磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第31号(見付宿研究 一)
見付宿 ── 東海道二十八番の宿場町
宿駅制度のなかの見付と町の構造
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
見付は、東海道五十三次の江戸から数えて二十八番目にあたる宿場である。古代には遠江国府・国分寺が置かれ、中世には守護所や楽市として賑わったこの地は、慶長6年(1601年)正月の伝馬朱印状によって東海道の宿駅制度に組み込まれ、公用の人馬継立を担う宿場へと再編された。本稿は、磐田市歴史文書館第19回企画展の資料に依拠し、見付宿を「宿場町としての機能と構造」の側面から記述する。伝馬役と助郷による人馬継立の仕組み、本陣・脇本陣・旅籠屋・問屋場という宿の施設構成、天保14年(1843年)「宿村大概帳」が伝える規模を、静岡県内22宿のなかに置き直して検討する。あわせて庚申講の記録が伝える災害・疫病と娯楽、幕末の通行を取り上げ、宿駅という制度の歴史と、そこに暮らした人々の生活の歴史とを、一つの町の像として結ぶことを試みる。守護所論・姫街道論を扱った既刊論考とは主題を分け、本稿は宿駅としての見付の機能に焦点を定める。
キーワード:見付宿/東海道/宿駅制度/伝馬朱印状/助郷/本陣・脇本陣・旅籠屋/宿村大概帳
1. 問題設定 ── 宿場町としての見付をどう捉えるか
見付は、東海道五十三次のうち江戸から数えて二十八番目にあたる宿場である1。府中(現・静岡市)と浜松のほぼ中間、遠江国のかつての中心地に開かれたこの宿は、大名行列から伊勢へ向かう庶民の集団参詣まで、実にさまざまな人と物を迎え入れてきた。本稿の課題は、この見付を「宿場町」という一つの機能体として捉え直し、それがどのような制度のうえに成り立ち、どのような施設と担い手によって動いていたのかを、資料に即して記述することにある。
「宿場」という語は、二つの水準を含んでいる。一つは、幕府の交通政策のなかで人馬継立の義務を負った公的な制度としての宿駅であり、もう一つは、そこに人が住み、店を開き、災害や祭礼をくぐり抜けて暮らした生活の場としての町である。この二つは切り離せないが、同じものでもない。制度としての宿駅を語るだけでは町の呼吸が抜け落ち、暮らしの逸話を並べるだけでは町を支えた仕組みが見えなくなる。本稿は、制度と生活の双方に目を配りながら、両者がどのように一つの町を形づくっていたかを追う。
見付を主題とする論考は、本シリーズにすでにいくつかある。中世の遠江守護支配の拠点としての側面は見付守護所論で、東海道から分かれるもう一つの街道との関係は姫街道論で、それぞれ扱った。本稿はこれらと主題が重ならないよう、あえて論点を「宿場町としての機能と構造」に限定する。守護所がなぜ見付に置かれたか、姫街道がどこを通ったかではなく、東海道の宿駅として見付がどう運営され、どのような姿をしていたかを問う。
叙述の土台とするのは、磐田市歴史文書館の第19回企画展「二十八番見付宿〜様々な人と物の行き交う町〜」(平成29年〔2017年〕7月10日〜8月25日)で紹介された資料群である。成瀬家文書・大久保家文書・倉田家文書、天保御用留、庚申掛銭帳・庚申仲間覚帳といった地元の記録が、宿場の運営と暮らしを具体的に伝える。本稿はこれらの企画展資料が示す範囲に事実を限り、そこから宿駅制度・施設構成・生活史という三つの層を腑分けして提示する。以下ではまず宿駅制度の成立を押さえ、続いて継立の仕組みと施設、規模の比較、暮らしと災害、幕末の通行を順に扱い、最後に宿場町としての見付の像を結ぶ。
宿場町の機能は、大きく三つに分けて考えることができる。第一に、公用の荷物や人を次の宿へ送り届ける継立の機能。第二に、旅人を泊め、休ませる宿泊・休息の機能。第三に、大名から庶民までが行き交うことで、物資・情報・流行が集散する結節点としての機能である。見付宿は、この三機能を宿駅制度という枠組みのなかで担い、同時に一町の生活共同体としても存続した。制度が求める役目と、町が営む暮らしとが重なり合う場所──それが宿場町であった。
2. 宿駅制度の成立 ── 伝馬朱印状と見付宿
見付が宿駅となる前提を、まず確認しておく。見付は古代に遠江国府・国分寺が置かれた遠江の政治的中心であり、中世には守護所が置かれ、町衆の自治による楽市としても賑わったと伝えられる。永正15年(1518年)、今川氏親は遠江の神官たちが組織した抵抗勢力を破って見付を手中にし、以後今川氏が見付を直接支配した。天文19年(1550年)の今川義元判物は、見付惣社(淡海國玉神社)の神主職と社領を安堵する内容を記しており、義元の支配が見付に及んでいたことを示す。この判物に宛てられた「千法師」は、後に惣社神主職を継ぐ見付大久保家の祖先にあたる人物と考えられている。すなわち見付は、宿駅に指定される以前から、遠江の交通と政治の要としての厚みをすでに備えていた。
徳川家が天下統一を進めるなかで、東海道の交通を掌握することは国家経営の要諦であった。慶長6年(1601年)正月、徳川家は東海道の各宿に「伝馬朱印状」を与えた2。この朱印状の制定によって、東海道の各地に伝馬の管理が一つの公的な役目として課されることとなる。見付宿もこのとき宿駅に組み込まれ、公用交通を支える一環を担うようになった。同年には奉行衆連署状によって朱印状の使用方法が指示され、制度の運用が具体化されている。宿駅制度は、単に道と宿を定めたのではなく、誰が・どのように・どれだけの人馬を継立てるかという義務の体系として設計されていた。
翌慶長7年(1602年)には「路次中駄賃定書」が交付され、宿駅間の伝馬駄賃の詳細が整えられた。ここでは、荷物一駄あるいは人一人を乗せる本馬(荷物四十貫目まで)、より軽い荷を運ぶ乗掛(軽尻・荷物二十貫目まで)といった区分ごとに駄賃が定められている。積載量に応じて運賃を段階化するこの規定は、宿駅が担う輸送を、恣意によらず一定の基準で運用しようとする志向を示す。制度発足の翌年にすでに駄賃の細目が定められている事実は、宿駅制度が場当たりの布達ではなく、輸送の実務を見据えて組み立てられた仕組みであったことをうかがわせる。
ここで、見付が宿駅に選ばれた背景にも触れておきたい。徳川家康が遠江支配の拠点候補として見付をどう位置づけたかは、国府・東海道・今之浦の水運という地理的条件と併せて別に検討した(なぜ家康は見付を選んだのか)。宿駅の配置は、既存の交通の要衝を追認する側面と、幕府が新たに街道を整序する側面との双方をもつ。見付の場合、古代以来の国府・宿の歴史が、宿駅指定の下地として働いたと考えるのが自然であろう。もっとも、宿駅としての見付の具体的な役割規定は、あくまで慶長6年以降の制度に由来するのであって、古代・中世の見付の賑わいがそのまま近世の宿駅へ連続したわけではない。町の歴史の古さと、宿駅という制度上の位置とは、層を分けて捉える必要がある。
3. 人馬継立の仕組み ── 伝馬役と助郷
宿駅制度の中核は、公用の人馬を宿から宿へと継ぎ送る「継立」にある。見付宿にとって、この継立を果たすことは制度上の義務であり、宿の存立そのものを規定する役目であった。継立を担う仕組みは、二つの層から成る。すなわち宿の内部で負う伝馬役と、周辺の村々が肩代わりする助郷役である。
伝馬役は、宿場の公用の荷物を運ぶために、宿内の町人・馬持ちなどの家に割り当てられた負担である。宿場に指定されるということは、常に一定数の人馬を用意し、公用の求めに応じて次の宿へ送り出す態勢を維持することを意味した。これは名誉であると同時に、決して軽くない恒常的な義務でもあった。宿の人馬だけでまかないきれない需要が生じたとき、その不足を補うために設けられたのが助郷の制度である。
助郷は、宿周辺の村々に人馬の提供を課す仕組みで、見付宿では貞享元年(1684年)に見付宿助郷十二ヶ村として確立したのち、継立の需要が増すのにあわせて指定される村数が増加し、享保10年(1725年)には見付宿助郷六十八ヶ村にまで拡大した。ただしこの助郷確立の年については、企画展資料のなかでも記述に揺れがある。宿場の解説本文が貞享元年(1684年)とする一方、要点整理の側では元禄7年(1694年)と記されている3。本稿の調査範囲では、いずれが正しいかを確定する一次史料に突き当たっておらず、この点は未確認とせざるを得ない。重要なのは、十二ヶ村から六十八ヶ村へという五倍を超える村数の拡大が、継立需要の増大を映していることである。参勤交代の定着や物流の活発化にともない、宿だけでは支えきれない負担が周辺農村へと広く配分されていった過程が、この数字に読み取れる。
継立を支える仕組みは、人馬にとどまらない。飛脚の制度も整えられ、宝暦8年(1758年)には見付宿飛脚仲間の記録が残る。書状や小荷物を専門に継ぐ飛脚は、公用・私用の情報流通を担い、宿場を情報の結節点たらしめる役割を果たした。街道の松並木もまた幕府によって整備され、松の苗木の植付や維持管理が周辺の村々の役目として記録されている。並木は旅人に木陰と道しるべを与える施設であり、その維持が村の負担として制度化されていた点に、宿駅制度が沿道の景観までも管理の対象に含んでいたことがうかがえる。
助郷の拡大は、宿場と農村の関係という観点からも見のがせない。助郷に指定された村々にとって、人馬の徴発は農繁期の労働力を割かれる重い負担であり、しばしば村と宿とのあいだに緊張を生んだ。宿場の賑わいは、それを支える周辺農村の負担の上に成り立っていたのであり、宿駅制度は一町の内部で完結する仕組みではなく、広い後背地を巻き込んだ地域全体の負担配分の体系であった。見付宿六十八ヶ村という数字は、宿場町が周囲の農村社会と分かちがたく結びついていたことを、端的に物語っている。
4. 宿の施設 ── 本陣・脇本陣・旅籠屋・問屋場
宿駅としての機能は、それを担う施設として町のなかに姿をとった。天保14年(1843年)の「宿村大概帳」によれば、見付宿は本陣2・脇本陣1・旅籠屋56軒を数えた。これらの施設は、旅人の身分や目的に応じて宿泊と休息を分担し、宿場の宿泊機能を階層的に構成していた。
本陣は、大名・公家・幕府役人といった格式ある旅人が宿泊・休息するための施設であり、一般の旅籠とは区別された特別な宿である。門・玄関・書院を備え、格式に応じた設えが求められた。脇本陣は本陣に準じる施設で、本陣が塞がっているときの控えや、本陣に次ぐ格の旅人の宿泊に用いられた。見付宿に本陣が2軒あったことは、それだけの格式ある通行を恒常的に迎える宿であったことを意味する。宿場の格は、しばしば本陣の数によって測られる。
旅籠屋は、一般の旅人を食事つきで泊める宿であり、見付宿の56軒という数は、宿場の宿泊機能の厚みを示す。旅籠は宿場の賑わいの実質的な担い手であり、その多寡が宿の活気を左右した。後の時代には、この旅籠から転じた旅館や、旅人相手の商いが、見付本通りの町並みを形づくっていく。宿場町から近代都市への変化のなかで本通りの店々がどう移り変わったかは、別稿で扱った見付本通りから消えた店の記憶に譲るが、その原型は宿駅時代の旅籠と商家の集積にあった。
宿駅の継立を実務として差配したのは、問屋場である。問屋場は、公用の人馬を手配し、荷物の継立と帳簿の管理を担う宿場運営の中枢であった。問屋・年寄・帳付といった宿役人がここに詰め、継立の需要と宿・助郷の人馬とを日々つき合わせた。本陣が宿場の「格」を、旅籠が「賑わい」を象徴するとすれば、問屋場は宿駅制度が求める「役目」を実際に回す心臓部にあたる。宿場町の構造は、この問屋場を核として、街道に沿って本陣・脇本陣・旅籠屋・商家が連なる細長い町並みとして展開した。
その町並みの規模は、宿町並11町40間という数字に示される。街道に沿って細長く伸びるこの町の姿は、宿場町一般の典型でもある。宿場は面として広がる城下町とは異なり、街道という一本の線に沿って人と施設が集積する線状の町であった。継立の起点である問屋場、格式を受け止める本陣、旅人を泊める旅籠が、この一本の道沿いに機能的に配置されていたところに、宿場町という都市形態の特質がある。
5. 二十二宿のなかの見付 ── 規模と史料批判
見付宿の規模を、天保14年(1843年)の「宿村大概帳」から具体的に押さえておく4。それによれば、見付宿は宿町並11町40間、人口は男1,898人・女2,037人の計3,935人、家数1,029軒、本陣2・脇本陣1・旅籠屋56軒であった。この数字を、同じ「宿村大概帳」から得られる静岡県内22宿の規模のなかに置き直すと、見付の位置がより鮮明になる。
府中(現・静岡市)の人口14,071人、浜松の5,964人といった大規模な宿場と比べれば、見付の3,935人は中規模にとどまる。しかし、日坂の750人や袋井の843人のような小規模な宿場と比べれば、見付ははるかに大きい。掛川の3,443人とはほぼ同格である。旅籠屋の数で見ても、浜松の94軒には及ばないが、見付の56軒は掛川の30軒や日坂の33軒を上回る。総じて見付宿は、東海道の宿場のなかで上位ではないものの、遠江の一角を占める中規模以上の宿場として、一定の存在感をもっていたと評価できる。
| 宿名 | 人口(計) | 家数 | 本陣 | 旅籠屋 | 見付との対比 |
|---|---|---|---|---|---|
| 府中 | 14,071人 | 3,674軒 | 2 | 43軒 | 人口は見付の約3.6倍 |
| 浜松 | 5,964人 | 1,622軒 | 6 | 94軒 | 本陣・旅籠とも大規模 |
| 見付 | 3,935人 | 1,029軒 | 2 | 56軒 | 基準(中規模) |
| 掛川 | 3,443人 | 960軒 | 2 | 30軒 | 人口は近いが旅籠は少 |
| 袋井 | 843人 | 195軒 | 3 | 50軒 | 小規模だが旅籠は多い |
| 日坂 | 750人 | 168軒 | 1 | 33軒 | 小規模な宿場 |
この比較表を読むにあたっては、いくつかの史料批判上の留意が要る。第一に、「宿村大概帳」は天保14年(1843年)という一時点の調査であり、宿場の規模はこの前後で変動しうる。したがってここに示された数字は、幕末のある断面を捉えたものであって、宿場の盛衰の全体を代表するものではない。第二に、人口・家数と本陣・旅籠の数は、必ずしも比例しない。袋井は人口843人の小規模宿でありながら本陣3・旅籠屋50軒を擁しており、宿場の宿泊施設の規模が、その地の交通事情や宿泊需要によって左右されたことがうかがえる。宿場の「大きさ」は、人口・家数・宿泊施設という複数の指標を重ねて初めて捉えられるのであって、単一の数字で序列化できるものではない。
もう一点、規模の数字を扱う際には、宿場人口の性格にも注意したい。宿場の人口には、常住の町人だけでなく、旅籠や商家に雇われた奉公人など、流動的な人々も含まれる。宿村大概帳の数字は、こうした宿場特有の人口構成を反映したものであり、農村の人口とは性格を異にする。見付の3,935人という数字も、街道の往来に生計を負う人々を多く含んだ、宿場町らしい人口であったと考えるべきである。数字を額面どおりに受け取るのではなく、それがどのような性格の人口を数えたものかを問うことが、規模論の前提となる。
とりわけ本陣の数は、宿場の規模を測る指標として慎重な扱いを要する。人口14,071人の府中が本陣2であるのに対し、人口5,964人の浜松は本陣6を数え、人口843人の袋井でさえ本陣3を擁する。本陣の数は宿場の人口規模にそのまま比例するのではなく、その宿が格式ある通行をどれだけ受け止める位置にあったか、また周辺の宿との距離や休泊の慣行がどうであったかによって左右された。見付の本陣2は、規模の割に控えめとも見えるが、これは隣接する浜松・掛川といった有力宿とのあいだで格式ある宿泊需要が分散したことの反映と解しうる。宿場の格は、単純な大小ではなく、街道全体のなかでその宿が担った役割の位置として読むべきである。
6. 宿場の日常 ── 庚申講が伝える暮らしと災害
制度と施設を押さえたうえで、宿場に生きた人々の日常へ目を移す。見付には「庚申掛銭帳」や「庚申仲間覚帳」といった、庚申講の記録が残る。庚申講とは、60日に一度めぐる庚申の日に人々が集い、夜通し語り明かす信仰行事であり、宝暦13年(1763年)に定められた「講中定」を確認・改定しながら、近年まで続けられていたという。この庚申講の帳面には、信仰の記録にとどまらず、宿場の暮らしにかかわるさまざまな出来事が書き留められており、宿場町の生活史をうかがう格好の手がかりとなる。
庚申講の帳面が生活史の史料として貴重なのは、それが公的な記録ではなく、講に集う人々自身が書き継いだ覚え書きだからである。宿場の公用を記す成瀬家文書や天保御用留が制度の側から宿場を照らすとすれば、庚申掛銭帳は暮らしの側から宿場を照らす。両者を突き合わせて初めて、宿場町の全体像が立ち上がる。もっとも、こうした帳面は判読の難しい箇所も多く、本稿では企画展資料が紹介した範囲にとどめて整理する。
その記録が伝えるのは、まず災害と疫病である。天明5年(1785年)には「引き風邪」(インフルエンザとみられる)や「はしか」(麻疹)が流行した。医学が未発達なこの時代、疫病の流行は住民にとって大きな脅威であった。天保8年(1837年)には天候不順による凶作で飢饉が起こり、その困窮の様子が帳面の「乞食」の項に記されている。文政4年(1821年)や天保6年(1835年)には大水(洪水)の被害も記録される。とりわけ甚大だったのが、嘉永7年(1854年)11月4日に発生した大地震、後に安政東海地震と呼ばれる震災である。その被害は「三百二三軒中百五拾人余が即死」と記録され、家屋の大破をともなう深刻なものであった5。街道の往来に生計を負う宿場町にとって、こうした災害は宿の機能そのものを揺るがす打撃であった。
一方で、庚申講の記録は宿場の娯楽の記憶も伝える。文政3年(1820年)頃には「らくだ」の見世物が見付を訪れ、当時としては珍しい異国の動物が人々の好奇心を集めた。文化9年(1812年)には「花狂言」、文政9年(1826年)には歌舞伎役者・団十郎の祭礼への参加が記録されており、江戸から離れた宿場町にも、都市の芸能や見世物が街道を通じて届いていたことがわかる。天保3年(1832年)には、見付天神の祭礼が「遠々見ます」という冊子に記録されており、遠くの祭りの様子を伝える出版物が作られていたこともうかがえる。宿場町は、街道を介して物資だけでなく流行や文化をも受け取る結節点であった。災害と娯楽という一見対照的な記録が同じ帳面に並ぶこと自体が、宿場の日常が平穏と非常のあいだを揺れ動くものであったことを物語っている。
7. 動乱期の通行と宿駅制度の終焉
宿場は、平時の継立だけでなく、時代の大きな動きが街道を通り過ぎる場でもあった。見付宿は、幕末の動乱期にもさまざまな通行を迎えている。天保元年(1830年)閏3月には、阿波国(現・徳島県)から始まった「御蔭参り」──伊勢神宮への集団参詣の熱狂が見付宿にも及び、本陣や宿屋に参詣者が寄宿するほどの賑わいとなった。突発的に膨れ上がる集団参詣は、宿場の宿泊能力を一時に試す出来事であり、御蔭参りの記録は宿場が非常時にどれだけの人を受け止めえたかを示す証言でもある。
慶応3年(1867年)8月には、三河の吉田宿(現・豊橋)からお札が降ったという「お札降り」の騒動が浜松・見付にも広がり、人々が浮かれ騒ぐ様子が記録されている。同じ幕末でも、こちらは秩序の弛緩を映す群集現象であった。制度としての宿駅が求める整然とした継立と、街道を舞台に噴き上がる群集の熱狂とは、同じ宿場町の別の顔であった。
公的な通行としては、文久3年(1863年)、将軍徳川家茂が三代家光以来229年ぶりとなる上洛を果たしている。将軍上洛にあたっては、沿道の村々にさまざまな触れが出され、家々には提灯や行灯を灯すよう指示されるなど、宿場と周辺は対応に追われた。宿駅制度が非常時にどれだけの負担を沿道へ課したかを、この上洛の記録は示している。そして慶応4年(1868年)には、討幕軍(新政府軍)の大総督が東下し、見付宿にも通行の触れが出された。このとき見付の神官たちが結成した民兵隊については、別稿の遠州報国隊で扱った。旧幕の権威のもとで整えられた宿駅制度が、その旧幕を倒す軍勢の通行をも担ったところに、時代の転換が象徴的に現れている。
これらの通行に共通するのは、いずれも宿駅制度の平常の継立を超えた、非常の負担を宿場と沿道に強いた点である。参詣の熱狂も、将軍の上洛も、討幕軍の東下も、突発的あるいは大規模な人と物の移動であり、それを受け止めることは宿場の能力を試す試練であった。宿駅制度は、平時の定量的な継立を前提に組み立てられた仕組みであったが、現実の街道には、その前提を超える波がしばしば押し寄せた。見付宿がこうした波を繰り返し受け止めえたのは、伝馬役と助郷という二重の継立体制と、宿泊を階層的に分担する施設構成とが、一定の弾力をもって働いたからにほかならない。動乱期の通行の記録は、宿場町の機能が非常時にどこまで伸縮しえたかを映す、貴重な証言でもある。
明治に入り、宿駅制度は近代の交通体系のなかで役目を終える。鉄道の敷設と近代的郵便・運輸の成立は、伝馬・助郷という人馬継立の仕組みを不要にし、宿場町は街道交通の要としての地位を失った。見付宿もまた、宿駅としての機能を失い、近代の地方都市へと姿を変えていく。だが、宿駅時代に街道沿いに集積した本陣・旅籠・商家の町並みは、その後の見付本通りの原型となり、宿場町の記憶は町の構造として長く残された。宿駅制度の終焉は、見付という町の終わりではなく、機能の一つの層が剥落し、別の層が前面に出る転換であった。
8. 結論 ── 宿場町としての見付の機能と構造
本稿は、見付を「宿場町」という機能体として捉え、宿駅制度・施設構成・生活史という三つの層から記述してきた。得られた像は次のとおりである。見付は古代の国府以来の交通の要衝であったが、宿場町としての見付は、慶長6年(1601年)正月の伝馬朱印状に始まる近世の宿駅制度に由来する。継立を担う伝馬役と、それを補う助郷が宿の機能を支え、助郷は十二ヶ村から六十八ヶ村へと拡大して広い農村後背地を巻き込んだ。宿の内部では、問屋場を核に、本陣・脇本陣・旅籠屋・商家が街道という一本の線に沿って配置され、格式・賑わい・生業を分担した。
この機能と構造は、天保14年(1843年)の「宿村大概帳」に、本陣2・脇本陣1・旅籠屋56軒、人口3,935人という数字として現れる。静岡県内22宿のなかに置き直せば、見付は上位ではないが中規模以上の宿場であり、遠江の一角を占める一定の存在感をもっていた。そしてこの宿場に生きた人々の日常は、庚申講の帳面に、疫病・飢饉・洪水・地震といった災害と、らくだ興行・歌舞伎・祭礼といった娯楽との両面から書き留められている。宿駅という制度の歴史と、そこに暮らした人々の生活の歴史とは、一つの町のなかで分かちがたく結びついていた。
本稿の立場を一文で示せば、見付宿は「制度としての宿駅」と「生活の場としての町」という二つの層が重なった宿場町として捉えるべきである、ということになる。制度史だけを語れば町の呼吸が抜け落ち、逸話だけを並べれば町を支えた仕組みが見えなくなる。両者を一つの像として結ぶことにこそ、宿場町を記述する意味がある。なお、助郷確立の年をめぐる貞享元年(1684年)と元禄7年(1694年)の記述の揺れは未確認のまま残った。この点は、企画展資料の典拠となった一次史料に立ち返って確かめるべき課題である。
最後に、本稿が扱いえなかった主題を記しておく。第一に、問屋場の運営や宿役人の構成といった宿駅運営の実務は、成瀬家文書・倉田家文書などの帳簿類を博捜することで、より立ち入って描きうる。第二に、助郷村と宿とのあいだの負担をめぐる交渉や紛争は、宿場と農村の関係史として別に検討されるべきである。第三に、宿駅制度の終焉から近代都市への移行の過程は、町並みの変化と併せてなお論じる余地がある。中世の守護所論、姫街道論に続き、宿場町としての見付を扱った本稿を、見付という町の重層的な歴史を解きほぐす一つの層として位置づけたい。宿駅としての機能の細部については、稿を改めて論じることとする。
注
- 見付宿の歴史については、磐田市歴史文書館 第19回企画展「二十八番見付宿〜様々な人と物の行き交う町〜」(平成29年〔2017年〕7月10日〜8月25日)の展示資料に依拠する。本稿の事実記述は、原則としてこの企画展資料が示す範囲にとどめた。↩
- 慶長6年(1601年)正月の伝馬朱印状、同年の奉行衆連署状、および慶長7年(1602年)の「路次中駄賃定書」による。本馬・乗掛の駄賃区分もこれらに基づく。↩
- 助郷十二ヶ村の確立年について、企画展資料では貞享元年(1684年)とする記述と元禄7年(1694年)とする記述が併存する。本稿の調査範囲では、いずれが正しいかを確定する一次史料に突き当たっておらず、この点は未確認とする。↩
- 天保14年(1843年)「宿村大概帳」による。宿町並11町40間、人口3,935人(男1,898人・女2,037人)、家数1,029軒、本陣2・脇本陣1・旅籠屋56軒。22宿の比較数値も同帳による。↩
- 嘉永7年(1854年)11月4日の大地震(安政東海地震)による被害は、企画展で紹介された「嘉永七年大地震」関係史料に「三百二三軒中百五拾人余が即死」と記録される。史料の表記をそのまま引いた。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 m129 の内容を、郷土史研究者向けに、宿駅制度・施設構成・生活史の三層に整理し直した論考版である。慶長6〜7年の制度成立に関わる年紀を近世宿駅制度の史実として扱い、助郷確立の年をめぐる企画展資料内の記述の揺れは未確認として明記した。
参考文献・参考資料
- 磐田市歴史文書館 第19回企画展「二十八番見付宿〜様々な人と物の行き交う町〜」図録(平成29年〔2017年〕7月10日〜8月25日)。
- 「路次中駄賃定書」慶長7年(1602年)。伝馬朱印状・奉行衆連署状(慶長6年〔1601年〕)。
- 「宿村大概帳」天保14年(1843年)。
- 今川義元判物 天文19年(1550年)。
- 成瀬家文書・大久保家文書・倉田家文書(磐田市歴史文書館蔵)。
- 天保御用留(磐田市歴史文書館蔵)。
- 庚申掛銭帳・庚申仲間覚帳、講中定(宝暦13年〔1763年〕)(磐田市歴史文書館蔵)。
- 「嘉永七年大地震」関係史料(磐田市歴史文書館蔵)。
- 児玉幸多『宿駅』(近世交通史の基本文献として参照)。
- 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、該当章)。
- 淡海國玉神社(遠江総社)由緒書。
- 磐田市歴史文書館 公式サイト https://www.city.iwata.shizuoka.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 m129「見付宿 ── 東海道二十八番、様々な人と物が行き交った宿場町」 https://iwata-monogatari.net/m129 (最終閲覧:2026年7月25日)。