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竜洋地区の歴史

室町時代以降の竜洋|戦乱・支配・村のまとまり

太古の巨大な汽水湖「大の浦」が徐々に埋まり、湿田へと姿を変える中世以降、この河口低地は多様な政治的支配の波に洗われることとなった。京都の有力社寺の社領となった中世荘園「池田荘」の時代から、今川氏、武田氏、徳川氏の興亡が激しく交差した戦国期、そして中泉代官所の統治を受けた江戸幕府直轄地(天領)の時代まで、その変遷をたどる。

中世荘園「池田荘」と掛塚港の起源

平安時代末期から鎌倉期にかけて、この地域は天竜川東岸の広大な荘園「池田荘」の一部を構成していた。池田荘は京都の松尾神社の社領(神領)として寄進された経済的基盤であり、当時この地域で最も重要であった天竜川の渡船権や、水辺の利権を握っていた。その規模は現在の磐田市・浜松市にまたがり、およそ20平方キロメートルに及んだと伝わる。遠江国にはこのほかにも村櫛荘・原田荘・初倉荘・鴨江御厨といった荘園が並び立っており、池田荘はその中でも史料が比較的豊富に残る、荘園公領制の東の限界を示す事例の一つに数えられている。現在の竜洋地区にまでその支配は及び、当時の記録には、天竜川を運ばれる木材や物資の中継地として、早くも水辺の集落が形成されつつあった状況がうかがえる。天竜川下流の荘園では、中心となる社が荘域の北西端に置かれ、そこから農業用水を管理する仕組みが取られていたことも指摘されている。

また、室町時代から戦国期にかけては、天竜川の流れの移動に伴い、河口部に「掛塚湊」が成立した。当時の掛塚は、単なる地方の漁村ではなく、京都や鎌倉、伊勢などと遠州東部を結ぶ海上流通の要衝として頭角を現し始めた。戦乱の時代にあって、物資の集散と舟の通行権をめぐる支配が、中世領主たちの間で激しく争われたのである。掛塚は天竜川に三方を囲まれ、南は遠州灘に面するという地形にも恵まれ、のちの江戸時代には、慶長11年(1607年)に京の豪商・角倉了以が幕府の命を受けて天竜川を浚渫し、信濃国平出から遠江国掛塚まで、東大寺大仏殿再建用の木材を筏で運んだという記録も残っている。この舟運の実績が、掛塚をのちに廻船問屋が軒を連ね「遠州の小江戸」と称されるほどの湊町へと押し上げていく素地になったと考えられる。

戦国期の覇権争いと徳川家康の鷹狩り。 戦国時代、遠江国は今川氏の勢力下にあったが、桶狭間の戦い(永禄3年・1560年)以降、今川氏の勢力が急速に衰えると、この地は武田信玄の西上作戦と徳川家康による奪還戦の最前線となった。この間、掛塚や袖浦周辺の諸集落も支配者が幾度も入れ替わる不安定な状況に置かれた。元亀・天正期(1570〜1590年代)には、徳川家康が遠江の平定を進め、掛塚を自らの軍事運送の要衝および経済的な要地として保護した。この時期、すでにこの周辺には多くの定住集落が確立していた。竜洋のすぐ北方、天竜川をはさんだ地域は、武田・徳川の主戦場である一言坂・三ケ野坂・社山城・匂坂城などの古戦場と隣接しており、河口の湊町・掛塚もまた、こうした遠江争奪戦の帰趨と無縁ではいられなかったと考えられる。

安土桃山時代から江戸初期にかけて、徳川家康はたびたび大の浦周辺で鷹狩りを催したことが伝えられている。現在の磐田市内に残る「御殿」という地名は、家康が狩猟の折に滞在した宿館の跡とされ、当時大の浦が広大な浅い湿地帯であり、水鳥の生息する狩猟の適地であったことを如実に物語っている。鷹狩りは単なる娯楽ではなく、領内の地理や治安を実地に把握し、在地の有力者と主従関係を確認する政治的な機会でもあったとされ、家康が繰り返しこの地を訪れたことは、竜洋一帯が遠江支配において軽視できない土地であったことの表れともいえる。

江戸期の天領支配と中泉代官所

江戸時代に入ると、竜洋地区の多くの村々は、幕府直轄の「天領」として配置された。この地は、天竜川河口という重要水路であり、かつ海防・物資の出入港としての掛塚を抱える極めてセンシティブな地域であったためである。地域の行政や検地、年貢の徴収は、現在の磐田市中泉に置かれた「中泉代官所」の支配下で行われた。

江戸中期の宝暦9年(1759年)から文化13年(1816年)にかけては、大名領として井上河内守の支配下に入った時期もあったが、文化14年(1817年)以降は再び幕府の直轄地に戻り、中泉代官所の支配が明治維新まで続いた。「河内守」を名乗った井上家は遠江浜松藩主を務めた家柄で、江戸期を通じて「井上河内守」を称した当主が複数おり、幕政の要職である老中を輩出したこともある家である。天領と大名領との間を行き来したこうした支配の変遷は、遠江という土地が幕府にとって軍事・経済両面で重要視され、時の情勢に応じて統治のかたちが柔軟に組み替えられていたことを物語っている。近世の領主の入れ替わりと厳しい管理の中でも、地域の人々は仂僧川の灌漑用水の共同管理や、砂地を防ぐための防風松林の維持など、村同士が強くまとまり、合議によって日々の暮らしを守る確固たる村落共同体を築き上げていたのである。

この記事で扱う範囲。 本項では、松尾神社の社領「池田荘」の解説、室町・戦国期の支配勢力の変遷、徳川家康の鷹狩りと周辺地形、そして江戸期の中泉代官所による天領統治と、村々の共同管理のあり方について叙述しました。

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  • 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会関係資料、昭和52年(1977年)3月発行相当資料
  • 磐田市・旧竜洋町域に関する公開資料
  • 現地確認:掛塚・袖浦・十束・天竜川河口周辺
  • 千年村プロジェクト「遠江国磐田郡池田庄(荘園)」(池田荘の規模・遠江の荘園群)
  • 「掛塚湊の歴史的変遷-天竜川舟運と海運の結節点として-」(角倉了以の木材輸送・遠州の小江戸)
  • Wikipedia「井上正直」「井上正岑」(河内守を称した浜松藩主)

本文は資料の転載ではなく、公開資料と現地確認をもとに磐田物語用に再構成したものです。