失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 遠江国府はどこにあったのか

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第187号(遠江国府研究 一)

遠江国府はどこにあったのか

所在地諸説を対等に読む ── 御殿・二之宮遺跡説・国分寺跡北側説・移転説の学史的検討

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.26
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉

要旨

遠江国府がいまの磐田市域に置かれたことは、国分寺・総社・府八幡宮の配置からほぼ動かない。しかしその中心たる国衙が具体的にどこに建っていたかは、いまなお確定していない。本稿は所在地をめぐる代表的な諸説──奈良時代の大規模遺構と墨書土器を出す御殿・二之宮遺跡を初期国府とみる説、国分寺への近接と総社の位置を重んじ国分寺跡北側から見付一帯を推す説、そして両者を接ぐ移転説──を、提唱の立脚点・依拠する遺跡や史料・弱点において対等の粒度で並べ、比較検討する。ここで一貫して守るのは、遺跡の存在という史実と、その遺跡を国府に比定する推定とを混同しないこと、そして所在を直接記す一次史料が「未確認」であることと「記載がない」こととを区別することである。本稿は現時点でいずれか一説への断定を退けつつ、考古資料の厚みから初期国府=中泉の御殿・二之宮遺跡説を相対的に有力とみて、確定は将来の発掘にまつ立場をとる。

キーワード:遠江国府/国衙/御殿・二之宮遺跡/国分寺跡北側説/見付/総社渡御/国府比定

1. 問題設定 ── なぜ所在地が定まらないのか

遠江国(とおとうみのくに、いまの静岡県西部)を治めた役所──国府が、現在の磐田市域に置かれたこと自体は、まず動かない。国家の寺である国分寺がこの地に営まれ、国内の主要な神々をまとめてまつる総社が見付に鎮座し、「府」の字を名にもつ府八幡宮が中泉に残る。統治と信仰の主要な装置がこれほど密に集まっている以上、遠江の中枢がこの一帯にあったことは、史料と現地の双方から支えられている。ところが、その中枢の核心である役所そのもの、すなわち国司が政務を執った国衙が、いまの磐田のどこに建っていたのかを問うと、答えは一点に定まらない。

この不確定は、資料が乏しいことだけに由来するのではない。むしろ複数の有力な手がかりが、それぞれ別の場所を指し示すことに由来する。奈良時代の大規模な遺構と多量の遺物は中泉の低地から出るが、国府は国分寺の近くに置くのが通例であり、その国分寺跡は台地の側にある。総社は見付に鎮座し、「見付」という地名じたいが国府に由来するとも語られてきた。手がかりは豊富でありながら、それらが指し示す方向は必ずしも一致しない。ここに、遠江国府所在論の難しさがある。

本稿の出発点は、この不一致そのものを研究対象とみなす点にある。どの説が唯一の正解かをいま裁定するのではなく、各説がどの資料に支えられ、どの程度の確からしさをもつのかを腑分けすることを課題とする。同じ主題を一般読者向けに概説した遠江国府特集では、事実と推定を分けながら所在の謎をたどった。本稿はその視点を引き継ぎつつ、より踏み込んで学説史として再構成する。既刊の遠江国分寺論および府八幡宮と国府の記憶を論じた稿では、国府を取り巻く寺社の側から中枢の輪郭を描いた。本稿はそれらと重ならぬよう、視点を国衙そのものの位置に絞り、所在地をめぐる学説を対等に並べて読むことに徹する。

こうした姿勢をとる理由は、所在の確定それ自体が目的ではないからである。地域史の記述において要となるのは、正解を一つ選び出すことよりも、いま提示されている複数の推定が、どのような資料的根拠のうえに立ち、どこまでを語りうるのかを、読者が自分で判断できる材料として示すことにある。断定を急げば、確度の低い比定を史実のように語り、あるいは有力な手がかりを軽んじる誤りに陥りやすい。本稿は、そのいずれの過ちも避けるために、各説の資料的基盤を一つずつ点検していく。

先行する言及を概観しておく。遠江国府の所在については、磐田市域の考古学的調査の蓄積と、地名・寺社配置から立地を推す地理的考察とが、長く並行して積み重ねられてきた。前者は中泉の御殿・二之宮遺跡の発掘成果を軸とし、後者は国分寺・総社・府八幡宮の位置関係と「見付」地名を軸とする。両者はしばしば別の候補地を導くが、いずれも相応の根拠をもち、一方が他方を決定的に退けるには至っていない。本稿はこの二系統の議論を、確度の層を明示しながら整理し直すことを企てる。

ここで用いる区別を、あらかじめ定めておく。第一に史実、すなわち発掘や編纂物によって確認できる事柄。第二に通説、学界で広く支持されているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。とりわけ本稿では、「遺跡が存在する」という史実と、「その遺跡を国府に比定する」という推定とを、決して同一視しない。遺物が出たことは掘れば分かる事実だが、その場が国衙であったか否かは、なお解釈を要する別の問いだからである。

「国府」とは役所とその周囲の一帯をまとめて指す 国府(役所を中心とする一帯) 国衙 国司が政務を執った中枢 国司 都から派遣された役人 館・倉・関連施設 役人の住まいと蔵 未確定なのは、この「国衙そのもの」が磐田のどこに建っていたか、という一点
図1 国府の構成と、所在論の焦点。国府がこの一帯にあったことは動かないが、確定していないのは中核=国衙の具体的な位置である。枠の配置は語の関係を示す図式で、実際の位置や規模を表さない。

2. 前提の確定 ── 国衙とは何を指すか、史料と考古の限界

所在地諸説の検討に入る前に、何が問われているのかを厳密にしておく。国府(こくふ)とは、律令制のもとで一国を治めるために置かれた役所と、それを中心とする一帯を指す1。都から派遣された国司が政務を執った中心の役所を国衙(こくが)といい、その周囲に館・倉・工房・国司の館などが集まって、行政都市のような空間をなした。本稿が「国府はどこか」と問うとき、その核心にあるのは、この国衙がどこに建っていたか、という一点である。総社や国分寺の位置は、国衙の場所を推し量る手がかりではあっても、国衙そのものの座標ではない。この区別をゆるめると、議論はたちまち曖昧になる。

次に、依拠しうる資料の性格を押さえておく。所在論には大きく二つの資料系統が関わる。ひとつは考古資料、すなわち発掘によって地中から現れる遺構と遺物である。もうひとつは文献・地名資料、すなわち古代の編纂物や制度規定、そして土地に残る地名である。この二系統は、それぞれ得意とする問いが異なる。考古資料は「ここに、いつごろ、どのような施設があったか」をかなりの確度で語るが、その施設が制度上の国衙であったと断定するには、なお解釈を要する。一方、文献・地名資料は「国府がこの国のどのあたりにあったか」を大づかみに示すが、番地を指すほどの精度はもたない。

この限界を具体的に述べておきたい。国衙の所在をずばり書き記した古代の一次史料は、遠江に関して本稿の調査範囲では確認できていない。これは重要な区別を要する点である。「そのような史料は存在しないと断定できる(=記載がない)」のではなく、「管見の限り、所在を直接記す一次史料に突き当たっていない(=未確認)」というのが正確な状態である。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのか、あるいは元来そうした記録が作られなかったのかは、それ自体が別に検証を要する。本稿はこの「未確認」と「記載なし」の区別を、以下の全編で保持する。

考古資料の側にも固有の限界がある。国衙とみられる施設を掘り当てるには、規則的に配置された大規模な掘立柱建物群や、区画を示す溝、そして「国」「厨」など官衙に特徴的な文字を記した墨書土器といった、複数の指標がそろうことが望ましい。ところが磐田原台地とその周縁は、古代以来、中世・近世・近代と土地利用が積み重なった場であり、後世の造成や市街化によって古代面が損なわれ、あるいは厚い堆積の下に隠れている場合が少なくない。掘れる場所と掘れない場所があること、そして掘った範囲でしか物を言えないことは、考古学的所在論に常につきまとう制約である。

したがって、遠江国府所在論は、性格を異にする二系統の資料を、それぞれの限界を承知のうえで突き合わせる作業となる。考古資料が濃厚に語る地点と、文献・地名・寺社配置が指し示す方向とが一致すれば話は早いが、遠江の場合、両者は必ずしも同じ場所を指さない。この食い違いをどう調停するかが、諸説の分岐点となる。以下では、まず考古資料に厚く立脚する説から順に、三つの立場を対等に検討していく。あらかじめ断っておけば、いずれの説も、国衙をずばり掘り当てて確定したわけではない。差は、どの手がかりをどれだけ重んじるか、という重みづけにある。

N↑ 上が北 磐田原台地(標高およそ20m)── 北・見付の側 低地・中泉の側(磐田駅周辺) 古代東海道(推定ルート) 国府 候補A 国分寺北側・見付 国分寺 総社(淡海國玉神社) 府八幡宮 国府 候補B 御殿・二之宮遺跡・中泉 移転説:中泉→見付(推定) 二つの候補地と、総社・府八幡宮・国分寺のおおまかな位置関係
図2 所在地候補の分布模式図。候補B(中泉・御殿二之宮遺跡)は低地、候補A(見付・国分寺北側)は台地に位置する。移転説は両者を時間軸で接ぐ。所在は未確定であり、距離・縮尺・道筋は正確でない。WEB説明用に新規作成した図で実測図ではない。

3. 第一説:御殿・二之宮遺跡説(中泉・低地)

説①・考古資料に立脚する説

奈良時代の大規模遺構を出す御殿・二之宮遺跡を初期国府とみる説

説の骨子。JR磐田駅の南に近い中泉の御殿・二之宮遺跡からは、奈良時代の土器・石器・木製品が多量に出土し、墨で文字を書いた墨書土器も見つかっている。規模の大きな建物跡も確認されており、格式のある施設が営まれていたと考えられる。これらの出土状況から、初期の遠江国府はこの御殿・二之宮遺跡の一帯にあったのではないか、とする見方である2。この説の提唱の立脚点は、地名や制度上の通例ではなく、地中から現に現れた考古資料そのものにある。

この説の説明力。所在論において、遺構と遺物という物証に基づく点は大きな強みである。奈良時代という国府の最盛期に、大規模な建物と官衙的性格をうかがわせる墨書土器がまとまって出る地点は、磐田市域でも限られる。何もない場所に国府を想定することはできないのだから、実際に古代官衙を思わせる痕跡が濃厚な地点を第一候補とするのは、方法として穏当である。加えてこの一帯は、後述するように近世に徳川家康の中泉御殿が営まれた場でもあり、土地そのものが古代から近世まで一貫して要地でありつづけた履歴をもつ。

依拠する資料と限界。ただし、ここでも遺跡の存在という史実と、それを国府に比定する推定とを分けねばならない。奈良時代の大規模遺構と墨書土器が出たこと自体は、発掘によって確認された史実である。しかし、その施設が制度上の国衙であったと断ずるには、国衙に固有の区画配置や、国名・官職名を明記した文字資料など、なお決め手を欠く。大規模な建物や墨書土器は、郡衙や有力者の施設、駅家など、国衙以外の官衙的施設でも伴いうる。したがって「初期国府」という比定は、現状では有力な推定であって、確定した史実ではない。この説を採るにあたっては、遺跡の豊かさをそのまま国衙認定へ短絡させない禁欲が要る。

立地上の論点。もう一点、この説には立地をめぐる問いがつきまとう。御殿・二之宮遺跡は台地下の低地寄りに位置し、国分寺跡や総社のある台地・見付の側とは、いくらか離れる。国府は国分寺の近くに置くのが通例だとする立場(次節)からは、この距離が弱点として指摘される。もっとも、初期の国府がまず交通に便利な低地寄りに置かれ、のちに寺社の集まる台地側の性格が強まった、と考えれば、この距離は必ずしも矛盾ではない。距離をどう評価するかは、次節の説および移転説との関係で改めて論じる。

本稿の評価:御殿・二之宮遺跡説は、物証に立脚する点で所在論のなかで最も基盤の堅い推定である。ただし「遺跡がある」ことと「国衙である」ことは別の層に属し、国衙を直接に示す文字資料や区画は本稿の範囲では未確認である。有力候補として重んじつつ、確定説とはしない。

4. 第二説:国分寺跡北側・見付説(台地)

説②・立地通例と寺社配置に立脚する説

国分寺への近接と総社の位置から、国分寺跡北側・見付一帯を推す説

説の骨子。遠江国分寺跡の北側、いまの磐田北小学校から大見寺のあたり一帯を国府の所在とみる説である。この立場は、二つの一般的な原則を重んじる。第一に、国分寺は国府の近くの良い土地に営むよう定められており、現に遠江国分寺がこの台地に置かれた以上、国府もその近傍にあったと考えるのが自然だという原則3。第二に、国司がまず参拝すべき総社(淡海國玉神社)が見付に鎮座するという事実である。総社は国衙の近くに設けられるのが通例だから、総社の位置は国衙の位置を指し示す、と読む。

この説の説明力。この説の強みは、個々の遺物ではなく、律令制下の国府空間に共通する配置原理に立脚する点にある。国分寺・総社・国衙が相互に近接するという型は各地の国府に広く認められ、その型を遠江にあてはめれば、寺と総社の集まる台地・見付の側に国衙を想定するのが整合的である。地名「見付」が国府に由来するとする古くからの説(後述)も、この立場を補強する材料として引かれてきた。所在を点ではなく空間の秩序として捉えるこの見方は、寺社という現存する手がかりから議論を組み立てられる利点をもつ。

依拠する資料と限界。他方でこの説の弱点は、決定的な考古資料を欠く点にある。国分寺北側の一帯から、国衙と断定しうる大規模な区画や官衙的遺構が明確にまとまって検出された、という報告には、本稿の範囲では突き当たっていない。ここでも「記載なし」と「未確認」を分けねばならない。国衙遺構がないと断定できるのではなく、それを裏づける発掘成果を筆者が確認できていない、というのが正確である。立地通例は蓋然性を高めるが、それ自体は物証ではない。総社や国分寺の近くにあった「はず」だという推論は、あくまで型からの演繹であって、現地からの帰納ではない。

総社近接論の射程。総社の位置を国衙の指標とする論法には、なお留保が要る。総社の成立や現在地への鎮座の時期が、古代国府の最盛期とどこまで重なるかは、それ自体が検討を要する問いである。総社が国府より後に整えられた、あるいは位置を移したという可能性を排除できない以上、総社の現在地から国衙の位置へ一直線に推論するのは慎重を要する。この説は、寺社配置という現存の秩序を手がかりにできる点で説得力をもつが、その秩序が古代のどの段階の姿かを問い直すと、推論の足場はやや揺らぐ。

本稿の評価:国分寺跡北側・見付説は、国府空間の配置原理という一般則に立脚する有力な推定である。ただし国衙を示す考古資料を欠き、総社近接論も時期の問題を残す。第一説とは依拠する資料の系統が異なり、優劣を単純に競わせるべき関係にはない。
二つの説は「根拠の性質」が異なる 説① 御殿・二之宮遺跡説 立脚点:地中の考古資料 ・奈良期の大規模建物跡 ・多量の土器/墨書土器 ・物証は濃厚(帰納) 弱点:国衙と断定する    文字資料・区画は未確認 説② 国分寺北側・見付説 立脚点:立地通例と寺社配置 ・国分寺への近接の原則 ・総社(見付)の位置 ・配置の型からの演繹 弱点:国衙を示す考古資料    が明確でない
図3 二説の根拠比較。説①は地中の物証(帰納)に、説②は配置原理(演繹)に立脚する。両者は資料の系統が異なるため、同一平面での単純な優劣化はなじまない。

5. 第三説:移転説 ── 中泉から見付へ

説③・両説を時間軸で調停する説

初めは中泉に置かれた国府が、のちに見付の方へ移ったとする説

説の骨子。第一説と第二説は、しばしば択一の問いのもとに対立させられる。しかし、両者はどちらも相応の根拠をもち、一方が他方を決定的に退けるには至っていない。ここから、両者を時間軸のうえで調停する第三の立場が生まれる。すなわち、初期の遠江国府はまず交通に便利な中泉の御殿・二之宮遺跡のあたりに置かれ、のちに国分寺や総社の集まる見付・台地の側へ移った、とする移転説である。この見方に立てば、低地から濃厚な奈良時代の遺構が出ることと、寺社配置が台地側を指すこととは、時期の違いとして無理なく両立する。

この説の説明力。移転説の利点は、二つの有力な手がかりの食い違いを、矛盾ではなく変化として読み替えられる点にある。古代の国府は数百年にわたって存続し、その間に律令制の実態も、周辺の土地利用も変化した。国府が長い歴史のなかで位置や重心を移すことは、他国の事例にも見られ、あり得ないことではない。中泉の考古資料の厚みと、見付側の寺社配置の整合とを、いずれも切り捨てずに活かせる点で、移転説は包括的な説明力をもつ。

依拠する資料と限界。ただし、この説の弱点もまた明白である。移転説が成り立つには、本来なら「いつ、どこからどこへ移ったか」を示す手がかりが要る。ところが、遠江国府の移転を直接に記す一次史料も、移転の前後を画する考古学的な層序も、本稿の範囲では確認できていない。移転説は、二説の食い違いを説明するために要請された仮説という性格が強く、移転そのものを積極的に証する資料に乏しい。二つの候補地がともに有力だからといって、両者を時間で接げば正しい、とは限らない。両者が別個の性格の施設(たとえば一方が国衙、他方が別の官衙)であった可能性も、なお開かれている。

仮説としての位置。したがって移転説は、第一・第二説を否定する第三の候補地を立てるものではなく、両説を包摂しようとする調停的な推定として位置づけるのが適切である。その魅力は説明範囲の広さにあるが、広く説明できることと、実際にそうであったこととは別である。移転説を採るにしても、それが二説の食い違いから逆算された作業仮説であり、移転の実在を証する独立の資料をまだ得ていないことは、明示しておかねばならない。

本稿の評価:移転説は、第一・第二説の対立を時間軸で調停する包括的な推定である。説明力は高いが、移転を直接証する史料・層序は未確認であり、二説の食い違いから要請された作業仮説の域にとどまる。
移転説 ── 食い違いを「変化」として読む 初期の国府 中泉・低地(考古資料) 後期の重心 見付・台地(寺社配置) 移転(時期・経路は未確認) 両候補地の食い違いを矛盾でなく時間差とみるが、移転を証する独立の資料は乏しい。
図4 移転説の時間軸。二つの候補地を初期・後期の別として接ぐ調停的な推定。説明力は広いが、移転そのものを証する一次史料・層序は本稿の範囲では未確認である。

6. 諸説の比較と史料批判

ここまで見た三説は、しばしば「結局どこか」という択一の問いのもとに並べられる。しかし各説は、依拠する資料の系統が根本的に異なる。第一説は考古資料という物証に、第二説は立地通例と寺社配置という配置原理に、第三説は前二説の食い違いを調停する時間軸の仮説に、それぞれ立脚する。物証に立つ説と、型からの演繹に立つ説と、調停のために要請された仮説とを、同一平面で単純に優劣化するのは、方法として適切でない。以下の比較表は、各説を提唱の立脚点・依拠する遺跡や史料・弱点において対等の粒度で並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。特定の説を優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることを心がけた。

表1 遠江国府 所在地諸説の比較 ── 提唱の立脚点・依拠する遺跡や史料・弱点
所在地説提唱の立脚点依拠する遺跡・史料主な内容弱点(史料批判上の留意点)
御殿・二之宮遺跡説(中泉・低地)考古資料(地中の物証・帰納)御殿・二之宮遺跡の奈良期大規模遺構、多量の土器、墨書土器。物証の濃厚な中泉低地を初期国府とみる。遺跡の存在は史実だが、国衙と断定する文字資料・区画は未確認。他種の官衙の可能性も残る。
国分寺跡北側・見付説(台地)立地通例・寺社配置(配置原理・演繹)国分寺近接の原則、総社(淡海國玉神社)の位置、「見付」地名。寺と総社の集まる台地・見付に国衙を想定。国衙を示す考古資料が明確でない。総社の成立時期と古代国府期の重なりも要検討。
移転説(中泉→見付)前二説の食い違いの調停(作業仮説)両候補地の資料を時間軸で接ぐ。独立の直接資料は乏しい。初め中泉、のち見付へ重心が移ったとみる。移転を直接証す一次史料・層序は未確認。二説の食い違いから逆算された仮説の性格が強い。

この比較から見えてくるのは、三説が真正面から競合しているというより、それぞれが所在という問いの異なる側面に光を当てているという事実である。第一説は「物として何が出ているか」を、第二説は「制度上どこにあるべきか」を、第三説は「時間のなかでどう動いたか」を問う。三者はいわば、同じ問いを物証・原理・変化という別々の切り口から照らしており、互いを打ち消すのではなく補い合う面をもつ。一つの説だけで所在を覆おうとすると、他の側面が視野から抜け落ちる。

史料批判の観点からは、いずれの説にも「国衙をずばり示す一次史料・決定的遺構は未確認である」という同一の限界が課される。この限界は三説に等しく課されるのだから、それを理由に特定の説だけを退けることはできない。むしろ問うべきは、各説がどの資料層に立脚し、その層がどこまでを語りうるのか、という点である。考古資料は施設の実在を、配置原理は空間の秩序を、時間軸の仮説は変化の可能性を、それぞれ異なる仕方で証言する。どの説も単独では所在を確定できず、また確定できないことをもって説の価値を否定することもできない。

ここで、本稿がとくに戒めたい混同を改めて明示しておく。第一に、遺跡の存在という史実と、その遺跡を国府に比定する推定との混同である。中泉から奈良時代の大規模遺構が出たことは掘れば分かる史実だが、それが国衙であったか否かは、なお解釈を要する推定にとどまる。第二に、「未確認」と「記載なし」の混同である。国衙の所在を記す一次史料や、見付側の国衙遺構が「未確認」であることは、それらが「存在しない」ことを意味しない。この二つの区別を崩すと、乏しい根拠が確定的な結論へとすべり落ちる。所在論の議論が混乱するのは、しばしばこの二つの層を無自覚に飛び越えるときである。

この整理は、郷土史の記述にとって一定の含意をもつ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば「本当のところはどこか」という問いに引き寄せられ、複数の推定のなかから一つの正解を選び取ろうとする。しかしその態度は、確度の異なる情報を無理に一つの平面へ押し込め、選ばれなかった説を切り捨てることにつながりやすい。ここで採った腑分けは、そうした性急な一元化を避け、それぞれの説を、それが属する資料層のなかで正当に評価するための手続きである。発掘で確認できることは史実として、配置から導かれることは推定として、それぞれの位置を保ったまま書き留める。これは国府所在論に限らず、地域史一般に通じる記述の作法であると考える。

混同してはならない二つの層 史実 遺跡・遺物が存在する =掘れば確認できる 例:奈良期遺構・墨書土器 推定 その遺跡を国府に比定する =解釈を要する別の問い 例:ここが国衙だったか
図5 史実と推定の弁別。「遺跡が存在する」ことと「その遺跡を国府に比定する」ことは別の層に属する。所在論の要点は、この二層を語の水準で混同しないことにある。

7. 背景 ── 総社・府八幡宮・「見付」地名と国府のその後

所在地諸説を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、国衙を取り巻いた施設と地名である。役所そのものの跡は定まらないが、それを取り巻いていた装置は、いまも確かにこの地に残る。それらをたどることで、国府の輪郭をうかびあがらせ、諸説の意味を深めることができる。まず総社である。見付に鎮座する淡海國玉神社は、遠江国の主だった神々をまとめてまつる総社とされ、赴任した国司がまず参拝する社であった。総社が見付にあること自体が、国衙の中枢がこの一帯にあったことの手がかりとされ、第二説の有力な足場となっている。

次に府八幡宮である。中泉に鎮座するこの社は、その名に「府」の字をもつ。社伝によれば、天武天皇の曾孫にあたる桜井王が遠江国司として赴任した際、国府の中に勧請したことに始まると伝えられる。「府の八幡」という名は、まさに国府とともにあった社であることを今に伝える。もっともこれは社伝=伝承の層に属する伝えであり、勧請の年紀を国衙の位置決定にそのまま用いることはできない。ただ、府八幡宮が中泉にあることは、第一説の想定する中泉低地の要地性と響き合う。総社が見付を、府八幡宮が中泉を指すという構図は、二つの候補地がともに国府と結びつく理由をよく示している。

地名「見付」もまた、所在論に関わる。この地名は「みつけの府」、すなわち国府にちなむとする説が古くから語られてきた4。地名の由来には諸説あり断定はできないが、いずれにせよ「見付」の名は、ここがかつて遠江の中心であったという記憶と深く結びついている。ただし、地名由来説を所在の根拠に用いるには慎重を要する。地名の由来は後世の付会であることも多く、「見付=国府由来」を前提に見付側へ国衙を引き寄せる論法は、循環に陥る危うさをもつ。地名は所在論を補強しうる材料ではあるが、それ自体を決め手とすることはできない。

国府のその後にも触れておきたい。国府は永遠に役所でありつづけたわけではない。平安時代の後半になると律令制はしだいにゆるみ、国司が現地に赴任せず都にとどまる例も増えた。やがて武士の世が訪れると、国を治める仕組みは大きく変わり、古代的な国府は役割を終える。役所の建物は失われ、その正確な位置さえ、いつしかわからなくなっていった。所在が今日なお定まらない一因は、国衙が早くに機能を失い、位置の記憶が継承されぬまま地中に沈んだことにある。

それでも、この一帯が遠江の中心であった性格は、形を変えて受け継がれた。中世には東海道の見付宿がにぎわい、戦国から近世にかけては、徳川家康がこの地に中泉御殿を築いた。その御殿が営まれたのが、ほかならぬ御殿・二之宮遺跡──古代国府の有力候補地とされる、まさにその場所である5。古代に国の役所が置かれた(かもしれない)土地が、千年近くを経てふたたび天下人の拠点に選ばれた。交通の要であり政治の中心にふさわしいという土地の履歴は、時代をこえて人を引きつける。現在、磐田市役所が国分寺跡のすぐ近くに置かれていることも、その延長線上にある。行政の中心は、古代から現代まで、この一帯から大きく離れなかったのである。この連続性は、いずれの所在地説をとるにせよ、両候補地がともに古来の要地であったという背景を照らし出している。

役所は失われても、「中心」はこの一帯を離れなかった 古代 遠江国府・国分寺 中世 東海道 見付宿 近世 中泉御殿(家康) 現在 磐田市役所 目盛りは時期の並びを示すもので、正確な年代の縮尺ではない。
図6 国府のその後と中心の連続。古代の国府から現代の市役所まで、行政の中心はこの一帯を離れなかった。両候補地がともに要地でありつづけた履歴は、所在論の背景をなす。独自作成の模式図。

8. 結論 ── 本稿の立場と残された課題

本稿は、遠江国府の所在をめぐる御殿・二之宮遺跡説・国分寺跡北側説・移転説を、提唱の立脚点・依拠する遺跡や史料・弱点において対等に並べ、比較検討した。得られた見取り図は次のとおりである。国府がいまの磐田市域にあったことは史実として動かないが、その中核たる国衙の具体的な位置を直接記す一次史料も、それを断定しうる決定的遺構も、本稿の範囲では未確認である。三説はいずれもこの同じ限界を共有し、依拠する資料の系統を異にしながら、物証・配置原理・時間軸という別々の角度から所在を照らしている。

そのうえで、本稿の立場を明示する。現時点で所在をいずれか一点に断定することはできない。だが確度の層を保ったまま重みづけを述べるなら、考古資料という物証に立脚する第一説──初期国府=中泉の御殿・二之宮遺跡説を、相対的に最も基盤の堅い推定とみる。何もない場所に国衙を想定することはできず、奈良時代の大規模遺構と墨書土器が濃厚に出る地点を第一候補とするのは、方法として穏当だからである。ただしこれは「中泉が国衙だと確定した」という主張ではない。あくまで、現に手にしている資料の重みを較べたときの相対的な優位であって、決定は将来の発掘にまつ。第二説の配置原理も第三説の移転仮説も、これを退けるのではなく、確定へ向けて併せ検証すべき視座として保持する。

ここで改めて、本稿が守った二つの禁欲を確認しておく。第一に、遺跡の存在という史実と、その遺跡を国府に比定する推定とを混同しないこと。第二に、一次史料や決定的遺構が「未確認」であることと、それらが「存在しない(記載がない)」こととを区別すること。この二つを崩さぬ限り、所在が定まらないという事態は、知の欠落ではなく、知り得たことと知り得ていないことの境界を正確に描いた結果として引き受けられる。所在が一点に定まらないことは、この主題の弱みではなく、複数の有力な手がかりがこの土地の要地性を多重に証している、その厚みの反映である。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、御殿・二之宮遺跡の遺構が制度上の国衙であったか否かは、国名・官職を記す文字資料や、官衙に固有の区画配置の検出によって、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、国分寺北側・見付一帯については、国衙遺構の有無を確かめる継続的な発掘が、第二説の当否を左右する。第三に、移転説を検証するには、両候補地の年代的な前後関係を層序と編年によって突き合わせる作業が要る。これらはいずれも、本稿が設定した確度の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。所在を一つに決める誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、遠江国府という古代磐田の中枢の像が、少しずつ結ばれていくはずである。総社の成立時期をめぐる問題、および「見付」地名の由来論については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿の舞台である中泉や見付には、国府の記憶を宿す土地とともに、代を重ねて受け継がれてきた古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の履歴にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 律令制下の国府・国衙の概念については、国指定文化財等データベースおよび日本歴史地名大系の関連項目を参照。国司・国衙・国府の語の区別は本文の定義による。
  2. 御殿・二之宮遺跡からは奈良時代の遺構・多量の遺物・墨書土器が確認されている。発掘成果の概要は磐田市の公開資料(御殿遺跡公園・遠江国はじまりの地の解説を含む)による。遺物の存在は史実だが、当該遺構の国衙比定は推定である。
  3. 国分寺建立の詔は、国分寺を国府に近い良い土地に営むよう求めていた。国府と国分寺の近接は各地の国府に広く認められる型であり、第二説はこの一般則に立脚する。
  4. 「見付」を国府(府)に由来する地名とする説は古くから語られるが、地名由来には諸説があり、本稿はこれを所在の決め手とはしない。
  5. 中泉御殿は徳川家康がこの地に築いた御殿で、御殿・二之宮遺跡はその推定地でもある。近世の御殿については『遠州中泉古城記』にもとづく記述を参照。

付記:本稿は一般読者向け特集 n033「遠江国府はどこにあったのか」の内容を、郷土史研究者向けに所在地諸説の学史的検討として再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、遺跡・遺物の存在を史実、その国府比定を推定、社伝・地名由来を伝承として扱った。既刊の第152号(国分寺)・第157号(府八幡宮と国府)とは主題の軸を分け、本稿は国衙の所在という一点に議論を絞った。

参考文献・参考資料

  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 御殿・二之宮遺跡 発掘調査の概要(奈良時代の遺構・出土品・墨書土器)。
  • 磐田市公式ウェブサイト「遠江国分寺跡」(国府・国分尼寺の解説を含む) https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田市観光協会「御殿遺跡公園」「遠江国分寺跡」「遠江国はじまりの地」 https://kanko-iwata.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 淡海國玉神社(遠江国総社)由緒書。
  • 府八幡宮 由緒(桜井王による勧請の伝承)。
  • 『遠州中泉古城記』にもとづく中泉御殿の記述。
  • 国指定文化財等データベース https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 『日本歴史地名大系 静岡県の地名』(平凡社)遠江国・磐田郡の項。
  • 大石浩之「遠江国分寺とは何か ── 古代遠江の中心寺院と伽藍の空間論」大石浩之の磐田論考 第152号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/152/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 大石浩之「府八幡宮と遠江国府の記憶 ── 国府・国分寺・総社を結ぶ中泉の空間」大石浩之の磐田論考 第157号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/157/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 磐田物語 n033「遠江国府はどこにあったのか ── 古代遠江の政治の中心をめぐって」 https://iwata-monogatari.net/n033.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
  • 制作者による現地確認・追加調査メモ。