竜洋地区の西側に位置する「十郎島(じゅうろうじま)」と「川袋(かわぶくろ)」は、かつての天竜川の網の目のように分岐した流路の真っ只中にありました。ひとたび水が出れば濁流の直撃を受けるこの地で、人々は水害を避けるために敷地を高く盛り、周囲に強固な土手を築くなど、極めて高度な防災の生活様式を確立しました。
- 氾濫原の島としての成立:天竜川の分流に挟まれた自然堤防(砂洲)の上に位置し、常に水害と流路変更の最前線に立たされていました。
- 避難用倉庫「水塚」と盛り土の知恵:敷地の一部を二メートル以上高く盛り土し、その上に非常食や貴重品を保管する強固な「水塚(みづか)」と呼ばれる蔵を建てました。
- 集落を囲む輪中堤の連帯:水の侵入を防ぐため、個人単位の盛り土だけでなく、集落全体をぐるりと囲む「輪中堤(わじゅうづつみ)」を共同で構築し、治水を維持しました。
暴れ天竜の流路の狭間に取り残された集落
江戸時代以前の天竜川は、現在のように一本の太い堤防で固定されておらず、河口近くでは幾十もの細い流路に分かれて網の目のように流れていました。十郎島(じゅうろうじま)や川袋(かわぶくろ)という地名は、まさにその川の流れによって作られた「島(中洲)」や、川が「袋」のように湾曲して突き当たった地形に由来しています。
この地域に暮らす人々は、水が引いたあとの肥沃な堆積土を利用して豊かな農業を行うことができましたが、その代償として、大雨のたびに集落全体が激流に孤立する水害の恐怖と戦い続けねばなりませんでした。恵みと脅威が表裏一体となったこの土地の性格こそ、十郎島・川袋の人々の暮らしと知恵の出発点であったと言える。
十郎島は、その名の通りもともと天竜川の中洲(島)にあった集落であったが、近代以降の河川改修工事によって、その島そのものが姿を消し、住民は掛塚本町の西側、現在の十郎島の位置へと集団で移転を余儀なくされたと伝えられている。集落の氏神であった八幡神社もまた、この移転に伴って現在地へ遷座した。同社の手水鉢は舳先のように両端がとがった舟形をしており、かつて掛塚湊とともにあった水運集落としての性格を今に伝える貴重な遺物である。
命を守るための土木知恵:水塚と集落輪中
氾濫の直撃から家族と財産を守るため、十郎島や川袋の家々では、独特の建築土木の知恵が発達しました。その代表が「水塚(みづか、あるいはミヅカ)」です。これは、母屋よりも敷地の一部を一段と高く(時には二メートル以上)土を盛り、その上に頑丈な木造やレンガ造りの蔵を建てるものです。
水塚のなかには、洪水の際にも濡れないように高い位置に棚が設けられ、数日分の米や味噌、衣類、非常用の舟(水難船)が常備されていました。天竜川の本堤防が決壊した際、人々は母屋を捨ててこの水塚へと避難し、水が引くのを静かに待ったのです。これは、川と共に暮らすための究極の適応の形でした。
こうした「母屋」と「非常時の避難・備蓄用の高い建物」という二層構造の暮らし方は、天竜川流域だけの特殊な知恵ではなく、木曽三川流域の濃尾平野の輪中地帯などでも広く見られる、日本の氾濫原に共通する防災建築の型である。濃尾平野の輪中では、日常生活の母屋に対し、水害時の避難と食料備蓄のための「水屋」が備えられており、天竜川下流域の水塚も、地域ごとに呼び名は異なるものの、本質的には同じ発想に基づく施設であったと考えられる。
洪水と闘い、川の堆積土を肥沃な畑地へ変えた歴史
防災は個人の力だけでは不可能です。十郎島や川袋の住民たちは、集落全体をぐるりと囲み、水の侵入を防ぐ「輪中堤(わじゅうづつみ)」を共同で建設・維持しました。毎年、農閑期になると集落の全世帯から人が集まり、土手を踏み固め、杭を打ち、堤防の弱い部分を補強し続けました。
こうした地域の共同治水を後押ししたのが、明治期の実業家・金原明善(きんぱらめいぜん)による天竜川治水事業である。金原は明治7年(1874年)、私財5万6千円余りを投じて天竜川の治水事業に着手し、後には治水の根本は水源の涵養にあると考え、上流域への大規模な植林事業にも取り組んだ。この官民一体の治水努力によって、天竜川の護岸・築堤は徐々に本格化していった。記録によれば、掛塚を含む竜洋地区は、昭和19年(1944年)ごろまで本流と東派川とに挟まれた島状の地形として存在し、両岸からの浸水に繰り返し悩まされ続けていたとされる。
大正から昭和にかけて天竜川の本格的な近代堤防が完成し、本流が一本に統合されると、かつての危険な氾濫原は安全で極めて肥沃な農地へと姿を変えました。現在では水塚の多くは取り壊されましたが、十郎島や川袋の家々に残る微妙な高低差や、古い敷地の石垣は、荒れ狂う暴れ天竜と知恵と団結で渡り合った、先人たちの勇気ある闘いの記憶を今に伝えています。
渡し場から橋へ ── 交通の記憶
橋が架けられる以前、十郎島は天竜川を渡る「渡船場」としての役割も担っていた。八幡神社の裏手には、かつての十郎島渡船場跡を示す碑が今も残されている。明治期に入り、この渡船場のあった場所に初代の掛塚橋(木橋)が架けられると、以後この地は横須賀・掛塚往還と呼ばれた道筋の起点となり、後年には県道として整備されるに至った。水害から命を守る知恵とともに、川を渡り人・物を運ぶための工夫もまた、この地域の暮らしを支える重要な柱であったことがうかがえる。
渡し船から木橋へ、そして現代の鉄橋・コンクリート橋へと、時代とともに交通インフラは形を変えていったが、いずれの時代も十郎島という土地が天竜川を挟んだ人と物の往来の結節点であり続けた点は変わらない。水害と隣り合わせでありながら、同時に交通の要衝でもあったという二面性こそが、十郎島や川袋という集落の成り立ちを特徴づけている、と言えるだろう。
この地域の家・土地・空き家について
古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。
相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。