失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 十郎島と川袋 ── 天竜川の中州に生きた村

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第90号(竜洋・天竜川下流の村落史 一)

十郎島と川袋 ── 天竜川の中州に生きた村

川に囲まれた低地の暮らしと地名

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋(十郎島・川袋)

要旨

天竜川下流の竜洋地区西部に位置する十郎島と川袋は、かつて幾筋にも分かれて流れた天竜川の分流に囲まれた中州・低地に成立した村である。本稿は、この二集落の地名の由来、中州としての成立、そして氾濫と隣り合わせの暮らしを、史実・推定・伝承の層を区別しながら記述する。地名の「島」「袋」は天竜川の網状流路がつくった地形をよく映すが、「十郎」の含意など由来の細部にはなお未確認の余地が残る。人々は敷地を高く盛って蔵を建てる水塚を設け、集落を輪中堤で囲んで氾濫に備えた。この母屋と避難蔵の二層の暮らしは、濃尾平野の輪中とも通じる氾濫原共通の適応である。金原明善らによる治水と近代堤防の完成、そして昭和19年ごろまで残った島状地形の解消を経て、危険な氾濫原はやがて肥沃な農地へ姿を変えた。あわせて渡船場から橋へと移ろう交通の記憶をたどり、本稿は中州の村を、恵みと脅威が表裏一体をなす低地の生活史として描く。

キーワード:十郎島/川袋/中州集落/水塚/輪中堤/天竜川治水/掛塚湊

1. 問題設定 ── 中州の村をどう記述するか

天竜川下流、竜洋地区の西側に、十郎島(じゅうろうじま)と川袋(かわぶくろ)という二つの集落がある。いずれも、地名からして水と切り離せない。「島」「袋」という語がそのまま示すとおり、これらの村は、天竜川がかつて一本の太い流れではなく幾筋にも分かれて流れていた氾濫原の只中に営まれた1。ひとたび水が出れば濁流の直撃を受ける低地に、人々はなぜ、どのように村を築き、暮らしを維持しえたのか。本稿はこの問いを、中州・低地に成立した村の地名・成立・暮らしという三つの層に分けて記述することを課題とする。

祭礼や城館のような華やかな主題に比べれば、氾濫原の小集落はいかにも地味な対象である。しかし、川と土地と人の関係が最も先鋭に現れるのは、まさにこうした場所においてである。恵みと脅威が同じ川からもたらされ、その両方に日々応じながら暮らしを立てるほかなかった村では、土地の性格が生活様式を強く規定する。地名の一字、敷地のわずかな高低差、集落を取り巻く土手の一筋に、川と渡り合った先人の判断が刻まれている。中州の村を読むとは、そうした痕跡から土地と暮らしの論理を復元する作業にほかならない。

記述にあたっては、確度の異なる情報を同じ平面で混同しないための姿勢を、あらかじめ定めておきたい。本稿では、史料や記録によって確認できる事柄を史実、根拠はあるが未確定の事柄を推定、地域で語り継がれてきた事柄を伝承として、語の水準で書き分ける。とりわけ地名の由来は、もっともらしい語呂合わせに引き寄せられて民間語源に流れやすい領域であるから、地形との整合という根拠を示せる範囲と、なお確かめきれない部分とを区別して述べる。あわせて、「未確認」(管見の限り一次史料に突き当たっていない)と「記載なし」(史料に記載が存在しない)とを、以下では一貫して区別する。

本稿が主たる素材とするのは、竜洋地区の記憶を扱った一般向け記事の記述と、『竜洋町史』をはじめとする地域史料、および掛塚のまち歩きの調査記録である。事実関係はこれらの記述に忠実に拠り、確認しえない年代や数値を補って断定することはしない。以下ではまず地名の由来を検討し、続いて中州としての成立、水塚と輪中堤による氾濫への備え、近代の治水と島状地形の解消、渡船場から橋への交通の変遷を順にたどり、最後にこれらを確度の層に整理し直して結論に至る。

なお、本稿が対象とする十郎島・川袋は、行政区としての厳密な範囲を確定して論じるものではない。中州の村は流路の変遷とともに位置を移し、その輪郭もまた時代によって揺れ動いた。ここで問うのは、固定した一地点の沿革というより、天竜川下流の低地に生きるという経験の型である。二つの地名を手がかりに、その型がどのように地名・地形・土木・交通の各面に現れたかを読み解くことが、本稿の狙いである。個別の村の記録が乏しくとも、経験の型として捉えれば、周辺の村々や日本の他の氾濫原と重ねて論じる道が開ける。

十郎島 中洲の集落 川袋 袋状の低地 天竜川の分流(網状流路) 分流に囲まれた中州・低地の村
図1 十郎島・川袋の立地模式図。近世以前の天竜川下流は網の目状に分流し、集落はその分流に囲まれた中洲や袋状の低地に営まれた。流路の位置は概念的に示したものである。

2. 地名の由来 ──「島」と「袋」が語る地形

地名は、しばしば土地の来歴を最も簡潔に語る資料である。十郎島・川袋の場合も、その語構成そのものが立地の性格を映している。まず「島」は、海の島ではなく、川の流れに囲まれた中洲を指すと解するのが、地形との整合からみて穏当である。近世以前の天竜川下流が幾筋にも分かれて流れ、その分流のあいだに砂洲状の高まりを残していたことを踏まえれば、そうした中洲の上に開かれた集落が「島」を名に負うのは自然である。この地形地名としての理解は、周辺の低地の成り立ちともよく符合する2

「川袋」もまた地形をよく写した名である。川が袋のように湾曲して突き当たり、水がいったん溜まりやすい地形を「袋」と呼ぶ例は各地にあり、河川の屈曲部や旧流路がつくる袋小路状の低地を指す語として理解できる。十郎島が中洲=「島」を、川袋が湾曲部=「袋」を、それぞれ名に取り込んでいるとすれば、二つの地名は同じ氾濫原のなかで、微地形の違いをそれぞれに刻んでいることになる。地名を通してこの一帯を眺めると、天竜川の分流がつくった凹凸の地図が、文字のうえに浮かび上がってくる。

低湿地の地名には、水に関わる語が繰り返し現れる。「島」「袋」のほか、「沼」「江」「洲」「輪」など、水と土地の関係を写す語は、各地の氾濫原に共通して分布する。こうした地名群のなかに十郎島・川袋を置いてみると、二つの村がその名において、氾濫原の集落という同じ出自を分かち合っていることが見えてくる。地名は個々に孤立して生まれるのではなく、土地の条件を映す共通の語彙の体系のなかで名づけられる。だからこそ、一つの地名の由来を読むには、それを支える地形と、周囲に分布する類似の地名との両方に目を配る必要がある。

もっとも、地名由来には慎重に扱うべき部分も残る。「十郎島」の「十郎」については、地形からただちに説明のつく「島」とは違い、その含意を確定する一次史料に本稿は突き当たっていない。人名に由来するとみる余地もあれば、地割や順序を示す語が転じたものとみる余地もあるが、いずれも決め手を欠く。ここで大切なのは、「島」が地形地名として説明できることと、「十郎」の由来が未確認であることとを、同じ「地名の由来」という枠のなかで混同しないことである。前者は地形との整合という根拠をもつ推定であり、後者はなお材料を欠く未確認の問題として、区別して記録しておく。

地名研究の一般的な注意として、後世に付された解釈が、あたかも古くからの由来であるかのように語り継がれる例は珍しくない。もっともらしい語源譚が地域に定着すると、それ自体が一つの伝承として機能しはじめ、由来の当否とは別に、土地への愛着や記憶を支える働きをもつようになる。したがって本稿は、地名の由来を確定することそれ自体を目的とはしない。むしろ、地形から説明できる範囲を推定として押さえ、確定できない部分を未確認として明示することで、後の調べものに手がかりを残すことを心がける。地名は、それが指す土地の性格を考えるための入口であって、結論ではない。

十郎島=「島」 中洲の高まり 分流に囲まれた島状地 川袋=「袋」 湾曲して突き当たる 水が溜まりやすい低地 地名が写す微地形の違い(地形地名としての推定)
図2 地名由来の対比。「島」は分流に囲まれた中洲、「袋」は湾曲部の低地を指すとみる地形地名の理解を示す。「十郎」の含意は本稿では未確認とする。

3. 中州集落の成立 ── 自然堤防上の立地

地名が示す立地を、地形の側から裏づけておきたい。十郎島・川袋の集落は、天竜川の分流に挟まれた自然堤防、すなわち砂洲状の微高地の上に位置していた。河川が氾濫を繰り返す氾濫原では、流路に沿って砂が積もり、周囲よりわずかに高い帯状の高まりができる。この自然堤防は、後背の低湿地に比べれば水がつきにくく、集落や畑地を営む場としてまず選ばれる。中州の村が「島」でありながら人の住む場となりえたのは、この微高地の存在があったからである。

この立地は、恵みと脅威を同時にもたらした。恵みの側からいえば、水が引いたあとに残る肥沃な堆積土は、農業にとって得がたい資源であった。天竜川が運んだ細かな土は地味を養い、畑地に豊かさをもたらす。人々はこの恵みを利用して暮らしを立てることができた。しかしその代償として、大雨のたびに集落全体が激流に孤立する水害の恐怖と戦い続けねばならなかった。恵みと脅威が表裏一体をなすこの土地の性格こそ、十郎島・川袋の人々の暮らしと知恵の出発点であったといえる。

ここで、村の立地が固定したものではなかった点を強調しておきたい。天竜川は近世以前、流路そのものをしばしば変えた。分流の一筋が主流となり、別の一筋が涸れる。中洲が削られ、あるいは新たな中洲が生まれる。こうした流路の変遷のなかで、村もまた翻弄された。十郎島は、その名の通りもともと天竜川の中洲にあった集落であったが、近代以降の河川改修工事によって、その島そのものが姿を消したと伝えられる。住民は掛塚本町の西側、現在の十郎島の位置へと集団で移転を余儀なくされ、集落の氏神であった八幡神社もまた、この移転に伴って現在地へ遷座したという3。村が土地に固く根を張るというより、川の動きに応じて位置を移しながら存続してきたことが、この移転の記憶からうかがえる。

中州の村の成立を考えるとき、私たちはつい、ある時点で一挙に村が「できた」と想像しがちである。しかし氾濫原の集落は、むしろ流路の変遷と絶えず折り合いをつけながら、少しずつ現在の姿へ形を整えてきたと考えるほうが実態に近い。どの中洲にいつ人が住みついたかを一点で確定する一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。ここでも「未確認」と「記載なし」を区別し、成立年代の断定は控える。確かなのは、この村が、動く川のうえに営まれた、動きうる村であったという性格である。

もっとも、こうした不安定さは、裏を返せば土地の若さでもあった。天竜川が繰り返し運んだ新しい土は、地味を絶えず更新し、畑地を肥やし続けた。古い土地が長い耕作でしだいに痩せていくのに対し、氾濫原の畑は、洪水という災厄と引き換えに、肥沃さを補給され続ける。人々が危険を承知でこの低地にとどまったのは、単に他に行き場がなかったからではなく、この土地が与える恵みが、脅威に見合うだけの大きさをもっていたからでもある。恵みと脅威の均衡のうえに、中州の村の暮らしは成り立っていた。この均衡を読み損ねて、水害の記憶だけを取り出せば、なぜ人がここに住み続けたのかという肝心の問いが抜け落ちてしまう。

集落・畑地 自然堤防(微高地) 分流 砂洲の高まり 分流 自然堤防上の立地 ── 微高地に集落、低所に水
図3 自然堤防上の立地の断面模式。分流沿いに積もった砂洲の微高地に集落と畑地が営まれ、水は周囲の低所を流れる。高低差はごくわずかであった。

4. 命を守る土木の知恵 ── 水塚と輪中堤

氾濫の直撃から家族と財産を守るため、十郎島や川袋の家々では、独特の建築土木の知恵が発達した。その代表が「水塚(みづか、あるいはミヅカ)」である。これは、母屋よりも敷地の一部を一段と高く、ときに2メートル以上も土を盛り上げ、その上に頑丈な木造やレンガ造りの蔵を建てるものである。日々の暮らしを営む母屋と、非常時に命と財を退避させる高い蔵とを、同じ敷地のなかに併せもつ構えといってよい。

水塚のなかには、洪水の際にも濡れないように高い位置に棚が設けられ、数日分の米や味噌、衣類、さらには非常用の舟までが常備されていた。天竜川の本堤防が決壊すると、人々は母屋を捨ててこの水塚へと避難し、水が引くのを静かに待った。水に浸かることを前提に、そのときどう命をつなぐかを敷地の設計そのものに織り込む──水塚は、川と共に暮らすための、いわば究極の適応の形であった。母屋を失う覚悟のうえに、失ってはならないものだけを高みへ上げておくという発想が、この構えには貫かれている4

水塚に備えられた非常用の舟は、この暮らしの性格を端的に示している。舟を屋内に常備するという発想は、水がいずれ必ず敷地に達することを前提としなければ生まれない。堤で水を完全に締め出すのではなく、水が来ることを織り込んだうえで命をつなぐ──この「締め出す」より「やり過ごす」に近い姿勢は、堤防で流路を固定した近代の治水思想とは対照的であり、動く川と共に生きた時代の身の処し方をよく表している。水塚とは、その姿勢を敷地の設計そのものへ翻訳した装置であった。

こうした「母屋」と「非常時の避難・備蓄用の高い建物」という二層構造の暮らし方は、天竜川流域だけの特殊な知恵ではない。木曽三川が集まる濃尾平野の輪中地帯などでも広く見られる、日本の氾濫原に共通する防災建築の型である。濃尾平野の輪中では、日常生活の母屋に対して、水害時の避難と食料備蓄のための「水屋」が備えられていた。天竜川下流域の水塚も、地域ごとに呼び名は異なるものの、本質的にはこれと同じ発想に基づく施設であったと考えられる。個々の村の工夫が、じつは氾濫原に生きる人々の広い知恵の系譜に連なっていたことは、この地の暮らしを孤立した奇習としてではなく、日本の低地開発史のなかに位置づけて読むべき理由になる。

もっとも、防災は個人の力だけでは完結しない。十郎島や川袋の住民たちは、集落全体をぐるりと囲み、水の侵入を防ぐ「輪中堤(わじゅうづつみ)」を共同で建設・維持した。毎年、農閑期になると集落の全世帯から人が集まり、土手を踏み固め、杭を打ち、堤防の弱い部分を補強し続けた。水塚が家ごとの備えであるとすれば、輪中堤は村ぐるみの備えである。一軒の盛り土がいかに堅固でも、集落を囲む土手が一か所でも破れれば、水はたちまち全体を呑む。だからこそ、輪中堤の維持は個々の家の利害を超えた共同の営みであり、その持続そのものが村の結束を測る尺度でもあった。低地の村における治水とは、土木の技術であると同時に、共同体を束ねる社会の仕組みでもあったのである。

増水時の水位 母屋 日常の暮らし(低い) 高い棚に米・味噌 水塚 盛り土2m以上・避難と備蓄 二層構造の暮らし ── 母屋を捨て、水塚へ退く
図4 水塚の二層構造。母屋より高く盛った土の上に頑丈な蔵を建て、高い棚に食料や貴重品を備える。決壊時には母屋を離れて水塚へ避難した。

5. 治水の歴史と島状地形の解消

村ぐるみの輪中堤による防御にも、限界はあった。分流に囲まれた低地が本当に安全な農地へ変わるためには、天竜川そのものの流れを制御する、より大きな治水が必要であった。こうした地域の共同治水を後押ししたのが、明治期の実業家・金原明善(きんぱらめいぜん)による天竜川治水事業である。金原は明治7年(1874年)、私財5万6千円余りを投じて天竜川の治水事業に着手した。のちには、治水の根本は水源の涵養にあると考え、上流域への大規模な植林事業にも取り組んでいる5。この官民一体の努力によって、天竜川の護岸・築堤は徐々に本格化していった。

金原の事業が象徴するのは、治水の視点が「集落を囲む」段階から「流域を治める」段階へと広がったことである。輪中堤が、あくまで自分たちの村を水から守る局所的な防御であったのに対し、近代の治水は、上流の山から河口までを一つのつながりとして捉え、水源の森林の保全にまで及んだ。目の前の土手を踏み固める営みと、遠い上流に木を植える営みとが、同じ「水を治める」という課題のもとに結ばれた点に、この時代の転換が表れている。

治水の進展は、しかし一様な前進ではなかった。上流に堤が築かれれば下流の水位が変わり、一方の岸を固めれば対岸の負担が増す。天竜川のような大河では、ある地点の安全がしばしば別の地点の危険と背中合わせであり、治水は流域全体の利害を調整する困難な事業であった。金原の営みが官民一体の形をとらざるをえなかったのも、一村一個人の力では御しがたい川の規模ゆえである。輪中堤の時代から近代堤防の時代への移行は、単に技術が進んだというより、水と向き合う単位が村から流域へと拡大していった過程として理解すべきである。

それでも、島状の地形が解消されるまでには、なお長い時間がかかった。記録によれば、掛塚を含む竜洋地区は、昭和19年(1944年)ごろまで、天竜川の本流と東派川とに挟まれた島状の地形として存在し、両岸からの浸水に繰り返し悩まされ続けていたとされる。近代の治水が進んでもなお、この一帯が長く「島」であり続けたことは、天竜川下流の水との闘いがいかに根深いものであったかを物語る。大正から昭和にかけて天竜川の本格的な近代堤防が完成し、本流が一本に統合されると、かつての危険な氾濫原は、ようやく安全で極めて肥沃な農地へと姿を変えた。

東派川という分流の名が示すように、この地は長く本流と派川とのあいだに置かれていた。派川とは、本流から分かれて流れる川筋を指す。両岸を水に挟まれるということは、片側の堤が守られても、もう片側から水が来る危険が残るということである。竜洋地区が昭和の中頃まで島状であり続けたという記録は、この二重の水の脅威が、近代の治水をもってしてもなお容易には解けなかったことを伝えている。島状地形の解消とは、単に堤を高くすることではなく、二つの流れのうち一方を締め切り、本流を一本にまとめるという、水系そのものの再編を要する事業だったのである。

今日、水塚の多くはすでに取り壊されている。しかし十郎島や川袋の家々に残る敷地の微妙な高低差や、古い石垣は、荒れ狂う暴れ天竜と知恵と団結で渡り合った先人たちの闘いの記憶を、なお静かに伝えている。土地が平らに均され、堤防の内側が一様な農地となったあとも、わずかな盛り上がりが、かつてそこが水と背中合わせの村であったことを地面に書き留めている。地形に刻まれたこの記憶は、文字の史料が語らない部分を補う、もう一つの資料である。堤防が完成し島状地形が解消したことは、水害の歴史の終わりであると同時に、川と渡り合った暮らしの記憶が急速に見えにくくなっていく起点でもあった。

近世以前網状の分流 1874金原明善 着手 1944ごろなお島状地形 大正〜昭和近代堤防・本流統合 ■ 氾濫原・島状地形の時代 ■ 治水・農地化の時代 治水の歩みと島状地形の解消
図5 治水年表。近世以前の網状流路から、金原明善による着手(1874年)を経て、昭和19年ごろまで残った島状地形が、近代堤防の完成と本流の統合によって解消するまでの流れを示す。

6. 交通の結節点 ── 渡船場から橋へ

十郎島という土地は、水害と闘う場であると同時に、人と物が行き交う交通の要でもあった。橋が架けられる以前、十郎島は天竜川を渡る「渡船場」としての役割を担っていた。分流に囲まれた立地は、水害の面では脅威であったが、川を越える渡りの拠点としてみれば、むしろ人と物を集める結節点であった。八幡神社の裏手には、かつての十郎島渡船場跡を示す碑が今も残されており、この地が渡しの場であった記憶を刻んでいる。

明治期に入り、この渡船場のあった場所に初代の掛塚橋(木橋)が架けられると、以後この地は横須賀・掛塚往還と呼ばれた道筋の起点となり、後年には県道として整備されるに至った。渡し船から木橋へ、そして現代の鉄橋・コンクリート橋へと、時代とともに交通インフラは形を変えていったが、いずれの時代も十郎島という土地が天竜川を挟んだ人と物の往来の結節点であり続けた点は変わらない。水害と隣り合わせでありながら、同時に交通の要衝でもあったという二面性こそが、十郎島や川袋という集落の成り立ちを特徴づけている。

ここで、前章で触れた八幡神社の遷座と手水鉢に立ち返っておきたい。中洲の消滅にともなって現在地へ遷った八幡神社の手水鉢は、舳先のように両端がとがった舟形をしているという。石の手水鉢が舟の形をとっていることは、この村が単に水と闘っただけの村ではなく、掛塚湊とともにあった水運の集落でもあったことを、無言のうちに証言している。水害への備えと、川を越え川を下る交通・水運の営みとは、同じ天竜川という川の、脅威の面と恵みの面にそれぞれ応じたものであった。舟形の手水鉢は、その両面が一つの村のなかで結び合っていたことを、今に伝える貴重な遺物である。

掛塚湊は、天竜川の水運と遠州灘の海運とが接する要港として、近世以来栄えた。上流から筏や舟で下された木材や産物が河口の湊に集まり、廻船によって各地へと運ばれた。十郎島・川袋は、その河口の物流圏の縁に位置していた。中州の村が単なる農の村にとどまらず、渡しや水運と結びついた性格をもったのは、この掛塚湊を核とする流通の世界に組み込まれていたからにほかならない。水害の最前線であることと、物流の結節点であることとは、同じ河口という立地の、脅威の面と恵みの面であった。

渡船場が橋に変わったことは、単なる交通手段の更新にとどまらない意味をもつ。舟による渡しは、水位や天候に左右され、増水時には運航が止まった。川の状態に人の往来が従属していたのである。橋の架橋は、その従属から人を解き放ち、川といつでも越えられる関係へと変えた。水塚や輪中堤が水の脅威に耐える工夫であったとすれば、橋は水の隔てを越える工夫であり、いずれも川と人との関係を、受け身から働きかけへと組み替えていく歩みの一部であった。

交通の記憶を重ねて読むと、中州の村の性格がいっそう立体的に見えてくる。氾濫を避けるための水塚や輪中堤が、川の脅威に応じた「守り」の知恵であるとすれば、渡船場や掛塚湊とのつながりは、川の恵みを活かした「開き」の営みである。守りと開き、この二つが同居していたところに、十郎島・川袋という低地の村の独自性がある。川に囲まれていたからこそ渡りの場となり、水運の集落ともなった。地形上の弱点が、同時に交通上の強みでもあったという逆説を、この村の歴史は体現している。

渡船場舟で渡る 掛塚橋(木橋)明治・往還の起点 県道整備後年 鉄橋・コンクリ橋 交通の変遷 ── 渡しから橋へ、変わらぬ結節点 手段は移り変わっても、十郎島は川を挟む往来の要であり続けた。
図6 交通の変遷。渡船場から明治期の掛塚橋(木橋)、県道整備を経て現代の鉄橋・コンクリート橋へと手段は移り変わったが、十郎島は一貫して川を挟む往来の結節点であった。

7. 中州の村を記述する ── 確度の腑分けと比較

ここまでたどってきた地名・成立・暮らし・治水・交通の各主題は、それぞれ資料の性格と確からしさを異にしている。地名の由来には地形との整合という根拠をもつ推定と、なお材料を欠く未確認の部分が同居していた。金原明善の治水は年紀と金額を伴う史実であり、昭和19年ごろまでの島状地形も文献記録に拠って述べうる。八幡神社の遷座や渡船場跡の碑は、伝承と現地の痕跡が支える。異なる確度の情報を同じ調子で並べると、読者はどこまでが確かでどこからが推量かを見失う。そこで以下の表に、主要な論点を、内容・依拠資料・確度の層・留意点という同じ粒度で整理し、確度の水準を可視化しておく。

表1 十郎島・川袋をめぐる主要論点の確度整理 ── 内容・依拠資料・確度の層・留意点
論点主な内容依拠する資料確度の層留意点
「島」「袋」の地名由来分流に囲まれた中洲と、湾曲部の低地を指す地形地名。地形との整合、地域の地名解。推定地形からの説明は妥当。「十郎」の含意は別問題。
「十郎」の含意人名か地割語か、複数の解釈がありうる。決め手となる一次史料を欠く。未確認断定せず、材料を欠くことを明記する。
中州としての成立・移転中洲の集落が河川改修で消え、住民と八幡神社が移転。掛塚まちめぐり調査、地域の伝え。伝承・推定成立年代を記す一次史料は未確認。
水塚・輪中堤盛り土上の避難蔵と、集落を囲む共同の堤。河口域の民俗記録、輪中の一般知見。史実・通説濃尾平野の水屋と同型の氾濫原適応。
金原明善の治水/島状地形1874年着手・私財投入、昭和19年ごろまで島状地形。金原治山治水財団年譜、地域史。史実年紀・金額を伴い、記録で確認できる。

この整理から見えてくるのは、一つの村の歴史が、確度の異なる複数の資料を編み合わせて初めて描けるという事実である。地名は推定と未確認を、成立史は伝承と現地の痕跡を、治水は年紀を伴う史実を、それぞれ提供する。どれか一つの層だけで村の全体を語ろうとすれば、他の側面が抜け落ちる。確度の低い部分を無理に確定して埋めるのでもなく、確かな史実だけを取り出して伝承を切り捨てるのでもなく、それぞれの資料をその層にふさわしい重みで扱うこと──それが、史料の乏しい低地の村を記述する際の基本の作法である。

比較の視点も、この記述を助ける。水塚と輪中堤を、天竜川流域だけの孤立した奇習としてではなく、濃尾平野の輪中・水屋と同型の氾濫原適応として捉え直すと、十郎島・川袋の暮らしは、日本の低地開発史という大きな文脈のなかに位置づけられる。逆に、その大きな型のなかで、この地の水塚や渡船場が帯びた個別の姿──掛塚湊とのつながり、舟形の手水鉢、横須賀・掛塚往還の起点という交通上の役割──が、かえって際立ってくる。一般的な型との比較は、地域の個性を消すのではなく、むしろそれを浮かび上がらせる。天竜川がつくった村、流した村や、十束村の成立と新田開拓で扱った天竜川下流の村づくりの諸相、さらに天竜地区の水辺の生活史と重ねて読むとき、十郎島・川袋は、暴れ天竜と渡り合った村々のなかの、中州という最前線に立った一例として理解できる。

史料の乏しさは、しばしば地域史記述の障害とみなされる。しかし、乏しいなりにどこまで言えるかを確度の層に腑分けして示すことは、それ自体が一つの記述の達成である。断定できないことを断定せず、確かめられたことを確かめられたと記す。その禁欲的な手続きの積み重ねが、後の調べものに耐える記録を残す。十郎島・川袋のような小さな中州の村こそ、この作法の意義がよく試される対象である。

8. 結論 ── 恵みと脅威の低地生活史

本稿は、天竜川下流の中州・低地に成立した十郎島と川袋を、地名・成立・暮らし・治水・交通という五つの主題から検討し、それらを確度の層に腑分けして整理した。得られた見取り図は次のとおりである。「島」「袋」という地名は、分流に囲まれた中洲と湾曲部の低地という立地を地形地名としてよく写しており、この点は推定として妥当性が高い。一方で「十郎」の含意や、村がいつ成立したかを記す一次史料は、本稿の範囲では未確認である。人々は水塚と輪中堤によって氾濫に備え、その二層の暮らしは濃尾平野の輪中とも通じる氾濫原共通の適応であった。金原明善らの治水と近代堤防の完成、昭和19年ごろまで残った島状地形の解消を経て、危険な氾濫原はやがて肥沃な農地へ姿を変えた。

この村の歴史を貫くのは、恵みと脅威が同じ天竜川からもたらされるという表裏一体の構造である。分流に囲まれた立地は、水害の脅威をもたらすと同時に、肥沃な堆積土という恵みと、渡しや水運という交通上の利をも与えた。水塚と輪中堤という「守り」の知恵と、渡船場や掛塚湊とのつながりという「開き」の営みが、一つの村のなかで同居していた。地形上の弱点がそのまま交通上の強みでもあったという逆説を、十郎島・川袋の歴史はよく体現している。中州の村を記述するとは、この二面性を、どちらか一方に還元せずに書き留めることにほかならない。

したがって本稿の立場は明確である。史料の乏しい低地の村を描くにあたっては、地名由来を性急に確定して民間語源に流れることを避け、地形から説明できる推定と、なお材料を欠く未確認とを区別する。伝承や現地の痕跡を史実の劣位に置かず、年紀を伴う治水史と対等に、それぞれの層にふさわしい重みで扱う。そして水塚や輪中を、孤立した奇習ではなく日本の氾濫原に共通する適応の一例として、比較のなかに位置づける。この手続きによって、乏しい史料からでも、川と渡り合った村の暮らしを、後の調べものに耐える形で残すことができる。

最後に、本稿が残した課題を記しておく。第一に、「十郎」の由来や村の成立年代は、近世の検地帳や村方文書を博捜することで、未確認の状態を一歩前進させられる余地がある。第二に、水塚の分布・規模・構造は、現地に残る高低差や石垣の悉皆的な踏査によって、より具体的に復元しうる。第三に、掛塚湊・横須賀掛塚往還とのつながりは、水運と陸運の結節点としての十郎島の位置を、流通史の観点から描き直す主題となる。堤防が完成し島状地形が解消した今、川と渡り合った暮らしの痕跡は急速に見えにくくなりつつある。だからこそ、地面に残るわずかな高まりや、舟形の手水鉢のような無言の遺物を、確度の層を保ったまま丁寧に記録していくこと──その地道な作業の先に、天竜川の中州に生きた村の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。

本稿の舞台である竜洋・掛塚の一帯には、川と渡り合ってきた古い家や土地が今も数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 十郎島・川袋は竜洋地区西部に位置し、近世以前の天竜川下流が網状に分流していた氾濫原に立地する。位置と地区の概要は『竜洋町史』および磐田お宝見聞帳「竜洋地区と天竜川」による。
  2. 「島」「袋」を分流に囲まれた中洲・湾曲部の低地を指す地形地名とみる理解は、地形との整合に基づく推定である。「十郎」の含意については本稿では決め手となる一次史料に突き当たっておらず、未確認とする。
  3. 中洲の集落が河川改修で消え、住民が掛塚本町西側へ移転し、八幡神社が現在地へ遷座したこと、舟形の手水鉢が水運集落の性格を伝えることは、「第1回『掛塚まちめぐり』下見ウォーク④―十郎島・八幡神社と渡船場跡」による。成立年代を記す一次史料は未確認。
  4. 水塚(みづか)の構造・機能、および濃尾平野の輪中における「水屋」との同型性については、『天竜川河口域の歴史と民俗』および「輪中」に関する一般的知見(水土の礎「水から土地を守る、輪中」等)による。
  5. 金原明善が明治7年(1874年)に私財5万6千円余りを投じて天竜川治水に着手し、のちに上流域の植林に取り組んだこと、および掛塚を含む竜洋地区が昭和19年(1944年)ごろまで本流と東派川に挟まれた島状地形であったことは、一般財団法人金原治山治水財団「年譜」および地域史記述による。

付記:本稿は一般読者向け記事 r008「十郎島と川袋 ── 激流に削られた輪中集落と天竜川旧流路の記憶」の内容を、郷土史研究者向けに確度の層(史実・推定・伝承)の区別を明示して再構成した論考版である。金原明善の治水年紀や島状地形の記録を史実、地名由来を地形からの推定、八幡神社の遷座・渡船場の記憶を伝承および現地の痕跡として扱った。

参考文献・参考資料

  • 『竜洋町史 通史編・史料編』竜洋町。
  • 『遠州掛塚港の廻船史』。
  • 『天竜川河口域の歴史と民俗』。
  • 『遠州の屋台と祭り文化の歴史』。
  • 「第1回『掛塚まちめぐり』下見ウォーク④―十郎島・八幡神社と渡船場跡」(掛塚まちめぐり調査記録)。
  • 「輪中」Wikipedia項目 https://ja.wikipedia.org/wiki/輪中 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 水土の礎「水から土地を守る、輪中」 https://suido-ishizue.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 「金原明善」Wikipedia項目 https://ja.wikipedia.org/wiki/金原明善 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 一般財団法人金原治山治水財団「年譜」 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田お宝見聞帳「竜洋地区と天竜川」。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、竜洋・天竜川関係章)。
  • 磐田物語 r008「十郎島と川袋 ── 激流に削られた輪中集落と天竜川旧流路の記憶」 https://iwata-monogatari.net/r008 (最終閲覧:2026年7月25日)。