磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第127号(遠江国分寺の維持史 一)
講堂が倒れた日 ── 治安2年の大風と国分寺の嘆願
一通の太政官文書が伝える古代寺院の危機
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
治安2年(1022年)7月5日、遠江国分寺の講堂が大風で倒れ、堂内の仏像も破損した。本稿は、この被災とその後の修復をめぐる一連の記録──国司による太政官への申請、瓦葺から茅葺への仕様変更、裁許、そして先例にならった勘査(監査)の手続き──を、『朝野群載抄』に伝わる万寿五年(1028年)遠江国司解を一次史料として読み解く。ただしその読解は、石上英一氏の解説と『国分寺ものがたり』を経由した孫引きであり、本稿は原典に直接あたっていない。この伝来経路の限界を明示したうえで、天平13年(741年)の詔から280年余りを経た地方の国分寺が、いかにして中央の許可と補助のしくみに支えられ、また同時にその維持の負担に苦しんでいたかを跡づける。あわせて、修復された本尊が創建時の釈迦如来ではなく阿弥陀仏であった事実に着目し、古代寺院の維持が単なる建物の保存ではなく、信仰の内実の変容を伴う過程であったことを論じる。
キーワード:遠江国分寺/講堂倒壊/万寿五年遠江国司解/太政官/勘査/本尊変遷/史料批判
1. 問題設定 ── 一通の文書から何を読むか
治安2年(1022年)7月5日、遠江国分寺の講堂が大風によって倒れた。堂内に安置されていた仏像も、倒壊した建物の下から壊れた姿で見つかった。天平13年(741年)の詔を受けて建立された国分寺は、この時すでに280年余りの歳月を経ており、屋根を支える柱や梁が経年で弱っていたことは想像に難くない1。一つの建物が風で倒れたというだけの、それ自体はどこにでもありうる出来事である。だが、この被災の後始末が文書として記録に残ったために、われわれは千年前の地方寺院がどのように維持されていたのかを、断片的にではあるが具体的に知ることができる。
治安2年から万寿年間にかけての時期は、藤原道長・頼通による摂関政治がまさに全盛を迎えていた時代にあたる。この時代は、しばしば中央貴族社会の栄華として語られる。しかし同じ時期、都から遠く離れた遠江国では、倒れた国分寺の講堂をどう建て直すかという地道な実務が進んでいた。国司が太政官へ申請書を上げ、許可を待ち、修復ののちに監査を受ける──こうした手続きの一つひとつが、華やかな中央政治の裏側で古代国家のしくみが末端まで働いていたことを示している。本稿が注目するのは、この対照そのものである。
本稿の課題は、この被災と修復の記録を、単なる郷土の逸話としてではなく、一次史料の読解として扱うことにある。すなわち、記録がどの文書に由来し、どのような経路で現在に伝わり、どこまでを確実な事実として語りうるのかを腑分けしたうえで、そこから古代寺院の維持というより大きな問いへ接続することを試みる。素材とする事実関係は、磐田物語の一般向け記事「講堂が倒れた日」に整理されたものだが、本稿ではそれを研究者向けに史料批判の観点から組み直す。
以下ではまず、依拠する史料の性格と伝来経路を確定する(第2節)。次に被災の事実(第3節)、応急措置と太政官への申請(第4節)、裁許と勘査の手続き(第5節)を順にたどり、修復された本尊が阿弥陀仏であった事実の含意を論じる(第6節)。そのうえで、摂関政治期の地方における寺院維持の困難を背景として位置づけ(第7節)、被災の一記録を「維持史」として読み直す本稿の立場を示す(第8節)。
2. 史料の性格 ── 万寿五年遠江国司解と孫引きの経路
被災と修復の事実関係を論じる前に、それらを伝える史料の性格を確定しておく必要がある。本稿が依拠する記録は、平安後期の官人・三善為康が公文書の書式集として編んだ『朝野群載』の系統に連なる『朝野群載抄』に収められた、万寿五年(1028年)付の遠江国司解である。国司解とは、国司が中央の太政官に対して上申する際に用いた公文書の様式であり、この一通は、治安2年の講堂倒壊から修復・勘査に至る一連の経緯を、地方官の側から中央へ報告した文書ということになる。祭礼の由来や社伝のように後世に語り継がれた伝承ではなく、行政の現場で作成された同時代の証跡である点に、この史料の価値がある。
ただし、本稿がこの国司解に直接あたっているわけではない点は、あらかじめ明記しておかねばならない。本稿が参照した内容は、国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年〈2022年〉刊)が紹介する記述に依拠しており、同書はさらに『特別史跡遠江国分寺跡―本編―』(2016年)に所収された石上英一氏の解説を典拠として挙げている。石上氏の解説が、『朝野群載抄』所引の万寿五年遠江国司解を扱ったものである。したがって本稿の理解は、原文書から石上氏の解説、そして『国分寺ものがたり』を経て本稿に至るという、少なくとも二重の媒介を経た孫引きである2。この経路の各段階で、要約・取捨・解釈が加わっている可能性を、読者は割り引いて受け取る必要がある。
この伝来経路の限界は、本稿が語りうることと語りえないことの境界を規定する。たとえば、太政官における審議にどれほどの時間がかかったのか、その間に国分寺や国司の側でどのような折衝がなされたのかは、本稿の参照した範囲では確認できない。これは「そのような史料が存在しないと断定できる」ことを意味しない。原文書にその記載がそもそも無いのか(=記載なし)、記載はあるが本稿の経由した解説・紹介に採録されなかったのか、あるいは筆者が原典を博捜すればなお得られるのか(=未確認)は、それぞれ別個に検証を要する。本稿はこの「記載なし」と「未確認」の区別を保ち、参照範囲の外にある事柄を確定的に語ることを避ける。
国司解という文書様式そのものにも、一言しておきたい。国司解は、地方官が中央の許可や指示を仰ぐために提出する上申文書であり、その性格上、国司の側の説明や要望が前面に出る。倒れた講堂の惨状も、修復の必要も、瓦葺から茅葺への変更の妥当性も、すべては「許可を得るための申請」という文脈で記されている。したがって、そこに書かれた事柄は事実の骨格を伝える一方で、国司にとって不都合な事情──たとえば維持を怠っていた経緯があったかどうか──までは書かれないと考えるべきである。文書の語ることを事実として尊重しつつ、その文書が誰に向けて何のために書かれたかを忘れないことが、この史料を読む前提となる。
3. 被災 ── 治安2年の大風と講堂の倒壊
史料の性格を確認したうえで、被災の事実に立ち返る。治安2年(1022年)7月5日、遠江国分寺の講堂は大風によって倒壊した。旧暦の7月は、暦の上では秋の入り口にあたり、台風がしばしば列島を襲う季節でもある。この大風がどれほどの規模であったかを直接に記す史料は本稿の参照範囲では確認できないが、280年余りを経た木造の大建築を倒すに足る風であったことは、結果から逆算できる。講堂は、国分寺の主要伽藍の一つであり、僧が経典を講じ、法会を営むための中心的な堂宇である。その倒壊は、伽藍の日常的な機能の一部が失われたことを意味した3。
ここで注意すべきは、神社の古さと祭礼形式の成立年代を区別すべきであるのと同様、建立の年代と被災時の建物の状態も切り離して考えるべき点である。天平13年(741年)の国分寺建立の詔から治安2年までは、単純に数えて280年余りにおよぶ。この間、講堂が一度も修理を受けずに立ち続けていたとは考えにくい。木造建築は、屋根の葺き替えや柱の取り替えといった補修をくり返しながら維持されるのが常であり、逆にいえば、そうした補修が十分に行き届かなくなったとき、建物は一度の大風で倒れる。倒壊という事実そのものが、被災以前の維持がすでに容易でなくなっていた可能性を示唆する。
倒壊した講堂の下からは、安置されていた仏像も破損した姿で見つかった。建物の損壊が本尊をはじめとする仏像の破損を伴った点は、この被災を単なる建築の問題にとどめず、信仰の場そのものの危機にした。国分寺は、聖武天皇の詔によって鎮護国家の祈りを担うべく全国に置かれた官寺である。その中心の堂と仏が同時に損なわれたことは、地方における国家仏教の拠点が物理的に傷ついたことを意味する。この事態を放置することは、形式上その管理を職務とする国司にとって、看過しがたい問題であったはずである。
もっとも、被災の深刻さを強調しすぎることにも慎重でありたい。倒れたのは講堂であり、金堂や塔を含む伽藍の全体が壊滅したわけではない。国分寺の宗教的機能が全面的に停止したと解する根拠は、本稿の参照範囲には見あたらない。むしろ後述するように、被災の翌年には早くも仮屋が設けられて供養が営まれており、寺としての営みは途切れなかったと考えるのが穏当である。被災はたしかに危機であったが、それは復旧を組織しうる範囲の危機であった。次節では、その復旧がどのような手続きを経て進められたかを追う。
大風による建物の倒壊という自然災害が、行政文書のかたちで記録に残った点も見落とせない。古代の災害は、しばしば怪異や凶兆として神祇的に解釈され、その文脈で記録されることが多い。ところがこの講堂倒壊は、そうした呪術的な意味づけを経ずに、修復を要する物損として淡々と扱われている。国司解が伝えるのは、災害そのものへの畏れではなく、被災した国家財産をいかに原状へ回復するかという実務的な関心である。ここに、災害を管理と復旧の対象として捉える古代国家の行政的なまなざしを読み取ることができる。倒壊の記録が残ったのは、それが祈りの対象であったからではなく、手続きの対象であったからである。
4. 応急と嘆願 ── 仮屋から太政官への申請へ
被災の翌年、治安3年(1023年)7月、当時の遠江守・源安道は、壊れた仏像を安置するための仮屋を建て、修造供養を行った。国分寺は朝廷の詔によって全国に置かれた官寺であり、その管理・維持は形式上、国司の職務に属していた。講堂が倒れたまま仏像が野ざらしにされる状態を放置するわけにはいかない。被災からわずか1年で仮の安置と供養にまで漕ぎ着けている点に、当時の対応の速さがうかがえる。もっとも、仮屋はその名の通り仮のものであって、講堂そのものの再建には至っていない。恒久的な修復には、国司の裁量だけでは足りない手続きが必要であった4。
被災から1年半ほどが経った万寿元年(1024年)正月16日、国司は講堂修復について太政官に申請を行った。ここで重要なのは、国分寺という国家の寺の恒久的な修復が、国司の一存では進められず、中央の許可を要するしくみになっていた点である。地方の一寺院の屋根を葺き直すのに、なぜ都の太政官の裁可が必要だったのか。それは国分寺が、単なる地方寺院ではなく、国家がその体裁と維持に責任を負う官の施設だったからにほかならない。申請という手続きの存在それ自体が、国分寺が中央の統制と支援の枠組みのなかに置かれていたことを物語る。
申請の内容は、単に「元通りに直したい」というものではなかった。屋根の葺き方を瓦葺から茅葺へ変更したいという申し出が含まれていたのである。瓦は重く、資材の調達にも施工にも手間と費用がかかる。地方の国分寺を維持していく現実的な負担を考えれば、茅葺への変更は理にかなった選択であった。ただしこの変更は、国家の寺にふさわしい格式という観点からは後退でもある。瓦葺の堂を茅葺で建て直すという申請には、格式の維持と負担の軽減という二つの要請のあいだで、後者を優先せざるをえなかった地方寺院の現実がにじんでいる。この一点は、古代寺院の維持がいかに困難であったかを端的に示す指標として、本稿がとりわけ重視するところである。
本節の見出しにあえて「嘆願」という語を用いたのは、この申請が、単なる事務的な届け出ではなく、地方の窮状を中央へ訴え支援を請う性格を帯びていたからである。倒れた講堂をそのままにはできないが、地方の財源と労力だけでは元の瓦葺の堂を建て直すことは難しい。だからこそ、格式を一段下げた茅葺での再建を認めてほしいと願い出る。この申請には、国家の寺を守る責任を負いながら、その責任を独力では果たしきれない地方官の板挟みが映っている。太政官への申請は、権限の階梯を上へたどる形式的な手続きであると同時に、実質的には地方からの助けを求める声でもあった。国司解の文面が淡々と手続きを述べれば述べるほど、その背後にある維持の困難は、かえって際立って見えてくる。
あわせて、破損した仏像を銅で作り直し、彩色を施すことも申請に含まれていた。屋根の仕様変更という建物の修復と、仏像の造り替えという本尊・諸尊の修復とが、一つの申請のなかで並行して計画されていたことになる。建物と仏像を切り離さず一体の修復事業として太政官に諮ったこの構成は、国分寺の修復が「堂を直す」ことと「仏を調える」ことの双方を含む、信仰の場の総体的な回復として理解されていたことを示す。次節で見る本尊の内訳は、この仏像修復の帰結である。
5. 裁許と勘査 ── 中央の許可と先例による監査
申請から1年余りを経た万寿2年(1025年)2月10日、太政官からの許可が国司宛に下された。中央での審議にどれほどの時間がかかり、その間に国分寺側でどのような対応がなされていたのかを示す記述は、本稿の参照範囲には見あたらない。しかし、許可が下りたのちに実際の修復工事が行われたことは、後の完了届と勘査の存在から確実である。被災の治安2年から数えて、裁許までにおよそ2年半、この間に応急の供養と正式な申請という段階を踏んでいる。決して迅速とはいえないが、都から遠く離れた遠江国の一寺院の修復であっても、中央への申請と許可という手続きを省くことはできなかった。
修復が実施されたのち、国司はその完了を届け出て、勘査と呼ばれる監査の手続きを受けている。勘査とは、公費や公の労力を投じた事業について、それが適正に行われたかを事後に検査する手続きであり、現代の会計監査に通じる発想をもつ。国家の資産である国分寺の修復に、完了後の報告と検査を課すこのしくみは、古代国家が公の営造物の管理に一定の説明責任を求めていたことを示している。被災から修復、そして監査に至る一連の流れは、単発の善意による復旧ではなく、制度に組み込まれた手続きとして進められた。
注目されるのは、この勘査が先例にならって簡略化された点である。前任の遠江守・源忠重が法花寺(尼寺)の修造を行った際の勘査の先例に従い、都から監査役の官使を派遣するのではなく、その扱いに代える処理がとられた。過去に認められた類似案件の手続きを踏襲することで、事務を効率化したことになる。先例主義は、しばしば硬直の代名詞として語られる。しかしここでの先例踏襲は、遠隔地への官使派遣という負担を省き、実務を現実的に回すための合理的な手段として機能している。同じ遠江国内の官寺・尼寺の修造という近接した先例が、その適用を正当化したのであろう。
公共の建物を修復するにあたって許可や補助を申請し、完了後に報告と監査を受けるという一連の流れは、現代の行政手続きにも通じるところがある。むろん平安中期の太政官と現代の行政組織を単純に重ねることはできず、両者のあいだには千年の断絶がある。しかし、国家の資産をどう管理し、その修復にどう説明責任をもたせるかという発想そのものは、すでにこの時代に働いていた。被災した官寺を、個々の国司の善意や裁量に委ねきるのではなく、申請・裁許・勘査という手続きの軌道に乗せて処理する。この制度的な発想こそが、一通の国司解を作らせ、それを今日まで文書として残させた根本の理由でもある。手続きがあったからこそ記録が生まれ、記録が生まれたからこそ千年後のわれわれがこの被災を知りうる。
以上の申請・裁許・勘査の流れを一覧に整理すると、次のようになる。この表は、被災から監査までの各段階について、年月日と記載内容、そして本稿が加える史料批判上の留意点を並べたものである。年月日の確度は段階によって異なり、被災・申請・裁許には具体的な日付が伝わる一方、勘査の時期は本稿の参照範囲では特定できない。この確度の差もあわせて示す。
| 段階 | 年月日 | 記載内容 | 史料批判上の留意点 |
|---|---|---|---|
| 1.被災 | 治安2年(1022年)7月5日 | 大風により講堂が倒壊し、堂内の仏像も破損。 | 大風の規模を直接記す史料は未確認。倒壊は被災前の維持状況を反映しうる。 |
| 2.応急 | 治安3年(1023年)7月 | 遠江守・源安道が仮屋を建て、破損仏を安置し修造供養。 | 被災から約1年での応急。国司の職務遂行を示すが、国司側の説明である点に留意。 |
| 3.申請 | 万寿元年(1024年)正月16日 | 講堂修復(瓦葺から茅葺へ)と仏像の銅造・彩色を太政官に申請。 | 茅葺化は格式より維持を優先した選択。申請は許可獲得を目的とする文脈で記される。 |
| 4.裁許 | 万寿2年(1025年)2月10日 | 修復を許可する旨が国司宛に下される。 | 審議の内実・所要事情は参照範囲では記載なし。 |
| 5.修復 | 万寿2年(1025年)以降 | 許可に基づき講堂と仏像の修復を実施。 | 着工・竣工の具体的日付は未確認。完了届の存在から実施は確実。 |
| 6.勘査 | (万寿5年〈1028年〉までに) | 完了を届け出、源忠重の法花寺修造の先例により官使派遣に代える。 | 勘査の正確な時期は未確認。先例踏襲による簡略化が認められた。 |
6. 本尊の変貌 ── 阿弥陀仏という事実が語ること
この時に修復・造立された仏像の内訳は、金色の阿弥陀仏1体、脇侍菩薩2体、四天王像4体、吉祥天1体であったと伝わる。阿弥陀仏を中尊とし、その左右に脇侍菩薩を配し、四方を四天王が守り、吉祥天を加えるという構成は、一つの整った仏像世界を復元しようとする計画であったことを示す。破損した仏を単に繕うのではなく、銅で作り直して彩色を施すという申請の内容とあわせて考えれば、この修復は本尊を含む諸尊の再構築という、信仰の中心の作り直しにほかならなかった5。
ここで史料批判の観点から見逃せないのは、その中尊が阿弥陀仏であった点である。国分寺の本尊は、天平13年(741年)の建立の詔においては釈迦如来を安置することが原則とされていた。国分寺の正式名称が「金光明四天王護国之寺」であり、鎮護国家の性格を色濃くもつことを踏まえれば、創建時の中心仏は釈迦如来であったと考えるのが自然である。ところが、治安・万寿年間のこの修復記録では、中心に据えられているのは阿弥陀仏である。詔の原則と現実の記録とのあいだのこの食い違いは、創建から280年余りのどこかで、本尊が釈迦如来から阿弥陀仏へと移り変わっていたことをうかがわせる。遠江国分寺の草創と伽藍の姿については、本論考シリーズの「遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍」で扱ったが、本尊の問題はそこで十分に論じ切れなかった主題である。
本尊が移り変わった経緯を直接に記す史料は、本稿の参照範囲では確認できない。ただ、平安中期は浄土信仰が貴族社会に広まり、阿弥陀仏への帰依が高まった時代である。この時代の空気のなかで、国分寺の中心仏が阿弥陀仏として意識されるに至った可能性は、時代背景と整合的である。もっとも、これはあくまで背景からの推定であって、遠江国分寺において釈迦如来から阿弥陀仏への転換がいつ、いかにして起きたかを断定する根拠にはならない。さらにこの本尊は、のちの鎌倉時代には薬師如来へと変わっていく。国分寺から薬師堂への転換という、より長い信仰変遷の道筋は、磐田物語の「鎌倉時代の国分寺」に詳しいが、その出発点に位置するのが、この治安・万寿年間の阿弥陀仏なのである。
本尊の変遷が示すのは、古代寺院の維持が単なる建物の物理的保存にとどまらなかったという事実である。屋根を瓦から茅へ替えたのと同じように、寺の中心にまつられる仏もまた、時代の信仰に応じて姿を変えていった。維持とは、建物を建立当初のまま凍結して保つことではなく、その時々の担い手と信仰のもとで、寺を生きた場として保ち続ける営みであった。釈迦から阿弥陀へ、そして薬師へという本尊の移ろいは、遠江国分寺が千年近くにわたって生き続けたことの、いわば信仰の側からの証言である。被災と修復という物理的な出来事の記録が、同時にこの信仰の変容をも書きとめていた点に、万寿五年遠江国司解という史料の厚みがある。
7. 背景 ── 摂関政治全盛期の地方寺院維持
ここまで見てきた被災と修復の記録を、より広い歴史の文脈に置き直してみたい。治安2年から万寿年間という時期は、藤原道長が「この世をば我が世とぞ思ふ」と詠んだと伝えられる、摂関政治の絶頂期にあたる。中央では貴族社会の栄華が語られ、壮麗な寺院や邸宅が次々に営まれていた。その同じ時代に、地方の一国分寺では、倒れた講堂を瓦葺から茅葺に格下げしてでも建て直さねばならないという、切実な維持の現実があった。中央の華やぎと地方の窮迫という対照は、この時代の二つの顔を鮮やかに映し出す。
古代の地方寺院を維持することの困難は、いくつもの層をもつ。第一に、資材と労働力の問題がある。瓦の調達、木材の伐り出し、それらを扱う工人の確保は、いずれも地方にとって重い負担であった。瓦葺から茅葺への変更が申請されたのは、まさにこの負担を軽減するためであった。第二に、費用の問題がある。官寺の修復は国司の裁量だけでは賄いきれず、中央への申請と許可を要した。これは統制であると同時に、地方だけでは維持しきれない施設を国家が支える枠組みでもあった。統制と支援は、同じしくみの表と裏であった。
第三に、時間の問題がある。被災から勘査までは6年におよんだ。この緩慢さは、単に古代の行政が非効率だったことを意味しない。むしろ、遠隔地の一施設の修復であっても、応急・申請・裁許・実施・報告・監査という段階を省かずに踏んだことの帰結である。手続きの正しさが、時間の長さと引き換えに担保されていた。先例による勘査の簡略化が示すように、当時の地方行政は、必要な手続きを保ちつつも、現実に回るよう工夫を凝らしていた。硬直と柔軟が同居していたのである。
こうした維持の困難は、遠江国分寺のその後の歩みを考えるうえでも示唆に富む。国家の支援の枠組みが弱まり、あるいは寺への関心が薄れたとき、維持はいっそう難しくなる。本論考シリーズの「記録が消えた理由」で論じたように、古代の大寺が中世以降に記録の表舞台から退いていく背景には、こうした維持の困難の累積があったと考えられる。治安・万寿年間の講堂修復は、まだ国家の枠組みが機能していた時代の記録である。その枠組みが働いていたからこそ、一通の国司解が作られ、今日まで伝わった。逆にいえば、後にこの種の記録が乏しくなること自体が、維持を支える枠組みの変質を映す指標となりうる。
最後に、この一通の記録が残ったこと自体の意味を考えておきたい。古代の地方寺院の多くは、被災や修復の詳細を伝える文書を残していない。遠江国分寺の講堂修復がこれほど具体的に跡づけられるのは、国司解という公文書が作られ、それが『朝野群載抄』という書式集の系統に採録され、近代以降の研究によって読み解かれたという、いくつもの偶然が重なった結果である。したがって、本稿が描いた維持の姿を、そのまま他国の国分寺一般に敷衍することには慎重でなければならない。一例が精緻に残ったからといって、それが当時の標準であったとは限らない。むしろこの記録は、失われた無数の同種の事例のうち、たまたま伝わった貴重な一つとして位置づけるべきである。その一つから読み取れることを丁寧に汲みつつ、それを性急に一般化しないこと──この抑制もまた、史料批判の作法に属する。
8. 結論 ── 被災の記録を維持史として読む
本稿は、治安2年(1022年)の大風による遠江国分寺講堂の倒壊と、その後の修復・勘査の記録を、『朝野群載抄』所引の万寿五年遠江国司解を一次史料として読み解いた。得られた見取り図は次のとおりである。被災の翌年に仮屋と供養が営まれ、万寿元年に太政官へ修復が申請され、瓦葺から茅葺への変更と仏像の造り替えが計画された。万寿2年に裁許が下り、修復ののち、先例にならった簡略な勘査を経て事業は完了した。この6年におよぶ手続きの全体が、古代国家が地方の官寺をどう維持したかを、具体的に伝えている。
本稿の立場は明確である。この記録は、単なる一寺院の被災譚としてではなく、古代寺院の維持史を映す一次史料として読まれるべきである。そこには、格式より負担軽減を優先せざるをえなかった地方の窮迫、統制と支援を兼ねた中央の許可制、先例による事務の合理化、そして本尊が釈迦から阿弥陀へと移ろっていた信仰の変容が、いずれも同じ一通の文書のうちに畳み込まれている。被災という一点の出来事の記録が、維持という長い時間の営みを照らし出す。この読み替えこそが、本稿の企図であった。
同時に、本稿が語りえなかった限界も明記しておく。本稿は原文書に直接あたっておらず、石上英一氏の解説と『国分寺ものがたり』を経由した孫引きにとどまる。太政官の審議の内実、修復の着工と竣工の時期、本尊が阿弥陀仏へ転じた具体的な経緯は、いずれも本稿の参照範囲では確認できず、「記載なし」と「未確認」の境界も確定しきれていない。これらは、原典と関連史料を博捜することで、未確認を史実へと一歩ずつ押し上げていくべき課題である。釈迦から阿弥陀、そして薬師へと続く本尊変遷の全体像と、遠江国分寺が中世以降にたどった維持の道筋については、本論考シリーズの続編で稿を改めて論じたい。
注
- 講堂倒壊の年月日(治安2年〈1022年〉7月5日)および被災の概要は、国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』(小杉達 著、令和4年〈2022年〉刊)pp.19-21が紹介する万寿五年遠江国司解の記載による。↩
- 典拠の経路は、『朝野群載抄』所引 万寿五年遠江国司解 →『特別史跡遠江国分寺跡―本編―』(2016年)p.257所収の石上英一氏解説 →『国分寺ものがたり』pp.19-21 → 本稿、という孫引きである。本稿は原典(国司解本文および石上氏解説原文)に直接あたっていない。↩
- 天平13年(741年)の国分寺建立の詔から治安2年までは280年余りにおよぶ。講堂は僧が経典を講じ法会を営む主要伽藍の一つであり、その倒壊は伽藍機能の一部の喪失を意味した。↩
- 治安3年(1023年)7月の遠江守・源安道による仮屋建立と修造供養、および万寿元年(1024年)正月16日の太政官への申請(瓦葺から茅葺への変更、仏像の銅造・彩色)は、いずれも国司解の記載に基づく。↩
- 修復仏像の内訳(金色阿弥陀仏1体・脇侍菩薩2体・四天王像4体・吉祥天1体)は国司解の記載による。国分寺本尊を釈迦如来とする原則は天平13年の建立の詔に由来する。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 n035「講堂が倒れた日」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・未確認・記載なし)を語の水準で区別し、国司解に記載のある年月日・手続きを史料上の事実、本尊転換の経緯や大風の規模などを未確認として扱った。本稿は原典未見の孫引きである点を第2節および注2に明記している。
参考文献・参考資料
- 国分寺奉賛会『国分寺ものがたり』小杉達 著、令和4年〈2022年〉11月20日発行、発行所・大進堂、pp.19-21。
- 『特別史跡遠江国分寺跡―本編―』磐田市(2016年)p.257所収、石上英一「解説」(『朝野群載抄』所引 万寿五年遠江国司解を扱ったもの)。
- 『朝野群載抄』所引 万寿五年(1028年)遠江国司解。
- 『続日本紀』天平13年(741年)国分寺建立の詔(関連)。
- 三善為康 編『朝野群載』(新訂増補国史大系ほか所収)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、古代・中世の章)。
- 遠江国分寺跡関連 発掘調査報告書(磐田市教育委員会)。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 大石浩之「遠江国分寺 ── 古代地方の大寺と伽藍」『大石浩之の磐田論考』第7号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/007/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之「記録が消えた理由 ── 東海道が国分寺の前を通らなくなった道」『大石浩之の磐田論考』第125号 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/125/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語「講堂が倒れた日 ── 治安2年の大風と太政官への嘆願」 https://iwata-monogatari.net/n035 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語「鎌倉時代の国分寺 ── 釈迦から薬師へ、本尊が変わるとき」 https://iwata-monogatari.net/n036 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」特別史跡の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。