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磐田物語 / 見付宿の成立と宿場範囲
見付宿 | 宿場・旧東海道

見付宿の成立と宿場範囲 ──
慶長6年の伝馬朱印状から読む

見付宿は、いつ、どのようにして東海道の正式な宿場となったのか。そして、その範囲はどこからどこまでだったのか。にぎわいの記憶を語る前に、まずこの出発点を確かめておきたい。

関ヶ原の翌年、東海道に宿駅が置かれた

徳川家康が東海道に宿駅制度を敷いたのは、慶長6年(1601年)のことである。関ヶ原の戦いの勝利からわずか1年後、家康は東海道・中山道の各所に宿駅を設け、伝馬(てんま)・人足の提供を命じた。同年正月、東海道沿いの集落に対して「伝馬朱印状(でんましゅいんじょう)」「御伝馬之定(ごでんまのさだめ)」と呼ばれる文書が発せられ、これによって各集落は正式に徳川家の宿場(宿駅)として認められることになった。見付宿も、この慶長6年の制度整備によって、東海道の正式な宿場としての性格を確立したと考えられる。

見付宿の成立と宿場範囲 ──慶長6年の伝馬朱印状から読むの記事構成図
関ヶ原の翌年、東海道に宿駅が置かれた、学説の整理 ── 見付宿の「成立」はいつか、正式な「宿」と、そうでない町の違いの順に論点を整理する。

宿場に与えられた、義務と特権。 宿場に指定された集落は、公用で通行する幕府役人や大名行列に対して、無償で馬・人足を提供する義務を負った。磐田物語の別稿で扱った問屋場の「継立」という仕組みは、まさにこの義務を実務として支える施設である。その代わりに、宿場は地子(じし、宅地にかかる租税)の免除や、荷物輸送・宿泊業務の独占権という特権を得た。義務と特権が表裏一体となった、この宿駅制度という枠組みのなかに、見付宿も組み込まれていったのである。なお、東海道五十三次のすべての宿場が慶長6年に一斉に指定されたわけではなく、宿場によって指定の時期にはずれがあったとされる。

確認できること・できないこと
慶長6年(1601年)に伝馬朱印状・御伝馬之定が発せられ、東海道に宿駅制度が敷かれたことは、江戸幕府の宿駅制度に関する各種資料で確認できる。一方、見付宿が具体的にこの慶長6年の時点で指定を受けたのか、それとも時期がずれて指定されたのかについては、今回のWeb調査の範囲では確定的な一次資料を確認できていない。

制度の前にあった「宿」── 中世からの連続。 ただし、慶長6年に見付が突然「宿場になった」わけではない。見付は古代の遠江国府が置かれた土地であり、中世にはすでに東海道でも屈指の規模を持つ宿場町として知られていた。鎌倉時代の紀行文『十六夜日記』(弘安2年/1279年)には、作者の阿仏尼が京から鎌倉へ下る途上、「遠江見付の里」に泊まったことが記されており、旅人を泊める町としての見付の歴史は、徳川の制度より300年以上さかのぼる。また戦国期の見付自治で扱ったとおり、16世紀の見付では町人による自治的な運営も行われていた。慶長6年の伝馬朱印状は、ゼロから宿場をつくったのではなく、中世以来すでに機能していた宿場町を、徳川の全国的な制度の枠組みに正式に組み込んだ画期だった、と理解するのが自然である。

学説の整理 ── 見付宿の「成立」はいつか

「見付宿はいつ成立したか」という問いには、実は二つの答え方がある。

視点A:慶長6年成立(制度史の立場)。 宿駅制度の研究では、慶長6年(1601年)正月の伝馬朱印状・御伝馬之定をもって東海道宿駅の制度的成立とするのが通説である。この立場では、見付宿も慶長6年前後に公式の宿駅としての義務と特権を得たことをもって「成立」とみなす。ただし五十三次のすべてが同時に指定されたわけではなく、宿によって指定時期にずれがあったとされる点は、本文で述べたとおりである。

視点B:中世以来の連続(都市史の立場)。 一方、町場そのものの歴史に注目すれば、見付は国府所在地として、また中世の宿・門前町として、はるか以前から旅人と物資を受け入れてきた。この立場では、慶長6年は「成立」ではなく「再編」の年にすぎない。

本稿の立場。 両者は対立する説というより、「制度」と「実態」という異なる物差しである。本稿は、制度的成立は慶長6年、宿場町としての実態は中世からの連続、と二段構えで捉える立場をとる。

天保十四年の見付宿 ── 数字で見る規模。 制度に組み込まれてから約240年後、幕府が東海道の各宿を調査した「東海道宿村大概帳」(天保14年/1843年)によれば、見付宿の規模は家数1,029軒、本陣2、脇本陣1、旅籠56軒であった(人口は3,900人余と紹介されることが多い)。1,000軒を超える家数は、宿場の中心機能だけでなく、門前町・在郷町としての厚みを含んだ数字であり、慶長6年に制度へ組み込まれた中世以来の町が、江戸後期には遠江有数の宿場町として熟していたことをうかがわせる。

東は三本松、西は境町 ── 見付宿の範囲。 見付宿という行政単位は、漠然とした範囲を指す言葉ではなく、明確な境界を持っていた。見付宿の東の境は「三本松(さんぼんまつ)」、西の境は「境町(さかいちょう)」とされ、南は今之浦に面していたと伝わる。磐田物語の別稿(見付宿の東木戸・西木戸・高札場)で扱った東木戸・西木戸は、まさにこの東西の境界に置かれた宿場の出入口だったと考えられる。伝馬所(問屋場)は、この宿場の範囲内、東坂町(ひがしさかまち)という一画に置かれていた。

今之浦という低地に南面していたことは、磐田物語の別稿(今之浦と大池の消滅・埋立て)磐田原から今之浦へで扱った、磐田原台地と入り江の地形とも重なる。見付宿は、台地の縁という地形的な条件と、東西の境界という行政的な範囲の両方によって、その輪郭を与えられていたのである。

見付宿の成立と宿場範囲 ──慶長6年の伝馬朱印状から読むの資料読解図
正式な「宿」と、そうでない町の違い、史料を確かめる、場所を比べるを照合して地域像を読む。

正式な「宿」と、そうでない町の違い

見付宿が正式な宿場として東海道の宿駅制度に組み込まれていた一方、その東に隣接する中泉は、公式な宿場ではなかった。磐田物語の別稿(磐田駅前・中泉の近代商業)で扱ったとおり、中泉は中泉御殿・中泉代官所という統治拠点を抱え、独自の商業集積を持つ町場であったが、幕府から正式に「宿」として指定された記録は見当たらない。この違いは、慶長6年の伝馬朱印状という制度的な出発点を持つかどうかという一点に集約される。見付宿が公的な宿駅としての義務(伝馬の提供)と特権(地子免除・輸送独占)を負っていたのに対し、中泉はあくまで統治拠点・商業地としての性格が中心だったのである。同じ東海道沿いの隣接するまちでありながら、片方は正式な宿場、もう片方はそうではないという違いは、宿場の範囲を考えるうえでも見落とせない視点である。

「範囲を知る」ことの意味。 見付宿のにぎわいや本陣・旅籠の賑わいは、これまでも磐田物語で描かれてきた。しかし、そのにぎわいがどこまで広がっていたのか、その境界線を意識することは、また別の角度から見付宿を理解する手がかりになる。三本松から境町までという範囲、東坂町という一画に置かれた伝馬所――こうした具体的な地理的輪郭を知ることで、抽象的な「にぎわいの宿場」というイメージが、より具体的な土地の姿として立ち上がってくる。

慶長6年(1601年)伝馬朱印状・御伝馬之定により、東海道に宿駅制度が敷かれる
宿場の義務公用の役人・大名行列に無償で馬・人足を提供
宿場の特権地子(宅地税)免除、輸送・宿泊業務の独占権
見付宿の範囲東の境=三本松、西の境=境町、南面=今之浦
伝馬所(問屋場)宿場内の東坂町に設置
天保14年(1843年)の規模家数1,029軒、本陣2、脇本陣1、旅籠56軒(東海道宿村大概帳)
中世の見付『十六夜日記』(1279年)に宿泊の記述。中世東海道屈指の宿場町

主な参考資料

見付宿が具体的にいつ指定を受けたかという確定年は今回のWeb調査では確認できておらず、本文中で確認できた点とできない点を区別して記している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。