失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 十束村の成立と新田開拓

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第64号(竜洋・天竜川下流の村づくり)

十束村の成立と新田開拓 ── 天竜川下流の村づくり

平松・中島の開発と村の輪郭

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市竜洋

要旨

現在の磐田市竜洋地区の東部から北部にかけての一帯は、明治22年(1889年)の町村制施行まで「十束村」と呼ばれた農村地帯であった。本稿は、この村の成立を、平松・中島を中心とする天竜川下流低地の新田開拓という土地の営みと、10か村の合併という行政の営みの二層に分けて検討する。史料および行政資料によって確認できるのは、町村制による合併、明治29年(1896年)の磐田郡への編入、昭和30年(1955年)の竜洋町成立と、その直後に生じた一部地区の分村といった行政区画の変遷である。他方、平松・中島の新田がいつ、誰の手で拓かれたかを直接に記す一次史料は、素材とした地域史記事の注記に照らしても十分な裏づけを欠く。本稿はこの「開発の年代」を史実・推定・伝承・未確認に腑分けし、確実に言える村の輪郭と、なお未確認にとどまる開拓の細部とを区別して記述する。あわせて天竜川河口低地という地理的条件が、村づくりの前提として課した制約と可能性を位置づける。

キーワード:十束村/新田開発/平松・中島/天竜川下流低地/町村制/樋門・井路/村名の由来

1. 問題設定 ── 村の輪郭と開発の年代を分けて問う

現在の磐田市竜洋地区の東部から北部にかけての一帯は、かつて十束村(とつかむら)と呼ばれた。天竜川の旧流路が幾度も通り、砂礫と泥に覆われた低湿地であったこの土地が、いつしか黄金色の稲穂の実る美田へと変わり、遠州を代表する穀倉地帯の一角を担うようになった。その転換の物語は、竜洋の郷土史のなかでも屈指の劇的な題材であり、素材とした一般向け記事でも「泥土から田畑へ」という一句に凝縮して語られている。

しかし、この劇的な物語を学術的に記述しようとすると、たちまち一つの困難に突き当たる。それは、村がいつ、どのように成立したのかという問いが、実は二つのまったく性格を異にする問いの束だという点である。一つは、十束村という行政村がいつ生まれたのかという問いであり、これには明治22年(1889年)4月1日という明確な日付を与えることができる。もう一つは、その村の土地そのもの、すなわち平松や中島の新田がいつ拓かれたのかという問いであり、こちらには一点の年代を与えることが難しい。前者は制度の成立であり、後者は土地の成立である。両者はしばしば「十束村の成立」という一つの言葉のもとに混同されるが、依拠しうる資料の性格はまるで異なる。

本稿の出発点は、この二つの問いを注意深く分離することにある。行政村の成立は、町村制の施行や郡の編成といった国家の制度史のなかに位置づけられ、行政資料や地名辞典によって年月日まで確認できる。これに対して新田開拓の年代は、その多くが近世の民間の営みであり、着手の年や事業の主体を記した文書が必ずしも残らない。素材記事の末尾にも、合併した村名や郡の変遷は行政資料で確認できる事実である一方、各集落における新田開発の具体的な着手年や事業主体名までは一次資料による裏づけが取れていない、と率直な断り書きが付されている。この断りは、地域史を書く者が誠実であろうとするかぎり避けて通れない、資料の非対称を言い当てている。

そこで本稿は、以下の順序で検討を進める。まず行政資料によって確実に言える村の輪郭を確定し(第2節)、続いて新田開拓の年代・主体(第3節)、村名の由来(第4節)、治水と排水の土木(第5節)という三つの論点を、それぞれ確度の層を明示しながら順に扱う。そのうえで三論点を比較し史料批判を加え(第6節)、天竜川下流という地理的背景を位置づけ(第7節)、結論に至る。全体を貫く姿勢は一貫している。すなわち、確実に言えることは史実として明快に述べ、なお裏づけを欠くことは推定・伝承・未確認として明記し、確度の異なる情報を同じ平面で混同しない、ということである。

あらかじめ断っておきたいのは、この分離の作業が、開拓の物語を痩せさせるためのものではないという点である。むしろ逆で、どこまでが確かに言えて、どこからが推し量りにすぎないのかを見きわめておくことは、確かに言える部分を安んじて語る足場を与える。制度史の骨格を先に据えておけば、その内側で語られる開拓や治水の物語が、たとえ年代を確定できなくとも、根なし草の伝説ではなく、確かな行政村の枠のなかに起きた出来事として位置を得る。輪郭を先に描き、細部を後から確度に応じて塗り分けるという順序は、資料の乏しい新田村を記述するうえで、実際的な利点をもつ方法である。

天竜川 十束村(左岸低地) 平松・中島ほかの新田・集落 砂礫・泥土の氾濫原を開墾 遠州灘(南)── 砂丘・強風 天竜川下流低地における十束村の位置
図1 十束村の位置。天竜川左岸の下流低地に営まれ、北を氾濫原、南を遠州灘の砂丘に挟まれる。この地理的条件が、開拓と治水の双方に制約を課した。

2. 行政資料で確認できる村の輪郭 ── 町村制から市域合併まで

まず、行政資料および地名辞典によって確実に言える範囲を確定しておく。十束村という行政村の成立は、明治22年(1889年)4月1日に全国で施行された町村制にさかのぼる1。この日、天竜川下流の低地に点在していた10か村が合併し、新しい村が発足した。合併したのは、宮本村・中島村・平間村・堀之内村・松本村・高木村・下本郷村・上本郷村・赤池村、そして新田集落である仁兵衛新田の10か村である。いずれも天竜川の氾濫原に張り付くように営まれてきた小さな集落で、単独では堤防や樋門といった大規模な普請を担いきれない規模であった。

発足当初、十束村は豊田郡に所属していた。その後、明治29年(1896年)4月1日の郡制改編にともなって磐田郡へ編入され、以後は磐田郡十束村として歩むことになる2。郡の帰属が変わったこと自体は制度上の再編にすぎないが、これによって十束村が磐田郡という枠のなかに位置づけ直されたことは、後の竜洋町・磐田市への合流を見通すうえで押さえておくべき事実である。

行政村としての十束村は、およそ六十余年にわたって存続した。昭和30年(1955年)4月1日、十束村は隣接する袖浦村・掛塚町と新設合併し、竜洋町が発足する。竜洋という町名は、天竜川の「竜」と遠州灘の「洋」を組み合わせたもので、川と海の双方に育まれてきたこの地域の性格をよく表している。ところが、この合併にはひとつの後日談がある。竜洋町の発足からわずか二週間後、同じ昭和30年(1955年)4月15日に、旧十束村のうち赤池・上本郷・下本郷・仁兵衛新田の4地区が竜洋町から分離し、隣の豊田村へ編入されたのである4。天竜川沿いの集落には、水利や耕地のつながりから見て豊田村側との結びつきが強い地区もあり、成立直後に境界の微調整が入ったことになる。

この分村は、地図の上ではわずかな線の引き直しにすぎないが、十束村という単位の性格を考えるうえで示唆に富む。十束村は、天竜川左岸低地の集落を「十」の束としてまとめた行政村であったが、その束は必ずしも自然の生活圏と完全には一致していなかった。赤池・上本郷・下本郷・仁兵衛新田の4地区が竜洋町ではなく豊田村を選んだという事実は、行政区画としての十束村の輪郭と、水と耕地に規定された現実の生活圏の輪郭とが、部分的にずれていたことを物語る。行政の線引きと土地の実態との間のこうした緊張は、低地の村々にしばしば見られる現象である。

行政村としての十束村は、こうして一部を欠いた形で竜洋町の中核となり、さらに時代を下って、竜洋町は平成17年(2005年)4月1日、旧磐田市・福田町・豊田町・豊岡村との合併により、新しい磐田市の一部となった。十束村役場の位置についても記録が残っており、現在の座標でいえば北緯34度41分53秒・東経137度48分26秒の付近、東海道本線の旧豊田町駅の南側一帯、天竜川左岸の低地にあったとされる5。ここまでが、行政資料と地名辞典によって年月日の水準まで確認できる、十束村の骨格である。以下の各節で扱う新田開拓や村名の由来は、この確定した骨格の内側に、なお確度の異なる肉付けを試みる作業となる。

この骨格をあらためて眺めると、十束村という村は、およそ半世紀余りという比較的短い期間しか行政村として存在しなかったことに気づく。明治22年(1889年)に生まれ、昭和30年(1955年)に竜洋町へと姿を変えるまでの間が、その独立した歴史のすべてである。しかし、この短い行政村の生涯の前後には、はるかに長い時間の層が横たわっている。前方には、村が成立する以前に営まれてきた各集落の開拓と生活の時間があり、後方には、竜洋町・新磐田市へと引き継がれ、いまも田園景観のなかに残る治水と耕地の記憶がある。行政村としての十束村は、この長い時間の帯のなかに置かれた一つの区切りにすぎない。村名が地図から消えても、その土地が背負ってきた開拓と治水の営みは消えないという事実は、行政区画の生滅と土地の記憶の持続とを、あらためて分けて考える必要を教えている。

1889町村制十束村発足 1896郡制改編磐田郡へ 1955.4.1竜洋町成立 1955.4.154地区分村豊田村へ 2005新磐田市 ■ 十束村期 ■ 竜洋町期 ■ 分村・再編 十束村の行政沿革
図2 行政沿革年表。青は十束村・市域合併に関わる事実、緑は竜洋町成立、橙は成立直後の分村を示す。いずれも行政資料で年月日まで確認できる史実の層に属する。

3. 論点①:平松・中島の新田開拓はいつ、誰の手で

論点①・開発の年代と主体

江戸時代中期の新田開発とする理解と、その資料的限界

通説の骨子。平松や中島の周辺は、天竜川の河口近くに広がる低湿地で、大雨が降るたびに水が停滞し、冬には遠州灘からの強風で砂が吹き積もる不毛の荒野であったと語られる。この困難な土地に本格的な開拓の鍬が入ったのは江戸時代中期のことで、幕府の新田開発奨励策に呼応した地元の有力者や掛塚の廻船問屋が資金を出し合い、大規模な排水土木を進めたとされる。まず湿地の水を落とす掘割が掘られ、天竜川からの逆流を防ぐ堅固な土堤が築かれ、砂地と泥土は徐々に乾いた耕地へと変わり、新田が生まれていったと伝わる。

時代背景としての妥当性。この理解は、近世の全国的な新田開発の動向と整合する。江戸時代は、戦国期以来の土木技術の蓄積と、大規模な労働力を動員できる社会体制が整った時期にあたり、幕府や諸藩が年貢の増収を狙って新田開発を強く奨励した。天竜川下流域の低湿地も、その大きな流れのなかで少しずつ耕地へと姿を変えていった土地の一つとみて無理がない。掛塚が近世に廻船で栄えた湊町であったことも、開発資金の供給源として掛塚の商業資本を想定する筋立てに、一定の蓋然性を与える。

資料的裏づけと限界。ただし、ここで慎重でなければならない。平松・中島の各集落における新田開発の具体的な着手年や、事業を担った請負人・出資者の名までを直接に記した一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない3。素材とした地域史記事も、この点を率直に断っており、着手年や事業主体名は一次資料による裏づけが取れていない、伝承の域を出ない部分は「とされる」「伝わる」という表現にとどめる、と明記している。したがって「江戸中期に、幕府の奨励のもと、掛塚の廻船問屋と地元有力者が拓いた」という筋立ては、時代背景としては妥当な推定であるが、個々の新田について年と主体を確定した史実として述べることはできない。

「未確認」と「記載なし」の区別。ここで方法上の区別を明示しておきたい。開発の年代・主体が確定できないのは、そうした記録がそもそも作られなかったからなのか、作られたが伝わらなかったからなのか、あるいは伝わっているが筆者がまだ突き当たっていないからなのか──この三つは本来別個の事柄である。本稿がとる立場は、あくまで「管見の限り、着手年と主体を裏づける一次史料に突き当たっていない」という未確認の状態にとどめることであって、「そのような史料は存在しない」と断ずる記載なしの判定を下すものではない。竜洋町史の史料編や、掛塚の廻船関係文書、あるいは各集落に伝わる開発由緒などを博捜すれば、この未確認の状態を一歩前進させられる余地は十分に残されている。

本稿の評価:平松・中島の新田開拓を「江戸時代中期の営み」とみる理解は、時代背景と整合する妥当な推定である。だが個々の新田の着手年・事業主体を確定した史実として語ることはできず、この点は未確認として明記したうえで、今後の史料博捜に委ねるべき課題である。
砂礫・泥土氾濫原の湿地 掘割水を落とす 築堤逆流を防ぐ 乾田化土を乾かす 新田美田へ 新田開発の工程 ── 排水から乾田へ 工程の型は近世の新田開発一般に通じるが、各集落の着手年は未確認。
図3 新田開発の工程。湿地の排水、天竜川からの逆流を防ぐ築堤、乾田化を経て新田に至る。この工程の型は近世新田開発に共通するが、平松・中島の具体的な着手年は未確認である。

4. 論点②:村名「十束」の由来をどう読むか

論点②・地名の由来

「十の集落」と「束の結束」に由来するとする説

由来説の骨子。十束村という村名については、合併した旧村・新田の数が「十」であること、そして地域の結束を固める束(たばね)となることを願って名づけられた、という説明が広く行われている。10か村が一つに束ねられて生まれた村であるという成り立ちを、そのまま村名に写し取った、いわば合成地名の一種としての理解である。前節までに見たとおり、合併した村・新田がちょうど10であったことは行政資料から確認できるから、「十」の数がこの合併の実数と一致する点は動かない。

この説の説明力。明治の町村制施行にともなって全国で無数の合成地名・瑞祥地名が生まれたことを踏まえると、「十の村を束ねる」という命名の発想は、時代の地名づくりの作法とよく合致する。竜洋という後身の町名が天竜川と遠州灘の一字ずつを取った合成地名であることを考えても、この地域が地名に土地の由来や願いを込める発想を持っていたことがうかがえる。村の数を村名に反映させ、そこに「束=結束」という願意を重ねる読みは、無理のない筋立てである。

資料的裏づけと留意点。ただし、この由来説を同時代の一次史料が直接に裏づけているかというと、そこには留保が要る。合併村数が10であったことは史実であるが、命名にあたって実際に「十」と「束」の二つの意味が意識されていたことを明記した当時の記録を、本稿は確認できていない。「十」を村数、「束」を結束と読む解釈は、村名の成り立ちを説明する通説として尊重すべきものだが、それが村を名づけた人々の意図をそのまま伝えているのか、後世に整えられた由来譚なのかは、なお未確認の余地を残す。地名の由来説は、しばしば地名が定着したのちに、その字面から遡って構成されることがあるからである。

本稿の評価:「十の集落を束ねる」という由来は、合併の実数と合致し、時代の命名作法とも整合する説得力ある通説である。ただし命名意図を直接記す同時代史料は未確認であり、字面から整えられた由来譚である可能性も排除できない。史実(合併村数)と由来の解釈とは、層を分けて扱うべきである。
宮本村 中島村 平間村 堀之内村 松本村 高木村 下本郷村 上本郷村 赤池村 仁兵衛新田 十束村 十を束ねる 10か村・新田の合併と村名 合併数が10であることは史実。命名意図の解釈は通説の層。
図4 10か村・新田の合併構成。青は旧村、橙は新田集落。合併数が10であることは史実だが、「十」「束」の二義を込めたとする命名意図は、直接史料の未確認な通説の層にある。

5. 論点③:治水と排水土木 ── 樋門と井路の村

論点③・治水と土木

逆流を防ぎ内水を落とす、低地の水利システム

問題の所在。十束村の農民が向き合い続けたのは、水そのものであった。村域は天竜川左岸の低地に広がるため、川の水位が上がると水路の水が引かなくなり、田に溜まった水が落ちない内水(ないすい)被害が生じやすい。豪雨のたびに耕地が水に浸かる低地の宿命に対して、村は排水と灌漑の両面から土木で応じねばならなかった。開拓によって田が拓かれても、その田を維持するための水の管理が不断に求められたのである。

樋門と井路。この課題に対して村がとった手立てが、樋門(ひもん)と井路(いろ)である。主要な排水口には、天竜川の水位が上がったときに川の水が逆流して田へ入り込むのを防ぐため、堅固な樋門が設けられた。素材記事は、この樋門が近代には煉瓦造りやコンクリート造りで築かれたと伝えており、村の水利施設が時代とともに近代的な素材へと更新されていったことをうかがわせる。一方、田のあいだには網の目のように用水路すなわち井路が張りめぐらされ、その共同清掃と管理の仕組みが確立された。井路は、水を配る灌漑の役割と、余った水を落とす排水の役割とを兼ね、両者を公平かつ迅速に両立させることが村の共同作業として営まれた。

共同性という条件。ここで注目すべきは、これらの水利システムがいずれも個々の農家では担いきれない共同事業だったという点である。樋門の築造にも、井路の維持管理にも、まとまった資金と労働力、そして水配りをめぐる利害の調整が欠かせない。第2節で見たように、合併前の各村は単独では大規模な普請を担いきれない小村であった。10か村が一つの行政村へまとまったことは、初めて村域全体を見渡した治水計画や、共同での用水管理を可能にした。行政村としての十束村の成立は、単なる区画の統合ではなく、水と共に生きるほかなかった低地の集落が、初めて「面」としての自治力をもって水に立ち向かう体制を得た出来事でもあった。

年代の確度について。もっとも、これらの土木がいつ着手され、どの段階でどの技術が導入されたのかについて、本稿は一次史料による厳密な年代を提示できない。掘割・築堤・樋門・井路といった施設の存在と機能は、地域史記事や現地の景観からうかがえる史実に近い背景であるが、個々の施設の築造年は、新田開拓の着手年と同様に未確認の部分を多く残す。煉瓦造・コンクリート造の樋門が近代のものであることは素材が伝えるとおりだが、それ以前の木造・石造の段階を含めた治水の全史を復元するには、なお史料の裏づけを要する。

本稿の評価:樋門による逆流防止と井路の共同管理という水利システムの存在は、低地の村づくりの中核をなす史実に近い背景である。ただし各施設の築造年代は未確認の部分を残し、治水の全史の復元は今後の課題である。
天竜川 土堤 樋門 水田(井路が網の目に走る) 樋門が逆流を止め、井路が灌漑と排水を兼ねる。 低地の水利システム ── 樋門と井路
図5 治水インフラの模式図。天竜川の逆流を土堤と樋門が防ぎ、田のあいだの井路が灌漑と排水を兼ねる。共同での維持管理が低地の稲作を支えた。

6. 比較と史料批判 ── 確度の層で腑分けする

ここまで、村の輪郭(第2節)と三つの論点(第3〜5節)を順に見てきた。これらを並べると、十束村をめぐる知見が、大きく確度の異なる層に分かれることが見えてくる。一方には、行政資料と地名辞典によって年月日まで確認できる、行政区画の変遷という堅い層がある。他方には、時代背景としては妥当でありながら、個々の年代や主体を裏づける一次史料を欠く、新田開拓や治水土木という柔らかい層がある。そして両者のあいだに、合併という史実に依拠しつつ命名意図の解釈にまで踏み込む、村名の由来という中間の層が位置する。以下の比較表は、主要な論点を確度の層・内容・依拠する資料・史料批判上の留意点において対等の粒度で並べ、それぞれがどの層に属するのかを可視化することを目的とする。

表1 十束村をめぐる主要論点の比較 ── 確度の層・内容・資料・史料批判上の留意点
論点確度の層主な内容依拠する資料留意点(史料批判)
行政村の成立と変遷史実1889年町村制で10か村合併、1896年磐田郡編入、1955年竜洋町成立と一部分村、2005年新磐田市。行政資料、地名辞典、市町村沿革。年月日まで確定できる。分村により行政区画と生活圏のずれが読める。
平松・中島の新田開拓推定/未確認江戸中期、幕府奨励のもと掛塚廻船問屋・地元有力者が排水土木で開墾したとする。地域史記事、近世新田開発の一般動向。着手年・事業主体を記す一次史料は未確認。時代背景としては妥当。
村名「十束」の由来通説10か村を束ねる意で「十」+「束」と名づけたとする。合併の実数(史実)、地名由来の説明。合併数10は史実。命名意図を記す同時代史料は未確認。
治水・排水の土木史実に近い背景/未確認土堤・樋門で逆流を防ぎ、井路の共同管理で灌漑と排水を両立。地域史記事、現地景観、水利慣行。施設の存在・機能は確からしいが、各施設の築造年は未確認。

この比較から見えてくるのは、十束村の歴史が「制度の史実」と「土地の推定」という二つの異なる素材で織られているという事実である。制度の側は文書に残りやすく、土地の側は文書に残りにくい。この非対称は、十束村に固有の欠落ではなく、近世に民間の手で拓かれた新田村に広く共通する資料状況である。役所が編む町村制の施行記録や郡の改編記録は制度の産物として残るが、泥にまみれて掘割を掘り堤を築いた人々の営みは、その主体や年代を明記した文書を必ずしも伴わない。地域史を書く者は、この残りやすさの偏りそのものを勘定に入れておかねばならない。

史料批判の観点から重ねて確認しておきたいのは、「一次資料の裏づけがない」ことと「事実でない」こととは、まったく別だという点である。平松・中島に新田が拓かれ、樋門と井路の村が営まれたこと自体は、現地の景観と地名がいまも証している。裏づけを欠くのは、その営みの「いつ」と「誰が」という細部であって、営みの存在そのものではない。したがって本稿は、開拓や治水の存在を疑うのではなく、その年代・主体を確定した史実として語ることを慎むという、限定された禁欲をとる。伝承の域を出ない部分を「とされる」「伝わる」と書き分ける素材記事の作法は、この禁欲を言葉の水準で実践したものであり、本稿もこれを踏襲する。

こうした腑分けの作業は、郷土史の記述にとって一定の含意をもつ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば劇的な開拓譚に引き寄せられ、「江戸中期に誰それが拓いた」と具体的な物語を与えたくなる。しかしその誘惑に従って確度の低い細部を史実のように語れば、後の調べものはかえって混乱する。ここで採った確度の層による腑分けは、劇的な物語を切り捨てるためではなく、その物語がどの資料層に立脚しているのかを読者に示し、後世の検証に耐える形で書き留めるための手続きである。確度を明示した記述は、読者から判断の自由を奪うのではなく、むしろ各自が資料に立ち返って吟味するための手がかりを開く。これは新田村の記述に限らず、資料の残り方に偏りのある地域史一般に通じる作法だと考える。

史実 行政区画の変遷 通説 村名の由来 推定 江戸中期の開拓 未確認 着手年・主体 確度の層 ── 十束村の知見を腑分けする 制度は文書に残り、土地の営みは残りにくい。この非対称を勘定に入れる。
図6 確度の層。行政区画の変遷は史実、村名の由来は通説、江戸中期の開拓は推定、着手年・主体は未確認と位置づける。層をまたいだ断定を避けることが記述の前提となる。

7. 背景としての地理 ── 天竜川下流の村づくり

十束村の成立と開拓を検討したうえで、なお視野に入れておくべきは、この村づくりを規定した地理的条件である。十束村が営まれた天竜川左岸の下流低地は、上流から運ばれた砂礫と泥が堆積してできた氾濫原であり、川の流路がたびたび移り変わる不安定な土地であった。天竜川がいかに村をつくり、また流してきたかについては、本シリーズ第37号「天竜川がつくった村、流した村」で、池田や掛塚を例に論じた。十束村もまた、その暴れ川がつくった低地の上に、人の手で築かれた村の一つである。

この地理は、開拓に二重の困難を課した。北からは天竜川の氾濫と旧河道の湿地が、南からは遠州灘の砂丘と潮風がせまり、村は水と砂の双方に挟まれていた。素材記事が「大雨が降るたびに水が停滞し、冬には遠州灘からの強風で砂が吹き積もる」と描いたのは、この二正面の制約を言い当てている。開拓とは、この水と砂の攻めぎ合う場に、排水の掘割と防砂・防潮の備えとをもって、人の住み耕す空間を切り開く営みであった。天竜川下流の村づくりが、単なる開墾ではなく治水と一体でなければならなかった理由は、この地理にある。

同時に、この地理は開拓に好条件も与えた。天竜川が運んだ土砂は、ひとたび水を落として乾かせば、肥沃な沖積地の土となる。近世に各地で新田開発が進んだ河口低地の多くがそうであったように、天竜川下流もまた、治水さえ克服できれば高い生産力を約束する土地であった。「新田」と名のつく土地が磐田の低地に数多く刻まれていることについては、本シリーズ第33号「『新田』と名のつく土地」で地名の層として論じたが、十束村の平松・中島や仁兵衛新田も、この天竜川下流の新田開発が残した地名の系譜に連なる。困難と恵みの両面をあわせもつ河口低地であったからこそ、そこに莫大な労力を投じてでも田を拓く価値があったのである。

この地理的背景を支えたのは、掛塚をはじめとする下流域の社会でもあった。掛塚は近世に廻船で栄えた湊町であり、その商業資本が、前述のとおり新田開発の資金源として想定されている。川と海の結節点に湊が栄え、その富が背後の低地の開拓へ回るという構図は、天竜川下流という地理が生んだ経済の循環である。十束村の開拓と治水は、こうした下流域の人と富の動きのなかに置いてこそ、その現実的な母体が見えてくる。開拓の観念だけでなく、それを可能にした社会と経済の条件を視野に入れることが、村づくりを地に足のついた形で理解する道である。

付言すれば、天竜川下流の村づくりは、一度拓けば完了するという性質のものではなかった。川の流路は移ろい、堤は破られ、砂は積もり続ける。拓かれた田を田であり続けさせるには、堤を直し、樋門を保ち、井路をさらい続けるという不断の手入れが要った。開拓が「点」の出来事だとすれば、治水は「線」の営みであり、村の暮らしはこの線の営みに支えられて初めて成り立った。十束村の10か村が一つの行政体へまとまったことの意味も、この持続する手入れの主体が、村域全体を見渡す規模で立ち上がった点にこそある。開拓の年代を一点で確定できないのは、それが元来、幾世代にもわたる継続的な営みであって、単一の着工日をもたないからでもある。この意味で、開拓の年代を問う難しさは、単なる史料の欠落ではなく、村づくりという営みそのものの時間的な性質に根ざしている。

8. 結論 ── 確定できる輪郭と、なお未確認の細部

本稿は、十束村の成立を、行政村としての制度の成立と、平松・中島を中心とする土地の開拓という二層に分け、それぞれを確度の層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。行政村としての十束村は、明治22年(1889年)の町村制による10か村合併に始まり、明治29年(1896年)の磐田郡編入、昭和30年(1955年)の竜洋町成立と直後の一部分村を経て、平成17年(2005年)に新磐田市へと至る。この行政区画の変遷は、年月日まで確認できる史実である。これに対して、平松・中島の新田がいつ、誰の手で拓かれたかという開発の細部は、時代背景として江戸中期の営みと推定できるものの、着手年・事業主体を裏づける一次史料は未確認にとどまる。

この結論は、一見すると物足りなく映るかもしれない。村がいつ生まれたかは言えても、その村の土地がいつ拓かれたかは言えない、というのだから。しかし、この「言えることと言えないことの境界」を明確に引くこと自体が、地域史の記述にとっては一つの成果である。制度は文書に残り、土地の営みは残りにくい──この資料の非対称を勘定に入れずに開拓譚を語れば、確度の低い細部が史実の装いをまとい、後の検証をかえって妨げる。本稿が確度の層にこだわったのは、劇的な開拓の物語を否定するためではなく、その物語を後世の調べものに耐える形で残すためである。

本稿の立場は明確である。すなわち、十束村の輪郭を描く作業は、「劇的な起源譚を一つ選び取る作業」ではなく、「制度の史実と土地の推定とを層を分けて記述し、それぞれの確度を明示する作業」であるべきだ、ということである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、伝承の細部を史実の劣位に置かず、また裏づけのない年代を史実と偽らない。この禁欲的な手続きこそが、泥土から美田を拓いた先人の営みを、粉飾せず、また矮小化もせずに書き留める方途であると考える。

最後に、本稿が残した課題を明記しておく。第一に、平松・中島をはじめとする各集落の新田開発の着手年と事業主体については、竜洋町史の史料編や掛塚の廻船関係文書、各集落の開発由緒を博捜することで、未確認の状態を史実へと押し上げられる余地がある。第二に、樋門・井路の築造年代を含む治水の全史は、木造・石造から煉瓦造・コンクリート造へと更新されていった過程として、なお復元の余地を残す。第三に、成立直後に赤池・上本郷・下本郷・仁兵衛新田が豊田村を選んだ分村の背景は、水利と耕地の実態に即して掘り下げるべき主題である。これらはいずれも、本稿が設定した確度の層のなかで、未確認を推定へ、推定を史実へと一段ずつ押し上げていく地道な作業に属する。天竜川下流の村づくりの全体像は、その積み重ねの先に、少しずつ像を結んでいくはずである。なお本稿は、一般読者向け記事 r004「十束村の成立と平松・中島の新田開拓史」の内容を、郷土史研究者向けに確度の層を明示して再構成した論考版である。

本稿の舞台である竜洋の低地には、先人が泥にまみれて拓いた田とともに、いまも古い家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 明治22年(1889年)4月1日の町村制施行にともなう10か村(宮本村・中島村・平間村・堀之内村・松本村・高木村・下本郷村・上本郷村・赤池村・仁兵衛新田)の合併による十束村発足は、行政資料・地名辞典類によって確認できる。
  2. 明治29年(1896年)4月1日の郡制改編にともない、十束村は豊田郡から磐田郡へ編入された。
  3. 平松・中島の各集落における新田開発の具体的な着手年・事業主体名は、素材とした地域史記事の注記に照らしても一次資料による裏づけを欠き、本稿では未確認として扱う。「江戸中期/幕府奨励/掛塚の廻船問屋・地元有力者」という筋立ては時代背景としての推定である。
  4. 昭和30年(1955年)4月1日、十束村は袖浦村・掛塚町と新設合併して竜洋町となり、同月15日に旧十束村のうち赤池・上本郷・下本郷・仁兵衛新田の4地区が竜洋町から分離し豊田村へ編入された。
  5. 十束村役場はおおむね北緯34度41分53秒・東経137度48分26秒付近、東海道本線の旧豊田町駅の南側、天竜川左岸の低地にあったと記録される。

付記:本稿は一般読者向け記事 r004 の内容を、郷土史研究者向けに確度の層を明示して再構成した論考版である。行政区画の変遷(合併・郡編入・分村・市域合併)を史実、村名の由来を通説、江戸中期の開拓を推定、各集落の着手年・事業主体を未確認として書き分けた。

参考文献・参考資料

  • 竜洋町史編さん委員会編『竜洋町史 通史編』竜洋町。
  • 竜洋町史編さん委員会編『竜洋町史 史料編』竜洋町。
  • 『遠州掛塚港の廻船史』(掛塚廻船関係資料)。
  • 『天竜川河口域の歴史と民俗』。
  • 『遠州の屋台と祭り文化の歴史』。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
  • 『角川日本地名大辞典 22 静岡県』角川書店。
  • 『静岡県史』通史編・資料編(静岡県)。
  • 静岡県『静岡県市町村合併誌』。
  • 佐口行正氏所蔵史料。
  • 「十束村」「竜洋町」ウィキペディア日本語版(行政区画の変遷・合併年月日の確認) https://ja.wikipedia.org/wiki/十束村 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 r004「十束村の成立と平松・中島の新田開拓史 ── 河口低地を美田に変えた近世の土木」 https://iwata-monogatari.net/r004 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第37号「天竜川がつくった村、流した村 ── 池田・掛塚と渡しの記憶」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/037/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第33号「『新田』と名のつく土地 ── 江戸の開発が刻んだ地名」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/033/ (最終閲覧:2026年7月25日)。