磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第74号(南部低地の水辺史 一)
川の恵みと怖さ ── 天竜地区の水辺の生活史
洪水と共に生きた低地の暮らし
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
磐田市南部の旧天竜地区は、天竜川がつくった下流低地のうえに広がる。本稿は、この地の水辺の生活史を、旧河道・自然堤防・後背湿地という地形単位を手がかりに読み直し、川の恵み(水の便・沃土・舟運・砂利・伏流水)と川の怖さ(洪水・湛水)を、別々の事象ではなく一つの川の表裏として記述する。集落が低地のなかのわずかな微高地に寄って成立したことは、治水地形分類図と旧集落の位置から推定できる一方、個別の水害の年代や被害規模を裏づける確かな一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。そこで本稿は、確かめられる地形の事実を史実の層に据え、集落立地を推定として、「暴れ天竜」をめぐる個々の被害伝えを伝承の層として腑分けし、層をまたいだ断定を避ける。あわせて金原明善に代表される近代治水の到達と限界を確認し、地形を過去の記憶と未来の備えをつなぐ史料として位置づける立場をとる。
キーワード:天竜川/低地/自然堤防/後背湿地/旧河道/治水/水辺の生活史
1. 問題設定 ── 恵みと怖さを分けずに書く
天竜地区は、磐田市の南部、天竜川の下流左岸に開けた低地である。この地の暮らしは、つねに「水」とともにあった。豊かな水は田を潤し、舟運や砂利、伏流水の恵みをもたらした。その一方で、堤防が切れれば一帯が水に浸かる低地でもある。恵みと怖さは、しばしば別々の主題として語られるが、実際には同じ川の二つの顔にすぎない。本稿の出発点は、この二面性を切り離さずに一つの生活史として記述することにある。
はじめに、本稿が扱う範囲を定めておく。ここでいう天竜地区とは、磐田市南部のうち、天竜川左岸の下流低地に広がる旧村の連なりを指す。この地は、南部地区を構成する複数の旧村のなかでも、とりわけ川と低地の性格を色濃く帯びた一角である。南部地区全体の生い立ちや、天竜地区の総論的な位置づけについては天竜地区総論 ── 川と低地がつくった暮らしの記憶など別稿に譲り、本稿は水辺という主題に絞って、天竜地区の低地に即して論じる。対象を限定するのは、恵みと怖さという二面性が、この低地においてもっとも典型的に現れるからである。
水辺の集落を扱う叙述は、二つの方向に傾きやすい。一つは、豊かな水と肥沃な土を称え、恵みの面だけを描く方向である。もう一つは、過去の水害を年表のように連ね、怖さを強調する方向である。だが恵みだけを見れば、なぜ人々が絶えず備えを重ねてきたのかが説明できず、怖さだけを見れば、なぜそれでもこの土地に住み続けたのかが説明できない。恵みと怖さは、住むという一つの選択のなかで同時に引き受けられてきた。二面を分けずに書くとは、その選択の内実に踏みとどまるということである。
本稿がとる方法は、個別の固有名詞や年代を積み上げることではなく、地形・水利・旧道・土地利用という確実な土台から読むことである。天竜地区の水辺の生活史は、「何年に誰が何をしたか」を並べるよりも、「どういう土地に、どういう理由で人が寄り、水とどう折り合ったか」を問うほうが、はるかに見通しがよい。地形は、公的な地図や分類図で確認できる確かな手がかりであり、個々の伝えの確度を測る物差しにもなる。本稿は、この確かな土台を史実の層に据えたうえで、その上に積もる推定と伝承を注意深く腑分けする。
ここで、以下の記述で一貫して用いる区別を先に定めておきたい。第一に史実、すなわち地図・分類図・公的資料で確認できる事柄。第二に推定、地形分類などの根拠はあるが個別には未確定の事柄。第三に伝承、地域で語り継がれてきたが一次史料で裏づけきれない事柄である。とりわけ天竜川の水害については、この三層を混同しないことが要となる。個別の水害年代を、確かめられる史実のように並べることも、逆に価値の低い作り話として切り捨てることも、いずれも誠実ではない。以下ではまず地形を史料として読み、恵みと怖さを順に検討し、治水・立地・記憶の継承を経て結論に至る。
2. 地形という史料 ── 旧河道・自然堤防・後背湿地
天竜地区を理解するうえで、まずおさえておきたいのが地形の言葉である。国土地理院が公開する治水地形分類図や地形分類図は、天竜川の下流低地を、いくつかの典型的な単位に分けて示している1。旧河道・自然堤防・後背湿地といった用語は専門的にみえるが、いずれも「水がどう流れ、どこに土が積もり、どこに水がたまりやすいか」を語る言葉であり、低地に住む人々が経験的に把握してきた土地の性格を、図の形に翻訳したものにほかならない。
旧河道とは、かつて川が流れていた跡である。現在は埋まっていても、周囲よりわずかに低く、地盤が軟弱で水がたまりやすい傾向があるとされる。天竜川のように流路を変えてきた大河の下流には、旧河道が網の目のように残ることが多い。自然堤防とは、洪水のたびに川の両岸に砂や粗い土が積もってできた、低地のなかの細長い微高地である。水はけがよく、低地では比較的浸水しにくいため、古くから集落や畑、街道が乗ることが多い。後背湿地は、自然堤防の背後に広がる、細かい泥がたまった低く平らな土地で、水がはけにくく湿りやすいため、主に水田として利用されてきた。
これらを重ねて読むと、天竜地区の低地は「平らに見えて、実は数十センチから数メートルの高低差で性格が分かれている土地」だとわかる。住む場所、田にする場所、道を通す場所は、この微妙な高低差に沿って自然と定まっていった可能性が高い。地名や旧集落の位置を地形図に重ねると、「なぜここに人が集まったのか」という問いの輪郭が浮かび上がる。ここで強調しておきたいのは、地形図それ自体が一つの史料だという点である。文書が乏しい低地の集落史において、地形は、文字で残されなかった立地の判断を今に伝える読める記録として機能する。
ただし、地形を史料として読むときにも、確度の区別は保たなければならない。治水地形分類図が示す地形単位そのものは、公的な調査に基づく史実の層に属する。しかし、ある特定の小字や地番が正確にどの単位にあたるか、あるいはある旧集落がいつ、どの微高地に成立したかは、図の解像度を超える問いであり、現地および公的図面での確認を要する推定にとどまる。本稿が地形から引き出すのは、あくまで「この土地は、性格の異なる単位が高低差で組み合わさってできている」という一般的な構造であって、個別地点の断定ではない。
もう一点、地形を史料として読むうえで留意すべきは、地形そのものが動くという事実である。天竜川のような大河の下流では、流路の移動や河川改修によって、かつての自然堤防が削られたり、旧河道が埋め立てられたりして、地形の配置は時代とともに書き換えられてきた。したがって現在の地形図が示すのは、あくまで今の断面であって、集落が成立した当時の地形と完全に一致するとは限らない。過去の地形を復元するには、古地図や旧版地形図を重ね、河道変遷の履歴とあわせて読む作業が欠かせない。地形は確かな史料であると同時に、それ自体が歴史のなかで変化してきた対象でもある。
3. 川の恵み ── 水・土・舟運・砂利・伏流水
「水害の危険があるのに、なぜわざわざ川の近くに住んだのか」という問いは、低地の集落を考えるときにつねに出てくる。答えは単純ではないが、いくつかの合理的な理由が重なっていたと考えられる。その第一が、水の便である。飲み水、生活用水、田の用水、洗い場、そして近世から近代にかけては舟運や物資の運搬まで、水辺は暮らしと生業の中心であった。川は障壁であると同時に、人と物を運ぶ道でもあった。
第二の恵みは、土の豊かさである。洪水が運ぶ細かい土は、一度の氾濫では災いであっても、長い目で見れば肥沃な耕地をつくった。自然堤防や後背湿地の土壌は、この繰り返された堆積の産物であり、天竜地区の農の基盤そのものである。第三に、平らな土地は田を開きやすく、道を通しやすい。つまり水辺の低地は、生きるための資源が一箇所に集中する場所でもあった。恵みを列挙すると、水利・沃土・平坦な地形・水運という、暮らしを支える条件が、いずれも川の働きから生まれていることがわかる。
近世以降に注目すべき恵みとして、砂利と伏流水も挙げておきたい。天竜川がもたらす砂利は建設の資材となり、地下を流れる伏流水は、良質な水として生活や生業を支えたと考えられる。これらは、川がつくった地形そのものが産み出す資源であり、恵みが単に「水があること」にとどまらず、土・石・地下水という多層にわたっていたことを示す。もっとも、これら個々の生業がいつ、どの規模で営まれたかを裏づける史料は地点ごとに濃淡があり、本稿はその実在を一般的な傾向として述べるにとどめ、個別の断定は避ける。恵みの内実を精緻に描くには、なお現地と資料の照合を要する。
恵みのなかでも、近世の天竜地区にとって舟運の意味は小さくなかった。天竜川の水運は、上流の山地と河口、そして遠州灘の海運とを結ぶ動脈であり、木材をはじめとする物資が川を下って河口の湊へ集まり、そこから各地へ積み出されたと考えられる。低地の集落は、この物流の結節に近接することで、自給的な農村にとどまらない生業の広がりを得ていた可能性がある。ただし、どの集落がどの程度水運に関与したかは地点ごとに差があり、河道の変遷によって渡河点や船着きの位置も移ろったため、個別の実態は史料と現地の照合を通じて確かめるほかない。恵みは一様ではなく、同じ低地のなかでも川との距離や旧河道の配置によって濃淡を持っていた。
川そのものからの恵みとしては、内水面の漁も一般に挙げられる。低地を流れる川や旧河道の水辺では、魚を捕り、簗を仕掛けるといった生業が各地で営まれてきたことが知られており、天竜地区でも同様の営みがあったと考えるのは自然である。もっとも、これも個別の実態を裏づける確かな史料に乏しく、本稿では低地河川に一般的な生業として述べるにとどめる。見落としてならないのは、農・水運・漁・砂利・伏流水という複数の生業が、いずれも川がつくった同じ地形の上に重なって成り立っていたという構造である。恵みを一つの生業に還元せず、多層のものとして捉えることが、低地の暮らしを見誤らないための前提となる。
4. 川の怖さ ── 洪水・湛水と「暴れ天竜」
恵みの裏には、つねに怖さがあった。天竜川は、その水量と急流ゆえに、古くから治水の難所として知られてきた。「暴れ天竜」という言い回しが各地で語られてきたことは広く知られており2、下流の磐田側でも、堤防の決壊や湛水と向き合いながら暮らしが営まれてきたと考えられる。低地における怖さは、大きく二つの様相をとる。一つは堤防を越え、あるいは破って水が流れ込む洪水であり、もう一つは、いったん入った水が後背湿地や旧河道にたまって引かない湛水である。地形からみれば、水がたまりやすい低い土地が、そのまま怖さの現れやすい土地となる。
ここで、史料批判の観点から慎重を期しておきたい。天竜川の個別の水害について、「何年にどこで堤防が切れ、どれだけの被害が出たか」を、確かな年表として並べることは、本稿の範囲では控える。地域には数多くの水害の言い伝えが残るが、それらの年代や規模を裏づける確かな一次史料に、筆者は管見の限り十分には突き当たっていない。したがって個々の被害伝えは、史実として断定するのではなく伝承の層に置き、確かめられる史実とは「天竜地区が水害の起こりうる低地であり続けてきた」という地形に根ざした条件そのものである、と腑分けする。この区別を欠いて年代を並べれば、確度の低い伝えを史実のように語る誤りに陥りやすい。
とはいえ、伝承の層に置くことは、それらの言い伝えを軽んじることを意味しない。むしろ、地域が何を怖れ、どの土地を「水がつく場所」として記憶してきたかは、経験の蓄積として貴重な手がかりである。後述するように、こうした経験的な記憶は、しばしば現代のハザードマップが示す浸水想定区域と重なる。昔の人が避けたり田にしたりしてきた土地と、現代の科学的な想定が一致するという事実は、伝承が単なる作り話ではなく、繰り返された経験の結晶であることを示している。怖さを煽るためではなく、土地が背負ってきた歴史的条件として、この重なりを読み取ることが肝要である。
怖さの現れ方を、もう少し立ち入って見ておきたい。低地の浸水は、大きく二つの経路をとる。一つは、増水した本流が堤防を越え、あるいは破って直接流れ込む外水氾濫であり、もう一つは、堤防の内側に降った雨や湧いた水が排水しきれずにたまる内水氾濫である。天竜地区のような後背湿地や旧河道を抱える低地では、たとえ本流の堤防が持ちこたえても、内側の水がはけずに湛水が長引くことがある。堤防が高く強くなるほど、いったん内側にたまった水を外へ汲み出す仕組みの重みが増すという逆説も、低地の治水にはつきまとう。怖さは、川が越えてくるという分かりやすい形だけでなく、水が引かないという静かな形でも現れてきた。
湛水がもたらす影響は、家屋の浸水にとどまらない。水がたまれば田の作物は傷み、道は寸断され、井戸や生活用水も濁る。低地の暮らしは、こうした湛水からの復旧を繰り返しながら続けられてきたと考えられる。屋敷を微高地に構え、母屋の床を高くし、非常時に備えて舟や高い場所を用意するといった知恵は、天竜川下流の低地に限らず、水とともにある集落に広く見られる。個別の家がどのような備えを持っていたかは現地ごとの確認を要するが、怖さへの備えが暮らしの構えそのものに織り込まれていたことは、低地の集落を理解するうえで見落とせない。
5. 治水と共生 ── 堤防・金原明善・近代の制御
天竜川の怖さに対し、人々は長く手を加え続けてきた。近世から近代へと下るなかで、堤防の築造や補修、流路の制御が積み重ねられ、低地の暮らしは少しずつ安定へ向かった。天竜川の治水を語るうえで欠かせないのが、私財を投じて堤防の築造や植林に取り組んだ金原明善の事業である。その生涯と評価については本論考シリーズ第34号金原明善 ── 天竜川と向き合った治水の生涯に詳しく論じたので、本稿では治水史の一つの画期として位置づけるにとどめる3。明善に象徴されるのは、川を単に恐れるのでも一方的に征服するのでもなく、堤と森によって川と折り合いをつけようとする姿勢であった。
近代以降、天竜川には連続堤防や護岸が整えられ、上流の発電・治水施設の整備とあわせて、流れはかつてより制御されるようになった。これにより、低地での暮らしは大きく安定した。天竜川がどのように流路を変え、村をつくり、また流してきたかという長い変遷については、本論考シリーズ第37号天竜川がつくった村、流した村 ── 池田・掛塚と渡しの記憶で扱ったとおりであり、治水の歴史は、この河道変遷の歴史と一体のものとして理解する必要がある。堤防が固定されて初めて、川は「つくった村を流す」存在から、境界の内側で制御される存在へと性格を変えていった。
ただし、堤防は浸水リスクをゼロにするものではない。想定を超える出水があれば、低地はやはり水がたまりやすい土地であり続ける。治水の進展は怖さを「小さく、まれに」したが、消し去ったわけではない、と理解しておくのが誠実であろう。この点は、現在の磐田市が公開する洪水ハザードマップでも確認できる。浸水想定区域は、おおむね旧河道や後背湿地といった低い土地と重なる傾向がある4。つまり、昔の人が経験的に避けたり田にしたりしてきた土地と、現代の科学的な想定が、しばしば一致するのである。地形は、過去の記憶と未来の備えをつなぐ共通の言葉になっている。本稿の立場を一文で示せば、治水を「怖さの消去」としてではなく「怖さとの共生の技術」として読むべきだ、ということに尽きる。
近代の治水は、堤防と護岸だけで成り立っているわけではない。上流に設けられた発電・治水のための施設は、洪水時の流量をある程度調整し、下流低地の負担を和らげる働きを持つとされる。あわせて、低地の内側にたまった水を外へ排出する排水機場のような仕組みが、内水氾濫への備えとして重ねられてきた。これらは、川の流れそのものを制御する層と、堤防の内側の水を管理する層という、二重の治水として理解できる。ただし、いずれの施設も日常の点検と更新があって初めて機能する。治水は一度つくれば終わるものではなく、世代を越えて維持し続けられる限りにおいて怖さを抑え込む、時間のかかる営みである。
6. 立地の知恵と水利 ── 地形単位の比較と史料批判
恵みと怖さ、そして治水を踏まえたうえで、あらためて集落の立地を考えたい。人々は無防備に川べりに住んだわけではない。先に述べた自然堤防や微高地という「低地のなかの高い場所」を選び、そこに家を寄せ、後背湿地を水田にする。集落は、水に近すぎず、遠すぎない位置を探りながら成立したと考えるのが自然である。これは天竜地区に限らず、天竜川下流の低地集落に広く見られる立地の知恵だと言ってよい。ただし、この集落立地は地形分類に基づく推定であり、個別集落の成立過程は一次資料での裏取りが望ましい5。
低地の農業は、相反する二つの仕事を同時にこなさなければならない。一つは「水を引く」こと、もう一つは「水を逃がす」ことである。乾けば田は実らず、湛水すれば作物は腐る。天竜地区の水田地帯は、この二つを両立させる用水路と排水路の網の上に成り立ってきたと考えられる。用水は川や池、あるいは伏流水から田へと水を導き、後背湿地のように水がたまりやすい土地では、逆に排水路で余分な水を抜く工夫が欠かせない。恵みを引き入れる仕組みと、怖さを逃がす仕組みが、同じ水路網の表裏として組み合わさっている点に、低地の水利の特質がある。
用水と排水の網は、目に見える水路の形だけでなく、それを運用する取り決めの層をも含んでいた。上流側の田と下流側の田では水の得やすさが異なり、渇水の年には配分をめぐる調整が避けられない。誰が堰を落とし、誰が普請の人手を出すかという慣行は、しばしば文書に残らず、地域の記憶と慣習のなかに蓄えられてきた。こうした運用の知は、水路という物的な仕組みと不可分でありながら、担い手が代われば容易に失われる性格を持つ。低地の水利を理解するには、掘られた水路そのものと、それを動かしてきた人の取り決めとを、あわせて視野に入れる必要がある。
こうした水利の維持には、堰の管理、水路の泥さらい、配水の取り決めといった、集落をまたいだ共同作業が必要であった。誰がいつ水を使い、誰が普請の人手を出すかといった取り決めが、地域の共同体を形づくってきた。水利は単なる土木ではなく、人々を結びつける社会の仕組みでもあったのである。この共同性は、現代の農地維持を考えるうえでも見過ごせない。水路は、使う人と手入れする人がいて初めて機能する。担い手が減れば水路の管理そのものが難しくなり、それは農地全体の維持や、ひいては低地の排水能力にも影響しうる。次に、ここまで述べた地形単位と土地利用・水との関わりを、確度の層とともに一覧に整理しておく。
| 地形の単位 | 性格 | 主な土地利用 | 水とのかかわり | 確度の層 |
|---|---|---|---|---|
| 自然堤防・微高地 | 低地のなかでやや高く水はけがよい | 集落・屋敷・畑・旧道 | 浸水しにくく、住む場所・道に選ばれやすい | 単位=史実/集落立地=推定 |
| 後背湿地 | 低く平らで水がたまりやすい | 水田 | 用水を引きやすいが、排水の工夫が必要 | 単位=史実/利用=一般的傾向 |
| 旧河道 | 周囲より低く地盤が軟らかい傾向 | 水田・水路・低湿な地 | 水がたまりやすく、浸水想定と重なりやすい | 単位=史実/個別位置=要確認 |
| 河川・河原 | 本流とその縁辺 | 河川・砂利・河川敷 | 恵み(水・砂利)と怖さ(出水)の源 | 史実 |
| 個別の水害年代 | 過去の被害の言い伝え | ― | 特定地点の浸水として記憶される | 伝承(要史料批判) |
この一覧から見えてくるのは、地形単位そのものは公的な分類図で確認できる史実であるのに対し、集落立地・個別の水害年代・小字ごとの区分は、確度の異なる層に属するという事実である。史料批判の観点からは、この層をまたいだ断定こそが最も避けるべき誤りである。地形という確かな土台を、個別の伝承の裏づけとして流用したり、逆に伝承の曖昧さを地形の記述にまで及ぼしたりすれば、記述全体の信頼が損なわれる。本稿が一覧に確度の列を加えたのは、読者が各行の情報をその属する層のなかで正しく受け取れるようにするためである。
このように確度の層を明示する手続きは、天竜地区に限らず、水辺の低地一般に適用できる記述の作法である。史料の乏しい低地の集落史では、地形という確かな土台と、地域が語り継いできた記憶とを、どちらも切り捨てずに、それぞれの層のなかで扱うことが求められる。確かめられることは史実として、地形から導かれることは推定として、語り継がれてきたことは伝承として書き留める。この区別を保つことが、恵みと怖さの二面を偏りなく描き、後の調べものに耐える記録として残すための足場となる。
7. 交通と記憶 ── 橋・道・渡しと水辺の継承
水は、暮らしを潤すと同時に、人や物の移動を阻む壁でもあった。川を越えることは、かつては渡し舟や限られた橋に頼る大仕事であり、橋がどこに架かるかは、地域の生活圏を大きく左右した。天竜川にかかる橋や、低地を貫く道路が整備されていくにつれて、天竜地区から中泉・見付方面の市街地へ、あるいは対岸の浜松方面へのアクセスは大きく変わっていったと考えられる。渡しの記憶や旧河道に沿った渡河点の歴史は、前掲の第37号でも触れたとおり、河道変遷そのものと不可分である。
道路や橋の改良は、通勤・通学・買い物の範囲を広げ、農村だった地域に住宅地化の波をもたらす要因にもなった。一方で、車を前提とした生活圏の拡大は、徒歩や水路を軸にしていた古い集落の構造を見えにくくする面もある。旧道や渡しの記憶、水路沿いの小径は、便利な幹線道路の陰で、少しずつ意識されなくなっていく。交通の発展は利便をもたらすと同時に、水辺とともにあった暮らしの輪郭をぼかしていく、という両面を持っている。ここでもまた、恵みと怖さの二面性と同じ構図が現れる。
そこで、水辺の記憶をどう次代へ手渡すかが課題となる。旧河道や自然堤防の位置、かつての渡しや水路、水神や地蔵といった水にまつわる信仰の場所、過去に水がついた範囲の言い伝えなどを、住民の記憶と公的な地形・ハザード情報を重ね合わせて一枚の地図に書き留めていく取り組みは、防災と記憶継承の両方に役立つ可能性がある。こうした地図は、いざというときの避難の判断を助けるだけでなく、「自分たちの土地がどういう場所なのか」を次の世代へ手渡す手がかりにもなる。地形を知ることは、怖がることではなく、賢く付き合うことである。そして記憶の継承は、土地や家そのものの引き継ぎとも切り離せない。相続が整理されないまま放置された土地や空き家が、やがて地域の記憶ごと曖昧になっていくことは、水辺の集落でしばしば起こることである。一軒の家の記憶もまた、地域全体の水辺史の一部にほかならない。
こうした水辺の記憶を体系的に残す試みは、地形図・古地図・ハザード情報という公的な資料と、住民が語り継いできた証言とを、一枚の地図のうえに重ね合わせることから始められる。過去に水がついた範囲、旧河道の走り、渡しや水神の位置、そして現在の避難所や排水施設を同じ平面に置けば、恵みと怖さの両面が一望のもとに並ぶ。こうして編まれた地図は、平時には土地の来歴を伝える手引きとなり、非常時には避難の判断を支える資料となる。過去の記憶と未来の備えを同じ地形の上でつなぐという本稿の見方は、この重ね合わせの作業において具体的な形をとる。
8. 結論 ── 二面性を書き残すという作法
本稿は、天竜地区の水辺の生活史を、川の恵みと川の怖さという二面から検討し、両者を一つの川の表裏として記述してきた。得られた見取り図は次のとおりである。旧河道・自然堤防・後背湿地という地形単位は、公的な分類図で確認できる史実であり、この土地が高低差によって性格を分けられていることを示す。集落がわずかな微高地に寄って成立したことは、その地形から導かれる推定である。そして、水の便・沃土・舟運・砂利・伏流水という恵みと、洪水・湛水という怖さは、いずれもこの同じ地形と川の働きから生まれる。恵みと怖さは、住むという一つの選択のなかで同時に引き受けられてきた。
個別の水害の年代や被害規模については、本稿はあえて年表として並べなかった。地域に残る数多くの言い伝えは、それらを裏づける確かな一次史料に十分には突き当たっていない以上、伝承の層に置くべきであり、確かめられる史実は「天竜地区が水害の起こりうる低地であり続けてきた」という地形に根ざした条件そのものである。この史実と伝承の書き分けは、怖さを煽ることも、逆に経験の記憶を軽んじることも避けるための手続きである。昔の人が避けてきた土地と現代の浸水想定が重なるという事実は、伝承が繰り返された経験の結晶であることを、静かに裏づけている。
したがって本稿の立場は明確である。水辺の生活史は、固有名詞や年代を盛ることよりも、地形・水利・旧道・土地利用という確実な土台から読み、その上に積もる推定と伝承を層として腑分けするほうが、はるかに見通しがよい。治水は怖さの消去ではなく共生の技術として、集落立地は無謀ではなく知恵として、水害の伝えは作り話ではなく記憶として、それぞれの層のなかで正当に扱う。地形が過去の記憶と未来の備えをつなぐ共通の言葉である以上、水辺の記憶を記録し継承することは、そのまま次代の防災につながる。本稿が扱いきれなかった個別の渡し・水路・水神祠の位置、各小字の地形区分、そして水害伝承の系統的な収集は、現地と公的資料の照合を通じて、未確認を史実へ、伝承を検証可能な記録へと押し上げていく今後の課題である。恵みと怖さの二面を、どちらにも偏らずに書き残すこと──その禁欲的な作法こそが、天竜地区の水辺の暮らしを後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。
注
- 旧河道・自然堤防・後背湿地といった地形単位は、国土地理院「治水地形分類図」「地形分類図」および「地理院地図」で確認できる。専門的な地形区分を一般的な性格に即して要約したものである。↩
- 「暴れ天竜」は天竜川の急流性・出水の激しさを表す慣用的な呼称として各地で語られてきた。呼称そのものは広く知られるが、これを根拠に個別の水害年代を史実として確定することはできない。↩
- 金原明善による天竜川の治水・植林事業については、本論考シリーズ第34号「金原明善 ── 天竜川と向き合った治水の生涯」を参照。私財を投じた事業の内容と評価を詳述している。↩
- 磐田市が公開する「洪水ハザードマップ」の浸水想定区域が、旧河道・後背湿地など低い土地とおおむね重なる傾向にあることは、治水地形分類図と重ね合わせて確認できる一般的事実である。↩
- 自然堤防・微高地への集落立地は地形分類に基づく推定であり、個別集落の成立年代・過程は一次資料での裏取りを要する。本稿は一般的傾向として述べるにとどめる。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 s014 の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・推定・伝承)を語の水準で区別し、治水地形分類図が示す地形単位を史実、集落立地を推定、個別の水害年代を伝承として扱った。
参考文献・参考資料
- 国土地理院「地理院地図」および治水地形分類図・地形分類図(旧河道・自然堤防・後背湿地の確認) https://maps.gsi.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 「今昔マップ on the web」(明治期以降の集落・道・水路・田畑と現在の比較) https://ktgis.net/kjmapw/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田市「洪水ハザードマップ」「防災マップ」(浸水想定区域・避難情報の確認)。
- 磐田市都市計画図・用途地域図、磐田市統計資料・国勢調査・e-Stat(人口・世帯・土地利用の確認)。
- 『磐田市史』通史編ほか地域史資料(天竜川下流低地の治水・農業・集落に関する記述)。
- 磐田市文化財・埋蔵文化財関係資料(寺社・旧村・小字に関する確認)。
- 国土交通省 中部地方整備局 浜松河川国道事務所 天竜川水系河川整備関連資料。
- 大石浩之の磐田論考 第37号「天竜川がつくった村、流した村 ── 池田・掛塚と渡しの記憶」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/037/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 大石浩之の磐田論考 第34号「金原明善 天竜川と向き合った治水の生涯」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/034/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 s014「川の恵みと怖さ ── 天竜地区に残る水辺の生活史」(素材記事) https://iwata-monogatari.net/s014 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 s013「天竜地区総論 ── 川と低地がつくった暮らしの記憶」 https://iwata-monogatari.net/s013 (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 佐口行正氏所蔵史料(天竜川下流低地の水利・旧道に関する覚え書き)。