ海」の末端であることを思い出したい。何気なく通りすぎてしまう都会の小川。だがその一筋の流れは、千年、二千年という長い時間の、いちばん新しい末端なのである。同じ場所に立って、時間をぐっとさかのぼってみよう。この細い流れの上を、かつて丸木舟が滑り、その先の入り江には古墳の王が見下ろした大の浦が広がっていた。磐田の街の真ん中に、海の記憶は今も細く流れ続けている。
川は、土地の履歴書である。いま護岸に囲まれておとなしく流れているこの川も、その水源をたどり、その川筋の低さを味わい、その名の由来を思えば、はるか古代の入り江の広がりまで、まっすぐにつながっている。私たちの足もとの土地が、かつてどんな姿をしていたのか ── それを最もよく覚えているのは、案外、いまも同じ場所を流れ続ける、こうした一本の川なのかもしれない。市街地の喧噪のなかを、当たり前のように流れる今之浦川は、地味で目立たない存在だ。しかしその流れに耳をすませば、丸木舟をこいだ平安の人々の櫓の音や、入り江に寄せては返した古代の波の音が、時をこえて、かすかに聞こえてくるような気がする。海の記憶をたたえたこの水の道は、これからも磐田の街の真ん中を、時代とともに姿を変えながら、静かに流れ続けていくのである。
主な参考資料
近世の今之浦川の舟運を直接示す史料は未確認であり、本文中で可能性と事実を区別して記している。
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