失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 明治の廃寺 ── 上知令と遠江国分寺の断絶

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第137号(遠江国分寺研究)

明治の廃寺 ── 上知令と遠江国分寺の断絶

近代の政策が古代寺院に与えた終止符

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉

要旨

天平の詔によって置かれ、中泉の地に千年余り法灯を伝えてきた遠江国分寺は、近代の入り口にあたる明治初年、住職を失い檀家を失って制度上の「廃寺」となった。本稿は、この断絶を、制度・災害・人という三つの要因に腑分けして検討する。すなわち、安政元年(1854年)の大地震による薬師堂大破、明治4年(1871年)の社寺領上知令による寺領の喪失、明治6年(1873年)の最後の住職・鈴木浄儀の死である。これらは廃仏毀釈のような思想的排斥とは性格を異にし、近代国家の土地・財政政策が寺院に及ぼした構造的な作用として理解すべきものである。あわせて、廃寺後の『風俗画報』の記録と明治11年(1878年)の存置許可、大正・昭和の史跡指定までをたどり、史実・推定・伝承の層を区別する。制度としての寺が途切れた場所で、行基作と伝えられる薬師如来を境松の人々が守り続けた事実を軸に、本稿は制度の終焉と信仰の継続とを腑分けする立場をとる。

キーワード:遠江国分寺/上知令/社寺領上知/廃仏毀釈/安政東海地震/薬師堂/境松/史跡指定

1. 問題設定 ── 千年の寺はなぜ近代に途絶えたか

遠江国分寺は、天平の詔によって遠江国に置かれた古代の官寺であり、中泉の地に千年余りにわたって法灯を伝えてきた。その寺が、近代の入り口にあたる明治初年、住職を失い檀家を失い、制度上の「廃寺」として一度その歴史を途切れさせる。本稿が問うのは、これほど長い時間を生き延びた寺が、なぜ近代のわずか数十年のあいだに断絶へと追い込まれたのか、という一点である。

廃寺という語は、しばしば建物が朽ちて消えることと同一視される。しかし寺が「廃寺になる」とは、伽藍が倒れることではなく、住職・檀家・寺領という、寺を寺たらしめてきた制度的な骨格が失われることを指す。遠江国分寺の場合、その骨格を崩したのは、天災でも兵火でもなく、近代国家が新たに敷いた制度、すなわち社寺領を国庫へ収める上知令であった。この点を最初に確認しておくことが、以下の検討の出発点となる。

本稿は、一般読者向けに再構成した記事「明治の廃寺」(本シリーズの素材記事)に記された事実関係を土台としつつ、その断絶の過程を、制度・災害・人という三つの要因に腑分けして検討する。年代や被害の記述は素材に忠実に扱い、そこに近代の宗教政策史の文脈を重ねることで、一寺の廃絶を、明治初年に全国の寺院が直面した構造的な変動のなかに位置づけることを試みる。

要因を腑分けするという方法は、単に原因を列挙することではない。それぞれの要因が、寺のどの部分に、どの経路で作用したのかを分けて捉え、さらに主たる要因と背景的な要因とを区別することを指す。廃寺のように複数の力が重なって生じた出来事は、一つの原因へ還元すると像を結ばない。制度・災害・人という三つの層に分けて見ることで、はじめて断絶の構造が輪郭を得る。以下の検討は、この分離の手続きに沿って進める。

あらかじめ確度の層を区別しておきたい。上知令の発布年、大地震の年、最後の住職の没年といった事柄は、法令や史料によって確認できる史実である。一方、境内に安置された薬師如来を行基菩薩の作と伝える言い伝えや、存置許可の背後にある人々の心情は、伝承あるいは推定の層に属する。史実・通説・推定・伝承を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることが、本稿の基本姿勢である。

遠江国分寺の来歴は長い。古代に大伽藍として営まれた起点については既刊の遠江国分寺論に譲り、中世に本尊が釈迦から薬師へと移り、寺の実体が薬師堂へと重心を移していった経緯もまた別稿で論じた。本稿が扱うのは、その千年の歴史のいわば末端、近世から近代への移行期に訪れた断絶である。以下、まず上知令という制度の枠組みを押さえ、廃仏毀釈・大地震・住職の死という要因を順に検討し、廃寺後の記録と存置の経緯を経て、制度の終焉と信仰の継続という主題へ至る。

廃寺 明治6年 上知令 制度・経済 大地震 災害・物理 住職の死 人・担い手 三つの要因が重なった遠江国分寺の断絶 廃仏毀釈は背景として作用したが、直接の道筋は制度・災害・人の三重の欠落にあった。
図1 廃寺に至る複合要因。制度(上知令)・災害(大地震)・人(住職の死)の三つが時期をずらして重なり、千年余り続いた寺の実体を途切れさせた。

2. 上知令という制度 ── 社寺領上知の枠組み

遠江国分寺を廃寺へ導いた最大の要因は、明治4年(1871年)に明治政府が発した上知令である1。これは寺社が保有してきた境内地・寺領を、原則として国のものとする措置であった。さらに明治8年(1875年)にも同様の措置が重ねられ、寺院の経済的基盤は制度的に解体されていく。中泉の町の一角に千年余り伽藍を保ってきた国分寺も、この全国的な政策の例外ではありえなかった。

上知令の背景には、近代国家の財政と土地制度の再編がある。江戸時代の寺院は、幕藩体制のもとで寺領や朱印地を与えられ、その収益によって伽藍と僧を維持してきた。ところが明治政府は、旧来の土地の権利を整理して近代的な地租の体系へ組み替える過程で、寺社が握っていた土地を国庫へ収めた。寺院にとってこれは、単なる一区画の没収ではなく、寺を支えてきた経済の仕組みそのものの喪失を意味した。

上知令は国分寺一寺の問題ではなく、近世に寺領を有した全国の寺院がひとしく直面した変動であった。中世以来の荘園的な寺領も、近世に幕府や大名から与えられた朱印地・除地も、近代の地租改正へ向かう土地制度の一元化のなかで、その多くが整理の対象となった。長い歴史をもつ寺ほど、その基盤を旧来の土地の権利に負っており、制度の転換によって受ける打撃も大きい。千年の由緒をもつ遠江国分寺が深刻な影響を被ったのは、その古さゆえでもあった。

没収の範囲は厳しかった。素材の記録によれば、境内として存置が許されたのはわずか2畝ほどにとどまり、それ以外の伽藍地は民間へ払い下げられて畑となった2。かつて本堂や諸堂が建ち並んでいたはずの土地に鍬が入り、作物が植えられていく。寺の輪郭は、こうして地面の上から少しずつ削り取られていった。畝という単位で語られる境内の狭さは、往時の大伽藍とのあいだの落差をそのまま物語る。

存置された2畝という広さが何を意味するかは、往時の伽藍配置を思い起こせば明らかである。古代の国分寺は、金堂・講堂・塔をはじめとする諸堂が広大な寺域に営まれた大寺であった。中世・近世を通じて規模を縮めてきたとはいえ、近世まで一定の境内を保っていた寺が、わずか2畝の一画に押し込められたのである。境内の狭小化は、寺の社会的な位置の縮小を、面積という目に見える形で示していた。

ここで一つ、確度の区別を補っておきたい。上知令が寺領を国庫へ収める制度であったこと、そしてそれが全国の寺社に及んだことは、法令として確認できる史実である。一方、国分寺の境内が具体的にどの範囲まで削られ、どの土地がいつ誰へ払い下げられたのかという細部は、地域に伝わる記録に依拠する部分が大きい。制度の枠組みは史実として、個別の適用の細部はそれを伝える資料の性格に応じて、それぞれ異なる確度で扱う必要がある。

上知令が国分寺に与えた打撃の本質は、収入源の断絶にある。寺領を失えば、伽藍を修繕する費用も、僧を養う糧も断たれる。とりわけ後述するように、国分寺はこの時期すでに大地震で薬師堂を大破しており、修繕を要する状態にあった。修繕の必要と、修繕を担う財源の喪失とが同時に訪れたとき、寺は物理的な再建の道を自力で断たれることになる。上知令は、目に見える伽藍を壊したのではなく、伽藍を建て直す力を奪ったのである。

寺領の喪失がもたらしたのは、目前の困窮だけではない。将来にわたって寺を維持し、次の住職を養い、堂を繕っていくための持続的な基盤が失われた点にこそ、この制度の重みがある。単年度の収入が途絶えたのではなく、寺を寺として存続させる仕組みが根元から断たれたのである。近世を通じて縮小しつつも保たれてきた寺の存立条件は、この一事をもって決定的に崩れた。

寺領・伽藍地 近世の経済基盤 (朱印地・境内) 存置 2畝 境内のみ許可 払い下げ 畑へ転換 財源の断絶 修繕・維持不能 社寺領上知の帰結 ── 境内の縮小と財源の喪失
図2 上知令の仕組み。寺領のうち存置されたのは境内2畝ほどにとどまり、大半は畑へ払い下げられた。伽藍の破壊ではなく、再建の財源を奪った点にこの制度の作用がある。

3. 廃仏毀釈と神仏分離 ── 遠江の寺々が受けた圧

上知令と並行して、全国では廃仏毀釈の動きが広がっていた。慶応4年(1868年)以降に政府が進めた神仏分離の政策を機に、仏教を排斥する風潮が各地で高まり、寺そのものを畳んで神社へ転じる例も見られた。旧豊田郡の秋葉寺が神社化した事例は、遠江におけるその代表的なものとしてしばしば語られる。国分寺が置かれた中泉の周辺も、こうした時代の空気と無縁ではなかった。

神仏分離は、本来、神社と寺院、神と仏を制度的に切り分ける政策であって、仏教の廃絶それ自体を命じたものではない。しかし、長く神仏習合のもとで一体に営まれてきた信仰の場では、分離の要求がしばしば仏堂・仏像の排除へと転じた。神社に付属していた神宮寺や別当寺が廃されたり、神社へ姿を変えたりした例は各地に見える。旧豊田郡の秋葉寺が神社化した事例も、こうした神仏分離の圧が具体的な形をとったものの一つとして語られる。

ただし、廃仏毀釈と上知令は、しばしば一括りに「明治の廃仏」として語られるものの、その性格は異なる。廃仏毀釈が仏教そのものへの思想的・宗教的な排斥運動であったのに対し、上知令は土地制度と財政の再編を目的とする経済的な措置であった。両者は時期を同じくして寺院を圧迫したが、寺を追い込んだ回路は別である。この区別を曖昧にすると、廃寺の原因を思想の問題へ一元化し、制度と経済の要因を見落とすことになりかねない。

国分寺の断絶について言えば、廃仏毀釈そのものが直接の引き金になったと見るのは適切でない。素材の記録も、国分寺の場合は廃仏毀釈よりも、上知令による経済的な締め付けと、寺を支える人の不在という二つの事情が重なったことが、廃寺への直接の道筋になったと見てよいとする。神仏分離の嵐が吹くなかで、国分寺を倒したのは思想的な排斥というより、財源と担い手を同時に失ったという現実的な条件であった。この点は本稿の見立ての要をなす。

もっとも、廃仏毀釈の風潮を背景として軽視することもできない。仏教への逆風が社会全体を覆っていた時代には、廃絶へ向かう寺を積極的に支え直そうとする力が働きにくい。上知令が財源を奪い、住職の死が担い手を奪ったとき、それを押しとどめる社会的な余力が乏しかったことの背景に、廃仏毀釈の空気があったことは否めない。要因を腑分けするとは、主因と背景を切り分けたうえで、双方をそれぞれの位置に置くことである。廃仏毀釈は、国分寺にとって直接の主因ではなく、主因が作用しやすい土壌を用意した背景として位置づけられる。

要因の腑分けは、廃仏毀釈を過小に評価するためのものではない。全国では、この時期に貴重な仏像・経典・堂宇が失われた例が数多く伝えられており、その損失は取り返しのつかないものであった。ただ、個々の寺がたどった経緯は一様ではなく、思想的排斥が前面に出た寺もあれば、経済的な締め付けが決定打となった寺もある。国分寺は後者に近く、だからこそ薬師如来が破却を免れて残りえたとも考えられる。

4. 安政の大地震 ── 廃寺前夜の物理的打撃

廃寺への道筋を考えるうえで見落とせないのが、明治に先立つ災害である。上知令に先立つこと十数年、安政元年(1854年)の大地震によって、国分寺の薬師堂はすでに大きな被害を受けていた。『東海地方地震津波史料』には「大破国分寺、閻魔堂薬師堂潰」という記述が残る3。閻魔堂と薬師堂が潰れたという簡潔な一文だが、当時の被害の大きさを伝えるには十分である。

安政元年の地震は、東海道沿いの広い範囲に甚大な被害をもたらした地震として知られる。遠江もその激震域に含まれ、中泉の国分寺もまた例外ではなかった。「潰」という一字は、建物が単に傷んだのではなく、倒壊に近い状態へ至ったことを示す。古代以来の由緒を誇る薬師堂が、近世の末にこうして物理的な打撃を受けていた事実は、その後の廃寺を考えるうえで重い意味をもつ。

安政元年(1854年)には、東海道沿いを襲った地震に続いて、翌日には南海道沿いにも大地震が起こったことが知られる。遠江を含む東海地域が受けた揺れは、この一連の地震活動の一環であった。史料に残る「潰」の一字は、こうした広域の激震のなかで、国分寺の堂もまた倒壊を免れなかったことを伝えている。個々の被害の記録は簡潔でも、それが広い範囲の災害の一部であったことを踏まえると、当時の打撃の深さがうかがえる。

この地震被害と上知令とは、時期をずらして国分寺を二重に痛めつけた。まず安政元年(1854年)の地震が薬師堂を大破させ、修繕を要する状態に追い込む。その傷を抱えたまま、寺は明治4年(1871年)の上知令を迎え、修繕のための財源を失う。物理的な打撃が先に寺の建物を損ない、経済的な打撃が後からその再建の道を塞ぐ。この時間差こそが、国分寺の再起を難しくした構造であった。単独ならば乗り越えられたかもしれない打撃も、順に重なることで回復の余地を奪っていく。

物理と経済という異なる種類の打撃が、時間差をもって同じ寺に加わったこと自体が、国分寺の廃絶を特徴づけている。もし地震の被害だけであれば、地域の力で修繕される道もありえた。もし上知令だけであれば、堂が健全なうちは細々とでも維持されえたかもしれない。両者が前後して重なったことで、修繕すべき堂と、修繕を支える財との双方が、同時に手の届かないところへ去ったのである。

災害の史料批判にも一言しておきたい。『東海地方地震津波史料』は、各地の地震・津波の記録を集成した史料集であり、「大破国分寺、閻魔堂薬師堂潰」という記述もそうした集成の一項として伝わる。この一文は被害の事実を簡潔に伝えるが、堂がその後どの程度まで応急に繕われたのか、あるいは倒れたまま放置されたのかまでは語らない。地震から上知令までの十数年、薬師堂がどのような状態にあったかは、現時点で史料の空白として残る。ここは「記載がない」のではなく、成立の経緯を裏づける記録に本稿が突き当たっていない未確認の領域として扱っておく。

1854安政地震薬師堂大破 1871上知令 1873浄儀没・廃寺 1878存置許可 1892風俗画報 1923史跡指定 1952特別史跡 ■ 断絶へ(災害・制度・人) ■ 継続・再評価へ 断絶と継続の年表 ── 安政地震から特別史跡指定まで
図3 沿革年表。橙・青・赤は断絶へ向かう災害・制度・人の要因、緑・青は廃寺後の継続と再評価を示す。廃寺(1873年)と史跡指定(1923年)のあいだに、仏像を守り続けた半世紀が横たわる。

5. 最後の住職・鈴木浄儀 ── 支える人の不在

制度と災害に加えて、廃寺を決定づけたのは人の要因、すなわち寺を担う者の不在であった。明治5年(1872年)、国分寺には鈴木浄儀という住職がいた。だが翌明治6年(1873年)、浄儀は71歳で世を去る4。跡を継ぐ者は現れなかった。住職がいなくなり、檀家もいない。上知令によって寺領を失ったうえに、寺を運営する主体そのものが消えてしまえば、寺は制度上「廃寺」として扱われるほかない。国分寺は、こうして無住職・無檀家のまま廃寺となった。

寺の実体は、しばしば三つの要素によって支えられる。伽藍という物理的な場、寺領という経済的な基盤、そして住職と檀家という人的な担い手である。国分寺は、この三要素をほぼ同時に失った。地震が伽藍を損ない、上知令が寺領を奪い、住職の死が担い手を絶つ。どれか一つが欠けても寺は苦境に立つが、三つが重なれば、寺が寺として存立する条件そのものが失われる。廃寺とは、この三重の欠落が制度の上に登録された状態にほかならない。

檀家をもたないという国分寺の性格は、廃寺の理解にとって見過ごせない。多くの近世寺院は、檀家の負担によって日常の維持を図り、住職の生活も檀家との関係のうえに成り立っていた。国分寺が檀家を欠いていたとすれば、上知令による寺領喪失を補う手立ては、はじめから乏しかったことになる。寺領と檀家という二つの支えのいずれをも欠いた寺が、住職の死を境に立ち行かなくなったのは、いわば条件の帰結であった。

住職・鈴木浄儀の個人史については、素材の記録も多くを語らない。判明するのは、明治5年(1872年)の時点で在職しており、翌年71歳で没したという事実である。歴代の住職がどのように寺を継いできたかは、境内に残る墓塔の系譜からある程度うかがうことができ、その詳細な検討は別の機会に譲る。浄儀が最後の住職となったのは、彼個人の資質の問題ではなく、跡を継ぐべき者を養う経済的基盤が上知令によってすでに失われていたからだと見るのが穏当である。

「跡を継ぐ者が現れなかった」という事態を、単なる後継者難として読むべきではない。寺領を失った寺は、新たな住職を迎えても、その生活を支えることができない。檀家という信徒の組織を欠いた寺は、葬祭や供養を通じて維持される日常的な結びつきをもたない。浄儀の死が後継を生まなかったのは、寺を継ぐことがすでに生計として成り立たなくなっていたからであり、その条件を作ったのが上知令であった。人の不在は、それ自体が独立した要因であると同時に、制度の帰結でもある。

ここで「廃寺」という語の制度的な意味を確かめておきたい。寺が廃寺になるとは、建物が古びて朽ちるという話ではない。住職を失い、檀家を失い、行政上の位置づけを失うということである。国分寺という名は残っても、寺としての実体は、この時点でいったん途切れたと見るべきだろう。千年余りにわたって伝えられてきた法灯は、明治6年(1873年)という一点で、制度の上ではひとまず消えたのである。以下の表に、これまで検討した三要因の性格を整理しておく。

表1 遠江国分寺を廃寺へ導いた三要因の腑分け ── 性格・時期・作用・確度
要因性格時期国分寺への作用確度と留意点
安政の大地震災害・物理安政元年(1854年)薬師堂・閻魔堂が大破。修繕を要する状態に追い込む。史実(『東海地方地震津波史料』)。地震後の堂の状態は未確認。
社寺領上知令制度・経済明治4年(1871年)・明治8年(1875年)寺領を国庫へ収め、境内2畝を残し畑へ払い下げ。財源を断つ。制度は史実。個別適用の細部は地域の記録に依拠。
住職・鈴木浄儀の死人・担い手明治6年(1873年)後継者なく無住職・無檀家となり、制度上の廃寺が確定。史実。ただし後継不在の原因は上知令の帰結とみる推定を含む。
廃仏毀釈思想・背景慶応4年(1868年)以降仏教への逆風。再建を支える力が働きにくい社会状況を用意。背景要因。国分寺廃絶の直接の主因とはしない。
伽藍 地震で大破 寺領 上知令で喪失 担い手 住職の死で断絶 寺の実体を支える三要素と、その同時の欠落 伽藍・寺領・担い手のいずれもが失われたとき、寺は制度上の「廃寺」となる。
図4 寺の実体を構成する三要素。国分寺は伽藍・寺領・担い手をほぼ同時に失った。廃寺とは、この三重の欠落が制度上に確定した状態を指す。

6. 廃寺後の記録と存置 ── 史料批判の観点から

廃寺は、しかし忘却と同義ではなかった。廃寺から二十年ほど経った明治25年(1892年)、成瀬眞三は『風俗画報』第245号に、国分寺の当時の様子を書き記している5。そこには、荒れるに任せた境内の記録と同時に、この場所をどうにか再生させられないかという模索も記されていた。廃寺後の国分寺が、忘れ去られていたのではなく、当時から気にかけていた人々がいたことが、この記録からうかがえる。

『風俗画報』という媒体の性格には、史料批判の観点から注意を要する。これは明治期の絵入り風俗雑誌であり、地方の名所や風俗を都市の読者へ紹介することを目的とした媒体であった。したがって成瀬の記述は、廃寺後の国分寺を訪れた者の見聞として貴重である一方、祭祀や寺務の当事者による一次記録ではない。そこに記された「模索」も、地域の具体的な計画というより、訪問者の目に映じた再生への願望を伝えるものとして読むのが穏当である。

それでも、この記録が果たす役割は小さくない。廃寺から二十年を経てなお、国分寺跡が訪れる者の関心を引き、再生への言葉が書き留められていたという事実は、この土地が制度上の廃寺となった後も、記憶の場として生き続けていたことを示す。もっとも、記録に残る「模索」がすぐに形になったわけではない。国分寺の再生が実を結ぶのは、このさらに後、昭和になってからのことである。廃寺後の光景の記録と、再生の実現とのあいだには、なお半世紀に近い時間の隔たりがある。

廃寺から史跡指定までの半世紀は、国分寺跡にとって、制度の空白と地域の守持とが併存した時期であった。行政の帳簿の上では寺は存在せず、しかし現地では仏像が守られ、訪れる者が再生を語る。近代の記録に残るこの時期の国分寺跡は、制度と実態の隔たりを映す場であったといえる。後の史跡指定は、その隔たりを、今度は文化財保護という別の制度の言葉で埋め直す出来事でもあった。

廃寺後の展開のなかで、確度の腑分けをとくに要するのが、明治11年(1878年)に下りたとされる「存置許可」である。素材の記録は、境内に安置されていた薬師如来を境松の信徒たちが守り続けた事実が、この許可の背景にあったとする。ここで「存置許可が下りた」ことは行政上の事実として扱いうるが、その背景に信徒の守持があったという因果は、資料の伝えるところに従う推定であって、両者を同じ確度で断定することはできない。行政の判断と地域の信仰とを、証拠の水準を分けて記述しておく必要がある。

廃寺後の国分寺跡は、その後さらに公的な位置づけを得ていく。国分寺跡は大正12年(1923年)に史跡指定を受け、昭和27年(1952年)には特別史跡の指定を受けるに至る。廃寺から半世紀余りを経て、この土地が古代の遺跡として国に認められたことになる。制度としての寺が途切れた場所が、今度は遺跡として制度に組み込まれ直したのである。廃寺と史跡指定という二つの制度的な出来事のあいだに、地域の人々が薬師堂を守り続けた半世紀が横たわっている。発掘調査の詳細や考古学的な位置づけは、既刊の国分寺跡の発掘に関する記事に譲りたい。

制度の層 寺として存立 廃寺(1873) 史跡(1923〜) 信仰の層 薬師如来への信仰 存置許可(1878) 昭和の復興へ 断絶する制度、継続する信仰 ── 二つの層
図5 制度と信仰の二層。上段の制度の層は明治6年(1873年)にいったん途切れる(破線)が、下段の信仰の層は途切れることなく(実線)続き、存置許可を経て昭和の復興へつながる。

7. 背景としての地理 ── 中泉・境松と仏を守った人々

廃寺後の国分寺をつなぎとめたのは、寺の関係者ではなく、境松の人々であった。伽藍地の大半が民間へ払い下げられて畑に姿を変えるなかで、境内に安置されていた薬師如来だけは、失われることなく守り継がれた。守ったのは、国分寺の檀家ではない。境松の信徒たちである。行基菩薩の作と伝えられるこの薬師如来は、寺の制度が途切れた後も、地域の信仰の対象であり続けた。

檀家でもない者が、なぜ廃寺になった寺の仏像を守り続けたのか。史料はその心情まで詳しくは語らない。ただ、境松という地名に薬師堂が結びつき、地域の暮らしのなかに仏像への信仰が根を張っていたことは間違いない。寺という制度は途切れても、仏像を守るという行為は途切れなかった。この一点が、廃寺後の国分寺をつなぎとめた最大の理由である。制度の継続と信仰の継続とは、別の水準の事柄なのである。

この地理的背景を理解するには、中泉・境松という土地の性格を押さえておく必要がある。境松は東海道に近く、近世には街道沿いの立場として人の往来があった土地である。薬師如来への信仰は、そうした街道の暮らしのなかで庶民に根づき、寺の制度とは別に、堂と仏をまつる講のような結びつきを育んでいたと考えられる。檀家という寺の制度的な枠の外側に、地域の信仰の層が厚く存在していたことが、廃寺後も仏像が守られた土台であった。

街道沿いの立場は、旅人が休息し、人と物が行き交う場であった。そうした往来のなかで、薬師如来は病気平癒を願う庶民の信仰を集めてきたと考えられる。寺の檀家という制度的な枠とは別に、薬師をまつる講や、堂を維持する地域の寄り合いが、信仰を実際に支える組織として働いていたとみてよい。制度の外側にあったこの信仰の層が厚かったからこそ、寺が廃されても仏像を守る手は残ったのである。

この信仰の継続は、近世に築かれた基盤の上に立っている。国分寺の薬師堂は、江戸時代に中泉代官らの支援を受けて再興された経緯をもち、天領の統治のなかで地域の信仰の拠りどころとして整えられてきた。近世を通じて庶民の信仰を集めてきた薬師堂であったからこそ、明治の廃寺という制度上の断絶を越えて、仏像を守る人々の手が残ったと見ることができる。近世の再興が、近代の断絶を耐える力を準備していたのである。時間の流れは、断絶の側からだけでなく、それを支える蓄積の側からも読む必要がある。

檀家ではない人々が、廃寺になった寺の仏を守り続けたという関係のねじれは、この土地の信仰のあり方をよく表している。寺の制度が個々の家を檀家として束ねる縦の結びつきだとすれば、境松の信徒による薬師如来の守持は、地域の暮らしに根ざした横の結びつきである。上知令が縦の制度を解体したとき、横の結びつきが仏像を支えた。この二つの結びつきの重なりと落差が、国分寺の断絶と継続を分けたのである。

寺(制度) 檀家 檀家 檀家 縦の結びつき(上知令で解体) 薬師如来 地域が守持 横の結びつき(廃寺後も継続) 縦の制度と横の信仰 ── 二つの結びつき
図6 縦と横の結びつき。檀家制度という縦の結びつき(左・破線)は上知令で解体されたが、境松の信徒による薬師如来の守持という横の結びつき(右・実線)は廃寺後も途切れなかった。

8. 結論 ── 制度の終焉と信仰の継続

本稿は、遠江国分寺が明治初年に廃寺へ至った過程を、制度・災害・人という三つの要因に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。安政元年(1854年)の大地震が薬師堂を大破させて物理的な打撃を与え、明治4年(1871年)の上知令が寺領を国庫へ収めて経済的な基盤を奪い、明治6年(1873年)の住職・鈴木浄儀の死が担い手を絶った。この三つが時期をずらして重なったことが、千年余り続いた寺の実体を、いったん途切れさせたのである。

三要因のうち、廃寺への直接の道筋を作ったのは、廃仏毀釈のような思想的な排斥ではなく、上知令という経済的な制度と、それによって成り立たなくなった担い手の継承であった。この点を取り違えると、明治の廃寺を宗教弾圧の物語へ一元化し、近代国家の土地・財政政策が寺院に及ぼした構造的な作用を見落とすことになる。廃仏毀釈は背景として作用したが、国分寺を倒した主因は制度と経済にあった。要因を腑分けするとは、この主因と背景を混同しないことにほかならない。

しかし本稿の眼目は、断絶を記述することだけにあるのではない。制度としての寺が途切れたその同じ場所で、信仰は途切れなかった。境内が畑に変わり、住職が絶え、寺領が失われてもなお、行基作と伝えられる薬師如来は境松の人々の手で守り継がれ、明治11年(1878年)の存置許可を経て、やがて昭和の復興へとつながっていく。上知令が解体したのは寺という制度であって、仏像に注がれた地域の信仰そのものではなかった。制度の終焉と信仰の継続とを腑分けすることが、この廃寺を読み解く鍵である。

千年の寺が近代のわずか数十年で断絶したという事実は、一見すると古いものが新しい制度に押し流された物語に見える。だが実際にそこで起きていたのは、制度の交代と、その狭間で働いた地域の力とのせめぎ合いであった。古代の官寺として創建され、中世に薬師堂へと重心を移し、近世に代官の支援で再興され、そして近代に上知令によって断絶したこの寺の歩みは、遠江国分寺という一つの場所に、日本の宗教と土地の制度史がそのまま刻まれていることを教える。本稿が扱いえなかった課題も残る。上知令の適用をめぐる一次史料の博捜、鈴木浄儀に先立つ歴代住職の事績、そして廃寺から昭和の復興へ至る過程の実証は、いずれも別の稿を要する。断絶は終わりではなく、次の時代の復興が準備される起点でもあった。その復興の経緯については、稿を改めて論じたい。

本稿の舞台である中泉・境松には、廃寺と再興の歴史を見つめてきた古い家や土地が今も数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 社寺領上知令は、明治4年(1871年)正月の太政官布告に始まり、明治8年(1875年)にも関連する措置が続いた。寺社の境内地・寺領を原則として国庫へ収める制度であり、近代の土地・財政再編の一環をなす。
  2. 境内として存置されたのが2畝ほどにとどまり、残余が民間へ払い下げられて畑となったことは、国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達著、令和4年〔2022年〕、pp.41-43)の記述による。
  3. 『東海地方地震津波史料』所収、安政元年(1854年)の地震被害記録に「大破国分寺、閻魔堂薬師堂潰」とある。地震後の堂の応急修繕の有無は本稿では未確認とする。
  4. 最後の住職・鈴木浄儀は明治5年(1872年)に在職し、翌明治6年(1873年)に71歳で没した。跡を継ぐ者はなく、無住職・無檀家のまま廃寺となった。
  5. 成瀬眞三『風俗画報』第245号(明治25年〔1892年〕)は明治期の絵入り風俗雑誌であり、廃寺後の国分寺の様子を伝えるが、寺務当事者による一次記録ではない二次的記録である点に留意を要する。

付記:本稿は一般読者向け記事 n043「明治の廃寺 ── 上知令と国分寺の断絶」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、上知令・地震・住職の没年を史実、薬師如来を行基作とする伝えや存置許可の背景にある信徒の守持を伝承ないし推定として扱った。

参考文献・参考資料

  • 国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』小杉達著、令和4年(2022年)、pp.41-43。
  • 『東海地方地震津波史料』(安政元年〔1854年〕の地震被害記録、「大破国分寺、閻魔堂薬師堂潰」の記述)。
  • 成瀬眞三『風俗画報』第245号、東陽堂、明治25年(1892年)。
  • 太政官布告(社寺領上知令、明治4年〔1871年〕正月)。
  • 太政官布告(社寺領上知に関する追加措置、明治8年〔1875年〕)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、近世・近代の該当章)。
  • 静岡県『静岡県史』通史編(近世・近代の宗教政策の項)。
  • 磐田市教育委員会編『特別史跡 遠江国分寺跡』関係報告書。
  • 圭室文雄『神仏分離』(近代の廃仏毀釈・上知令に関する概説)。
  • 佐口行正氏所蔵史料(中泉・国分寺関係)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」特別史跡遠江国分寺跡の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 n043「明治の廃寺 ── 上知令と国分寺の断絶」 https://iwata-monogatari.net/n043 (最終閲覧:2026年7月25日)。