磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第236号(遠江国府研究 一)
遠江国司の人々 ── 磐田の国府に赴任した官人たち
四等官制という制度と、そこに生きた官人たちの千年をたどる
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田に置かれた遠江国府には、律令国家の制度に従い、都から国司が交替で赴任した。国司は守・介・掾・目の四等官からなる役人団であり、徴税・裁判・祭祀を一手に預かる任期付きの官人であった。本稿は、この制度の骨格を確認したうえで、名の伝わる遠江国司を人の側から読む。奈良時代に遠江守を務め、『万葉集』巻8に聖武天皇との贈答歌を残した桜井王、平安末に『千載和歌集』を撰した藤原俊成の官歴を、史料で確認できる事実と、社伝・推定にとどまる事柄とに腑分けして検討する。あわせて、平安中期以降に守が任地へ下らない遥任が広がり、国府の実務が在庁官人へ移っていく過程を追い、国司制度の変質が中世武家社会の土壌をならしたことを述べる。個々の国司が実際に磐田へ赴任したか否かは多くの場合確認できず、本稿は「未確認」と「記載なし」を区別しながら、制度と人の千年の変遷をたどる。
キーワード:遠江国司/四等官制/桜井王/藤原俊成/遥任/在庁官人/総社
1. 問題設定 ── 制度を人の側から読む
律令制のもとで、諸国には中央から国司が派遣された。遠江国府が磐田の地に置かれていた数百年のあいだ、この土地には都から幾人もの国司が交替で赴任し、数年の任期を勤めては都へ帰っていった。国府の遺構や国分寺の礎石は、そうした官人たちが運営した役所と寺の名残である。しかし国府をめぐる従来の記述は、その多くが立地・遺構・伽藍といった「場所」と「もの」に向けられ、そこに勤めた「人」の側から国府を眺める視点は、比較的手薄であった。
本稿が主題とするのは、この赴任してきた官人たち、すなわち遠江国司である。国司とは単独の役職ではなく、守・介・掾・目という四等官からなる役人団の総称であり、一国の行政・司法・祭祀を包括的に預かる、いわば小さな政府であった。本稿はまずこの制度の骨格を確認し、そのうえで名の伝わる遠江国司を具体的に読む。奈良時代の桜井王、平安末の藤原俊成という、和歌史に名を刻んだ二人の官歴を軸に据えながら、制度がどのように運用され、やがてどのように変質していったかを跡づけたい。
この視点の置きかえには、実際的な意味もある。国府の所在や国庁の構造といった「場所」の研究は、発掘の成果と結びついて着実に進んできた。だが、そこに勤めた官人たちの顔ぶれや、彼らが任地でどう振る舞ったかは、遺構からは直接には読み取れない。文献に残るわずかな名を手がかりに、制度の枠組みと突き合わせながら人物像を描くことは、遺構の研究とは別の方法を要する作業であり、両者は補い合う関係にある。本稿は、場所の研究がすでに厚く重ねられていることを前提に、あえて手薄な「人」の側から国府に接近する。
ここで一つ、方法上の断りを置いておく。遠江国司については、名の伝わる者はごくわずかであり、大半は名も事績も記録に残らない。しかも名の伝わる者についてすら、その人物が実際に磐田の国庁の土を踏んだのか、それとも都にいたまま国名だけを帯びていたのかは、多くの場合判然としない。本稿は、史料で確認できる事柄と、社伝や推定にとどまる事柄とを語の水準で書き分け、確認できないことを「確認できない」と明記する立場をとる。とりわけ、一次史料に突き当たっていないことを意味する「未確認」と、史料に記載がそもそも存在しないことを意味する「記載なし」とを、以下では一貫して区別する。
この区別にこだわるのは、国司という主題が、制度としては概説で明快に描けるのに、個々の人物の実態となると途端に霧のなかに入るという、二重の性格をもつからである。制度の骨格は律令の条文や施行細則から復元できるが、その制度のもとで一人ひとりの守や目が何をしたかは、断片的な記録の隙間から推し量るほかない。本稿は、この明快さと不確かさの落差そのものを、遠江国司を読むうえでの出発点とする。以下ではまず制度の骨格を押さえ、続いて桜井王と藤原俊成を軸に人物を読み、制度の変質と史料批判を経て結論に至る。
2. 制度の骨格 ── 守・介・掾・目の四等官
律令官制において、国司は長官の守、次官の介、判官の掾、主典の目という四等官で構成された1。守が一国の統治に最終的な責任を負い、介がこれを補佐し、掾が徴税や訴訟などの実務を差配し、目が文書の作成と保管を担う。国の等級に応じて各等官の定員は増減し、規模の大きな国では複数の掾・目が置かれることもあった。四等官制は国司に限らず、中央の官庁から大宰府に至るまで律令の官職に広く共通する編成原理であり、責任・補佐・実務・記録という機能分担を、いずれの役所にも一貫して適用した点に、律令国家の統治技術の一つの特徴があらわれている。
遠江は、律令の格付けで上国に位置づけられた規模の大きな国である。国の等級は面積・人口・生産力に応じて大国・上国・中国・下国の四段に分けられ、等級は国司の位階や員数、そして得られる収入に直結した。上国である遠江の守は、都の官人にとって、相応の実入りが見込める望ましい任地であった。任期はおおむね4年から6年とされ、任期を終えれば都へ戻る。交替にあたっては、後任者が前任者の在任中の帳簿を点検し、引き継ぎの完了を証する解由状を発行した。この監査のために勘解由使という専門の官が都に置かれたことは、国司の統治が終始、帳簿と数字によって中央から管理されていたことを物語る。
ここから浮かび上がる国司像は、土着の領主ではなく、任期付きのキャリア官人である。彼らは数年間だけこの土地を預かり、その成績を都で査定される立場にあった。租税の徴収実績が振るわなければ次の任官に響き、逆に治績が評価されれば、より上位の官職への足がかりとなる。遠江という任地は、そうした官人たちの経歴のなかを通り過ぎていく一つの通過点であった。とすれば、国司を人の側から読むということは、この通過していった官人たちが、磐田の土地に何を残し、また土地から何を持ち去ったのかを問うことにほかならない。
もっとも、以上の制度像は律令の条文と施行細則から復元された「あるべき姿」であって、遠江国府で実際にこの通りに四等官がそろって職務を執っていたことを、個別に証する史料が豊富にあるわけではない。制度の骨格は概説として確立しているが、その運用の実態は、時代が下るほど条文から乖離していく。次章以下で具体的な国司を読むにあたっては、この「制度の建前」と「運用の実態」のあいだの距離を、つねに意識しておく必要がある。
付言すれば、国司の地位は官位相当制のもとで位階と結びついており、遠江守にはその国の等級に見合った位階の官人が任じられた。加えて、国司には正規の俸禄とは別に、公廨稲(くげとう)と呼ばれる得分が認められ、任地で運用される稲の利息の一部が国司の収入となった。この得分の大きさこそが、ある任地を「実入りのよい任地」たらしめた実質であり、平安中期以降、守が任地の富を一身に集める受領(ずりょう)へと変質していく素地でもあった。制度の骨格を読むとは、条文に記された職掌だけでなく、こうした収入の仕組みまで含めて、国司という官職が何によって動いていたかを見きわめることでもある。桜井王や藤原俊成といった個人を読む前に、彼らが立っていた制度の土台を、この収入の側面からも押さえておきたい。
| 等官 | 訓み | 位置づけ | 主な職掌 | 人物を読む際の留意 |
|---|---|---|---|---|
| 守 | かみ | 長官 | 一国の統治に最終責任を負い、治績を中央に査定される。 | 名の伝わる遠江国司の多くはこの守。遥任の対象となるのも守である。 |
| 介 | すけ | 次官 | 守を補佐し、守の不在時には実務の統括にあたる。 | 遥任が進むと介以下の役割が相対的に重くなる。 |
| 掾 | じょう | 判官 | 徴税・訴訟など具体的な行政実務を差配する。 | 実務の中核だが、個別の人名が記録に残る例は少ない。 |
| 目 | さかん | 主典 | 文書の作成・保管、帳簿事務を担う。 | 正税帳などの帳簿を実際に書いた層。名は最も残りにくい。 |
3. 歌を残した遠江守 ── 桜井王
名の伝わる遠江国司のなかで最も古い部類に属し、磐田との縁も深いのが、奈良時代の桜井王である。天武天皇の系譜に連なる皇族で、天平年間に遠江守を務めたと伝わる。皇族が地方の国司に任じられることは奈良時代にはめずらしくなく、有力な王が上国の守として統治の実務にあたることは、朝廷の人材運用の一つのかたちであった。桜井王はのちに臣籍降下し、大原真人桜井と名のっている。皇族が国司として任地に下るという事実は、この時代の国司が名目だけの官職ではなく、実際に地方を治める実務の職であったことを、逆の側から裏づける。
桜井王の名を後世に伝えたのは、政務の記録ではなく一首の歌である。『万葉集』巻8には、遠江守として任地にあった桜井王が聖武天皇へ「九月のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも」と奉り、天皇から「大の浦のその長浜に寄する波」と返された贈答が収められている2。秋の初雁に託して都への思いを詠んだこの歌は、任地の官人が抱いた望郷の情を、いまに伝える数少ない肉声である。国司の職務が帳簿と数字に覆われていたことを思えば、その帳簿の背後で一人の官人が遠い都の空を仰いでいたという事実こそ、桜井王の贈答歌が磐田に残した最大の贈り物であろう。
桜井王には、もう一つ磐田の土地に結びつく伝えがある。府八幡宮の社伝は、桜井王が遠江守として赴任した際、国府の鎮守として同宮を創建したと伝えている3。ただしこれは社伝であり、創建の年代や事情を直接に裏づける一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。したがって府八幡宮創建の一件は、史実としてではなく、桜井王の遠江赴任にまつわる伝承として扱うべきである。歌の贈答は原典で確認できる史実、府八幡宮創建は社伝すなわち伝承──同じ一人の国司にまつわる事柄でも、資料の性格に応じて確度の層は異なる。この腑分けを崩さないことが、人物を読むうえで欠かせない。
とはいえ、歌と社伝の双方に名をとどめるという事実そのものが、桜井王を遠江国司の象徴的な存在たらしめている。都の血を引く貴人が、遠く離れた任地の国庁で帳簿に向かい、鎮守を祀り、秋空に望郷の歌を詠む──この像は、赴任してくる国司が任地といかに関わったかを、一人の人物のうちに凝縮して見せてくれる。桜井王は、のちに国司が任地へ下らなくなる時代と対比するとき、いっそうその「実際に赴任した守」としての輪郭を鮮明にする。この対比の相手が、本稿の後半で扱う藤原俊成である。
桜井王がのちに臣籍降下して大原真人桜井と名のった経緯にも、この時代の国司のありようが映っている。奈良時代には、皇親すなわち天皇の親族が政治の要にあり、有力な王が地方官を歴任して実務経験を積むことは、朝廷の人材運用として理にかなっていた。臣籍に降ることは皇位継承の枠組みからは外れる一方で、官人として自立した経歴を歩む道でもあった。遠江守という任地は、そうした皇族出身の官人が地方統治の実務に触れる場の一つであり、桜井王の望郷の歌は、都の貴種が辺土の国庁で執務した、その具体的な一齣を伝えている。
4. 国司の職務 ── 税・裁き・祭りと総社
赴任した国司の職務は多岐にわたったが、その中心はやはり徴税であった。国司は国内の田地を把握し、収穫の一部を租として徴し、都へ納める調・庸を村々から集め、その年の収支を正税帳などの帳簿にまとめて中央へ報告した。数字が合わなければ任期の終わりに責任を問われるのであり、国司にとって帳簿はそのまま官人としての成績表であった。前章で見た桜井王の望郷の歌も、こうした帳簿仕事の日常を背景に置いて読むとき、その重みを増す。都の空を仰ぐ余情は、数字に追われる実務の合間に、ふと差した感傷だったのかもしれない。
徴税だけではない。国司は国内で起きる争いを裁き、盗賊や災害に備え、街道の駅を維持し、都から下る官人や使者をもてなした。そして律令国家が国司に課したいま一つの重要な職務が、任国の神々を祀ることである。国司は赴任すると、まず国内の主要な神社を巡拝して幣帛を捧げることを務めとした。遠江国府が担った職掌のなかでも、この神祇祭祀は行政・司法と並ぶ柱であった。神を祀ることは、単なる宗教行為ではなく、任国の秩序を国家の枠のなかに保つ統治の一環だったのである。
やがて、国内の式内社を一社ずつ巡拝する手間を省くため、国府の近くに国内の主要な神々をまとめて祀る総社が設けられるようになる。磐田の淡海国玉神社が遠江の総社とされるのも、この国司の祭祀の必要から生まれた仕組みである。総社の成立は、神祇祭祀を国府の一点に集約し、国司が一度の参拝で任国の神々をまつり得るようにした行政的な合理化であり、同時に、国内の神々を国という枠のなかに序列づけて把握する営みでもあった。税と裁きと祭り──国司は、一国の政治・司法・宗教を一手に預かる存在だったのである。
もっとも、総社の成立時期を直接に記す一次史料は乏しく、淡海国玉神社が遠江総社としての機能をいつ備えたかは、確定しがたい。総社という制度そのものが、律令の条文に当初から明記された仕組みではなく、国司の祭祀の実務のなかからしだいに形成されていったと考えられているためである。したがって淡海国玉神社の総社としての位置づけは、通説として広く受け入れられてはいるものの、その成立年代は推定の域にとどまる。ここでも、制度の存在という史実と、その具体的な成立時期という未確認の事柄とを、分けて扱う必要がある。国司の職務を読むとは、こうして一つひとつの制度について、確かめられる範囲を見きわめていく作業でもある。
国司の職務を考えるうえで見落とせないのが、交替のたびに繰り返された引き継ぎの緊張である。前任の守が任期中に蓄えた得分や、帳簿上の不足をめぐって、後任との間にしばしば紛議が生じた。解由状が円滑に発行されないまま任地を去る国司もあり、こうした交替の摩擦は、律令国家が国司統治を数字で厳格に管理しようとしたことの裏返しでもあった。任国の富をめぐる守の振る舞いが、やがて在地から「国司苛政」として訴えられる例も現れる。徴税・裁判・祭祀という表向きの職務の背後には、任地の富を都へ、そして自らの手もとへ引き寄せようとする駆け引きが絶えず動いていた。桜井王の望郷の歌の静けさと、こうした受領たちの生々しい実務とは、同じ国司という職の異なる側面である。
5. 遥任の時代の歌人国司 ── 藤原俊成
桜井王の時代から四百年を経た平安時代の末、日本の和歌史に大きな名を残す人物が、遠江守の官歴をもっている。藤原俊成である。後白河法皇の命により勅撰和歌集『千載和歌集』を撰し、幽玄の美を説いた歌壇の重鎮であり、新古今和歌集を代表する歌人・藤原定家の父でもあった。この大歌人が、加賀守や三河守などとともに遠江守を歴任したことが記録に伝わる4。桜井王が奈良の皇族歌人であったとすれば、俊成は平安末の歌壇を主導した第一人者であり、遠江守の座は、時代を隔てて再び和歌史の巨人を迎えたことになる。
ただし、桜井王の場合と決定的に異なる点がある。俊成の生きた平安末には、国守が任地へ下らない遥任がすでに通例となっていた。したがって、俊成が実際に磐田の国府の土を踏んだかどうかは確認できない。むしろ、都にとどまったまま遠江の収入を得ていたと見るのが、この時代の国守の実態に照らして自然であろう。「遠江守藤原俊成」という官名は現実に存在したが、その官名の背後に、任地へ赴く官人の姿があったとは限らないのである。ここでも、官名の存在という史実と、実赴任の有無という未確認の事柄とを、慎重に切り分けねばならない。
それでも、この官名が和歌史の一流の人物の経歴を飾っていたという事実は、遠江という国の位置を物語る。桜井王の時代から四百年を経てなお、遠江守の座は都の一流貴族の官歴にふさわしい価値ある任地であり続けた。奈良の皇族歌人に始まり、平安末の勅撰集撰者に至るまで、遠江守の座には和歌史に名を刻む人物が繰り返し就いている。磐田の国府は、実際に赴任したか否かにかかわらず、歌人たちの官歴のなかに確かな一行を残しているのである。土地の記憶は、必ずしもその土地を踏んだ者だけが刻むのではない。
俊成の遠江守を「赴任した国司」ではなく「遥任の国守」として読むことは、この人物を貶めることではない。むしろ、桜井王から俊成へと至る四百年のあいだに、国司という制度そのものが根底から性格を変えたことを、二人の対比が鮮やかに映し出す。実際に任地へ下り、帳簿に向かい、鎮守を祀った奈良時代の守と、都にいたまま国名を帯びた平安末の守──同じ「遠江守」という官名が、これほど異なる実態を指すようになった。その変質の内実を、次章で制度の側から追う。
俊成が遠江守を帯びた平安末は、院政期にあたる。上皇が政治の実権を握るこの時代には、国の収入を特定の貴族や寺社に割り当てる知行国の仕組みが広がり、国守の任免は、実務の適格よりも、院や有力貴族との人脈のなかで動くようになっていた。俊成のような歌壇の重鎮が遠江守を帯びたことも、こうした人的なつながりの網の目のなかで理解すべきであり、それは奈良時代に有力な王が実務のために赴任した桜井王の任官とは、性格を大きく異にする。同じ遠江守という官名でも、任じられる論理そのものが、四百年のあいだに根本から変わっていたのである。
6. 国司が来なくなる ── 遥任と在庁官人
平安時代も中期に入ると、国司制度は大きく姿を変える。律令の理想では四等官がそろって任地に赴くはずであったが、しだいに守だけが強大な権限と収入を握り、そのうえで肝心の守が任地へ下らず、都にいたまま収入だけを得る遥任が広がった5。遥任の守は、代理人として目代を現地へ送り、国府の実務は、地元の有力者から登用された在庁官人と呼ばれる役人たちが担うようになる。かつて都から派遣される四等官が担った実務は、こうして土地に根を張った在地の官人層へと移っていった。
この変化は、磐田の歴史にとって静かではあるが決定的な転換であった。国司は「赴任してくる都人」から「都にいる名義上の長官」へと変わり、遠江の国府は、中央から名を帯びて君臨する貴族と、この土地に根を張って実務を切り回す在地官人とが層をなす役所になっていった。制度の建前としては依然として律令の国司制が生きていたが、その内実は、律令が想定した姿から遠く離れていた。前章で見た藤原俊成の遠江守も、まさにこの遥任の時代の産物であり、俊成一人の事情ではなく、時代全体の趨勢のあらわれと見るべきである。
やがて、この在庁官人の層のなかから、所領と武力を蓄え、中世の武士へと成長していく家々が現れる。都から派遣される国司が実務から退いた空白を、土地に根ざした実力者が埋めていったのであり、その延長線上に、中世武家社会の担い手が姿を現す。制度が形を変えるとき、権力の重心は、都から来る者の側から、土地に留まる者の側へと、少しずつ移っていったのである。国司制度の変質は、単なる行政の弛緩ではなく、次の時代の主役を準備する土壌をならす過程でもあった。ここに、古代の国府から中世の武家社会へと連なる、磐田の歴史の一本の筋がある。
平安末期、遠江の国司の地位は平家一門の手に渡る。平重盛の一族が遠江守を占め、遠江は平家の知行国として東国支配の足がかりとなった。源平の争乱と鎌倉幕府の成立を経ると、国の実権は守護・地頭へと移り、国司は名目だけの官職として形骸化していく。遠江の政治の中心も、のちの中泉代官所へと引き継がれ、「国司の国府」はその歴史的役目を終えた。国庁の建物はいつしか失われ、国司の名も大半は忘れられたが、「国府」の語は、国府台という地名として、いまも磐田の土地に残り続けている。制度が滅びても地名が生き延びるのは、この土地に確かに国の役所があったことの、消えない証しである。
在庁官人から武士が育つという筋道は、遠江に限った現象ではないが、この国の地勢はその過程を後押しした。東海道が東西に貫き、天竜川という大河を控えたこの地は、交通と物流の要であり、在地に力を蓄える者にとって恵まれた土地であった。国府の実務を握った在庁官人の家々は、国衙の職掌を世襲的に担いながら所領を広げ、やがて武力を備えた在地領主へと成長していく。遠江の中世を彩る武家の多くが、この国衙を母胎とする在地の系譜に連なると考えられており、国司制度の変質は、単に古代の役所が衰えた話ではなく、次の時代の権力がどこから生まれたかを語る話でもある。都から来る守が実務から退いたことは、裏側から見れば、土地の側が歴史の主語になっていく起点であった。
7. 歴代国司はどこまで復元できるか ── 史料批判
ここまで、名の伝わる二人の国司を軸に制度の変遷を追ってきたが、そもそも遠江の歴代国司をどこまで復元できるのかを、史料批判の観点から整理しておきたい。結論から言えば、遠江の完全な歴代国司一覧を示せる史料は伝わっておらず、われわれが名を挙げうるのは、他の目的で編まれた記録に、たまたま国司としての名がとどめられた一部の人物にすぎない。名の伝わることと、その人物が重要であったこととは、必ずしも一致しないのである。
桜井王の名が伝わるのは、彼が政務に優れていたからではなく、その歌が『万葉集』に採られたからである。藤原俊成の遠江守が知られるのも、彼が勅撰集の撰者という和歌史上の巨人であり、その経歴が丹念に記録されたからにほかならない。平家一門の遠江守が知られるのは、平氏の栄華と滅亡が軍記や公家日記に詳細に記されたためである。いずれの場合も、国司としての事績そのものが記録を残したのではなく、和歌や政争という別の文脈が、付随的にその官名を後世へ伝えた。裏を返せば、そうした付随的な光の当たらなかった大多数の遠江守・介・掾・目は、名も事績も記録に残らないまま歴史に埋もれている。
ここで、二つの「ない」を区別しておく必要がある。ある国司の名が管見の限りどの史料にも見あたらないとき、それは「まだ突き当たっていない」という未確認なのか、それとも「もともと記録が作られなかった、あるいは失われて現存しない」という記載なしなのか。この二つは、しばしば外形上は区別がつかない。国司の任免を記した根本史料の類は、遠江について完備した形では伝わらず、断片的な記録を突き合わせて部分的に復元するほかない。したがって、名の伝わらない国司について「いなかった」と断ずることはできず、「記録に残らなかった」とだけ言いうる。この禁欲を守ることが、歴代国司を扱う際の基本姿勢となる。
この史料状況をさらに難しくしているのは、記録の密度が時代によって大きく異なる点である。奈良時代から平安初期にかけては、六国史と総称される国家の正史が編まれ、神階の授与や官人の任免が断片的にせよ記録された。しかし正史の編纂は平安中期に途絶え、以後の地方官人の動静は、公家の日記や社寺の記録、系図といった、性格の異なる史料を寄せ集めて復元するほかなくなる。遠江国司の名が平安後期以降とりわけ捉えにくくなるのは、遠江に人がいなくなったからではなく、その時代の在地を記す史料の枠組みそのものが変わったからである。史料の沈黙を、ただちに歴史の空白と読み替えてはならない。
さらに、名の伝わる国司についても、その人物が実際に磐田へ赴任したのか、遥任だったのかは、多くの場合確認できない。桜井王のように望郷の歌という実赴任をうかがわせる痕跡を残した例は例外的であり、俊成のように遥任と推される例のほうが、平安中期以降はむしろ通例である。したがって、遠江国司の一覧を作ること自体は部分的に可能でも、その一覧を「磐田に赴任した人々の名簿」と読み替えることはできない。名簿に載る名の多くは、磐田の土を踏まなかったかもしれないのである。次の表は、こうした留保のもとで、名の伝わる代表的な遠江国司を、確認できる事柄と確認できない事柄とに分けて整理したものである。
| 人物 | 時代 | 確認できること(史料) | 確認できないこと | 確度の層 |
|---|---|---|---|---|
| 桜井王(大原真人桜井) | 奈良・天平年間 | 遠江守在任と『万葉集』巻8の聖武天皇との贈答歌。 | 府八幡宮創建は社伝で、創建年代の裏づけは未確認。 | 贈答歌=史実/創建=伝承 |
| 藤原俊成 | 平安末 | 遠江守を含む官歴の記録。『千載和歌集』撰者。 | 遠江への実赴任の有無。遥任の可能性が高い。 | 官歴=史実/実赴任=推定 |
| 平重盛の一族 | 平安末 | 平家の知行国として遠江守を占めた事実。 | 個々の在任者の実務の内実。 | 知行国=史実 |
| 多数の無名の国司 | 奈良〜平安 | 制度上、四等官が置かれ続けたこと。 | 個々の氏名・事績。存否そのものは記録なしと未確認の別が難しい。 | 制度=史実/人=未確認 |
8. 結論 ── 制度と人のあいだで国府を読む
本稿は、遠江国府に赴任した国司を、制度と人の両面から読んできた。制度としての国司は、守・介・掾・目の四等官からなり、徴税・裁判・祭祀を包括的に担う任期付きの官人団であった。その骨格は律令の条文から明快に復元できる。しかし、その制度のもとで一人ひとりの国司が何をしたかとなると、記録は途端に乏しくなり、名の伝わる者はごくわずかにとどまる。制度の明快さと、人物の不確かさ──この落差こそが、遠江国司という主題の核心である。
その数少ない名のなかに、桜井王と藤原俊成という、和歌史に名を刻む二人がいた。奈良時代の桜井王は実際に遠江へ赴任し、任地で望郷の歌を詠み、鎮守を祀ったと伝わる。平安末の藤原俊成は、遥任の時代の国守として、おそらくは都にとどまったまま遠江守の官名を帯びた。この二人の対比は、四百年のあいだに国司という制度が「赴任する官人」から「名義上の長官」へと変質したことを、一人ひとりの姿のうちに映し出す。そしてその変質が空けた実務の空白を、在庁官人が埋め、やがて中世武士へと育っていった。古代の国府は、こうして次の時代へと橋を架けている。
本稿が一貫して守ろうとしたのは、確度の層を混同しないという手続きである。桜井王の贈答歌は史料で確認できる史実、府八幡宮創建は社伝すなわち伝承、俊成の遥任は推定、四等官制の骨格は制度史上の通説──同じ国司という主題のうちにも、これだけ異なる確度の事柄が混在する。とりわけ、名の伝わらない国司について「いなかった」と断じないこと、すなわち「未確認」と「記載なし」を区別することを、本稿は最後まで手放さなかった。この禁欲は、地域史を後世の調べものに耐える形で残すための、地味だが不可欠な作法だと考える。
こうして制度と人を往還しながら国司を読むと、地域史の記述について一つの姿勢が定まってくる。土地の歴史を書くとき、私たちはしばしば名の残る人物や確かな出来事だけを拾い上げ、記録に残らなかった大多数を視野の外へ置きがちである。だが、名の伝わらない無数の守・介・掾・目が任地の実務を回し続けたからこそ、国府という役所は数百年ものあいだ機能し得た。記録に残った少数の名の背後に、記録に残らなかった多数の営みを読み込むこと──それもまた、確度の層を守ることと同じく、地域史を誠実に記すための作法である。名の残らなかった官人たちにこそ、国府という役所の日々を支えた無名の重みがあったことを、忘れずに書き添えておきたい。
国司たちは数年で都へ帰る、あるいは初めから都を離れない、いずれにせよ磐田に定住しない存在であった。しかしその定住しない官人たちの営みが、国府と国分寺の礎石として、鎮守の杜として、万葉の一首として、そして国府台という地名として、千年を超えてこの土地に堆積している。国府台の三文字に足を止め、そこにかつて都から来た守や介や目が机を並べ、税を計り、神を祀り、望郷の歌を詠んでいたことを思い起こすとき、磐田の古代は、制度の話としてではなく、生きた人々の話として立ち上がってくる。国司という主題のもっとも深い面白さは、その制度と人のあいだの往還にこそある。歴代国司の復元と、遥任下の在地社会の実態については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 国司の四等官(守・介・掾・目)と職掌の対応、および国の等級による員数の差については、職員令をはじめとする律令の規定と、律令国制史の概説による。四等官制は諸官庁に共通する編成原理である。↩
- 『万葉集』巻8・1614〜1615。遠江守桜井王が聖武天皇へ奉った歌と、天皇の返歌。任地の官人による贈答として原典で確認できる。↩
- 府八幡宮の創建を桜井王に帰する伝えは同宮社伝による。創建年代を直接に裏づける一次史料は、本稿の範囲では確認できていない(未確認)。↩
- 藤原俊成(1114〜1204)の官歴については系図・伝記史料による。加賀守・三河守・遠江守などを歴任。遠江守在任中の実赴任を示す史料は確認できない。↩
- 遥任・目代・在庁官人をめぐる制度変化は、平安中期以降の王朝国家に関する概説で広く論じられている。国により時期・程度に差がある点に留意を要する。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 n071「遠江国司の人々」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、桜井王の贈答歌・四等官制の骨格を史実、淡海国玉神社の総社化を通説、俊成の遥任・総社の成立年代を推定、府八幡宮の桜井王創建を社伝=伝承として扱った。
参考文献・参考資料
- 『万葉集』巻8・1614〜1615(桜井王と聖武天皇の贈答)。
- 『続日本紀』(大原真人桜井関連記事)。
- 『令義解』職員令(国司の四等官と職掌)。
- 『延喜式』神名帳・巻十(遠江国条)。
- 『千載和歌集』(藤原俊成撰)。
- 系図・伝記史料(藤原俊成の官歴に関する記載)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(古代・中世の章)。
- 『静岡県史』通史編 古代・中世。
- 関係自治体史「遠江国司」の項(ADEAC 収録) https://adeac.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 国立国会図書館デジタルコレクション(国司・律令制関連史料) https://dl.ndl.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 n071「遠江国司の人々 ── 磐田の国府に赴任した官人たち」(一般向け記事版) https://iwata-monogatari.net/n071.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 磐田物語 n033「遠江国府はどこにあったのか」 https://iwata-monogatari.net/n033.html (最終閲覧:2026年7月26日)。
- 大石浩之の磐田論考 第187号(遠江国府) https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/187/ (最終閲覧:2026年7月26日)。