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MEDIEVAL | 竜洋・荘園史 ── 池田荘と保元・平治の乱

池田荘と掛塚湊の起源
── 竜洋の中世荘園史

「室町時代以降の竜洋」(r020)は、竜洋一帯が中世荘園「池田荘」の一部であったことに一文で触れている。ここでは、この池田荘の成り立ちと、京都・松尾神社との関わり、保元・平治の乱をめぐる遠江の武士の動き、そして竜洋町中島の蓮覚寺・海老島の松尾神社に残る伝承までを、提供資料『ふるさと竜洋』に基づいて掘り下げる。
本ページは、提供資料『ふるさと竜洋』(竜洋町教育委員会編、昭和52年〈1977年〉3月刊、「二、町や村を背負った人達」中の「昔や村を背負った人達」「保元・平治の乱」の章)を主な典拠とする。原資料は手書き・スキャンによる旧字体・変体仮名を含み、判読が難しい固有名詞・年代の記載がある。判読に自信が持てない箇所は「[要確認]」と明記した。

京都・松尾神社領「池田荘」とは

荘園とは、貴族や神社・寺院が所有した私有地のことをいう。竜洋町の近くには、池田荘(現在の磐田市長野一帯)や浅羽荘(現在の袋井市浅羽一帯)といった荘園があった。池田荘は、京都・松尾神社の社領(神領)として寄進された荘園であり、天竜川の東岸、現在の磐田市池田・長野一帯を中心とする地域にあたる。

池田荘が松尾神社の社領となった時期について、原資料は嘉応2年(1170年)にはすでに荘名が「池田荘」であったとする記述を伝えている。この年代が池田荘の成立そのものを示すものか、社領としての確定を示すものかは、原資料の記述だけでは判別が難しく、[要確認]としておく。竜洋町袖浦地区の氏神とされる海老島の松尾神社は、京都・松尾神社の分社として、この池田荘の鎮守にゆかりを持つと伝わる。

保元・平治の乱と竜洋の関わり

保元の乱(保元元年〈1156年〉)、平治の乱(平治元年〈1159年〉)は、京都の朝廷・貴族社会の内紛が武士の実力によって決着した、日本の中世社会の転換点となった争乱である。原資料は、この武士の発生・成長の背景として、荘園制度の展開を説明している。すなわち、弱小農民の田地の占有を保護し、あるいは自らの開発した土地を中央の貴族・寺社に寄進することで、地方の武士たちが土地の支配を確かなものにしていった、という経緯である。

竜洋一帯を含む遠江国でも、こうした荘園の展開とともに、在地の武士(地元の開発領主)が力を強めていった。池田荘のような荘園は、こうした地方武士の勢力と、中央の貴族・寺社の権益とが結びついた場として機能したと考えられる。

平重盛が遠江守に任じられた背景

平清盛の嫡男・平重盛(たいらのしげもり)は、遠江守に任じられたと伝わる。当時、遠江国には平氏の勢力が及んでおり、遠江の武士の中には平氏に従った者も少なくなかった。ただし、保元・平治の乱そのものにおいては、遠江方は乱に直接参加しなかったとみられる。

平重盛が遠江守に任じられた具体的な年代・経緯については、原資料の記述だけでは詳細を確認できない。平氏の勢力が遠江に及んでいたことと、池田荘を含む遠江の荘園の管理・保護に平氏がなんらかの形で関与していた可能性はうかがえるが、断定は避ける。

蓮覚寺の古碑が伝えるもの

竜洋町中島には蓮覚寺(れんかくじ)という寺があり、平重盛の三男・平清経(あるいは重盛ゆかりの人物)の位牌を祀っていると伝わる。境内には、平重盛の霊を弔ったとされる古碑が残されているとされる。この寺が、いつ、誰によって、どのような経緯で創建されたのかについては、原資料の記述だけでは詳細を確認できず、[要確認]としておく。

それでも、竜洋町中島という具体的な場所に、平重盛にゆかりのある寺院と伝承が残っていること自体は、池田荘と平氏一門との関わりが、単なる文献上の記録にとどまらず、地域の記憶として今日まで受け継がれてきたことを示している。

池田荘の武士たちと竜洋の在地領主

荘園における「侍」とは、単なる戦士ではなく、土地を守ってもらう見返りに荘園領主に奉仕する在地の武士を指した。彼らは自衛のために武装し、同時に自分の土地(名田)を明らかにすることで、土地の占有を確かなものにしていった。池田荘においても、こうした在地の武士たちが荘園の実務を担い、荘園領主(松尾神社)と地域社会とをつなぐ役割を果たしていたと考えられる。

竜洋一帯の在地領主が、具体的にどのような氏族であったかについては、原資料の記述だけでは詳細を確認できない。ただし、池田荘という荘園の枠組みの中に、竜洋の集落が組み込まれていたことは、地域の中世史を考えるうえで重要な前提となる。

掛塚湊の起源との関わり

r020が紹介するとおり、天竜川を運ばれる木材や物資の中継地として、竜洋には早くから水辺の集落が形成されつつあった。池田荘という荘園の存在は、天竜川の渡船権や水辺の利権をめぐる中世の秩序の一端を示すものであり、後の掛塚湊の発展にも、間接的な連続性があると考えられる。ただし、池田荘の荘園制度と、後世(近世)に廻船の湊として栄えた掛塚湊とを、直接の因果関係で結びつけることは、原資料の記述だけでは根拠が十分でなく、本ページでは慎重に扱う。

用語解説

池田荘(いけだのしょう)
京都・松尾神社の社領であった中世荘園。現在の磐田市池田・長野一帯を中心とする地域にあたる。
名田(みょうでん)
荘園制のもとで、在地の武士・農民が自らの支配・耕作地として明らかにした土地。
侍(さぶらい)
荘園領主に奉仕する見返りに、土地の保護・自衛を担った在地の武士。
蓮覚寺(れんかくじ)
竜洋町中島にある寺。平重盛ゆかりの位牌・古碑を伝えるとされる。

むすび

池田荘という荘園の枠組みは、竜洋という土地が、京都の貴族・社寺の経済圏と結びついた中世社会の一部であったことを示している。保元・平治の乱という日本史上の大きな転換点、平重盛という平氏一門の人物、そして竜洋町中島の蓮覚寺という具体的な場所──これらが一本の糸でつながっていることは、竜洋の中世史に厚みを与えている。竜洋のもう一つの中世の伝説「千手の前」については「千手の前ものがたり」を、室町期以降の竜洋の支配の変遷については「室町時代以降の竜洋」をあわせて読んでいただきたい。

参考資料

  • 『ふるさと竜洋』竜洋町教育委員会編、昭和52年(1977年)3月刊(「二、町や村を背負った人達」の章。出典:提供資料)。
  • 磐田物語「室町時代以降の竜洋」(r020)。

本ページは上記資料をもとに、磐田物語編集部が荘園史編として再構成したものである。r020の簡潔な記述を出発点に、原資料の詳細を掘り下げた。原資料は手書き・スキャンによる旧字体・変体仮名を含み、判読が難しい箇所があり、確定できない事項は本文中に「[要確認]」と明記した。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。

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池田荘という古い荘園の記憶は、竜洋の土地がどのように区切られ、受け継がれてきたかを考える手がかりになります。富士ヶ丘サービス株式会社では、磐田市内の家・土地・空き家の整理について、土地の来歴も大切にしながらご相談をお受けしています。

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