失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第7号(遠江国分寺研究 一)

遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍

国分寺造営の背景・伽藍構造と古代磐田の位置

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市中泉

要旨

聖武天皇が天平13年(741年)に発した国分寺建立の詔を承け、遠江国では国府の置かれた磐田の地に国分寺が造営された。本稿は、遠江国分寺跡を対象に、造営の歴史的背景、発掘調査によって確認された伽藍構造、そして古代磐田が遠江国の中心として占めた位置を、史実・通説・推定・伝承の四つの確度層に腑分けして検討する。昭和26年(1951年)の発掘は、南大門・中門・金堂・講堂を南北の中軸に並べ回廊で結ぶ整然たる配置を地中に確認し、翌年の特別史跡指定へと導いた。一方、七重塔が弘仁10年(819年)に焼けたことは伝えとして残るにとどまり、現行の伽藍が成った年代を一点で記す一次史料は本稿の範囲では確認できない。この「未確認」と「記載なし」の区別を保ちつつ、本稿は近年の木装基壇の確認と金堂復元を、古代の遺構を壊さず地下に守りながら次代へ手渡す営みとして位置づける。あわせて、国府・国分僧寺・国分尼寺が近接して営まれた古代磐田を遠江国の政治と信仰の中心と捉え、この寺跡をその中心性を読み解く鍵の一つとして扱う。

キーワード:遠江国分寺/国分寺建立の詔/遠江国府/伽藍配置/七重塔/木装基壇/古代磐田

1. 問題設定 ── 芝生の広場に何を読むか

磐田市役所の北、市街地のただなかに、芝の広がる静かな公園がある。遠江国分寺跡である。国の特別史跡と聞いて訪れた者の多くは、目の前の広い芝地に少し拍子抜けする。しかし足もとをよく見れば、ところどころに礎石が顔を出し、建物の輪郭が地面に示されている。かつてここに、堂々たる古代寺院が建っていた。本稿の出発点は、この一見なんの変哲もない広場を、古代地方社会の大寺の跡として読み解くにあたり、何が史料で確認できる事柄で、何が伝えや推定にとどまるのかを、あらかじめ腑分けしておくことにある1

遠江国分寺は、律令国家が全国におよそ一斉に展開した国分寺制度の、遠江国における一例である。したがってこの寺を論じることは、磐田という一地域の歴史を語ると同時に、古代国家が地方をどのように編成しようとしたか、その全国的な枠組みのなかに磐田を置き直す作業でもある。一地方の遺跡でありながら、全国史の縮図としての性格を色濃くもつ点に、この寺跡を論考の対象とする理由がある。

ところが、これほど重要な遺跡でありながら、その具体像を語ろうとすると、確からしさの水準は事柄ごとに大きく異なる。造営を命じた詔の年次は正史に記されて動かないが、遠江の寺がいつ完成し、いつ現在確認される姿に整ったのかを一点で記す一次史料は、管見の限り確認できない。七重塔の壮麗は疑いようもないが、その焼亡の年は伝えとして伝わるものである。近代以降の発掘は多くを明らかにしたが、掘って分かることと文字史料が語ることとは、そもそも性格が異なる。こうした確度の落差を一つの平面に均してしまえば、伝えを史実のように語り、あるいは確かな発掘所見を憶測と同列に扱う誤りに陥る。

そこで本稿は、以下の四つの層を語の水準で区別する。第一に史実、すなわち正史や発掘調査報告など一次的な資料によって確認できる事柄。第二に通説、学界で広く支持されるが一点では確定しがたい事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域や社寺に語り継がれてきた事柄である。あわせて、「未確認」すなわち筆者が裏づけとなる史料に突き当たっていない状態と、「記載なし」すなわち史料に当該事項が記されていないと確認できる状態とを、厳密に区別する。この二つを混同すれば、調べればわかる余地のある事柄を、あたかも根源的に不明であるかのように語ることになるからである。

以下ではまず造営を命じた詔とその背景を押さえ(第2節)、次に遠江の寺がなぜ磐田に建ったのかを国府との関係から論じ(第3節)、発掘が描いた伽藍構造を検討する(第4節)。続いて七重塔の焼亡と寺の衰退、近年の再整備を追い(第5節)、それら各事項の確度を表に整理して史料批判を加える(第6節)。そのうえで古代磐田が遠江国のなかで占めた位置を論じ(第7節)、遺構を残すという営みの意味を述べて結ぶ(第8節)。

国分寺制度の枠組みと遠江国分寺 国分寺建立の詔 天平13年(741年)・聖武天皇 諸国に国分僧寺 金光明四天王護国之寺 諸国に国分尼寺 法華滅罪之寺 遠江国分寺(本稿の対象) 国府の地・磐田に造営
図1 国分寺制度の枠組み。全国に一斉に展開された国分僧寺・国分尼寺の制度のなかに、遠江国分寺は位置づく。全国史の縮図としての性格が、一地方の寺跡を論じる意義を支える。

2. 国分寺建立の詔とその背景

遠江国分寺の造営を理解するには、まずそれを命じた国家の意思にさかのぼる必要がある。天平13年(741年)、聖武天皇は国分寺建立の詔を発した。全国の国ごとに寺を建て、そこに七重塔を築き、経を写して納めよと命じた法令である。国分僧寺の正式な名を金光明四天王護国之寺といい、あわせて国分尼寺(法華滅罪之寺)の造営も命じられた。この詔によって、遠江国にも一つの国分寺が建てられることになった。ここまでは正史に基づく史実として扱ってよい2

詔がこの時期に発せられた背景については、学界におおむね共有された理解がある。八世紀前半の日本列島は、たびかさなる災いに揺れていた。とりわけ天平7年(735年)から同9年(737年)にかけて、天然痘とみられる疫病が大流行し、政権中枢を含む多くの人命が失われたと正史は伝える。加えて天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こり、政情は不穏であった。こうした危機のなかで、仏教の力によって国家を安んじようとする鎮護国家の思想が、国政の前面に立ち現れた。国分寺の建立は、その思想を全国の地方社会に及ぼす壮大な事業であった。以上は史料に支えられた通説として述べておく。

ここで確認しておきたいのは、詔が示すのは「制度の起点」であって「個々の寺の完成」ではないという点である。詔が発せられたことと、遠江の地に実際に堂塔が建ち並んだこととは、論理的に別の事柄である。中央が令を下してから、地方が用地を定め、資材を集め、工人を動員し、伽藍を完成させるまでには、相応の年月を要したはずである。全国の国分寺の造営が、財政や労働力の制約から遅々として進まず、後に督励の詔が重ねて出された例が正史に見えることからも、造営が一挙に成ったのではないことがうかがえる。したがって「遠江国分寺は741年に建った」と一年で言い切ることには、方法上の慎重さが要る。741年はあくまで制度が発足した年であって、遠江の伽藍が整った年ではない。

もう一点、詔の求めた七重塔について付言しておく。詔は各国に七重の塔一基を建てることを命じ、そこに金字の経を安置させたと伝わる。塔は国分寺の象徴であり、遠江の寺にも高くそびえる塔が建てられた。ただし、その塔が詔の発布と同時に完成したわけではないこと、そして遠江の塔が実際に七重であったか否かは発掘所見に基づく推定であることは、後の節で改めて区別して論じる。制度が求めた理念形と、遠江の地に実現した具体形とを、つねに別の水準として扱うことが、本稿の一貫した姿勢である。

詔が塔とともに写経を求めた点には、この事業の性格がよく表れている。各国の塔には金字の経を納め、寺では護国の経典を転読することが期待された。すなわち国分寺は、単に堂塔を築く土木の事業ではなく、経の力によって国土を鎮め守るという宗教的な機能を担う装置として構想されていた。遠江の寺もまた、この構想の一翼として営まれたはずである。ただし、遠江国分寺に納められた具体的な経巻や、そこで営まれた法会の実態を直接に伝える一次史料は、本稿の範囲では確認できない。制度が求めた宗教的機能の理念形は法令から復元できるが、遠江の地でそれがどのように具現したかは、なお未確認の領域として残る。ここでも、制度の理念と地方の実態とを取り違えないことが求められる。

3. 遠江国分寺の立地 ── 国府の地に建つ

なぜ遠江の国分寺は、この磐田の地に建てられたのか。答えは明快である。ここが当時、遠江国の役所すなわち国府の置かれた地であったからである。国分寺制度は、寺を国府の所在する地、あるいはその近傍に建てることを基本とした。国府は国司が政務を執る地方統治の中心であり、その鎮護のための寺を近くに置くことは、鎮護国家の理念を地方の統治秩序と結び合わせる意味をもった。古代の磐田が遠江という国の中心であったことは、国府と国分寺がともにこの地に置かれた事実に、端的に表れている。

もっとも、その前提となる遠江国府の所在そのものは、なお論点を残す主題である。国府が磐田周辺に置かれたとする見方は有力であるが、その具体的な位置をめぐっては複数の説があり、一点に確定しているとは言い難い。この国府所在論に深入りすることは本稿の範囲を超えるが、国分寺の立地を国府との近接から説く議論が、国府の所在という別の未確定の問いの上に立っていることは明記しておく必要がある。ここでは、国府が磐田周辺にあったとする理解を通説として受け、その近傍に国分寺が営まれたという関係を史実として扱うにとどめる。

現地の地理も、この立地を今に伝えている。JR磐田駅の北口から、まっすぐ北へのびる通りがある。地元では別称でも呼ばれるが、正式な名を「天平通り」という。この道の名が天平であるのは偶然ではない。道の先、市役所の北側に広がる芝地こそ、奈良時代すなわち天平の世の、遠江国の中心があった場所だからである。駅前の通りが古代の元号を名に負っていること自体が、このまちが古代磐田の記憶を地名として保持してきたことの証左である。

国分寺は、単独で建っていたわけではない。少し南には国分尼寺の跡もあり、天平通りを歩けばわずか数分でその跡に行き着く。さらにこのあたりには国府があり、役人が行き交い、人と物が集まっていた。国府・国分僧寺・国分尼寺という、古代地方社会の統治と信仰の中枢をなす施設群が、狭い範囲に集中して営まれていた。この施設の集中は、磐田が遠江国の政治と信仰の中心地であったことを、空間の配置として物語る。国分寺の立地は、こうした古代都市的な空間の一角として理解されるべきである。

国分寺の造営は、国府に拠る国司にとって重い責務でもあった。中央の求める伽藍を地方で実現するには、労働力の徴発、資材の調達、工期の管理といった実務を、国司の統率のもとに進めねばならない。遠江国分寺の整然たる伽藍が地に成ったこと自体が、国府の行政機構が現実に機能していたことの傍証となる。その意味で、国府と国分寺とは、統治の拠点と鎮護の拠点という役割の違いを超えて、同じ地方行政の力によって支えられた一対の施設であった。両者が近接して営まれたことは、制度上の要請であると同時に、造営を担う実務上の合理でもあったと考えられる。国府の地に大寺が建つという構図は、遠江に限らず全国の国分寺に共通する枠組みであり、その一般的な枠組みが磐田においてどのように具現したかを問うことが、本稿の視点である。

古代磐田の中枢施設 ── 統治と信仰の集中 遠江国府 政務の中心 国分僧寺 七重塔・金堂 国分尼寺 南に近接 総社 国内神祇 国府の近傍に国分寺を営む制度が、統治と鎮護の理念を空間として結んだ(配置は模式)。
図2 古代磐田の中枢施設の模式配置。国府・国分僧寺・国分尼寺が近接して営まれた。相互の正確な位置関係は国府所在論と関わり、ここでは概念的な近接を示すにとどめる。

4. 伽藍構造と発掘調査

遠江国分寺の具体像を、憶測ではなく資料に基づいて描けるのは、近代以降の発掘調査によるところが大きい。昭和26年(1951年)、この地で本格的な発掘調査が行われた。その成果は研究者を驚かせるものであった。南北にのびる中軸線に沿って、南から南大門・中門・金堂・講堂が一直線に並び、金堂と中門は回廊で結ばれていた。そして回廊の西外側には、塔の跡が確認された。整然とした伽藍の配置が、地中にほぼそのまま残されていたのである。国分寺の跡で、これほど主要な建物の配置がはっきりと確認できた例は、当時、全国でも初めてのことであった3

この発掘所見は、確度の点で重要な位置を占める。文字史料が遠江国分寺の伽藍について多くを語らないなかで、地中に残された遺構は、建物の位置と規模を直接に証言する一次的な資料である。南大門から講堂までを南北軸に配し、回廊で金堂と中門を囲むという構成は、古代寺院の典型的な伽藍配置の一類型に連なる。したがって、遠江国分寺の伽藍が整然たる計画のもとに造営されたことは、発掘に基づく史実として述べてよい。芝地の下に眠っていたのは、単なる建物の残骸ではなく、古代国家が地方に実現しようとした理念形の、具体的な痕跡であった。

もっとも、塔について一言の留保を要する。回廊の西外側に確認された塔跡は、詔が求めた七重塔にあたると推定される。ただし、地中の基壇や礎石から塔の平面規模は復元できても、それが実際に何層であったかを地下遺構だけから一義的に確定することには、慎重さが要る。本稿は、この塔を「七重と推定される塔」として扱い、詔の理念形(七重)と発掘所見(塔基の規模)とを直結させて断定することは避ける。詔が七重を求めたことは史実であり、遠江の塔がその求めに応えた壮大な塔であったことも遺構が示すが、両者を等号で結ぶには推定の媒介を要する、という区別である。

整然たる配置が地中に残されていたという事実は、それ自体が古代磐田の営みの質を語る。伽藍を南北の中軸に沿って計画的に配し、回廊で堂塔を囲むには、用地の測量、資材の調達、工人の動員を統御する組織的な力が要る。地方の一国において、中央の求める理念形をこれだけの規模で地に実現しえたことは、遠江国の造営力の高さを示す。芝地に顔を出す礎石の一つひとつは、その造営を担った古代の人々の手の痕跡であり、足を運んで塔の礎石の大きさに触れれば、文字史料の乏しさを超えて、当時の伽藍の偉容を身体の実感として受け取ることができる。遺構が語るこの直接性は、後世の伝えや推定とは異なる、発掘ならではの証言力である。

発掘の成果は、翌昭和27年(1952年)の特別史跡指定へと結実した。特別史跡は、史跡のなかでも特に重要なものに与えられる、いわば国宝に準じる格である。国分寺跡で特別史跡に指定されているのは、全国でもこの遠江国分寺跡と、常陸国分寺跡(茨城県石岡市)、上野国分寺跡(群馬県高崎市・前橋市)の三つだけであるという4。市街地のただなかに、これほどの遺跡が奇跡的に残り、しかも早い時期に学術調査の対象となった。その値打ちは、芝生の広場という現在の見た目からは、なかなか伝わりにくい。

発掘で確認された伽藍配置(模式) 寺域(およそ一町四方と推定) 南大門 中門 金堂 講堂 七重と推定 北 ↑
図3 発掘で確認された伽藍配置の模式図。南北の中軸に南大門・中門・金堂・講堂を並べ、金堂と中門を回廊で結び、その西外側に塔が建っていた。塔の層数は発掘所見からの推定である。

5. 七重塔・衰退・再整備

伽藍のなかでとりわけ目をひくのが、七重と推定される塔である。詔が求めたとおり、遠江の寺にも高くそびえる塔が建っていた。天をつくような塔は、遠江のまちのどこからも望まれたであろう。だが、その塔は永くは残らなかった。平安のはじめ、弘仁10年(819年)の火災で焼け落ちたと伝えられている。この焼亡の年紀は、後世に伝わる伝承ないし記録として扱うのが穏当であり、焼失そのものの事実性と、819年という具体的な年次の確度とは、区別して受け取る必要がある。塔の礎石は今も残っており、足を運べば、その大きさから当時の塔の偉容をしのぶことができる。

塔の焼亡は、寺全体の運命を先取りするものでもあった。平安中期をすぎると、国家の手あつい保護がうすれるにつれ、遠江国分寺もしだいに衰えていったと考えられている。広大な伽藍を維持しつづけることは、中央からの財政的支えを欠いては容易でなかった。やがて建物は失われ、寺域は田畑となり、かつての寺の輪郭は地表からほとんど消えた。西側に土塁の一部がわずかに残るのみとなったと伝わる。この衰退の過程は、個々の年次を一次史料で追えるものではなく、律令的な地方寺院が中世へ向けて置かれた一般的な状況からの推定を含む。

しかし、地表から消えたことは、記憶が失われたことを意味しない。田畑の下に眠った礎石と基壇は、千年あまりの時を越えて、近代の発掘調査によってふたたび姿をあらわした。前節で見た昭和26年(1951年)の調査は、その最初の大きな一歩であった。土の下で、まちのはじまりの記憶は守られていたのである。ここに、地上の建物が失われても地下の遺構は残るという、遺跡というものの二重性が現れている。

近年、磐田市はこの史跡の再整備を進めている。平成から令和にかけて行われた発掘調査では、新たな発見もあった。主な建物の基壇――建物をのせる土台の部分――が、すべて木で装われた「木装基壇」であったことが、全国の古代寺院跡で初めて確認されたのである。これは遠江国分寺跡ならではの特徴であるという5。基壇を石ではなく木で化粧するこの手法の確認は、古代寺院の造営技術を考えるうえでの新知見であり、発掘が過去の事柄を今なお更新しつづけることを示す例でもある。

令和に入ってからは、その成果をもとに金堂の基壇が復元された。かつての遺構を地下にそのまま保存したうえで、その真上に、当時と同じ大きさの木装基壇を再現している。木装基壇の金堂を復元した例は、全国の国分寺のなかでも、ここが初めてであるという。金堂の正面では石の階段の跡も見つかり、これも当時の姿に整えられた。芝の広がるだけであった公園に、少しずつ、天平の時代の輪郭がよみがえりつつある。憶測でつくりかえるのではなく、調査で確かめられたことだけをていねいに形にするという方針が、この整備の底には流れている。

6. 史料批判と確度の層

ここまで見てきた諸事項は、しばしば一連の「遠江国分寺の歴史」として、同じ調子で語られる。しかし各事項は、依拠する資料の性格が根本的に異なる。造営を命じた詔は正史に、伽藍配置は発掘所見に、塔の焼亡年は後世の伝えに、衰退の過程は一般的状況からの推定に、それぞれ基盤を置く。資料の層が異なる事柄を同一平面で均すことは、方法として適切でない。以下の比較表は、主要な事項をその内容・依拠資料・確度の層・史料批判上の留意点において対等の粒度で並べ、確からしさの水準を可視化することを目的とする。

表1 遠江国分寺をめぐる主要事項の確度 ── 内容・依拠資料・確度の層・史料批判上の留意点
事項主な内容依拠する資料確度の層留意点(史料批判)
国分寺建立の詔天平13年(741年)、諸国に国分寺造営を命じる。正史(国家の編纂物)。史実制度の起点であり、遠江の寺の完成年ではない。
造営の背景疫病・政情不安を承けた鎮護国家の思想。正史の疫病・変乱記事、学説。通説背景として広く支持されるが、遠江の造営動機を直接記す史料はない。
伽藍配置南大門・中門・金堂・講堂を中軸に並べ回廊で結ぶ。昭和26年(1951年)発掘調査。史実地下遺構が直接証言する。全国初の明瞭な配置確認例。
七重塔回廊の西外側に塔。詔は七重を求めた。発掘所見、詔の規定。推定塔基の規模と層数(七重)を等号で結ぶには媒介を要する。
塔の焼亡弘仁10年(819年)の火災で焼失。後世に伝わる伝え・記録。伝承焼失の事実性と年次の確度は分けて受け取る。
木装基壇主要基壇が木装。全国の古代寺院跡で初確認。平成〜令和の発掘調査。史実発掘が知見を更新しつづける例。遠江国分寺跡の特徴とされる。

この整理から見えてくるのは、遠江国分寺の像が、性格を異にする複数の資料の重ね合わせとして成り立っているという事実である。正史は制度の起点を、発掘は建物の実在と配置を、伝えは塔の末路を、それぞれ異なる仕方で証言する。どの一つを欠いても像は痩せるが、どの一つも単独では全体を語らない。とりわけ重要なのは、文字史料が遠江国分寺の造営過程や完成年を詳しく語らないという「沈黙」の扱いである。この沈黙を前にして、現行の伽藍が成った年代を一点で示す一次史料は、本稿の範囲では確認できていない

ここで、繰り返し強調してきた区別を改めて適用しておく。すなわち、成立年代を裏づける一次史料に筆者が突き当たっていないという「未確認」の状態と、そのような史料が存在しないと確認できる「記載なし」の状態とは、別物である。造営年に関する史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのか、あるいは元来そうした年次の記録が作られなかったのかは、それ自体が別個に検証を要する問いである。地方文書や近世の地誌、社寺の記録を博捜することで、この未確認の状態が一歩前進する余地は残されている。史料の沈黙を根源的な不明と取り違えないことが、今後の調査に開かれた記述の条件である。

史料批判の作業は、郷土史の記述にとって一定の含意をもつ。古代の遺跡を語るとき、私たちはしばしば、断片的な事実のあいだを想像で埋め、なめらかな物語を仕立てたい誘惑に駆られる。しかしその態度は、確度の異なる情報を一つの平面に押し込め、推定を史実と偽り、伝えを確かな事柄のように語ることにつながりやすい。ここで採った確度の層の区別は、そうした性急な均一化を避け、それぞれの事柄を、それが属する層のなかで正当に評価するための手続きである。発掘で確かめられたことは史実として、伝えられてきたことは伝承として、その位置を保ったまま書き留める。これは古代寺院跡に限らず、地域史一般に適用できる記述の作法である。

史実 詔・発掘所見 配置・木装基壇 通説 造営の背景・国府近接 推定 塔の層数・衰退過程 伝承 819年の塔焼亡 確度の四段階 ── 混同しないための弁別 本稿は各事項をこの四段階に腑分けし、層をまたぐ断定を避ける。
図4 確度の四段階。遠江国分寺をめぐる諸事項は、史実・通説・推定・伝承の異なる層に属する。層を混同せず、語の水準で書き分けることが史料批判の前提となる。

7. 古代磐田の位置づけ

遠江国分寺を論じることは、それ単独の寺の歴史を超えて、古代磐田が遠江国のなかで占めた位置を問うことに通じる。磐田というまちには、もともと古い時代の記憶が幾重にも積もっている。市内には九百基を超える古墳が点在し、二万年ほど前の旧石器時代から人の暮らしがあったとされる。そうした長い時間の堆積のうえに、奈良時代、国府と国分寺が置かれた。国家の地方統治の拠点と、その鎮護のための大寺とが、この地に相前後して営まれたのである。磐田が「遠江のはじまりの地」と呼ばれるゆえんの一つは、ここにある。

市内に点在する九百基を超える古墳は、国府・国分寺以前から、この地に有力な集団が根を張っていたことを物語る。古墳を築くには、労働力を組織し、それを長く維持する社会の厚みが要る。遠江国の国府が磐田に置かれた背景には、こうした古墳時代以来の地域的な基盤があったと見ることは、無理のない推定である。奈良時代に国家が国府と国分寺をこの地に据えたのは、更地に中心を新設したというより、すでに人と富の集まっていた場所に、律令的な秩序を重ねたものと解しうる。古代磐田の中心性は、国家の制度が一方的に与えたものではなく、在地の歴史的な蓄積と国家の編成とが出会う地点に生まれたのである。この見方に立てば、遠江国分寺は、外から運ばれてきた制度の産物であると同時に、在地の力がそれを受けとめて実現した所産でもあった。

国分寺の存在は、古代磐田を単なる一地方ではなく、遠江国の政治と信仰の中枢たらしめた。前節までに見たとおり、国府・国分僧寺・国分尼寺が近接して営まれ、役人と工人と参詣の人々が行き交った。寺と役所と市が一体となった、遠江国の中心地としての磐田の姿が、そこから浮かび上がる。国分寺は、その中枢を宗教的に支える装置であった。鎮護国家の理念が全国に及ぶなかで、遠江におけるその結節点が、この磐田の地に据えられたのである。

この古代の中心性は、後の時代の磐田を理解するうえでも見過ごせない。中世以降、見付は東海道の宿場町として、また遠江の信仰の地として栄えるが、そのにぎわいは古代の国府・国分寺以来の土台の上に重なっていったものと見ることができる。遠江国分寺跡を扱った一般向けの記録1もまた、この寺跡を「遠江のはじまりの地」の象徴として位置づけている。もっとも、古代の中心性がそのまま後世の連続的な繁栄を保証したと単純化することには慎重でありたい。古代の国府・国分寺の中心性と、中世の宿場町の繁栄とは、担い手も性格も異なる。両者の連続と断絶をどう見るかは、なお検討を要する主題であり、本稿は古代の中心性を確認するにとどめ、その後世への接続は推定の水準で示唆するにとどめる。

あわせて記しておきたいのは、こうした古代磐田の像が、決して観念だけで成り立っているのではないという点である。国府の所在、国分寺の伽藍、古墳群の分布といった、地に刻まれた具体的な痕跡が、この像を支えている。遠江国分寺そのものを扱った特集や、国府をめぐる諸説を検討した記録が示すように、古代磐田の中心性は、複数の遺跡と史料を突き合わせることで、はじめて確度をもって語りうる。個々の遺跡を孤立して見るのではなく、国府・僧寺・尼寺・古墳群を一つの空間として結び直すこと。その作業のなかで、遠江国分寺は、古代磐田を読み解くための鍵の一つとして立ち現れる。

古代磐田の時間の層 ── 積み重なる中心性 旧石器〜2万年前から 古墳時代900基超の古墳 奈良時代国府・国分寺 中世以降見付宿の繁栄 奈良時代の中心性(青)は史実に支えられ、中世への接続は推定を含む。
図5 古代磐田の時間の層。旧石器時代以来の人の営みの堆積のうえに国府・国分寺が置かれた。奈良時代の中心性と中世の繁栄との接続は、なお検討を要する主題である。

8. 結論 ── 遺構を残すという営み

本稿は、遠江国分寺を対象に、造営の背景・立地・伽藍構造・衰退と再整備、そして古代磐田の位置を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。造営を命じた天平13年(741年)の詔は正史に確認できる史実であるが、遠江の伽藍が完成し、現在確認される姿に整った年代を一点で記す一次史料は、本稿の範囲では未確認である。昭和26年(1951年)の発掘が確認した整然たる伽藍配置は、この空白を発掘所見で埋める確かな史実であり、七重塔の弘仁10年(819年)焼亡は伝えとして、衰退の過程は推定として、それぞれ異なる層に位置づけられる。

これだけの事柄を前にすると、断片をなめらかな物語へと縫い合わせ、「遠江国分寺の一千三百年」を一息に語りたくなる。しかし確度の層を均してしまえば、史実と伝えと推定の区別は失われ、この寺跡が今なお開いている問いも見えなくなる。詔の理念形(七重の塔)と発掘の具体形(塔基の規模)を等号で結ばないこと、「未確認」と「記載なし」を取り違えないこと、伝えを史実の劣位に置かず、発掘所見を憶測と同列に扱わないこと。この禁欲的な手続きこそが、古代の大寺の跡を後世の調べものに耐える形で残す方途である。

その姿勢は、実は磐田市の史跡整備そのものにも通じている。近年の再整備は、遺構を壊さず地下にそのまま保存したうえで、その真上に、調査で確かめられた範囲の姿だけを重ねていく。木装基壇の確認という新知見に基づいて金堂の基壇を復元しながら、地下の本物の遺構には手をつけない。憶測でつくりかえるのではなく、確かめられたことだけをていねいに形にする。この整備の作法は、確度の層を区別しながら記述するという本稿の方法と、期せずして同じ倫理を分かち合っている。わかったことは形にし、わからないことは空白として残し、地下の本体は次代の調査に委ねる――それは、記述と保存に共通する「残す」という営みの核心である。

この保存と復元の二層構造は、遺跡というものの性格をよく体現している。地上に見えるのは、調査で確かめられた範囲を再現した木装基壇であり、その足もとの地下には、千三百年近くを地に眠ってきた本物の遺構が、手をつけられぬまま守られている。見せる部分と守る部分とを分け、確かめられた範囲だけを地上に立ち上げるこの手法は、遺構を消費せずに継承する一つの解である。復元された姿は完成形として固定されるのではなく、地下の本体に新たな調査が加われば、その理解もまた更新されうる。芝生の広場は、過去を封じ込めた記念碑ではなく、なお問いに開かれた現在進行形の場として、次の世代へ手渡されようとしている。

保存と復元の二層構造(断面模式) 地表面 復元された木装基壇(金堂) 調査で確かめた範囲を再現・地上 保存された本物の遺構(基壇・礎石) 手をつけず地下に守る・約1300年 見せる部分と守る部分を分け、遺構を消費せずに継承する。
図6 保存と復元の二層構造の断面模式。地下に本物の遺構を保存し、その真上に、調査で確かめられた範囲だけを木装基壇として復元する。憶測でつくりかえず、地下の本体は次代の調査に委ねる。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、遠江の伽藍の造営過程と完成年については、地方文書や近世の地誌、社寺の記録を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、塔の焼亡を伝える819年という年紀の典拠を史料的にたどり直すことは、伝承と史実の境界を精確にする作業となる。第三に、古代の国府・国分寺の中心性と、中世の見付宿の繁栄との連続・断絶は、国府所在論とあわせて検討されるべき主題である。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。芝生の広場の足もとに眠る古代の大寺は、確度の層を保ったまま資料を積み上げていく地道な手続きの先に、少しずつその全体像を結んでいくはずである。国分尼寺跡の実態、および遠江国府の所在をめぐる諸説の検討については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。

本稿の舞台である中泉や見付をはじめ、古い歴史を刻む磐田の土地には、代を重ねて受け継がれてきた家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 遠江国分寺跡の概況・史跡整備の経緯については、磐田物語の一般読者向け記事「遠江国分寺跡と、古代磐田のはじまり」(n016)に拠るところが大きい。本稿は同記事の内容を、郷土史研究者向けに確度の層を区別して再構成したものである。
  2. 天平13年(741年)の国分寺建立の詔、国分僧寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)の制度については正史に基づく。詔は制度の起点を示すものであり、個々の国分寺の完成年を示すものではない。
  3. 昭和26年(1951年)の発掘調査で、南大門・中門・金堂・講堂を中軸に並べ回廊で結ぶ配置が確認された。国分寺跡で主要建物の配置がこれほど明瞭に確認できた例は当時全国で初とされる。
  4. 遠江国分寺跡は昭和27年(1952年)に特別史跡に指定された。国分寺跡の特別史跡は、遠江国分寺跡・常陸国分寺跡(茨城県石岡市)・上野国分寺跡(群馬県高崎市・前橋市)の三例とされる。
  5. 平成〜令和の発掘調査で、主要基壇が木で装われた「木装基壇」であることが全国の古代寺院跡で初めて確認され、これに基づき令和期に金堂基壇が復元された。

付記:本稿は一般読者向け記事 n016 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、741年の詔および1951年の発掘所見を史実、造営の背景を通説、塔の層数・衰退過程を推定、819年の塔焼亡を伝承として扱った。

参考文献・参考資料

  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 磐田市教育委員会編『特別史跡遠江国分寺跡』(発掘調査・史跡整備関係報告)。
  • 『続日本紀』天平13年(741年)条ほか、国分寺建立の詔および造営督励関係記事。
  • 坪井清足ほか編『古代寺院の伽藍配置』に関する概説(国分寺伽藍の類型について)。
  • 遠江国分寺跡・国分尼寺跡の発掘調査に関する各年次報告。
  • 磐田市観光協会「遠江国はじまりの地 ── 磐田に刻まれた歴史をたどる旅」。
  • 府八幡宮・遠江総社淡海國玉神社 由緒書(国府・総社関係)。
  • 磐田市『磐田の古墳』ほか、市内古墳群に関する概説資料。
  • 磐田市公式ウェブサイト「遠江国分寺跡整備事業」「遠江国分寺跡整備工事の様子」 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田市観光協会「遠江国分寺跡」 https://www.iwata-kankou.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」特別史跡の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • コトバンク「遠江国分寺跡」(日本歴史地名大系・日本大百科全書) https://kotobank.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 n016「遠江国分寺跡と、古代磐田のはじまり」 https://iwata-monogatari.net/n016 (最終閲覧:2026年7月25日)。