失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 竜洋の学び舎の歩み

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第212号(竜洋教育史研究 一)

竜洋の学び舎の歩み

寺子屋から戦後の学制改革まで ── 竜洋西・東・北小学校、掛塚小学校、竜洋中学校の沿革を軸に

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋

要旨

竜洋(現・磐田市竜洋地区)の教育は、江戸期の寺子屋・私塾に発し、明治5年(1872年)の学制発布によって近代の学校制度へと組み替えられていった。本稿は、竜洋西小学校・竜洋東小学校・竜洋北小学校、掛塚小学校、竜洋中学校の沿革を軸に、寺子屋の時代から戦時下の国民学校を経て、戦後の学制改革(六三制)に至る竜洋の教育史を、開校・改称・統合の年代を史料で確認できる史実として、地域が学校をどう支え受け止めたかを推定として腑分けしながら読み解く。とりわけ竜洋西小学校と掛塚小学校の前身関係のように、原資料の記述が錯綜して前後関係を確定しがたい箇所については、「未確認」と「記載なし」を区別し、断定を避けて判明する範囲の要点を整理した。学校が単なる教育施設にとどまらず、集落・町村という地域共同体の中心装置として機能し、共同体の側もまた統合・校舎建設・戦後の窮乏をくぐり抜けて学び舎を支え続けた過程を、本稿は一貫した視点として提示する。

キーワード:竜洋/寺子屋/学制発布/国民学校/六三制/掛塚小学校/竜洋中学校

1. 問題設定 ── 学校沿革を史料としてどう読むか

ある土地の来歴をたどろうとするとき、学校の沿革ほど手がかりに富み、同時に扱いのむずかしい史料はない。開校の年、改称の年、統合の年は、しばしば周年記念誌や町村誌に日付とともに記される。だが、その一つ一つの年紀が、いつ、誰の手で、どの記録に基づいて確定されたのかを問い直すと、確からしさの度合いは決して一様ではない。竜洋(現・磐田市竜洋地区)の学び舎の歩みを跡づけようとする本稿も、この不均一さと向き合うことから始めなければならない。

本稿が軸に据えるのは、竜洋西小学校・竜洋東小学校・竜洋北小学校、掛塚小学校、そして竜洋中学校である。これらの学校は、いずれも学制発布後の明治初期に、集落ごとに開かれた小さな学校を出発点とし、明治から昭和にかけて統合と改称を幾度も重ねて現在の姿にたどり着いた。ところが、その途中経過を語る原資料の記述は、二段組の編纂物にありがちな錯綜を抱えており、統合・改称の前後関係が判読しにくい箇所が少なくない。竜洋西小学校の前身を「掛塚小学校」と記しながら、掛塚小学校自体は別に独立した学校として存続していく、といった一見矛盾する記述が、その典型である。

そこで本稿は、年代記述を三つの水準に腑分けして扱う。第一に、複数の編纂物で一致し記録として確認できる開校・改称・統合の年紀を史実として扱う。第二に、地域が学校をどう受け止め、どう支えたかという営みは、直接の一次記録を欠くことが多いため、状況からの推定として提示する。第三に、原資料の記述が錯綜し確定しがたい前後関係については、無理に一本の年表へ押し込めず、判明する範囲の要点を示したうえで「確認できていない」と明記する。ここで肝要なのは、「未確認」(管見の限り確たる記録に突き当たっていない)と「記載なし」(記録に元来存在しない)とを混同しないことである。

この作法をとる理由は、水増しの体裁を整えるためではない。学校沿革を地域史の史料として読むとき、確度の異なる年紀を同じ平面に並べれば、記念誌が象徴的に採用した年を動かしがたい史実のように語り、逆に確かな記録を伝承の一種のように軽んじる、という二重の誤りに陥りやすいからである。以下ではまず寺子屋の時代を背景として押さえ、学制発布による近代学校の出発を確認し、各校の系譜と竜洋中学校の誕生をたどったうえで、戦時下の教育と地域共同体の役割を検討し、結論に至る。学校を地域共同体の中心装置とみる視点は、この全体を貫く軸である。

寺子屋・私塾 読み書き・往来物 遠州の国学 杉浦国頭・加茂真淵 報徳運動 近代教育の素地 1872年 学制へ 学びの土壌 ── 近代学校を受け入れる素地
図1 学びの土壌の系譜。寺子屋・私塾、遠州の国学、報徳運動という近世以来の三つの流れが、明治5年(1872年)の学制による近代学校を受け入れる素地を用意したと考えられる。

2. 近代教育以前 ── 寺子屋・私塾と学びの土壌

近代的な学校制度は明治5年(1872年)の学制によって確立するが、その発展の素地は、旧藩時代からの寺子屋・私塾・藩校にすでに築かれていた。庶民にもっとも親しまれた教育は寺子屋であり、多くは寺院で僧侶が指導にあたった。学ぶ内容は読み書きが中心で、いろは、片仮名、人名や国名、童子訓、そして往来物と呼ばれる手紙形式の教材を手本に、半紙が真っ黒になるまで手習いを重ねたという。一つの寺子屋に通う子どもの数は、多くてもせいぜい20人から30人ほどにとどまったと伝えられる。

授業料に定まった額があったわけではない。「束脩(そくしゅう)」と呼ばれる入門料のほかは、盆や年末に一朱ないし一分ほどの金を届けたり、随時、師匠の生活の足しになる農作物を贈ったり、師匠の農作業を手伝ったりする程度であった。教育が家計の余力に応じて緩やかに支えられていたこの姿は、後の近代学校が地域の負担で維持されていく形と、根のところでつながっている。銭に換算しきれない労力と物と心づかいで学びの場を支えるという作法は、竜洋の学校史を通じて繰り返し立ち現れる主題である。

寺子屋のほかに、優れた漢学者・国学者が高度な学問を教える私塾もあった。遠州地方では浜松の「渡辺豪庵塾」などが知られ、他地域からもこの塾を慕って学びに来る者が少なくなかったと伝えられる。国学の面では、浜松の神官・杉浦国頭が妻の真崎とともに『日本書紀』の研究に生涯を捧げ、その門流から加茂真淵が現れた。真淵は京都で荷田春満の教えを直接受け、当時の遠州思想界を導く存在となった。この学風は天竜川流域の内山真龍や小笠郡の栗田土満らに引き継がれ、いわゆる遠州の国学として広がりを見せたとされる。

勤勉と推譲を説く報徳運動も各地に及び、こうした学びの土壌が、後の近代教育を受け入れる素地になったと考えられる。もっとも、こうした高い学問の担い手と、村々の寺子屋で手習いをした大多数の子どもたちとを、そのまま地続きに描くことには慎重でありたい。私塾に集った学者たちの学問と、庶民が身につけた実用の読み書きとは、水準も目的も異なる。ここで確認できるのは、遠州という地域に、学ぶことを尊ぶ空気が層をなして存在していたという事実であって、それが個々の村の教育水準を直接に高めたかどうかは、別に検証を要する推定の域にとどまる。

竜洋の地について、寺子屋がどの寺院にいくつ置かれ、誰が師匠を務めたかを網羅的に記す一次史料には、本稿の調査範囲では突き当たっていない。これは「竜洋に寺子屋が乏しかった」ことを意味しない。掛塚湊を擁し、天竜川の水運と船持の富が集まったこの地に、読み書き算用の需要が高かったことは想像に難くない。むしろ、記録として体系的に残されなかっただけであろうと考えられる。ここでも「未確認」と「記載なし」の区別は保たれるべきで、記録の不在を教育の不在と読み替えてはならない。

3. 学制発布と竜洋の学校のはじまり

明治維新を迎え、近代教育への要求は静岡県内の各地で芽生えはじめた。明治3年(1870年)には静岡藩の小学校が中泉(現・磐田市中心部)に設立され、前島密や塚原重応らが力を合わせて開いた塾的な学校も、やがて静岡藩学校の一部となった。これが現在の磐田市立磐田中部小学校の前身にあたるとされる。竜洋の学校のはじまりを語る前に、近隣の中泉でこうした動きが先行していたことは、遠江の教育近代化が磐田を含む一帯で同時多発的に進んだことを示している。

明治5年(1872年)、政府は文部省を設け、「必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」ことを目指す「被仰出書」とともに「学制」を頒布し、近代教育制度を確立した1。国民皆学を掲げるこの理念は、教育の費用と労力を村々に負わせる仕組みと表裏一体であった。学制は理想を高く掲げる一方、校舎の用意も教員の確保も、多くを地域の自弁に委ねたからである。竜洋の学校が集落ごとの小さな学校として出発せざるをえなかった背景には、この制度設計があった。

学制発布を受けて、竜洋町域(当時の掛塚・袖浦・十束などの旧村々)でも、村や地区ごとに小学校が次々と開かれていく。海老島の海老島小学校、川袋村の川袋小学校、小島の村立小島尋常小学校(竜門館)など、地域の実情に合わせた小さな学校が、まず各集落に置かれた。原資料に残る「明治5年(1872年)海老島に設けられた海老島小学校」「明治15年(1882年)小島に設けられた村立小学竜門館の額」といった写真キャプションは、こうした草創期の学校の姿を今に伝える数少ない手がかりである。

ここで留意すべきは、これらの学校が、後の竜洋西・東・北小学校のように整然と系統立てられて生まれたわけではない、という点である。学制期の小学校は、村の寺院や有力者の宅地を仮の校舎に充て、下等・上等の別を設けながら、就学状況や財政に応じて開閉・分合を繰り返した。一つの村に置かれた学校が、隣村と組合をつくって統合され、また分かれる、という流動が常態であった。現在の学校名から過去へさかのぼって一本の系譜を引こうとすると、この流動が見えにくくなる。竜洋の学校史を読むには、まず「現在の五校」という完成形をいったん脇に置き、集落ごとに散在した小さな学校群という出発点に立ち返る必要がある。

江戸期寺子屋 1872学制発布 1886/1900頃尋常・高等小 1941国民学校 1947六三制 ■ 近代学校の確立 ■ 戦時教育 ■ 戦後改革 学校制度の変遷 ── 竜洋の学び舎が経た四つの画期
図2 学校制度の変遷年表。寺子屋の時代から、学制発布(1872年)による近代学校の確立、尋常・高等小学校の整備、国民学校令(1941年)、戦後の六三制(1947年)へと、竜洋の学び舎も国の制度の画期に沿って姿を変えていった。

4. 各校の系譜 ── 西・東・北・掛塚小学校の沿革

竜洋町立の竜洋西・東・北小学校の前身にあたる小学校は、いずれも学制発布後の明治初期に、集落ごとに開かれた小さな学校から始まっている。その後、明治から昭和にかけて統合と改称を繰り返しながら、現在の三校の姿へとつながっていった。原資料の記述は前後関係が判読しにくい箇所が多く、ここではまず各校の要点を対比表として示し、続いて確定しがたい点を個別に検討する。

表1 竜洋西・東・北・掛塚小学校の沿革対比(要点、提供資料による。年紀の一部は原資料で前後関係の判読が難しい)
学校前身・成立の経緯(要点)戦後・現在までの改称史料上の留意点
竜洋東小学校小島の村立小島尋常小学校(竜門館)と長野・袖浦方面の小学校が組合・統合を重ねて成立したとされる。明治26年(1893年)頃、長野村・袖浦村の組合立として校地を選定・新築し村立長野竜洋東小学校と称したとみられる。昭和16年(1941年)に袖浦村立竜洋東小学校、昭和30年(1955年)の町村合併で竜洋町立竜洋東小学校。「竜門館」「長野袖浦小」「袖浦尋常高等小」など複数の校名が交錯し前後関係の判読が難しい。
竜洋西小学校明治6年(1873年)5月、字砂町の敷地に校舎を新築し、掛塚小学校として西光寺の南、三岡氏宅付近に設立されたことを前身とする。昭和16年(1941年)に袖浦村立竜洋西小学校、昭和30年(1955年)の町村合併で竜洋町立竜洋西小学校。前身を「掛塚小学校」と記すが掛塚小学校は別に存続。両校の関係は資料上込み入る2
竜洋北小学校明治15年(1882年)頃、宮本村海老島に開設された海老島小学校を前身とする。明治22年(1889年)頃、海老島心月寺に分教場を設置したとされる。その後の改称を経て、昭和36年(1961年)4月に竜洋町立竜洋北小学校と改称。分教場の設置時期や統合の順序に判読困難な箇所が残る。
掛塚小学校明治6年(1873年)1月、川袋村外10ケ町の連合により、長谷川八郎の宅地内の長屋を校舎に充てて開校。下等・上等小学校の別を置いた。昭和16年(1941年)に掛塚国民学校、昭和22年(1947年)に中学校部分が分離、昭和30年(1955年)に竜洋町立掛塚小学校。明治18年(1885年)の火災全焼、吹上への高等小学校移転など校地移動が多い。

竜洋東小学校の系譜については、資料の中で「小島尋常小学校」「竜門館」「長野袖浦小学校」「袖浦尋常高等小学校」など複数の校名が登場し、組合の設置・解消や校地の選定、校舎の新築が幾度も繰り返されたことが読み取れる。明治33年(1900年)前後には高等科(修業年限2ケ年)が置かれ、義務教育年限の延長にともなって高等科が廃止された時期もあったとされる3。校名の交錯は、村の合併や組合立の再編という行政区画の動きと、学校の分合とが連動していたことの反映であって、記録者の混乱によるものと即断すべきではない。

もっとも判読を要するのは、竜洋西小学校と掛塚小学校の前身関係である。原資料は、竜洋西小学校の前身を明治6年(1873年)5月に字砂町に新築された「掛塚小学校」とし、その位置を西光寺の南、三岡氏宅付近と記す。ところが掛塚小学校は、これとは別に川袋村を中心とする学校として存続し、後に掛塚尋常小学校・掛塚国民学校・掛塚小学校へと連なっていく。同じ「掛塚小学校」という名が、系譜を異にする二つの学校を指しているようにも読め、あるいは初期に一体であったものが後に分立したとも解しうる。

論点・前身関係の解釈

「掛塚小学校」の名が指すもの ── 二校同名か、分立か

甲の見方。明治初期の「掛塚小学校」は掛塚地域の連合小学校として一つであり、後の竜洋西小学校の系統と、後の掛塚小学校の系統は、この一つの学校からの分立とみる。字砂町の校舎と川袋の校舎は、同一学校の複数の教場であった可能性がある。

乙の見方。掛塚という地名を冠する小学校が、集落ごとに複数併存し、たまたま同名で記録されたにすぎないとみる。学制期には一村に複数校が置かれる例も珍しくなく、名称の一致が系譜の一致を意味するとは限らない。

本稿の立場。現時点で提供資料のみからは甲乙を裁定できない。両校の校地(字砂町・西光寺南/川袋)が別であること、後年に別の学校として並存することは記録から確認できるが、明治初期に一体であったか否かを直接に示す記述には突き当たっていない。したがって本稿は、この前身関係を未確認とし、いずれかに断定しない。校名の同一を系譜の同一と読み替える誘惑を避け、確定できる範囲──「両校とも掛塚地域に発し、後に別の学校として存続した」──にとどめて記す。

本稿の評価:同名の学校をめぐる前後関係は、地域の学校が固定した制度ではなく、村と組合の都合で分合を繰り返す流動的な存在であったことを、かえってよく示している。錯綜そのものが史料である。

竜洋北小学校は海老島小学校を出発点とし、明治から昭和にかけて校名変更を重ねながら現在の姿に至ったとされる。明治22年(1889年)頃に海老島の心月寺へ分教場を設けたという記述は、本校から離れた集落の子どものために、寺院を借りて教場を延ばしていく当時のやり方をよく伝えている。分教場は、通学の負担を軽くするために地域が学校を「分けて」自らのもとへ引き寄せた仕組みであり、学校が村の暮らしに合わせて形を変えた一例である。昭和36年(1961年)4月に竜洋町立竜洋北小学校と改称されるまでの校名の変遷については、原資料でも判読が難しい箇所が残る。

掛塚小学校の沿革は、四校のなかでもっとも記録が厚い。明治6年(1873年)1月、川袋村外10ケ町の連合により、長谷川八郎の宅地内にあった長屋を校舎に充てて開かれたのが始まりとされる。当初は下等小学校・上等小学校に分かれ、明治12年(1879年)4月には川袋に高等科が併置された。明治18年(1885年)9月には火災に見舞われ校舎を全焼したとされるが、その後、地域は財政的な制約のなかで組合を組織し、独立した高等小学校を設けていった。当時、高等小学校へ進む子どもの中には、浜松に寄宿して通った者もあったと伝えられる。学びを求める気持ちが、経済的な負担を押してでも上級学校へ向かわせたことがうかがえる。

明治22年(1889年)前後に掛塚尋常小学校となり、明治27年(1894年)6月12日には吹上に掛塚高等小学校が新築・開校された。明治から大正にかけて掛塚町立掛塚尋常小学校として運営が続けられ、大正5年(1916年)6月28日には田畑を買い入れて校舎を移転増築した掛塚尋常小学校が竣工し、同年9月2日に入校式が行われている。掛塚湊の繁栄を背景に、船持や商家の寄進が校舎の整備を支えたと考えられるが、寄進の具体的な記録については本稿の範囲では確認できていない。港町の富が学び舎に注がれたという構図は蓋然性が高いものの、ここでは推定として示すにとどめる。

学校系統図 ── 集落の小学校から現在の四校へ 小島・竜門館 長野・袖浦の小学校 字砂町の小学校 海老島小学校 川袋・10ケ町連合 組合立・統合 尋常・高等小学校 明治〜昭和 竜洋東小学校 竜洋西小学校 竜洋北小学校 掛塚小学校 ※前身関係の一部は原資料で判読が難しく、系統は要点のみを模式化した。
図3 学校系統図。集落ごとに散在した小学校が、組合立・統合と改称を重ねて現在の竜洋東・西・北・掛塚小学校へ収斂していく過程を模式化した。矢印の一部は前後関係が確定しがたく、要点のみを示している。

5. 竜洋中学校の誕生と戦後の学制改革

昭和16年(1941年)の国民学校令により、それまでの尋常小学校・高等小学校は国民学校へと改められた。掛塚尋常小学校も竜洋町立掛塚国民学校(初等科6ケ年・高等科2ケ年)と改称され、他の小学校も同様に国民学校となった4。「国民学校」という名称は、教育が国家の目的へ強く方向づけられていく戦時体制の色を帯びており、後述する戦時下の教育の変質と一体のものである。制度上の改称であると同時に、学校の性格そのものの変化を告げる出来事であった。

戦後、昭和22年(1947年)3月に教育基本法・学校教育法が公布され、義務教育は9ケ年(小学校6ケ年・中学校3ケ年)となり、いわゆる六三制の学校体系が発足した5。この改革は、竜洋の学校の形を大きく組み替えた。国民学校のうち小学校部分は新制小学校となり、初等科の6ケ年がそのまま義務教育の前半を担う。一方、高等科にあたる部分は、新たに設けられる新制中学校へと接続することになった。掛塚国民学校の中学校部分が掛塚中学校として独立したのは、この改革の直接の帰結である。

竜洋中学校は、この学制改革を受けて誕生した。昭和23年(1948年)4月、掛塚町村組合立竜洋中学校の設置が認可され、掛塚・袖浦・十束・長野の各小学校の仮校舎を間借りする形で授業が始まった。独立した校舎を持たない、いわば「間借りの中学校」としての出発である。同年9月には第一期工事が竣工し、9月2日に入校式が行われている。昭和30年(1955年)4月の町村合併により、竜洋町組合立竜洋中学校から竜洋町立竜洋中学校へと改称され、現在に至る。

竜洋中学校の誕生には、それまでの竜洋の学校史にはなかった質的な変化が含まれている。掛塚・袖浦・十束・長野という、別々の小学校区に分かれていた地域の子どもたちが、一つの中学校に集うようになったからである。集落ごとの小学校で完結していた学びの空間が、旧町村の枠を越えて一つに束ねられた。これは、昭和30年(1955年)の町村合併によって竜洋町という新しい共同体が形づくられていく動きと、時期の上でも意味の上でも重なり合う。学校の統合が地域の統合を先取りし、あるいは並走したとみることができる。

ただし、この一体化を過度に理想化することも慎みたい。仮校舎の間借りから始まった中学校が独立校舎を得るまでには、資材難と財政難のなかでの相当な労苦があった。旧町村ごとの帰属意識や通学の便をめぐって、統合が円滑一色であったとは限らない。原資料は統合の事実と年紀を記すが、地域の側にどのような受け止めや摩擦があったかまでは語らない。ここでも本稿は、統合を地域一体化の象徴として読む解釈を推定の水準にとどめ、記録が語る範囲──設置認可・仮校舎・校舎竣工・改称という事実の系列──を史実として確定するにとどめる。

六三制への移行と竜洋中学校への統合 国民学校 初等科6・高等科2 1941年 新制小学校 6ケ年 新制中学校 3ケ年 1947年 六三制 竜洋中学校 掛塚・袖浦 十束・長野を統合 高等科にあたる部分が新制中学校へ接続し、四つの小学校区が一つの中学校に束ねられた。
図4 六三制への移行構造。国民学校(1941年)は戦後改革(1947年)で新制小学校と新制中学校へ分岐し、掛塚・袖浦・十束・長野の四小学校区が竜洋中学校のもとに統合された。学校の統合は、竜洋町という共同体の形成と時期を重ねている。

6. 戦時下の教育 ── 動員・空襲と学びの中断

竜洋の学校史のなかで、もっとも影が濃いのは戦時下の時期である。昭和12年(1937年)9月の日中戦争開始後、国民精神総動員運動が始まり、教育の現場にも国策の影響が強く及ぶようになった。当時の小学校の時間割を見ると、1年生は週21時間、5〜6年生は男子28時間・女子30時間を学び、その半分近くを国語の学習に充てていたという。尋常小学校卒業後に高等小学校へ進学する子どもの割合は、この頃で約87パーセントに達したとされる。進学率の高さは学びへの意欲を示すと同時に、その学びが戦時の目的へ向けて強く方向づけられていく舞台が整っていたことをも意味する。

戦争が長期化するにつれて、学校を挙げての勤労奉仕・勤労動員が拡大していった。麦まきや芋掘りといった農作業の手伝いにとどまらず、水路を掘る土地改良工事、松の根を掘り出して松根油(ガソリンの代用)を採る作業まで、小学校の高学年児童が動員されるようになった。男子生徒はさらに軍需工場や学校内の工場での勤労動員に従事させられ、農学校などの生徒の中には満蒙開拓青少年義勇軍に加わり、大陸へ渡った者もいたと記されている。昭和14年(1939年)には浜松師範学校に拓務科が設置され、青少年義勇軍への参加を後押しする体制が整えられた。学び舎は、いつしか労働力と兵力の供給源としての性格を強めていった。

女子生徒に対しても軍事教練や行進訓練、一日入営などが行われ、ダンスや徒手体操に代わって薙刀や木銃を用いた教練が課されるようになった。昭和17年(1942年)7月からは英語の授業が中止され、実業学校の在学年限短縮も行われている。昭和18年(1943年)には中等学校令により、中学校・女学校・実業学校の修業年限が従来の5ケ年から4ケ年に短縮された。教育の内容も年限も、戦時の必要に合わせて次々と切り詰められていったのである。学ぶ場が国家の目的に従属していくこの過程は、国民学校という名称の変更が予告していた事態の現実化にほかならない。

竜洋町には明野陸軍飛行学校の天竜飛行場があったため、戦争末期には再三にわたり米軍機の攻撃目標とされ、爆弾投下や機銃掃射を受けたと伝えられる。現在も残る天竜飛行場格納庫跡は、その記憶を今に伝えるものである。天竜川は、敵機が本土来襲時に進路を確認する目印にもなったとされ、地域の主婦たちは遠方まで買い出しに歩き、警防団による灯火管制や学童疎開も行われた。「勝つまでは……」という言葉は、当時の合言葉として地域に残っていたと伝えられている。学校のある土地そのものが戦場の縁に置かれたことは、竜洋の教育史を語るうえで避けて通れない。

昭和19年(1944年)12月7日には、熊野灘を震源とする東南海地震が発生し、竜洋町も大きな被害を受けた。当時は報道管制のため、被害の実情は一般には十分に知られなかったとされる。空襲の激化とともに、学校教育そのものが一時停止に追い込まれる事態も起きた。校舎を失った学校では、野外で授業を行う「青空教室」が開かれ、教科書や学用品も不足するなかでの授業が続いた。学びが物理的に中断され、しかも中断の事実さえ十分に記録されえなかったこの時期は、学校史の記述において最も空白を生じやすい。ここでの「記載なし」は、出来事がなかったことではなく、記録する余裕そのものが失われていたことを意味する。

昭和20年(1945年)8月6日に広島、8月9日に長崎へ原子爆弾が投下され、8月15日の終戦の詔をもって戦争は終わった。同年9月14日には「新日本建設の教育方針」が発表され、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令のもと、修身・国史・地理の授業が一時停止され、教科書の不適切な記述を墨で塗りつぶす、いわゆる「墨塗り教科書」が使われた。前年まで戦意を鼓舞していた教科書を子ども自らが墨で塗るという光景は、教育が国家の目的に従属したことの帰結を、最も生々しく示す場面であった。竜洋の学校もまた、この転換を全国の学校とともにくぐり抜けたのである。

戦時下 ── 学び舎から広がる動員 学び舎 国民学校 農作業奉仕 松根油採取 軍需工場 青少年義勇軍 空襲・学童疎開
図5 戦時下の動員構造。学び舎を起点に、農作業奉仕・松根油採取・軍需工場・青少年義勇軍への動員が放射状に広がり、竜洋の場合はさらに天竜飛行場をめぐる空襲と学童疎開が重なった。学校は教育の場であると同時に、労働力・兵力の供給と防空の拠点でもあった。

7. 背景 ── 学校を支えた地域共同体

ここまで各校の沿革と戦時下の変質をたどってきたが、その全体を貫いて見えてくるのは、学校が終始、地域共同体によって支えられた存在であったという事実である。学制は理念を高く掲げながら、校舎の用意も維持も多くを地域の自弁に委ねた。だからこそ竜洋の学校は、村の寺院を借り、有力者の宅地を校舎に充て、組合を組んで費用を分かち合う形で始まらざるをえなかった。掛塚小学校が長谷川八郎の宅地内の長屋から出発し、竜洋北小学校の系統が海老島の心月寺に分教場を置いたことは、その象徴である。

この構図は、寺子屋の時代の学びの支え方と地続きである。束脩や盆暮れの心づけ、農作業の手伝いによって師匠の暮らしを支えたのと同じように、近代の学校もまた、地域の労力と負担の上に立っていた。制度は江戸から明治へ大きく変わったが、「学びの場を地域が自らの手で支える」という基層は変わらなかった。竜洋の教育史を通観すると、制度の変遷の底に、この連続する基層が横たわっていることに気づく。学校を単なる行政の施設としてではなく、地域共同体の中心装置として読むべき理由が、ここにある。

学校が共同体の中心装置であったことは、戦後の校舎再建にもっとも鮮明に現れる。新制中学校(竜洋中学校)の校舎建設は容易ではなかった。市町村の財政は乏しく、建設資材も極度に不足するなか、土地・山林などの公有財産の処分や寄付金集め、旧軍隊の建築物の払い下げなど、地域住民の労苦によって校舎の建設が進められた。既存の施設や寄宿舎を教室に転用し、分散授業を行うなど、まさに「戦後の寺子屋教育」と呼べるような状況であったと伝えられる。国が理念を示し、地域が身銭と労力でそれを形にするという関係は、学制期から一貫している。

そして、この地域が支えた学校は、逆に地域を束ねる働きももった。集落ごとに分かれていた小学校が組合立へ統合され、旧町村ごとの小学校区を越えて竜洋中学校に子どもたちが集ったことは、竜洋という一つの町の一体感が形づくられていく過程と重なる。学校区の再編は、しばしば行政区画の再編に先んじ、あるいは並走した。子どもが同じ学び舎に通うという経験は、大人たちが別々の村の出身であっても、次の世代を同じ共同体の一員として育てるという合意を、日々の通学のなかで積み重ねていく。学校は、共同体に支えられると同時に、共同体を作る装置でもあった。

竜洋という地域が近代の町村としてまとまっていく過程については、既刊の論考「竜洋になるまでの町村沿革」で、掛塚・十束・袖浦が合併して竜洋町となる行政史を論じた。また、その町村を実際に運営し支えた人びとについては「町や村を背負った人びと」で扱っている。本稿が描いた学校の統合史は、これら行政・人物の歩みと表裏をなすものであり、あわせて読むことで、竜洋の共同体形成の全体像がより立体的に見えてくるはずである。学び舎の系譜と町村の系譜は、別々の史料に散らばりながら、同じ一つの地域統合の物語を語っている。

もっとも、地域が学校を支えたという構図を、美談として一色に塗り上げることも避けたい。組合立の学校をめぐっては、費用の分担や校地の選定をめぐる村々の利害の対立があったはずであり、統合が常に円満であったとは考えにくい。戦時下の動員に子どもを差し出すことへの親たちの逡巡や痛みも、記録には残りにくい。本稿が「地域が支えた」と記すとき、それは負担・摩擦・葛藤を含んだ支えであって、無償の献身の物語ではない。史料が語らないこの陰影を書き落とさないこともまた、学校沿革を史料として読む作法の一部である。

学び舎を支え、学び舎が束ねる共同体 学び舎 中心装置 村々 寺院 掛塚湊 組合 寄付 有力者 支えは一方通行ではなく、学び舎が次の世代を育てて共同体を束ね返す。
図6 学校と地域共同体の相互関係。村々・寺院・掛塚湊・組合・寄付・有力者が学び舎を支え、学び舎はその子どもたちを育てることで共同体を束ね返す。竜洋の教育史は、この双方向の関係の連続として読むことができる。
竜洋教育史の四段階 ── 総括 寺子屋・私塾 束脩と労力で支える 江戸期 学制・尋常小 組合立・自弁 1872年〜 国民学校 動員・空襲・中断 1941年〜 六三制 竜洋中へ統合・再建 1947年〜 底流 ── 学び舎を支え、束ね返す地域共同体
図7 竜洋教育史の総括。寺子屋・私塾から学制・尋常小学校、国民学校、戦後の六三制へと四段階に移り変わるあいだ、制度の名と形は大きく変わりながら、学び舎を支え束ね返す地域共同体という底流は一貫して受け継がれた。

8. 結論 ── 学び舎を地域が支えたということ

本稿は、竜洋西・東・北小学校、掛塚小学校、竜洋中学校の沿革を軸に、寺子屋の時代から明治の学制発布、戦時下の国民学校、戦後の六三制改革に至る竜洋の教育史を、確度の層を腑分けしながらたどってきた。得られた見取り図は次のとおりである。各校の開校・改称・統合の年紀は、複数の編纂物で確認できる範囲を史実として押さえた。一方、竜洋西小学校と掛塚小学校の前身関係のように、原資料の記述が錯綜する箇所は、無理に一本化せず「未確認」と明記し、地域が学校をどう支え受け止めたかという営みは、記録の不在を補う推定として区別して示した。

この腑分けを通して浮かび上がったのは、制度の変遷の底に横たわる一つの連続する基層である。寺子屋を束脩と労力で支えた作法は、学制期の組合立小学校を地域の自弁で維持する形へ、そして戦後の窮乏のなかで住民の労苦によって中学校校舎を建てる姿へと、名と形を変えながら受け継がれた。学校は終始、地域共同体によって支えられ、同時にその共同体を次の世代へと束ね直す中心装置であり続けた。集落の小学校が竜洋中学校へ統合されていく過程が、竜洋町という共同体の形成と時期を重ねたことは、その最も明瞭な現れである。

本稿の立場を、あらためて一文で示しておく。学校沿革は、開校記念誌に記された整然たる年表としてではなく、村と組合の都合で分合を繰り返す流動的な営みの記録として読まれるべきであり、その錯綜こそが、学校が地域の暮らしに深く根ざしていたことの証左である。錯綜を排して一本の系譜へ整えることは、確からしさを装う代わりに、地域が学校をどう支えたかという最も肝心な部分を見えなくしてしまう。確度の層を保ったまま、確定できることとできないことを腑分けして記すこと──それが、竜洋の学び舎の歩みを後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、竜洋西小学校と掛塚小学校の前身関係は、原本の書誌が未確認であり、明治初期の川袋・字砂町の学校をめぐる一次記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、各校の校名変遷と組合の設置・解消の順序は、町村合併史と突き合わせて再構成する必要がある。第三に、地域が学校を支えた具体相──寄進の記録や勤労奉仕の実態──は、記念誌や地域の覚え書きを掘り起こすことで、推定を史実へ近づけうる。これらはいずれも、本稿が設定した確度の枠組みのなかで、未確認を史実へと押し上げていく地道な作業に属する。竜洋の学び舎が積み重ねてきた記憶の全体像は、その手続きの先に、少しずつ像を結んでいくはずである。なお本稿は、一般読者向け記事「竜洋の学び舎の歩み」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。

本稿がたどった学び舎の歩みは、そのまま竜洋に暮らした家々の歩みでもある。校舎を支え、子を通わせ、統合と再建をくぐり抜けてきた土地には、いまも古い家や空き家が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 学制は明治5年(1872年)8月に頒布された。国民皆学を掲げた「被仰出書」は、教育の費用と労力の多くを地域の自弁に委ねる仕組みと表裏をなした。制度の詳細は文部省編『学制百年史』を参照。
  2. 竜洋西小学校の前身を明治6年(1873年)5月の「掛塚小学校」(字砂町・西光寺南)とする記述と、川袋を中心に存続する掛塚小学校の系統との前後関係は、提供資料からは確定できない。本稿はこれを未確認とし、二校同名説・分立説のいずれにも断定しない。
  3. 竜洋東小学校の系統では、明治33年(1900年)前後に修業年限2ケ年の高等科が置かれ、義務教育年限の延長にともなって高等科が廃止された時期もあったとされる。年紀は原資料により、前後関係の判読が難しい箇所を含む。
  4. 昭和16年(1941年)の国民学校令により、尋常小学校・高等小学校は初等科6ケ年・高等科2ケ年からなる国民学校へ改められた。掛塚尋常小学校は竜洋町立掛塚国民学校となった。
  5. 昭和22年(1947年)3月公布の教育基本法・学校教育法により、義務教育は小学校6ケ年・中学校3ケ年の9ケ年となり、いわゆる六三制が発足した。竜洋中学校は翌昭和23年(1948年)に設置認可された。

付記:本稿は一般読者向け記事 r025 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。開校・改称・統合の年紀のうち複数の編纂物で確認できるものを史実、地域が学校を支えた営みを推定として区別し、原資料で前後関係の判読が難しい箇所は「未確認」と明記した。

参考文献・参考資料

  • 提供資料「四、近代教育の変遷」(磐田市誌・掛塚町沿革誌第八編教育等を典拠とする編纂物と推定されるが、書名・編者・発行年は未確認)。
  • 掛塚町沿革誌 第八編 教育(書誌未確認)。
  • 磐田市『磐田市誌』(該当章、近代教育の変遷)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市)。
  • 竜洋町教育委員会『郷土読本 ふるさと竜洋』竜洋町、1977年。
  • 静岡県編『静岡県教育史』静岡県。
  • 静岡県『静岡県史』通史編(近代)。
  • 磐田郡役所編『磐田郡誌』(復刻を含む)。
  • 文部省編『学制百年史』帝国地方行政学会、1972年。
  • 『静岡県の百年』県民百年史シリーズ、山川出版社。
  • 文部科学省「学制百年史」資料編(オンライン版) https://www.mext.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 r025「竜洋の学び舎の歩み ── 寺子屋から竜洋西・東・北小学校、竜洋中学校まで」 https://iwata-monogatari.net/r025.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第158号「竜洋になるまでの町村沿革」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/158/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第203号「町や村を背負った人びと ── 竜洋の地域運営を支えた者たち」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/203/ (最終閲覧:2026年7月26日)。