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磐田物語見付地区 / 見付大久保家資料目録

見付・戦国〜昭和 | 淡海國玉神社の神官家

見付大久保家資料目録 ── 今川氏文書から遠州報国隊まで、1,500件の記憶

見付の惣社、淡海國玉神社の神官を代々勤めてきた大久保家の資料が磐田市に寄贈され、その資料目録『磐田市見付 大久保家資料目録』が完成した。戦国時代の今川氏文書から、幕末の国学、明治の招魂祭、昭和にいたるまで、1,500件余りの資料が伝わっている。

見付の惣社、淡海國玉神社の神官を代々勤めてきた大久保家の資料が磐田市に寄贈され、その資料目録『磐田市見付 大久保家資料目録』が完成した。大久保家は、戦国時代、徳川家康の家臣として活躍した大久保忠佐を祖とする家柄である。家康が今川氏を滅ぼした後、忠佐が見付惣社の神主を任され、その後大正期に至るまで、大久保家が神主職を継承した。

本稿の要点

今川氏の時代から続く神主職

大久保家は、戦国時代、徳川家康の家臣として活躍した大久保忠佐を祖とする家柄である。家康が今川氏を滅ぼした後、忠佐が見付惣社(淡海國玉神社)の神主を任され、その後大正期に至るまで、大久保家が神主職を継承した。

大久保家に伝わる今川義元・氏真の判物(花押が記された文書)は、見付惣社の神主職・社領を安堵(承認)した書類である。忠佐が神主職に就く前には、この地が今川氏により支配されていたことがわかる貴重な資料であり、天文19年(1550年)の今川義元判物が代表例として伝わっている。宛名にある「千法師」は、大久保家の祖先の宇津氏の人物と考えられている。資料には、豊臣秀吉の朱印状も含まれ、戦国大名から天下人に至る時代の支配者たちが、見付惣社と関わりを持ち続けていたことを伝えている。

平田国学への傾倒 ── 八木美穂・草鹿砥宣隆と『三大考弁々』

大久保忠尚・春野が、幕末に倒幕運動へ参加するようになった背景には、国学の影響があった。特に、三河の平田派国学者らと交流があり、大久保家に伝わった平田篤胤著『三大考弁々』は、彼らが書き継いだものを春野が書写したものである。国学は、江戸中期から後期にかけて発達した学問で、『古事記』など日本の古典から日本人固有の精神や文化を明らかにしようとするものであった。国学の研究にはげみ、尊王攘夷思想に影響を与えた。

大久保家が師事した国学者の系譜をたどると、平田篤胤の門人・羽田野敬雄(遠江の国学者)から草鹿砥宣隆(くさかどのぶたか)、そして八木美穂(やぎよしほ)へとつながっていたことがわかる。八木美穂は、横須賀城(現・掛川市浜野)近くの旧浜野村に住んだ国学者で、17歳の時に江戸に出て平田塾に入門、27歳で八木の家督を継いだ。師の八木美穂に伝わる『古言別音鈔』は、弟子の草鹿砥宣隆がまとめた冊子に、美穂が序文として「仮字袋(かなぶくろ)」を書いたもので、この草稿本を大久保忠尚が筆写したことが記されており、「藤居」の印がある。忠尚には、師の美穂を訪問し、その校合(こうごう)に立ち会うとともに、美穂の著した『長歌私編私聞書』を書き記した記録も残る。忠尚が13歳で入門した浜野(掛川市)の八木美穂塾でも国学を学んでおり、家塾には「藤居(とうきょ)」という印が押された蔵書が揃っている。

この平田国学とのつながりは、大久保忠尚が元治元年(1864年)に見付に磐田文庫を創設した経緯とも重なる(磐田文庫については別稿「磐田文庫と幕末・明治の地域知性」に詳しい)。忠尚は、見付の神官という立場にとどまらず、幕末の国学者ネットワークのなかで学問と行動をともにする人物であった。

招魂祭祭主の辞令 ── 遠州報国隊と戊辰戦争

報国隊(戊辰戦争の際に、浜松・磐田の神官や国学者を中心に結成され、討幕軍に従軍した遠州報国隊)が東征軍(明治新政府の討幕軍)に従って江戸に下った慶応4年(1868年)、戊辰戦争で亡くなった官軍の兵士たちを慰霊する招魂祭が、6月に江戸城で行われ、祭主を大久保春野が務めた。翌年には招魂社が建てられ、大久保忠尚が祭事主宰に命じられ、奉納相撲などが行われた。この動きが、現在の靖国神社へと繋がっていく。

見付の一神官の家が、幕末の国学の潮流から、戊辰戦争の慰霊祭祀にまで関わっていたことは、地方の神社が中央の政治・宗教的な出来事と無縁ではなかったことを物語っている。遠州報国隊の結成経緯や、大久保春野が維新後に陸軍大将にまで昇った歩みについては、「遠州報国隊」で詳しく扱っている。

福田半香の絵画

見付出身の画家・福田半香の母・多美子は、大久保家の出身であった。このため、大久保家には半香の作品が残されており、中でも「秋景山水図」は、半香が亡くなるひと月前、元治元年(1864年)に描かれた最晩年の作品である。文書だけでなく、こうした絵画が伝わっていることも、大久保家資料の厚みを示している。

1,500件が伝える、見付の重層する記憶

大久保家の資料は、戦国時代から昭和時代にわたる文書、書籍、地図・絵図、写真、書跡・絵画、印鑑など1,500件余りに上る。一つの神官の家に、これほど広範な時代・分野の資料が伝わっていることは、大久保家が単なる一地方の神社の管理者にとどまらず、今川氏、徳川氏、幕末の国学者ネットワーク、明治新政府という、それぞれの時代の中央の動きと接点を持ち続けてきたことを示している。

令和7年(2025年)11月4日から12月19日にかけては、磐田市市制20周年記念事業・磐田市歴史文書館第29回企画展「見付大久保家を彩った人々」(大久保家復姓・忠尚生誕200年記念)が開催され、これらの資料の一部が公開された。あわせて歴史学習会「磐田文庫と遠州国学」(目録調査をめぐって)も開かれ、目録調査に関わった専門家による報告がおこなわれている。

今川氏の判物から、国学者の写本、招魂祭の辞令、そして一枚の山水画まで。一つの神官の家に積み重なった1,500件の資料が、見付という町が背負ってきた時代の厚みを物語っている。

参考資料

史実として確認できる部分と、伝えられる部分を区別して記述しています。

一つの家に積み重なった1,500件の資料が語る、見付の重層する歴史。ご実家に眠る古い文書や写真も、地域の記憶を伝える大切な資料かもしれません。相続した家、空き家、使わなくなった土地について、「売る・貸す・残す」の前に一度整理して考えたい方は、富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

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