磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第284号(戦争と土地の記憶 総合論)
戦争が刻んだ土地の記憶を総合する
分教所・体験記・廃寺 ── 既刊各論を横断する史料批判の試み
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
本稿は、戦争と近代の力が地域に刻んだ記憶を扱った既刊各論を先行研究として横断し、方法の側から整理・総合するレビュー論考である。対象とするのは、明野陸軍飛行学校天竜分教所跡を読み解いた論考、福田の伊東金平の戦争体験記を史料批判の対象とした論考、上知令による遠江国分寺の断絶を扱った論考、そして寺子屋から戦後の六三制までの竜洋の教育史を追った論考の四本である。ここから三つの論点を取り出す。第一に、物言わぬ跡地という軍事施設跡からどこまで読めるか。第二に、回想・体験記という史料がもつ性格、すなわち記憶の選択と後年からの再構成。第三に、上知令や戦時教育といった近代の政策が地域にもたらした断絶である。跡地や記録の存在は確認できる範囲として史実に置き、その実態は推定または未確認へ腑分けする。とりわけ、資料に到達していない「未確認」と、資料に存在しない「記載なし」との区別を、四本に共通する方法上の軸として抽出する。戦争の記憶を扱う主題であるため、誇張と美化を避け、確度の層を保ったまま記述する立場をとる。
キーワード:戦争遺跡/回想史料/史料批判/上知令/戦時下の教育/未確認と記載なし/土地の記憶
1. 問題設定 ── なぜ各論を横断して総合するのか
本論考シリーズでは、これまでいくつかの稿で、戦争や近代化という外からの力が磐田の地域に刻んだ記憶を扱ってきた。飛行学校の分教所とされる施設の跡、遠い戦場から祭りを想起した兵士の体験記、近代の土地政策によって途絶えた古代寺院、そして学制の施行から戦後改革までの学校の歩みである。それぞれは対象も地区も異なり、一見すると個別の主題を扱った独立の論考にみえる。本稿の出発点は、これらを別々の各論として置いたままにせず、一度横断してみることにある。
横断する理由は、扱う素材が違っていても、そこで用いた手続きに共通する構造があるからである。四本の論考はいずれも、資料で確認できることと確認できないことを腑分けし、断定を避けながら、それでも言える範囲を丁寧に見きわめようとしていた。素材が乏しい主題、あるいは記憶という不安定な資料を相手にする主題では、この腑分けの手続きそのものが記述の中心にならざるをえない。個別の事実を並べるだけでなく、方法の側からこれらを束ね直すことには、後続の調査に受け渡せる型を残すという意味がある。
本稿がレビュー論考の形をとるのは、そのためである。新たな一次史料を提示するのではなく、既刊の各論を先行研究として読み直し、そこで働いていた方法を明示的に取り出して比較する。取り出す論点は三つに絞る。第一に、跡地という物言わぬ史料からどこまで読めるのか。第二に、回想・体験記という記憶に基づく史料をどう扱うか。第三に、近代の政策が地域に及ぼした断絶をどう記述するか。これらは、それぞれ軍事施設跡・戦争体験記・制度改変という異なる素材に対応するが、確度をどう見きわめるかという一点で通じている。
あらかじめ本稿の立場を述べておく。本稿は、跡地・記録・政策のいずれについても、それが確認できる範囲を史実として押さえ、その実態や年代の細部を推定または未確認へ腑分けする姿勢を、四本に共通する方法の核と考える。とりわけ、資料に突き当たっていない「未確認」の状態と、資料に存在しない「記載なし」の状態とを混同しないことを、記述の要と位置づける。戦争の記憶を扱う主題では、この禁欲がとりわけ大切になる。跡地の沈黙や体験記の一句を、確かめもせずに事実として語れば、悲劇を誇張し、あるいは美談へと磨き上げてしまう。淡々と書くとは、資料が語る以上のことを語らない、というただそれだけの態度である。
以下ではまず、四本の各論を先行研究として整理し、それぞれが何を対象とし、どの方法をとったかを確認する。続いて三つの論点を順に検討し、比較表を挟んで史料批判の観点から突き合わせ、最後に確度の層と「未確認・記載なし」の区別を総合したうえで結論に至る。図版と表は、素材の異なる各論を同じ物差しで見比べるための補助として用いる。
2. 先行研究の整理 ── 四本の各論とその方法
横断に先立ち、対象とする四本の各論を先行研究として整理しておく。いずれも本論考シリーズの既刊であり、素材・地区・時代を異にするが、確度を腑分けする方法において通じている。
第一に、明野陸軍飛行学校天竜分教所跡を読む(第235号)である。竜洋地区に伝えられる分教所跡を戦争遺跡として読み直し、跡地という物言わぬ史料から何が言え、何が言えないかを検討した論考である。施設が地域で語り継がれてきた事実と跡地の現況を確認できる範囲として押さえ、開設年代・規模・訓練内容として一般向け資料に列挙される数値は、一次史料の裏づけを欠くとして推定または未確認の層へ置いた。戦跡考古学の一般的方法を手がかりに輪郭を補いながら、断定を避けて記述する姿勢をとっている。
第二に、福田の祭りと戦時記憶 ── 伊東金平の体験記を史料として読む(第213号)である。寺田勝彦編『東屋台と西屋台』(1985年)の冒頭に置かれた伊東金平の戦争体験記を一次資料として読み、遠い戦場で福田の秋祭りの記憶がどのように立ち現れるかに注目した。体験記の記述を「そう回想されている」という水準の史実として受け止めつつ、その背後にある部隊・日付・海戦の具体は推定または未確認へ腑分けする。あわせて、回想という史料がもつ記憶の選択、後年からの再構成、語りの型を史料批判の対象とした。
第三に、明治の廃寺 ── 上知令と遠江国分寺の断絶(第137号)である。中泉の地に千年余り法灯を伝えた遠江国分寺が、近代の入り口で制度上の廃寺となった過程を、制度・災害・人という三つの要因に腑分けした。安政元年(1854年)の地震による薬師堂の大破、明治4年(1871年)の社寺領上知令による寺領の喪失、明治6年(1873年)の最後の住職の死を、それぞれ独立の要因として整理し、廃仏毀釈のような思想的排斥とは性格を異にする、近代国家の土地・財政政策の構造的作用として理解した。
第四に、竜洋の学び舎の歩み ── 寺子屋から戦後の学制改革まで(第212号)である。江戸期の寺子屋・私塾から、明治5年(1872年)の学制発布による近代学校制度への組み替え、戦時下の国民学校、戦後の六三制までを、竜洋の諸校の沿革を軸にたどった。開校・改称・統合の年代を史料で確認できる史実として、地域が学校をどう支えたかを推定として腑分けし、前身関係が錯綜して確定しがたい箇所については「未確認」と「記載なし」を区別している。
この四本を選んだのは、いずれも戦争ないし近代化という地域の外からの力を主題とし、かつ素材の乏しさや記憶の不安定さゆえに、確度の腑分けを記述の前面へ押し出さざるをえなかった論考だからである。祭礼の起源や信仰の変遷を扱った各論にも同種の方法は働いているが、それらは比較的資料に恵まれ、腑分けが背後に退きやすい。本稿があえて素材の薄い四本を選んだのは、方法が最も剥き出しに現れる場面でこそ、その骨格を取り出しやすいと考えたためである。素材が豊かであれば、多少の断定は他の資料が補ってくれる。素材が乏しいときにこそ、確認できることと確認できないことの境目が、記述の生命線として立ち現れる。
四本を並べると、対象は軍事施設跡・個人の回想・古代寺院の断絶・近代教育史とばらばらであるが、いずれも近代から戦時にかけての外的な力が地域に及ぼした作用を扱い、確認できる範囲と推定・未確認とを腑分けする点で一致している。以下では、この共通性を三つの論点として取り出し、それぞれの方法を突き合わせていく。
3. 物言わぬ跡地から何が読めるか
第一の論点は、軍事施設の跡という物言わぬ史料から何が読めるか、である。分教所跡を扱った第235号が正面から向き合ったのは、跡地そのものが語る言葉をほとんど持たない、という困難であった。文書や証言と違って、跡地は年代も規模も訓練の内容も、それ自体では告げない。ここで問われるのは、沈黙する物件をどこまで史料として扱えるか、という点である。
第235号がとった手続きは明快であった。まず、施設が地域で分教所として語り継がれてきたという事実、および跡地の現況という、直接に確認できる要素を押さえる。これらは伝承の存在と物件の現況として確認できる範囲であり、史実の層に置ける。一方で、開設が何年で、規模がどれほどで、どのような訓練が行われたかといった、一般向け資料に数値として並ぶ事柄は、一次史料の裏づけを欠く限り、推定または未確認の層へ移す。跡地が「ある」ことと、そこで「何がどれだけ行われたか」とは、確度の水準がまったく異なる1。
この腑分けを支える方法として、第235号は戦跡考古学の一般的な考え方を参照している。戦争遺跡を読むとは、物件の位置・構造・立地から言えることと言えないことを慎重に切り分け、証言や文書と突き合わせながら輪郭を復元していく作業である。素材が乏しい主題では、この分野が積み上げてきた読みの作法が、断定に走らないための歯止めとして働く。地理的背景、すなわち天竜川下流という立地が飛行場の適地でありえたかどうかも、あくまで推定の水準で慎重に提示されていた。
ここで確認しておきたいのは、跡地から読めることの多くが、物件そのものからではなく、物件と他の資料との突き合わせから生まれる、という点である。跡地の位置や残存する構造は、それだけでは年代も用途も告げない。地図・地籍・古老の証言・周辺の地名といった別系統の資料と重ね合わせてはじめて、輪郭がうっすらと立ち上がる。したがって跡地を読む作業は、単独の物件を解釈する作業というより、複数の弱い手がかりを束ねて確からしさを積み上げる作業に近い。第235号が数値の断定を避けたのは、束ねてなお確度が推定の域を出なかったからであり、手がかりの乏しさをそのまま確度の低さとして記述に反映させた結果であった。
跡地から読むことの核心は、沈黙を安易に埋めない、という点にある。跡地が何も語らないとき、そこに数値や物語を補って「読めた」ことにするのは、史料批判の放棄にほかならない。むしろ、どこまでが確認でき、どこからが推定で、どこからが未確認かを明示することこそが、物言わぬ史料に対して誠実な扱いである。跡地は、確度の層を明示するための格好の試金石であった。次節で扱う回想史料が「語りすぎる」危険を抱えるとすれば、跡地は「語らなさすぎる」対象であり、両者は史料批判の両極をなす。
4. 回想・体験記という史料の性格
第二の論点は、回想・体験記という記憶に基づく史料の性格である。跡地が語らなさすぎる対象だとすれば、体験記は逆に、豊かに、そして生々しく語る。第213号が扱った伊東金平の戦争体験記は、遠い戦場で福田の秋祭りを想起する場面を含み、読む者の心を強く動かす。だからこそ、これを無批判に事実の記録として受け取ることには危うさがある。
第213号がとった構えは、体験記に記された事柄を「そう回想されている」という水準の史実として受け止めつつ、その背後にある史的事実、すなわち部隊・日付・海戦の具体を推定または未確認へ腑分けする、というものであった2。回想が「祭りを想起した」と語ること自体は、その回想がそう構成されているという事実として確かである。しかし、その回想が指し示す外界の出来事が本当にそのとおりであったかは、別に検証を要する。回想史料の扱いでは、この二つの水準を分けることが要になる。
さらに第213号は、回想という史料がもつ三つの性格を史料批判の対象とした。第一に記憶の選択である。人は経験のすべてを等しく覚えているのではなく、後の生にとって意味をもつ断片を選び取って記憶する。第二に後年からの再構成である。回想は出来事の直後ではなく、長い時を経て、その後の人生の文脈のなかで語り直される。第三に語りの型である。戦争体験の語りには、時代や媒体に応じた定型があり、個人の記憶もその型に沿って整えられる。祭りの記憶が兵士の心の拠りどころとして立ち現れるという現象も、これらの性格を踏まえたうえで、戦争と民俗の交わる一点として位置づけられていた。
語りの型という論点は、とりわけ慎重な扱いを要する。戦争体験の回想には、時代ごとに共有された語り口があり、個人の記憶もその型に沿って形を整えられる。祭りの記憶が拠りどころとして想起されるという筋立てもまた、一つの型でありうる。だが型に沿っているからといって、その回想が虚構だということにはならない。型は、経験を他者に伝わる言葉へ翻訳する枠組みであって、経験の否定ではない。第213号が注意深く避けたのは、型の存在を理由に回想を割り引きすぎることであった。型を見抜くことと、型のなかに宿る個別の経験を汲み取ることとは、同時に行われねばならない。この両立の難しさこそ、回想を史料として扱うことの核心にある。
ただし、こうした史料批判は回想の価値を引き下げるものではない。むしろ第213号は、それでもなお個人の回想が地域史にとって代えがたい証言でありうる理由を論じていた。公的な記録が残さない個人の情感、祭りが人にとって何であったかという内面の事実は、回想を措いて他に伝わらない。回想を無批判に事実として扱うことの危うさと、回想でなければ残らない証言の価値とは、両立する。誇張と美化を避けるとは、感動を割り引くことではなく、感動の source を取り違えないことである。祭りの記憶に胸を打たれることと、その記憶が指す戦闘の日付を確定できることとは、別の事柄として扱わねばならない。
5. 近代の政策がもたらした断絶
第三の論点は、近代の政策が地域にもたらした断絶である。跡地と回想が戦時の記憶を直接に担う史料だとすれば、第137号と第212号が扱ったのは、近代国家の制度が地域の営みを一度断ち切り、あるいは組み替えた過程である。ここでは戦争そのものよりも、それに先立つ近代化の力が主題となる。
第137号が扱った遠江国分寺の断絶は、単一の原因に還元できない。第137号はこれを制度・災害・人の三要因に腑分けした。制度としては明治4年(1871年)の社寺領上知令があり、寺の経済的基盤である寺領が失われた。災害としては安政元年(1854年)の地震による薬師堂の大破があり、物理的な打撃が先行していた。人としては明治6年(1873年)の最後の住職の死があり、寺を支える存在が絶えた。重要なのは、この断絶を廃仏毀釈のような思想的排斥と同一視しない点である3。上知令は仏教を敵視する運動ではなく、近代国家が土地と財政を再編する過程で寺院に及んだ構造的な作用であった。第137号は、思想の圧と制度の圧を混同せず、それぞれの層を分けて記述していた。
第212号が扱った教育は、断絶というより組み替えである。明治5年(1872年)の学制発布は、江戸期の寺子屋・私塾という学びの土壌を、近代の学校制度へと編成し直した。第212号は、開校・改称・統合の年代を史料で確認できる史実として押さえ、地域が学校をどう支え受け止めたかを推定として腑分けした4。とりわけ、前身関係が原資料の記述の錯綜によって確定しがたい箇所については、「未確認」と「記載なし」を区別して断定を避けている。戦時下には動員や空襲による学びの中断があり、戦後には六三制への改革があった。制度の改変が幾度も学校の姿を変えながら、地域共同体が学び舎を支え続けた過程が、一貫した視点として描かれていた。
断絶と組み替えという帰結の違いは、対象がもつ継承の担い手の有無に由来する。寺の場合、寺領という経済基盤と住職という担い手がともに失われれば、制度としての寺は立ちゆかない。これに対して学校は、制度が改められても、子を学ばせようとする地域共同体という担い手が残り続けた。第137号が寺の断絶を制度・災害・人の三要因で説明し、第212号が学校の連続を共同体の支えで説明したのは、この担い手の有無を見据えた腑分けであった。近代の政策そのものは同じ方向の力であっても、それを受け止める地域の側の条件によって、帰結は断絶にも連続にも分かれる。政策の作用を語るとき、政策の側だけを見て地域の側を見なければ、この分岐は説明できない。
二本を並べると、近代の政策がもたらしたものが、寺においては断絶、学校においては組み替えという、対照的な帰結であったことが見えてくる。しかし方法の水準では共通する。いずれも、制度改変の年代という確認できる史実と、それが地域の人々にどう受け止められたかという推定とを腑分けし、政策の作用を思想の問題へ短絡させずに、制度・財政・共同体という具体的な層で記述している。近代の力を語るとき、それを一枚の物語へ均してしまわず、複数の要因の重なりとして解きほぐすことが、両論考に共通する手つきであった。
6. 三つの主題の比較と史料批判
ここまで見た三つの論点は、素材こそ跡地・回想・制度と異なるが、確度をどう見きわめるかという一点で通じている。以下の比較表は、四本の各論を対象史料の性格・確認できること・推定または未確認に置くもの・史料批判上の留意点という同じ物差しで並べ、方法の共通性を可視化することを目的とする。特定の主題を優位に置かず、各行の粒度をそろえることで、素材の違いを超えた方法の一致が見えるようにした。
| 各論 | 対象史料の性格 | 確認できること(史実) | 推定または未確認 | 史料批判上の留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 235 分教所跡 | 物言わぬ物件(跡地) | 伝承の存在、跡地の現況。 | 開設年・規模・訓練内容の数値。 | 沈黙を数値で埋めない。立地の適否は推定にとどめる。 |
| 213 体験記 | 個人の回想(一次資料) | そう回想されているという事実。 | 部隊・日付・海戦の具体。 | 記憶の選択・再構成・語りの型を割り引く。感動の source を取り違えない。 |
| 137 廃寺 | 制度・記録(公文書ほか) | 上知令・地震・住職の死の年代。 | 檀家離散の実態、廃寺前後の細部。 | 思想的排斥と制度的作用を混同しない。 |
| 212 学び舎 | 沿革・記録(学校資料) | 開校・改称・統合の年代。 | 前身関係の確定、地域の受け止め。 | 錯綜する原資料で「未確認」と「記載なし」を区別する。 |
表から読み取れるのは、四本が競合しているのではなく、それぞれ異なる種類の史料に対して同じ手続きを適用している、という事実である。対象史料の性格は、物言わぬ物件から個人の回想、公的な制度記録、学校の沿革まで幅がある。しかし、いずれも「確認できること」の列には検証可能な事実だけを置き、年代や実態の細部は「推定または未確認」の列へ送っている。この列の分け方こそが、四本を貫く方法の背骨である。
もう一つ表から見えるのは、確認できることの内実が主題ごとに異なる点である。制度や学校の沿革では、年代という明確な事実が確認できる範囲の中心を占める。これに対し跡地や回想では、確認できるのは物件の現況や「そう語られている」という事実にとどまり、年代は多く推定・未確認へ回る。つまり、同じ「史実」の列に置かれる事柄でも、その堅さには濃淡がある。四本を並べてはじめて、この濃淡が相対化され、どの主題でどこまで確度を望めるかの相場が見えてくる。一本だけを読んでいたのでは、その主題で得られる確度がその分野の限界なのか、資料の残り方の偶然なのかを判じにくい。
史料批判の観点からは、四本が抱える困難の性質が対照的である点も見えてくる。跡地は語らなさすぎ、回想は語りすぎる。制度記録は年代を明確に告げるが、その政策が地域に及ぼした実態は語らない。学校の沿革は年代を残すが、原資料が錯綜すれば前後関係すら確定しがたい。困難の方向は異なるが、対処は共通している。すなわち、確認できる範囲を過小にも過大にも見積もらず、確認できない部分を「未確認」として正直に残すことである。
この共通性は、地域史の記述にとって一定の含意をもつ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば、断片的な資料から一つのまとまった物語を組み立てようとする。だが、素材が乏しかったり、記憶という不安定な資料に依ったりする主題では、無理に物語を完成させることが、かえって確度の低い記述を生む。四本の各論が示すのは、物語の完成度ではなく、確度の層の透明さを優先する記述の作法である。どこまでが確かで、どこからが推定で、どこからが未確認かが読者に見えていれば、その記述は後続の調査に受け渡せる。
7. 確度の層の総合 ──「未確認」と「記載なし」
四本を横断して最も明瞭に浮かび上がる共通の方法は、「未確認」と「記載なし」の区別である。これは本稿が四本から抽出する、方法上の核心にあたる。両者はいずれも「その事柄を史実として確認できない」状態を指すが、意味するところは根本的に異なる。
「未確認」とは、管見の限り、その事柄を裏づける一次史料に突き当たっていない、という調査の現状を述べる語である。史料が現に存在しないのか、存在するが筆者が把握していないのか、その判定自体が保留されている。これに対して「記載なし」とは、参照した史料のうちに、その事柄が書かれていない、という史料の内容についての判断である。前者は調査者の到達点を、後者は史料の中身を述べており、水準がまったく違う5。
この区別を怠ると、二つの方向に誤る。一つは、未確認を安易に「存在しない」と読み替える誤りである。分教所跡の開設年を裏づける一次史料に到達していないことを、そうした史料は存在しないと断じてしまえば、まだ見ぬ資料の可能性を閉ざす。もう一つは、記載がないことを「まだ確認できていないだけ」と留保し続ける誤りである。ある史料に明らかに書かれていない事柄を、いつまでも未確認として宙づりにすれば、記述はどこにも着地しない。四本の各論は、跡地の数値、体験記の背後の史的事実、廃寺前後の細部、学校の前身関係という、それぞれの未確認・記載なしの境目で、この区別を保っていた。
具体的な場面で考えると、両者の違いは実務的な意味をもつ。分教所跡の開設年について、一次史料に到達していないうちは「未確認」と記すべきであり、そう記しておけば、後に地籍簿や陸軍関係の文書が見つかったとき、その空欄はただちに埋まる。一方、ある学校沿革誌に前身校の記述がないことを確かめたなら、それは「当該史料には記載なし」と記せる。この二つを言葉のうえで区別しておくだけで、後続の調べ手は、どこを掘れば前進できるかを一目で判断できる。未確認はさらに探すべき空欄であり、記載なしは当の史料に関しては閉じた空欄である。区別は、単なる用語の厳密さではなく、次の調査への道標になる。
本稿の立場をあらためて明示する。跡地・回想・制度という異なる素材を横断してなお、記述の背骨として働いていたのは、確認できる範囲を史実として押さえ、その外側を推定・未確認へ腑分けし、「未確認」と「記載なし」を混同しない、というただ一つの手続きであった。この手続きは、素材が戦争や近代の力に関わるとき、とりわけ重い意味をもつ。戦争の記憶を扱う記述は、容易に二つの誘惑に傾く。悲劇を実際以上に劇的に語る誇張と、犠牲を美しい物語へ仕立てる美化である。確度の層を明示し、未確認を未確認として残す禁欲は、この二つの誘惑への歯止めになる。淡々と書くとは、感情を排することではなく、資料が支える以上の断定を差し控えることにほかならない。
あわせて、こうした横断が明らかにするのは、個々の各論が孤立した事例報告ではなく、一つの記述の作法の異なる適用例だ、という点である。分教所跡の沈黙、体験記の情感、廃寺の断絶、学び舎の連続は、対象としてはまるで異なる。それでも、確度の層を保って書くという方法において、四本は同じ地平に立っている。この地平を明示的に取り出すことが、レビュー論考としての本稿の役割であった。
8. 結論 ── 記憶を確度の層とともに手渡す
本稿は、戦争と近代の力が地域に刻んだ記憶を扱った四本の各論を先行研究として横断し、三つの論点に整理して総合した。得られた見取り図は次のとおりである。物言わぬ跡地は、確認できる範囲・推定・未確認の三層に切り分けてはじめて史料となる。回想・体験記は、記憶の選択と再構成を割り引きつつ、それでも個人の内面を伝える代えがたい証言でありうる。近代の政策は、寺には断絶を、学校には組み替えをもたらしたが、いずれも制度・災害・人・共同体という具体的な層に解きほぐして記述しうる。
三つの論点を貫いていたのは、確認できる範囲を史実として押さえ、その外側を推定・未確認へ腑分けし、「未確認」と「記載なし」を混同しない、という一つの手続きであった。素材が跡地・回想・制度とばらばらであっても、この手続きにおいて四本は同じ地平に立つ。本稿の立場は、この地平を明示的に取り出すことにあった。すなわち、地域史の記述の質は、物語の完成度ではなく、確度の層の透明さによって測られる、という立場である。
戦争の記憶を扱う主題では、この禁欲がとりわけ重い。跡地の沈黙を数値で埋め、体験記の一句を確かめずに事実とし、政策の作用を一枚の物語へ均してしまえば、記述は誇張と美化のいずれかへ傾く。確度の層を保ち、未確認を未確認として正直に残すことは、記憶を痩せさせるのではなく、後続の調査が未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく余地を、そのまま次の世代へ手渡すことである。
最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、ここで扱った四本は、戦争・近代の力という主題で選んだものであり、同種の各論はほかにもある。祭礼・信仰・災害を扱った各論を加えて横断すれば、確度の層の方法がさらに広い主題に適用できるかを検証できる。第二に、「未確認」と「記載なし」の区別は、本稿では方法の水準で述べたにとどまる。個々の未確認の項目について、どの史料群を博捜すれば記載なしへと確定できるかを具体的に示す作業は、各論の続編に属する。第三に、跡地・回想・制度という三つの史料類型を、より一般的な地域史の史料論のなかに位置づけ直すことも、今後の主題である。素材の異なる記憶を、確度の層を保ったまま束ね、次の調べものに耐える形で書き留めていくこと──その地道な手続きの先にこそ、戦争と近代が磐田の土地に刻んだ記憶の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 跡地の現況および伝承の存在と、開設年・規模・訓練内容の数値との確度の差については、大石浩之「明野陸軍飛行学校天竜分教所跡を読む」(磐田論考第235号)の腑分けによる。↩
- 「そう回想されている」という水準の史実と、その背後の史的事実との区別は、大石浩之「福田の祭りと戦時記憶」(磐田論考第213号)による。伊東金平の体験記は寺田勝彦編『東屋台と西屋台』(1985年)冒頭に収める。↩
- 上知令による寺領喪失を廃仏毀釈と区別し、近代国家の土地・財政政策の構造的作用として理解する視点は、大石浩之「明治の廃寺 ── 上知令と遠江国分寺の断絶」(磐田論考第137号)による。↩
- 開校・改称・統合の年代を史実として押さえ、地域の受け止めを推定として腑分けする方法は、大石浩之「竜洋の学び舎の歩み」(磐田論考第212号)による。↩
- 「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(参照史料に記述がない)の区別は、本論考シリーズが一貫して用いてきた方法上の約束であり、上記四論のいずれにも共通する。↩
付記:本稿は新たな一次史料を提示するものではなく、既刊各論(第235号・第213号・第137号・第212号)を先行研究として横断・整理する総合論考(レビュー論考)である。各論の事実関係は原論考に依り、本稿は方法の側からの再整理に徹した。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、「未確認」と「記載なし」を区別する方針を保っている。
参考文献・参考資料
- 大石浩之「明野陸軍飛行学校天竜分教所跡を読む ── 戦争が刻んだ土地の記憶」磐田物語・大石浩之の磐田論考 第235号、2026年。 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/235/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「福田の祭りと戦時記憶 ── 伊東金平の体験記を史料として読む」磐田物語・大石浩之の磐田論考 第213号、2026年。 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/213/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「明治の廃寺 ── 上知令と遠江国分寺の断絶」磐田物語・大石浩之の磐田論考 第137号、2026年。 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/137/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之「竜洋の学び舎の歩み ── 寺子屋から戦後の学制改革まで」磐田物語・大石浩之の磐田論考 第212号、2026年。 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/212/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 寺田勝彦 編『東屋台と西屋台』郷土史探訪別冊第三集、1985年。
- 磐田市『磐田市史』通史編、磐田市。
- 竜洋町誌編さん委員会『竜洋町誌』竜洋町(該当章)。
- 菊池実ほか『戦争遺跡から学ぶ』岩波ジュニア新書、岩波書店、2003年。
- 十菱駿武・菊池実 編『しらべる戦争遺跡の事典』柏書房、2002年。
- 『太政官布告』明治4年(1871年)社寺領上知に関する布告。
- 『学制』明治5年(1872年)太政官布告第214号。
- 『続日本後紀』『日本三代実録』ほか遠江国分寺関連史料(第137号所引)。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。