磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第4号(天領中泉研究 一)
中泉御殿と天領中泉 ── 徳川直轄地の統治
中泉御殿・代官支配と町場の形成
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
現在の磐田駅周辺にあたる中泉は、近世を通じて幕府直轄地=天領を束ねる行政の町であった。本稿は、徳川家康が天正15年(1587)頃に築いたと伝わる中泉御殿を起点として、中泉における直轄地統治の構造を検討する。まず御殿の成立と機能を史料の性格に即して腑分けし、次いで中泉代官所による天領支配の管轄構造を確認する。そのうえで、幕末の代官林鶴梁から明治初年の初代中泉奉行前島密へと、統治の担い手が交替しながらも「直轄地を治める町」という性格が持ち越された過程を追う。台地の西の低地という地理条件が御殿・代官所・のちの鉄道駅の立地を方向づけた点を確認し、御殿1万坪の伝承や地名の由来など一次史料で確定しがたい事柄については「未確認」と「記載なし」を区別して扱う。最後に、失われた御殿の記憶が「御殿」の町名として土地に刻まれた経緯を跡づけ、直轄地統治の痕跡をいかに後世へ残すかを論じる。起源や規模をめぐる伝承と、公文書から跡づけうる史実とを同一平面で語らないことを、本稿の記述上の基本方針とする。
キーワード:中泉御殿/天領/中泉代官所/徳川家康/前島密/林鶴梁/磐田原台地
1. 問題設定 ── 天領中泉をどう記述するか
現在の磐田市中泉、すなわち磐田駅の北側を中心とする一帯は、江戸時代を通じて幕府の直轄地を束ねる行政の町であった。街道の宿場として名を知られた見付が台地の上の「道の町」であるとすれば、中泉はその西の低地に開けた「政(まつりごと)の町」である。この対照は郷土史のうえでしばしば語られてきたが、では中泉が具体的にどのような統治の仕組みのなかに置かれ、その仕組みが時代とともにどう引き継がれたのかを、確度の異なる情報を腑分けしながら記述した論考は多くない。本稿の課題は、この直轄地統治の構造を、史料の性格に即して整理し直すことにある。
中泉を語る際に中心となる事物は三つある。徳川家康が置いたと伝わる中泉御殿、天領を治めた中泉代官所、そして明治初年に置かれた中泉奉行である。これらはいずれも「中泉が統治の拠点であった」という一点で連なっているが、成立の時期も、依拠しうる史料の性格も一様ではない。御殿の築造年紀は伝承として伝わる部分を含み、代官所の機構は近世を通じて変遷し、奉行は幕藩体制から新政府への過渡に置かれた短命の役職である。これらを同じ確からしさで並べて語れば、伝承を史実のように扱う誤りに陥りやすい。
そこで本稿は、情報を四つの確度層に腑分けする枠組みを用いる。第一に史実、すなわち編纂物や文書など史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界や地域の記述で広く共有されているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避けることを、以下の検討の基本姿勢とする。
あわせて、本稿では「未確認」と「記載なし」を厳密に区別する。ある事柄について一次史料に突き当たっていないことは、その事柄を裏づける史料が存在しないと断定できることを意味しない。史料が現に伝わらないのか、伝わっているが筆者が把握していないのか、あるいは元来そうした記録が作られなかったのかは、それぞれ別個に検証を要する問いである。この区別を保つことは、御殿の規模や地名の由来といった、確定しがたい細部を扱ううえで欠かせない。
先行する記述を概観しておく。中泉の成り立ちについては、磐田市の文化財資料や市史、角川『日本地名大辞典』などの地名辞典が基礎的な情報を提供してきた。近年は磐田市の企画展や文化財だよりが、絵図・公図・発掘調査の成果を交えて中泉御殿の実像に迫っている。一般読者向けには、当サイトの中泉御殿のあった町が地形・年表・人物表で全体像を整理し、中泉代官所が天領支配の機構を、資料で読む中泉御殿の史実が企画展資料に基づく御殿の用途・遺構を扱っている。本稿はこれらの記述を、確度の層を明示しながら統治の構造として組み直すことを企図する。
2. 中泉という土地 ── 台地の西の低地
統治構造の検討に入る前に、中泉という土地の地理的条件を確認しておく。中泉は、磐田市の中央を南北にのびる磐田原台地の西側、天竜川寄りの低地に位置する。台地の上は水を得にくく、古くは原野や畑地が広がっていたのに対し、台地のへりから水がしみ出す低地は、田を開き人が住むのに適していた。中泉が「泉」という字を名に持ち、近隣に大泉町・今之浦といった水辺由来とみられる地名が並ぶことは、この一帯が湧水や浅い地下水と深く結びついた土地であることを示している。これらは地形と地名から確認できる史実の水準の事柄である。
この地形条件は、中泉の歴史を通じて一貫して働いた要因である。平らで水に恵まれ、広い用地を確保しやすい低地は、御殿のような広壮な屋敷を構えるにも、代官所という役所を置くにも、そして近代に入って広い敷地を要する鉄道駅を設けるにも都合がよかった。中泉が時代ごとに「そのときいちばん大事な施設」を引き寄せ続けた背景には、この地形の有利さがある。もっとも、地形が立地を「方向づけた」という見立ては、事実に基づく筆者の解釈=推定であって、地形が一義的に立地を決定したと断ずるものではない。地形は人がどこに何を建てるかを静かに条件づけるが、そこには地元有力者の動きや政治的判断といった別の要因も重なる。
見付と中泉の対照も、この地形から理解できる。見付は台地の南端にあって東海道の宿場町として栄えた「道の町」であり、中泉はその西の低地にあって天領の役所を擁した「政の町」である。両者はわずかな距離をへだてて隣り合いながら、地形も役割も異なる町として歩んできた。この二つの中心は、しばしば「古い中心(見付)」と「新しい中心(中泉)」として対立的に語られるが、実際には近接して互いを補い合い、やがて一つの磐田町へと束ねられていく。中泉の統治史は、この二つの中心のうち低地の側に営まれた行政の記録として読むことができる。
なお、中泉の地形と沿革の全体像、および見付との関係については一般読者向けの中泉御殿のあった町に整理があり、本稿はそれと重複を避けつつ、統治の構造という一点に焦点を絞る。地形の把握はあくまで統治史を読むための前提であって、本稿の主眼は、この土地のうえに置かれた御殿・代官所・奉行という統治の装置が、どのような史料に支えられ、どの程度の確からしさで語りうるのかを腑分けすることにある。
低地であることは、統治の拠点を置くうえで利点ばかりをもたらしたわけではない。天竜川に近い沖積低地は、豊かな水を約束すると同時に、洪水や湛水の危うさを絶えず抱えていた。中泉代官所が治水・川除を重い職掌として担ったこと、幕末の代官が地震・災害への対応にあたったと伝わることは、この土地が水とともにある恵みと危うさの両面を背負っていたことと無縁ではない。水に恵まれた低地という条件は、田を潤し人を集める一方で、それを治める行政を不断に要求した。中泉が「政の町」であり続けた背景には、この治めるべき自然の存在もあったとみるのが穏当であろう。
3. 中泉御殿の成立と機能 ── 家康との関わり
中泉の名を統治史の表舞台に押し上げたのが、徳川家康による中泉御殿の造営である。中泉御殿とは、将軍・大名級の人物の宿泊や休息のために設けられた屋敷を指し、天正15年(1587)頃の築造とされる1。家康は遠江・三河を本拠とした時期から、この地域を東西の往来と統治の要として重く見ており、中泉御殿はその家康が低地の町・中泉に置いた拠点であった。この御殿の存在が、のちの中泉代官所による天領支配の素地を用意したと考えられる。
御殿の機能 ── 宿泊・休息と鷹狩りの拠点
確認できる機能。中泉御殿の第一の機能は、東海道の往来にあたって家康が宿泊・休息する拠点であった点にある。加えて、この一帯は家康の鷹狩りの場としても用いられたと伝わる。低地の平坦な地形と水辺の環境は、鷹狩りに適した野を提供し、また多くの供を伴う一行の滞在を支える用地の確保を容易にした。御殿が単なる別業ではなく、往来と狩猟という将軍家の営みを支える機能的な施設であったことは、その立地条件からも整合的に理解できる。
規模をめぐる留意。御殿の敷地は1万坪ともいわれるが、この数値の典拠については慎重に扱う必要がある。現存する遺構が限られるため、御殿の正確な規模や構造を一次史料から確定することは難しい。「1万坪」という数字は、御殿の広壮さを伝える伝承として受け止めるべきものであって、実測に基づく確定値として引くことはできない。近年は御殿・二之宮一帯で発掘調査が行われ、絵図・公図と発掘成果を重ねて御殿跡の範囲を推定する作業が進んでいる。その成果は資料で読む中泉御殿の史実や御殿・二之宮遺跡に紹介されており、本稿はそれらを踏まえつつ、規模の細部については推定の域にとどまるものと位置づける。
廃止の年紀。中泉御殿は寛文10年(1670)に廃止されたとされる2。築造から廃止までのおよそ80年余りのあいだ、御殿は往来と統治の拠点として機能したとみられるが、その具体的な使用の頻度や、廃止に至る経緯を詳細に記す一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これは「そうした記録が存在しない(=記載がない)」ことを意味せず、あくまで「管見の限り突き当たっていない(=未確認)」という状態である。
御殿の造営が中泉に及ぼした効果は、屋敷そのものの機能を超えていた。御殿が置かれたことで、中泉には人と物が集まり、それを支える町場が形づくられていったとみられる。屋敷の維持、往来する一行への対応、周辺での物資の調達といった営みは、いずれも一定の人口と経済の集積を要する。中泉が近世を通じて行政の町としての骨格を保ちえた背景には、この御殿の時期に用意された町場の下地があったと考えられる。もっとも、御殿の造営と町場の形成とを因果として結ぶ確たる一次史料があるわけではなく、この筋立ては地理と沿革から導かれる推定として提示するにとどめる。
4. 天領中泉と代官支配 ── 中泉代官所の統治構造
御殿が寛文10年(1670)に廃されたのちも、中泉は行政の町としての性格を保ち続けた。その中核をなしたのが中泉代官所、すなわち中泉陣屋である。中泉代官所は、幕府直轄地=天領を治めるために中泉に置かれた代官の役所であり、遠江各地に散在する天領の年貢徴収・治水・訴訟などを管轄して、広い範囲に行政の網をかけた3。ここでいう天領とは、江戸幕府が大名領とは別に直接支配した土地の通称であり、代官が幕府に代わってこれを統治した。中泉代官所は、この天領を遠江西部で束ねる役所として機能した。
代官支配の統治構造を理解するうえで押さえておくべきは、その管轄が単一のまとまった領域ではなく、各地に散在する天領を横断して及んだ点である。大名領が城下を中心とする一円的な支配であるのに対し、代官の支配は飛び地状に散らばる直轄地を、年貢や治水や訴訟という行政の機能ごとに束ねるものであった。中泉代官所が街道の宿場のような華やかさを持たずとも近世を通じて要であり続けたのは、この機能的な結節点としての役割による。年貢や治水をめぐる文書が集まり、人が出入りし、町は「政の中心」としての性格を強めていった。
代官所の統治が単なる徴税の機構にとどまらなかったことは、災害への対応にうかがえる。幕末には、漢学者・能吏として知られる林鶴梁(はやしかくりょう)が中泉代官を務めた時期があり、安政の大地震(嘉永・安政年間)への対応にあたったと伝わる。災害時の救済や復旧に代官所が果たした役割は、中泉が単なる年貢の取り立ての拠点ではなく、地域の暮らしを支える行政機構でもあったことを示している。これは林鶴梁という個人の事績に関する伝承を含むが、代官所が治水・救済といった民政の機能を担ったこと自体は、天領支配の一般的な性格に照らして通説の水準で理解してよい。
ここで史料の性格に一言しておきたい。代官所の機構や歴代代官の異動、管轄村々の範囲といった事柄は、幕府や代官所の残した公文書・村方文書によって、原理的には史実として跡づけられる余地が大きい。この点で、伝承に依存する部分の多い御殿の記述とは、資料的な基盤の性格が異なる。ただし、それらの文書がどこまで現存し、どこまで整理・公刊されているかは別の問題であり、中泉代官所の全容を一次史料から復元する作業は、なお継続を要する。本稿は代官支配の骨格を通説として示すにとどめ、細部の確定は今後の史料調査に委ねる。歴代代官や陣屋の機構の詳細は、既存の中泉代官所に整理がある。
代官所を擁したことは、中泉と見付の役割分担をも明確にした。街道の宿場として人馬の継立を担った見付に対し、中泉は年貢米の集散や文書行政の場として機能した。二つの町は、一方が交通を、他方が行政を受け持つ形で、遠江西部の中心的な役割を分け合っていたと考えられる。もっとも、この分担がどの時期にどこまで制度として固まっていたかを一次史料で跡づける作業は、なお残されている。ここでは、宿場・見付と代官所・中泉という機能の対照を、地域の記述で共有される通説の水準で示すにとどめ、その制度的な確定は今後の課題とする。
5. 統治の連続 ── 代官から中泉奉行へ
幕末から明治への転換期、中泉の統治は近代郵便の父として知られる人物と接点を持つ。前島密(まえじまひそか、1835〜1919)は、明治2年(1869)1月に初代の中泉奉行に任じられたとされ、中泉では救院(窮民救済の施設)の設置など、地域行政に携わったと伝わる4。のちに郵便制度の創設を主導する前島が、その経歴の一時期に中泉の統治を担ったことは、中泉という町の行政上の位置を示す挿話として記憶されてきた。
中泉奉行という役職は、統治の連続と転換の双方を映している。前島密が中泉に関わったのは、幕藩体制から新政府へと統治が大きく組み替えられる時期にあたる。中泉奉行は、近世の中泉代官所が担っていた天領支配の機能を、新政府が引き継ぎ整理していく過渡的な役職であったと考えられる。近世の「代官」という肩書きが、明治初年に「奉行」という新政府の役職名へと置き換わりながらも、「中泉で直轄地の行政を担う」という実質は連続していた。前島が中泉で取り組んだとされる中泉救院の設置は、災害や困窮への対応という、代官所以来の民政の延長線上に読むことができる。
この統治の連続を、担い手の系列として並べてみると、中泉という町の性格がいっそう鮮明になる。御殿を築いた家康、天領を治めた代官(林鶴梁ら)、近代行政への橋渡しをした前島密――さらに時代を下れば、鉄道駅の用地を提供したと伝わる地元の素封家青山宙平(あおやまちゅうへい)が加わる。肩書きも時代も異なるこれらの人物を貫くのは、いずれもが「統治あるいは公共の拠点としての中泉」に関与したという一点である。ただし、この四者を一続きの系譜として読むことは、事実に基づく筆者の解釈であって、当人たちが連続を意識していたわけではない点は留保しておく。
統治の担い手が交替しながらも町の性格が持ち越されたという事態は、地域史においてしばしば見られる。役所や施設は廃されても、それを支えた土地の条件と、そこに蓄積された行政の慣行や人の集積は、容易には失われない。中泉が近世の天領支配から近代の地方行政へと役割を途切れさせずに引き継ぎえたのは、御殿・代官所の時期に用意された町場と、低地という地理的な基盤があったからにほかならない。御殿・代官所・奉行という肩書きは変わっても、「中泉が行政の拠点である」という土地の性格は、近世から近代へと持ち越されたのである。
前島密の中泉における事績は、伝記のうえでは短い一時期にすぎないが、その意味は小さくない。近代郵便という全国的な制度を構想する以前に、前島が一地方の窮民救済や行政の実務に携わっていたことは、彼の官僚としての経歴が地方の統治現場と地続きであったことを示す。中泉救院の設置が、代官所以来の救済行政の延長にあると読めることは、すでに述べた。ただし、救院の規模や運営の実態、前島の関与の度合いを詳細に記す一次史料については、本稿の範囲では確認できていない。前島と中泉の関わりは、通説として伝えられる骨格の水準で受け止めておくのが穏当である。
6. 史料批判 ── 事実・伝承・推定の腑分け
ここまで見てきた御殿・代官所・奉行という統治の三段階は、しばしば一連の「中泉の歴史」として滑らかに語られる。しかし各段階は、依拠しうる史料の性格が根本的に異なる。御殿の記述は伝承的年紀と伝承的な規模の数値を多く含み、代官所の機構は公文書によって史実として跡づけうる余地が大きく、奉行は伝記的記録に依存する。これらを同一平面で並べて優劣を論じるのではなく、それぞれがどの確度層に立脚するのかを可視化することが、史料批判の課題である。以下の表は、各段階を性格・時期・機能・確度の水準において対等の粒度で並べ、確度を明示することを目的とする。
| 統治の段階 | 時期 | 主な機能 | 依拠する資料 | 確度の層と留意点 |
|---|---|---|---|---|
| 中泉御殿 | 天正15年(1587)頃〜寛文10年(1670) | 家康の宿泊・休息、鷹狩り、東海道往来の拠点。 | 地域の記述、絵図・公図、発掘調査。 | 存在・用途は通説。築造年紀は伝承的、規模(1万坪)は伝承。廃止経緯は未確認。 |
| 中泉代官所 | 江戸前期〜幕末 | 天領の年貢徴収・治水・訴訟の管轄。 | 幕府・代官所・村方の公文書。 | 機構は史実として跡づけうる余地大。全容の復元は史料整理を要する。 |
| 中泉奉行 | 明治2年(1869)〜 | 天領行政の機能を新政府が引き継ぐ過渡的役職。救院の設置。 | 前島密の伝記的記録、明治初年の行政史料。 | 前島の任命は通説。救院への関与は伝承を含む。連続の読みは解釈。 |
この比較から見えてくるのは、三段階が同じ確からしさで語りうるわけではない、という事実である。とりわけ注意を要するのは御殿の記述である。御殿の存在と、家康が往来・鷹狩りの拠点としたことは通説として扱いうるが、その築造を天正15年(1587)と一点に定める年紀は伝承的な性格を帯び、「1万坪」という規模の数値は伝承の層に属する。これらを実測値や確定年代のように引くことは、伝承を史実へ格上げする誤りにあたる。他方、代官所の機構は公文書によって史実として跡づけうる余地が大きく、伝承に依存する部分の多い御殿とは資料的基盤の性格が異なる。
史料批判の観点からもう一つ強調しておきたいのは、「未確認」と「記載なし」の区別である。本稿では、御殿の廃止に至る経緯や、鷹狩りの具体的な回数、代官所の管轄村々の完全な一覧といった細部について、一次史料に突き当たっていない旨をたびたび述べた。これらはいずれも「未確認」であって「記載なし」ではない。該当する文書が現存しながら未整理・未公刊であるために筆者の目に触れていない可能性は十分にあり、今後の史料調査によって未確認が史実へと転じる余地は大きい。この留保を明示することは、確定していない事柄を確定したかのように語らないための、記述上の禁欲である。
この腑分けの作業は、郷土史の記述一般に含意を持つ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば「本当のところはどうだったのか」という問いに引き寄せられ、複数の伝えのなかから一つの正解を選び取ろうとする。だがその態度は、確度の異なる情報を一つの平面へ押し込め、選ばれなかった伝えを切り捨てることにつながりやすい。史実で確認できることは史実として、地域が語り継いできたことは伝承として、それぞれの位置を保ったまま書き留める。中泉御殿の1万坪伝承を、否定もせず、また実測値と偽りもせず、「そう語り継がれてきた」という伝承の層に正確に置くこと――この手続きこそが、後世の調べものに耐える記述の作法である。
7. 背景としての地理と記憶 ── 御殿跡・地名・鉄道
統治の三段階を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、直轄地統治の痕跡が現在の土地にどう残されているかである。もっとも端的な痕跡は地名にある。現在の磐田市中泉のうちに「御殿」を冠する町名が残る。これは中泉御殿の所在に由来すると考えられる地名で、屋敷が失われたのちも、その記憶が地名として土地に刻まれた一例である。御殿という具体的な建造物は寛文10年(1670)に廃されて久しいが、その名は町名として存続し、土地の来歴を今に伝えている。
中泉の周辺には、統治と信仰の記憶を宿す地名がなお集まっている。隣接する国府台(こうのだい)は古代の遠江国府にちなむ地名とされ、現在は磐田市役所などが立地して、近代以降も行政の中心であり続けていることを示す。二之宮(にのみや)はもと山名郡二ノ宮村で、1889年(明治22)に中泉町と合併した。中泉が古代の国府域と近世・近代の行政中心とを地続きにつなぐ場所であることは、これらの地名の配置からもうかがえる。遠江国府や府八幡宮、国分寺跡を含む一帯の記憶については、既存の国府台と府八幡宮に整理があり、本稿の統治史はその古代の中心圏を背景として置くことができる。
ただし、地名の由来には慎重を要する。「御殿」の町名が中泉御殿に由来するという理解は蓋然性が高いが、地名の由来一般には諸説が伴い、後世の付会や別語源の可能性を完全には排除できない。国府台が古代国府にちなむという理解も広く共有されるが、その成立の時期や経緯を一次史料から精確に跡づけることは容易でない。本稿は、これらの地名を直轄地統治の記憶を宿す痕跡として提示するが、個々の由来の確定は地名研究の別の課題に属することを付言しておく。地名は、確かな史実を運ぶ器であると同時に、後世の解釈を吸い込む器でもある。
近代の中泉にとって決定的だったのが、鉄道駅の開業である。1889年(明治22)、東海道線の中泉駅が中泉に開業した5。これが現在の磐田駅の前身であり、駅名は1942年(昭和17)に「磐田駅」へ改称されたとされる。街道の宿場・見付ではなく低地の中泉に駅が置かれたことは、広い用地を要する鉄道にとって平坦な低地が条件のよい土地であったこととあわせて、まちの重心を中泉側へ大きく動かした。駅の用地確保には、前節で触れた中泉の素封家・青山宙平が用地を提供したと伝わる。地形の有利さと地元有力者の協力とが重なって、駅は中泉に置かれたのである。
駅の立地は、直轄地統治の地理的な基盤が近代にも作用し続けたことを示す。御殿が置かれ、代官所が置かれ、そして駅が置かれた低地・中泉は、時代ごとに「そのときいちばん大事な施設」を引き寄せてきた。近代以降のまちの重心が中泉側へ移ったことは、現在の地理がそのまま物語っている。市役所は中泉に隣接する国府台に置かれ、磐田市の玄関口である駅は中泉にある。近世の天領支配の拠点が、そのまま近代・現代の行政と交通の中心へと接続していったのである。ただし、これらの立地の連続を「地形が一義的に決めた」と読むことは避けたい。地形は条件を用意するが、そこに何を建てるかは、その時々の政治と人の選択にもよる。
直轄地統治の記憶は、こうして地名・遺跡・鉄道という複数の層に分かれて土地に残されている。御殿町周辺の町名は失われた屋敷の記憶を、御殿・二之宮の遺跡は発掘によって確かめられる痕跡を、そして磐田駅は近代交通が中泉を磐田の玄関口にした事実を、それぞれ別の仕方で証言する。これらを一つの「中泉の歴史」として滑らかに束ねるのではなく、地名は地名として、遺跡は遺跡として、それぞれの証言の性格を保ったまま記述すること――それが、直轄地統治の痕跡を後世へ手渡すための方途である。
8. 結論 ── 直轄地統治の記憶をどう残すか
本稿は、中泉御殿・中泉代官所・中泉奉行という直轄地統治の三段階を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。中泉御殿の存在と、家康が往来・鷹狩りの拠点としたことは通説として扱いうるが、その築造年紀(1587頃)は伝承的年紀を含み、規模(1万坪)は伝承の層に属する。中泉代官所の機構は公文書によって史実として跡づけうる余地が大きく、伝承に依存する御殿とは資料的基盤の性格を異にする。中泉奉行は、近世の代官支配の機能を新政府が引き継ぎ整理していく過渡的役職であり、前島密の任命は通説、救院への関与は伝承を含む。三段階を貫く「直轄地を治める町」という性格の連続は、事実に基づく推定=解釈として提示した。
この整理から導かれる本稿の立場は明確である。中泉の統治史は、御殿から駅までを一本の滑らかな物語として語ることによってではなく、各段階の依拠する史料の性格を腑分けし、それぞれの確度を明示することによって、はじめて後世の調べものに耐える形で残される。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、伝承を史実の劣位に置かず、また史実と偽りもしない。御殿1万坪の伝承を否定も誇張もせず伝承の層に正確に置くこと、代官所の機構を今後の史料調査に開かれた史実として示すこと――この禁欲的な手続きこそが、直轄地統治の記憶を土地とともに手渡す作法である。
あわせて、地理という基盤の働きを確認した。台地の西の低地という条件は、御殿・代官所・鉄道駅を中泉へ引き寄せる背景として、近世から近代へと一貫して作用した。もっとも、地形が立地を「方向づけた」という見立ては推定であって、決定論として語るべきものではない。地形は条件を用意するにとどまり、そこに御殿を築き、代官所を置き、駅を誘致したのは、その時々の政治的判断と地元の人の動きである。中泉の統治史は、地理という静かな条件と、人の選択という動的な要因とが折り重なった過程として読むのが穏当であろう。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、中泉代官所の機構・歴代代官・管轄村々については、幕府・代官所・村方の文書を博捜することで、未確認の多くを史実へ押し上げられる余地がある。第二に、中泉御殿の規模・構造は、絵図・公図と発掘調査の成果をさらに突き合わせることで、伝承の1万坪を推定の水準へと精確化しうる。第三に、中泉奉行という役職の実態と、それが近世の代官支配からどこまで連続し、どこで新政府の地方制度へ組み替えられたかは、明治初年の行政史料に即して検証されるべき主題である。これらはいずれも、本稿の設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。天領を治めた町・中泉の全体像は、確度の層を保ったまま史料を積み上げていくその地道な手続きの先に、少しずつ像を結んでいくはずである。御殿の実像と代官支配の具体、そして二之宮・国府台との関係については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 中泉御殿の築造は天正15年(1587)頃とされる。この年紀は地域の記述として伝えられるもので、国家的編纂物に基づく史実とは資料の性格を異にする。↩
- 中泉御殿は寛文10年(1670)に廃止されたとされる。廃止に至る具体的経緯を記す一次史料は本稿の調査範囲では確認できていない(未確認であって記載なしではない)。↩
- 中泉代官所(中泉陣屋)は幕府直轄地=天領を治める代官の役所であり、遠江各地に散在する天領の年貢徴収・治水・訴訟などを管轄した。機構・歴代代官の詳細は既存ページ「中泉代官所」を参照。↩
- 前島密(1835〜1919)は明治2年(1869)1月に初代中泉奉行に任じられたとされ、中泉救院の設置などに関与したと伝わる。のちに近代郵便制度の創設を主導した。↩
- 東海道線の中泉駅は1889年(明治22)に開業し、これが現在の磐田駅の前身である。駅名は1942年(昭和17)に「磐田駅」へ改称されたとされる。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 n021「中泉御殿のあった町 ── 天領を治めた中泉」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、代官所の機構を史実として跡づけうる対象、御殿の存在・用途を通説、地形が立地を規定したとの読みを推定、御殿1万坪や地名の由来を伝承として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田市『磐田市誌』(磐田市、中泉・御殿・代官所の該当章)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、近世の該当章)。
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典22 静岡県』角川書店、1982年(中泉・国府台・今之浦の項)。
- 平凡社『日本歴史地名大系 静岡県の地名』平凡社(中泉・御殿の項)。
- 磐田市文化財課『磐田市史料叢書』ほか中泉代官所・中泉御殿関連の刊行史料。
- 御殿・二之宮遺跡ほか中泉周辺の発掘調査に関する磐田市の文化財資料。
- 磐田市「磐田市博物館 企画展図録(中泉御殿・徳川家康と近世の磐田)」。
- 佐口行正氏所蔵史料(中泉運送、磐田郡明細地図号ほか)。
- 磐田市公式ウェブサイト「磐田文化財だより」「徳川家康と近世の磐田(中泉御殿・中泉代官所)」 https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- コトバンク『日本大百科全書』『デジタル版日本人名大辞典+Plus』「前島密」「林鶴梁」項 https://kotobank.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 国立国会図書館デジタルコレクション(近世遠江関係史料・地誌類) https://dl.ndl.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 n021「中泉御殿のあった町 ── 天領を治めた中泉」 https://iwata-monogatari.net/n021 (最終閲覧:2026年7月25日)。