失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 明野陸軍飛行学校天竜分教所跡を読む

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第235号(竜洋・戦争遺跡研究 一)

明野陸軍飛行学校天竜分教所跡を読む

戦争が刻んだ土地の記憶 ── 物言わぬ跡地から何が言え、何が言えないか

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋(旧竜洋町)

要旨

竜洋地区には、明野陸軍飛行学校の分教所とされる軍事施設の跡が伝えられている。本稿は、この天竜分教所跡を戦争遺跡として読み直し、跡地という物言わぬ史料から何が言え、何が言えないかを検討する。まず施設が地域で語り継がれてきたという事実と跡地の現況を、確認できる範囲として押さえる。一方、開設年代・規模・訓練内容として一般向け資料に列挙される数値は、一次史料による裏づけを欠くため推定または未確認の層に置く。ここで本稿が中心論点に据えるのは、資料に到達していない「未確認」と、資料に存在しない「記載なし」との区別である。両者を混同すれば、跡地の沈黙を安易に事実へ、あるいは無へと読み替えてしまう。素材が乏しいこの主題では、陸軍飛行学校と分教所制度、および戦跡考古学の一般的な方法を手がかりとして輪郭を補いつつ、断定を避けて記述する立場をとる。戦争の記憶を刻む土地を、確度の層を保ったまま後世へ手渡すための手続きを示すことが、本稿の目的である。

キーワード:明野陸軍飛行学校/天竜分教所/戦争遺跡/戦跡考古学/史料批判/未確認と記載なし/竜洋

1. 問題設定 ── 物言わぬ跡地をどう読むか

竜洋地区の一角に、明野陸軍飛行学校の分教所であったと伝えられる場所がある。跡地は、飛平松と呼ばれる一帯、現在の袖浦公園の周辺に比定されて語られてきた。だが、そこに立っても、往時の施設を直接に語る建物や標識がそろって残っているわけではない。祭礼や社寺のように毎年くり返し演じられる所作もなく、古文書のように綴られた由緒もない。戦争が刻んだ土地の記憶は、しばしばこのように、輪郭のはっきりしない沈黙として地表に残る。

本稿の出発点は、この沈黙をどう扱うかという問いにある。跡地という対象は、神社の縁起や祭りの起源とは異なる困難を研究者に課す。第一に、そもそも記録が乏しい。軍事施設は性格上、詳細が公開されにくく、敗戦時に関係文書が処分された例も少なくないと言われる。第二に、地表に残る痕跡は、それだけでは年代も用途も語らない。コンクリートの基礎らしきものが残っていても、それが何年に、何の目的で築かれたかは、痕跡そのものからは決まらない。第三に、戦争の記憶という主題の性格上、断定や美化への傾きに注意を払う必要がある。

こうした対象に向かうとき、性急に「ここに飛行場があった」と像を結んでしまうことは、方法として危うい。むしろ求められるのは、何が確認でき、何が推定にとどまり、何がまだ確かめられていないのかを、一つずつ腑分けする作業である。本稿は、跡地を一枚の完成した絵として提示することを目的としない。跡地から読み取れる情報の確度を段階的に区別し、その段階を明示したまま記述することを課題とする。一般向けの読み物版では、資料に現れる語をそのまま手がかりとして並べたが、本稿ではその手がかりの一つひとつが、どの確度の層に属するのかを問い直す。

この姿勢をとる理由は、跡地を軽んじるためではない。逆である。確度の低い情報を史実のように語れば、後日それが覆されたとき、跡地そのものへの信頼まで損なわれる。確認できないことを確認できないと書き留めておくことは、跡地を長く語り継ぐための、いわば保存の作法である。以下では、まず明野陸軍飛行学校と分教所の制度を一般的背景として押さえ、次に素材資料の腑分けを行い、戦跡考古学の方法を経て、本稿の中心論点である「未確認」と「記載なし」の区別へと進む。そのうえで地理的背景を検討し、結論に至る。

あらかじめ用いる確度の層を定義しておく。第一に確認できる要素、すなわち複数の資料や現況によって支えられる事柄。第二に推定、すなわち一定の根拠はあるが確定に至らない事柄。第三に未確認、すなわち管見の限り一次史料に突き当たっていない事柄。第四に記載なし、すなわち参照した資料に該当する記述が存在しない事柄である。とりわけ第三と第四の混同を避けることが、本稿を貫く方法上の要である。

跡地から情報を読み取る ── 確度の層を分ける 確認できる要素 跡地の存在・現況・地域での伝承の存在 推定 地理・制度から導かれる用途・性格 未確認 一次史料に未到達の年代・規模 記載なし 資料に該当記述が存在しない事柄 確度:高 → 低
図1 跡地から情報を読み取る際の確度の層。上ほど支えとなる資料が厚く、下へ向かうほど確からしさが減じる。本稿は各記述をこの四層のいずれかに位置づけて扱う。

2. 明野陸軍飛行学校と分教所という制度

天竜分教所という名を読むには、まず本校である明野陸軍飛行学校の性格と、分教所という仕組みを一般的背景として押さえておく必要がある。明野陸軍飛行学校は、三重県の明野(現在の伊勢市域)に置かれた陸軍の航空教育機関であり、とりわけ戦闘機操縦者の養成に関わる中心的な学校として知られてきた1。飛行の技術と戦技を教える専門機関であったという性格づけは、通説として広く受け入れられている。ただし、本校の沿革の細部と、竜洋に伝わる分教所とを直接に結ぶ一次史料に、筆者は現時点で到達していない。この点は後段で改めて扱う。

次に分教所である。一般に、陸軍の飛行学校は戦争の拡大とともに養成すべき搭乗員を増やす必要に迫られ、本校のほかに各地へ分校・分教所を設けて教育の場を広げていったとされる。分教所とは、本校の教育機能を地理的に分散させた出先の施設であり、独立した学校というより、本校の指揮下でその一部の課程を担う場であったと理解されている2。飛行機を離着陸させる場を必要とするため、平坦で見通しのきく土地が選ばれる傾向があったことも、一般的な理解として述べてよい。

この制度的な背景を踏まえると、竜洋の地に明野の分教所が置かれたという伝えは、それ自体としては不自然ではない。天竜川の下流域には、砂丘や河原に由来する平坦な土地が広がり、飛行の訓練場となりうる地形的条件を備えていたと考えられる。すなわち、本校の性格と分教所制度、そして地形という三つの一般的条件は、竜洋に分教所が存在したという伝承と矛盾しない。しかし、矛盾しないことと、実在が確認できることとは別である。制度の一般論から個別の施設の実在や規模を演繹することはできない。ここで確認できるのは、あくまで「ありうる」という水準までであって、「あった」と断ずる根拠ではない。

あわせて注意しておきたいのは、名称の揺れである。地域では「飛行場」「飛行学校」「分教所」といった語が、必ずしも厳密に区別されずに用いられてきた可能性がある。訓練用の飛行場と、教育組織としての分教所とは、本来は別の概念である。跡地に残るのが飛行場としての平坦地なのか、教育施設としての建物群なのか、あるいはその両方なのかは、語の上では判然としないことがある。この名称の曖昧さ自体が、跡地を読む際に慎重さを要する一因となる。分教所という組織の記憶と、飛行場という場の記憶とを、可能な限り分けて考える姿勢が求められる。

制度の一般論からもう一点、注意を引き出しておきたい。分教所が本校の出先であったとすれば、その運営や教育の記録は、多くが本校ないし上級の司令部の側に集約された可能性がある。地域の側に残るのは、土地の提供や人の動員をめぐる断片的な記憶が中心となりやすい。すなわち、施設の制度的な実像を語る文書と、地域の暮らしのなかの記憶とは、そもそも別の場所に、別の形で残されている。跡地を読む作業が、地域資料の博捜だけでは完結せず、旧軍関係の記録群への照会を要するのは、この記録の分かれ方に由来する。逆に言えば、地域に残る記憶が断片的であること自体は、施設が存在しなかったことを意味しない。記録の所在の偏りと、事実の有無とは、別の問題である。

本校と分教所の制度的関係(一般的な仕組み) 明野陸軍飛行学校 本校(教育の中枢) 各地の分教所 課程の一部を担う 天竜分教所(伝) 竜洋・飛平松一帯 各地の分教所 飛行場を伴う 橙の破線は、本校との具体的な結びつきが本稿では未確認であることを示す。
図2 本校と分教所の制度的関係。分教所は本校の教育機能を分散させた出先とされる。天竜分教所(伝)と本校を直接結ぶ一次史料は本稿では未確認であり、その関係は破線で示した。

3. 確認できる要素・推定・未確認の腑分け

ここで、素材となった資料が伝える情報を、確度の層ごとに腑分けする。本稿が素材として参照したのは、地域の記録を集めた一般向けの読み物と、そこに列挙された手がかりの語である。そこには、施設の名称のほか、飛平松・袖浦公園という場所、昭和14年(1939年)や昭和20年(1945年)といった年、さらに滑走路の延長や本数、建物の棟数を思わせる数値が並んでいた5。だが、これらを一括して事実として受け取ることはできない。素材そのものが、出典を明示しない手がかりの列挙であって、一次史料による裏づけを備えた記述ではないからである。

まず確認できる要素として扱えるのは、この施設が地域で語り継がれてきたという事実そのものと、跡地とされる場所が飛平松・袖浦公園の一帯に比定されて語られてきたという事実である。ここで確認できるのは「そう伝えられてきた」という伝承の存在であって、伝承の内容が史実であることではない。跡地の現況、すなわち現在その一帯がどのような土地利用のもとにあるかは、現地で観察すれば確かめられる範囲にある。これらは、資料と現況の双方によって一定程度支えられる。

次に推定の層に置くべきものがある。竜洋の地形が飛行の訓練に適した平坦地を含むこと、そして明野の分教所が飛行場を伴ったであろうことは、地理と制度の一般論から一定の蓋然性をもって導かれる。しかしこれは、あくまで「そうであった可能性が高い」という水準にとどまり、個別の施設の具体的な姿を確定するものではない。

そして未確認の層である。開設が昭和14年であったのか、滑走路が具体的にどれほどの規模であったのか、どのような課程の訓練が行われたのか――これらを直接に裏づける一次史料に、筆者は現時点で到達していない。素材資料に現れる数値は、その来歴が示されておらず、他の記録との照合を経ていない。したがって本稿は、これらを確定した事実としてではなく、今後の照合を待つ未確認の情報として保留する。数値をそのまま本文へ書き写して確からしさを装うことは、慎むべき態度である。

以下の表は、この腑分けを一覧にしたものである。各行の情報量をそろえ、どの要素がどの層に属するのかを可視化することで、跡地をめぐる語りのうち、どこまでが支えをもち、どこからが宙に浮いているのかを、読者が自ら見分けられるようにすることを意図している。

表1 天竜分教所跡をめぐる情報の腑分け ── 確認できる要素・推定・未確認/記載なし
項目確度の層内容本稿での扱い
施設が語り継がれてきたこと確認できる要素明野陸軍飛行学校の分教所とされる施設が竜洋の地に伝えられてきた。伝承の存在は確認できる。内容の史実性とは区別する。
跡地の場所確認できる要素(比定)飛平松一帯・袖浦公園の周辺に比定されて語られる。比定地としての伝えは確認できるが、範囲の確定は現地調査を要する。
跡地の現況確認できる要素現在の一帯の土地利用。現地観察で確かめられる範囲として扱う。
飛行訓練に適した地形推定天竜川下流の平坦地が訓練場となりうる。地理・制度の一般論からの蓋然的推定にとどめる。
開設年代(昭和14年など)未確認素材資料に年が挙がるが出典不明。一次史料に未到達。確定情報として用いない。
規模(滑走路・棟数の数値)未確認延長・本数・棟数の数値が列挙される。来歴不明のため保留。書き写して事実化しない。
訓練内容の詳細未確認/一部記載なし具体的な課程を示す記述は乏しい。資料に記述がない部分は「記載なし」と明記する。

この表から読み取れるのは、跡地をめぐる語りの多くが、確認できる要素の薄い層のうえに載っているという現状である。確認できるのは施設が語られてきたことと場所の比定、そして現況にとどまり、年代・規模・訓練内容といった、施設の実像を形づくる核心の部分は、いずれも未確認か記載なしの層に属する。この分布そのものが、跡地という対象の資料的な脆さを示している。腑分けの作業は、その脆さを覆い隠すためではなく、脆さの所在を正確に指し示すために行う。

実像を構成する要素の確度分布 確認できる 伝承の存在 場所の比定 跡地の現況 推定 地形の適性 飛行場の随伴 未確認/記載なし 開設年代 規模の数値 訓練内容 施設の核心(年代・規模・訓練)は右端の層に偏る。跡地の資料的な脆さの所在を示す。
図3 実像を構成する要素の確度分布。施設の名称や場所は確認・推定の層にあるが、年代・規模・訓練内容といった核心は未確認・記載なしの層に偏る。跡地の脆さの所在を可視化したもの。

4. 戦争遺跡をどう読むか ── 戦跡考古学の方法

資料が乏しい跡地をなお読み解こうとするとき、手がかりを与えるのが、近年発展してきた戦跡考古学の方法である。戦跡考古学とは、近現代の戦争に関わる遺構や遺物を、文献史料と並ぶ史料として扱い、地表や地中に残る物的痕跡から過去を復元しようとする研究の営みを指す3。文字記録が失われやすい軍事施設の跡において、物的痕跡は、文献の空白を補いうる独立の証言となる。

この方法が跡地の読みに与える示唆は、いくつかの層にわたる。第一に、遺構それ自体を史料として尊重する態度である。コンクリートの基礎、掩体壕らしき窪み、境界を示す標石といった痕跡は、それぞれが築造の技術や目的を語る物証でありうる。第二に、痕跡の年代や用途を、痕跡単独ではなく、地形図・空中写真・地籍・聞き取りといった複数の資料を突き合わせて絞り込む手続きである。とりわけ戦中戦後の空中写真は、消失した施設の配置を面的に捉えるうえで有力な手がかりとなることが多い。

第三に、そして本稿の関心にとって最も重要なのは、戦跡考古学が痕跡の沈黙に対して禁欲的であろうとする点である。地表の窪み一つを見て、それを直ちに特定の施設の一部と決めつけることは、この方法がむしろ戒めるところである。窪みが人為か自然か、戦中のものか戦後の改変か――こうした問いを一つずつ潰していかなければ、痕跡は証言にならない。物が残っているという事実は、その物が何であるかを自動的には教えない。この慎重さは、文献を扱う史料批判の作法と通じている。

竜洋の天竜分教所跡に、この方法を本格的に適用した調査の記録に、筆者は到達していない。したがって本稿は、戦跡考古学の一般的な方法を、この跡地を今後どう読むべきかの指針として提示するにとどまる。それでも、この方法の観点を導入することには意味がある。すなわち、跡地に何らかの痕跡が残っているとしても、それを施設の存在の証拠として扱うためには、地形との照合、空中写真の判読、聞き取りの収集といった手続きを経る必要があるという、調査の順序が明らかになるからである。跡地の読みは、痕跡の発見で完結するのではなく、そこから始まる。

この観点は、戦争の記憶を扱う際の倫理とも結びつく。跡地を過度に劇的に語ることも、逆に単なる荒れ地として見過ごすことも、いずれも痕跡への向き合い方としては不十分である。物的痕跡を、確度を吟味しながら丁寧に読むという地味な作業こそが、戦争が土地に刻んだものを、誇張も忘却もせずに受け止める方途となる。戦跡考古学の禁欲は、そのまま記憶の扱いにおける節度でもある。

ここで、この方法が跡地に対して立てる問いの順序を、竜洋の場合に即して具体化しておきたい。まず問われるのは、地表に何らかの人為的な痕跡が現に残っているか否かである。次に、その痕跡が戦中のものか、戦後の農地整備や河川改修に伴うものかという年代の切り分けである。さらに、痕跡の配置が飛行場や教育施設として整合するかという、機能の吟味が続く。これらの問いは、いずれも痕跡を眺めるだけでは答えられず、旧版地形図や連合軍が撮影した戦後の空中写真、地籍の変遷、そして土地を知る人々の証言を、一枚ずつ重ね合わせて初めて像を結ぶ。跡地を読むとは、この重ね合わせの作業そのものであり、一枚の痕跡から結論へと飛ぶことではない。

痕跡を証言へ ── 跡地を読む手順 痕跡の発見基礎・窪み・標石 地形と照合人為か自然か 空中写真判読配置を面で見る 聞き取り収集記憶の記録 証言化確度を付す 痕跡は発見で完結せず、複数資料との照合を経てはじめて確度をもつ証言となる。
図4 痕跡を証言へと変える手順。戦跡考古学は、痕跡の発見を出発点とし、地形照合・空中写真判読・聞き取りを重ねて確度を付す。痕跡単独では年代も用途も決まらない。

5. 「未確認」と「記載なし」を区別する

本稿が中心論点に据えるのは、跡地を読むにあたって「未確認」と「記載なし」を峻別することである。両者はしばしば混同されるが、意味するところは根本的に異なる。未確認とは、管見の限り一次史料に突き当たっていない状態、すなわち探索がまだ及んでいないことを指す。記載なしとは、参照した特定の資料に該当する記述が存在しないという、資料の状態についての事実を指す4。前者は筆者の探索の限界についての言明であり、後者は資料の内容についての言明である。

この区別を怠ると、二つの逆向きの誤りが生じる。第一の誤りは、未確認を記載なしへとすべり落とすことである。「開設年代を裏づける史料が見つからない」という探索の状態を、「開設年代を記した史料は存在しない」という資料の状態へと読み替えてしまえば、まだ探していないだけの空白が、あたかも探索し尽くした後の不在であるかのように語られる。これは、地方文書や関係者の記録がなお発掘されうる可能性を、不当に閉ざしてしまう。

第二の誤りは、逆に記載なしを埋めるために、確認できない情報を持ち込むことである。ある資料に訓練内容の記述がないという事実に直面したとき、その空白を、他所の分教所の一般像や、来歴不明の数値によって埋めてしまえば、記載なしの箇所が、いつのまにか具体的な像で満たされてしまう。空白を空白のまま示すことは、記述の不備ではなく、むしろ資料への忠実さの表れである。

天竜分教所跡について具体的に述べれば、開設年代・規模・訓練内容は、いずれも未確認の層にある。これは「そのような事実がなかった」ことを意味しない。一次史料になお到達していないという、探索の現段階を述べたものである。一方、素材とした一般向け資料の本文に、訓練課程の具体的な記述が見当たらないという点は、その資料についての記載なしとして扱える。両者を書き分けることで、今後どこを探索すべきか――未確認を確認へ変えるための次の一手――が明確になる。未確認は探索の課題を、記載なしは資料の限界を、それぞれ指し示すからである。

この区別は、単なる用語の厳密さの問題にとどまらない。それは、跡地の沈黙をどう受け止めるかという態度の問題である。沈黙を安易に「無かった」と読めば忘却に加担し、沈黙を勝手な像で埋めれば捏造に近づく。未確認と記載なしを分けて記すことは、沈黙を沈黙のまま、しかし探索の余地を開いたまま、後世へ手渡すための作法である。戦時の記憶を体験記から読み解いた別稿でも、記録の空白と証言の到達範囲を分けて扱うことの重要性に触れたが、物言わぬ跡地においては、この分別がいっそう問われる。

「未確認」と「記載なし」の弁別 未確認 一次史料に未到達 =探索の限界の言明 記載なし 資料に該当記述が無い =資料の内容の言明 次の一手:史料の博捜 地方文書・空中写真・聞き取り 次の一手:空白の明示 埋めずに限界として記す
図5 「未確認」と「記載なし」の弁別。前者は探索の限界を、後者は資料の内容を述べる。両者はそれぞれ別の次の作業――史料の博捜と、空白の明示――を指し示す。混同すれば忘却か捏造へ傾く。

6. 背景としての地理 ── 天竜川下流と飛行場適地

跡地の実像を確定できないなかで、なお一定の推定を支えるのが、地理的背景である。竜洋地区は、天竜川の最下流部、川が遠州灘へ注ぐ河口に近い低地に位置する。天竜川がくり返し運んだ土砂と、海岸に発達した砂丘とが、この一帯に広い平坦地を用意した。掛塚湊が近世に栄えたのも、この河口の地の利によるものであった。掛塚湊をめぐる産業の記憶が示すように、竜洋は川と海の結節点として、独自の履歴を積み重ねてきた土地である。

この平坦な地形は、飛行の訓練という用途にとって、一定の適性をもつ。飛行機の離着陸には、障害物の少ない平地と見通しのきく空間が求められる。天竜川下流の河原や砂丘後背の低地は、そうした条件を部分的に満たしていたと考えられる。分教所が飛行場を伴ったとすれば、この地形的条件が選地の一因となった可能性は、推定として述べてよい。ただし、これはあくまで地形からの推論であって、実際にどの範囲が訓練に用いられたかを示す資料ではない。

地理はまた、跡地の現況を理解する助けにもなる。天竜川下流の低地は、戦後、農地の整備や河川の改修、宅地化を経て、地表の様相を大きく変えてきた。かつての飛行場や施設の痕跡が残りにくい一因は、この土地利用の変化にある。平坦であるがゆえに転用が容易で、平坦であるがゆえに痕跡が消えやすい。飛行場に適した地形は、同時に、その記憶が地表から失われやすい地形でもあった。この二重性が、跡地を読む作業をいっそう難しくしている。

もう一点、地域の社会的な背景にも触れておきたい。戦時下の竜洋には、農漁を営む人々の暮らしがあり、軍事施設の設置は、その暮らしのただなかに持ち込まれた出来事であった。土地の提供、労働の動員、日常への軍の存在の浸透――こうした地域社会と軍との関わりは、施設の物理的な規模とは別に、土地の記憶に深く刻まれる。竜洋の学校史が地域の近代を映す鏡であったのと同じように、軍事施設の跡もまた、この土地が経験した戦争を映す一つの窓である。ただし、その関わりの具体相を伝える一次史料に、筆者はなお到達していない。地理は施設の適地としての条件を推定させるが、そこで人々が何を経験したかは、聞き取りを含む今後の調査に委ねられる。

天竜川下流の地形と飛行場適地(模式) 天竜川 平坦な低地・砂丘後背地 飛行の訓練に一定の適性(推定) 遠州灘・海岸砂丘 戦後の土地改変 痕跡が消えやすい
図6 天竜川下流の地形と飛行場適地。川と海がつくった平坦地は訓練に一定の適性をもつ一方、戦後の土地改変で痕跡が消えやすい。適地であることと痕跡が残ることは両立しにくい。

7. 結論 ── 沈黙する跡地から言えること

本稿は、竜洋に伝わる明野陸軍飛行学校天竜分教所跡を、戦争遺跡として読み直し、物言わぬ跡地から何が言え、何が言えないかを腑分けしてきた。得られた見取り図は次のとおりである。確認できるのは、この施設が地域で語り継がれてきたという事実と、跡地が飛平松・袖浦公園の一帯に比定されて語られてきたこと、そして現況である。地形の適性と飛行場の随伴は、地理と制度の一般論から導かれる推定にとどまる。そして施設の核心をなす開設年代・規模・訓練内容は、いずれも未確認の層にあり、一部は素材資料における記載なしとして扱うほかない。

この分布が示すのは、跡地を一枚の完成した絵として語ることの困難である。だが、困難であることは、語れないことを意味しない。言えるのは、確度の層を明示したうえでの、次のような言明である。すなわち、竜洋の地に軍事施設が存在したという記憶が地域に伝えられてきたこと、その地が飛行の訓練に適した地形的条件を備えていたこと、そしてその施設の具体的な姿については、なお一次史料による確認を要する多くの空白が残されていること――ここまでは、根拠を層ごとに区別しながら述べることができる。

言えないのは、それ以上のことである。開設が何年であったか、施設がどれほどの規模であったか、そこでどのような訓練が行われ、地域の人々がどう関わったか。これらを確定的に語る資料に、本稿は到達していない。ここで重要なのは、この「言えない」を、二通りに書き分けたことである。未確認とは、探索がまだ及んでいないという、探索の側の限界である。記載なしとは、参照した資料にその記述が無いという、資料の側の事実である。この二つを分けて記すことによって、跡地の沈黙は、忘却へも捏造へも傾かずに、次の探索へと開かれた空白として保存される。

戦争が土地に刻んだものは、勇壮な物語としても、単なる荒れ地としても、正しく受け止めることはできない。跡地は、確度を吟味しながら、地味に、禁欲的に読むほかない対象である。誇張は跡地を伝説へと変質させ、忘却は跡地を無へと帰す。そのいずれの過ちも避けるために、本稿は確認・推定・未確認・記載なしという四つの層を一貫して用い、層をまたぐ断定を退けてきた。この手続きは、跡地を華々しく語ることには向かない。しかし、跡地を後世の調べものに耐える形で残すには、この禁欲こそが必要であると考える。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、開設年代・規模・訓練内容の未確認を確認へ変えるには、戦中戦後の空中写真の判読、旧軍関係文書や地方行政文書の博捜、そして体験者・伝承者からの聞き取りが求められる。第二に、跡地の痕跡そのものについては、戦跡考古学の手続きに沿った現地調査が、地表の物証を証言へと変える鍵となる。第三に、飛行場と分教所という二つの記憶の関係、および地域社会と軍との関わりの具体相は、いずれも別稿で検討すべき主題である。これらの空白を、確度の層を保ったまま一つずつ埋めていくこと――未確認を確認へ、推定を通説へと押し上げていく地道な作業の先にこそ、この土地が経験した戦争の輪郭が、少しずつ像を結んでいくはずである。稿を改めて、続編で論じたい。

本稿が扱った竜洋をはじめ、天竜川下流の地には、戦争の時代をくぐり抜けてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。土地に刻まれたものを書き留めることと、その土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 明野陸軍飛行学校は三重県明野(現・伊勢市域)に置かれた陸軍の航空教育機関で、戦闘機操縦者の養成に関わったとされる。本校の一般的な性格については通説として述べうるが、竜洋の分教所と本校を直接結ぶ一次史料には本稿の調査範囲で到達していない。
  2. 分教所(分校)は本校の教育機能を地理的に分散させた出先の施設で、独立した学校ではなく本校の指揮下でその課程の一部を担ったと理解される。戦争の拡大に伴う搭乗員養成の需要増が、各地への分教所設置の背景にあったとされる。
  3. 戦跡考古学は、近現代の戦争に関わる遺構・遺物を文献と並ぶ史料として扱い、物的痕跡から過去を復元しようとする研究分野を指す。文字記録が失われやすい軍事施設の跡において、物証は文献の空白を補う独立の証言となりうる。
  4. 本稿でいう「未確認」は、管見の限り一次史料に突き当たっていない状態(探索の限界)を指し、「記載なし」は、参照した特定の資料に該当記述が存在しないこと(資料の内容)を指す。両者は言明の対象を異にする。
  5. 素材とした一般向けの読み物版(磐田物語 r063)には、施設名のほか飛平松・袖浦公園という場所、昭和14年・昭和20年などの年、および滑走路や建物を思わせる数値が手がかりとして列挙されるが、いずれも出典が明示されておらず、本稿はこれらを未確認の情報として保留する。

付記:本稿は一般読者向け記事 r063 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(確認できる要素・推定・未確認・記載なし)を語の水準で区別し、施設が語り継がれてきたことと跡地の比定・現況を確認できる要素、地形の適性を推定、開設年代・規模・訓練内容を未確認ないし記載なしとして扱った。戦争の記憶を扱う主題であることに鑑み、断定と誇張を避けて記述した。

参考文献・参考資料

  • 菊池実『近代日本の戦争遺跡研究 ── 地下軍需工場・登戸研究所・飛行場』雄山閣、2015年。
  • 十菱駿武・菊池実 編『しらべる戦争遺跡の事典』柏書房、2002年。
  • 戦争遺跡保存全国ネットワーク 編『日本の戦争遺跡』平凡社、2004年。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸軍航空の軍備と運用』朝雲新聞社、該当巻。
  • 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年(陸軍飛行学校・航空教育の項)。
  • 伊勢市『伊勢市史』近代編(明野陸軍飛行学校に関する記述の該当章)。
  • 静岡県『静岡県史』通史編・近現代(戦時下の軍事施設に関する該当章)。
  • 竜洋町『竜洋町史』通史編(磐田市、旧竜洋町域の近現代に関する該当章)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」(戦中戦後の空中写真) https://mapps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」(近代遺跡・史跡の項) https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 r063「明野陸軍飛行学校天竜分教所跡を地域の記憶として読む」 https://iwata-monogatari.net/r063.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「福田の祭りと戦時記憶 ── 伊東金平の体験記を史料として読む」大石浩之の磐田論考 第213号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/213/ (最終閲覧:2026年7月26日)。