一、見付本通りという軸

見付は、古代には遠江国府が置かれ、中世には守護所も置かれたとされる、遠江の中心性を長く担った土地である。江戸時代には東海道五十三次の28番目の宿場、見付宿として整えられた。旧東海道に沿う本通りは、東西の木戸をつなぐ町の骨格だった。

江戸からの距離は60里17町45間、現在の距離感で約237.6キロメートルとされる。旅人はここで休み、川止めの時には天竜川を渡れず滞留した。宿場とは、道を通るだけの場所ではなく、人が泊まり、食べ、湯に入り、買い物をし、情報を交わす場所だった。

しかし明治以降、交通の軸は大きく変わる。東海道本線は見付本通りではなく南の中泉へ通り、駅前の重心が生まれた。さらに昭和から平成にかけて自動車交通が広がり、道路拡張と区画整理が進む。宿場町としての密度ある町並みは、少しずつ切り替えられていった。

二、本陣・旅籠・割烹旅館が消えていく

天保14年(1843年)の記録では、見付宿には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56軒があった。人口は3,953人、家数は1,029軒とされ、本通りには宿泊と商いの機能が高い密度で集まっていた。

宿場制度がなくなり、鉄道が中泉へ通ると、旅人が本通りに泊まる必要は薄れていく。本陣や問屋場は跡地へ変わり、今では標識や説明板が往時を伝えるだけになった。問屋場跡は銀行店舗へ、北本陣跡は別の用途へと変わり、建物そのものは残っていない。

脇本陣の大三河屋は、見付本通りの宿泊機能の名残を考えるうえで象徴的である。本体は失われたが、薬医門だけが解体を免れ、中泉の中津川家へ移された。その後、平成17年(2005年)に磐田市へ寄贈され、平成19年(2007年)に見付へ戻って復元された。門だけが移動を重ねて帰ってきたことは、宿場町の建物がそのまま残れなかった現実も映している。

また、見付天神の入口付近にあった老舗割烹旅館「大孫」は、寛政12年(1800年)創業とされ、見付天神裸祭や会合、食事、宿泊を支えた存在だった。宿場弁当のように、見付の歴史を味覚で伝える役割もあった。現在は営業実態を確認しにくくなっており、宿泊を含む本通り周辺の受け皿が細ってきたことが分かる。

見付本通りの宿泊機能

時代宿泊機能現在に残る形
江戸時代本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠56軒。旅人と商いが本通りに集中した。本陣跡、問屋場跡などの標識が記憶を伝える。
明治から昭和宿場制度の終わりと鉄道の迂回で、旅籠は廃業または業態転換へ向かった。跡地は銀行、宗教施設、住宅、店舗などへ変わった。
平成から令和老舗割烹旅館の機能も弱まり、宿泊の町としての姿は見えにくくなった。大三河屋門など、部分的な建築要素が文化財として残る。

三、銭湯が消え、温浴は郊外へ移った

宿場としての広い宿泊機能が失われた後も、見付本通りと周辺の小路には、日常生活を支える濃い結びつきが残っていた。その一つが銭湯である。昭和40年代まで、見付地区には5軒から6軒の銭湯があったとされる。

当時は、各家庭に内風呂が十分に普及していなかった。銭湯は身体を洗う場所であると同時に、近所の人が顔を合わせ、世間話をし、地域の出来事を知る場所でもあった。湯気の中で自然に情報が交わされる、暮らしの共同空間だった。

やがて内風呂が普及し、利用者が減り、ボイラーや設備の老朽化、燃料費、後継者問題が重なる。見付本通り周辺の昔ながらの銭湯は、現在では残っていない。理容ナカニシの現在地が、かつての大衆浴場跡地であったという事例は、銭湯跡が別の生活商業へ転じていったことを示している。

一方で、温浴そのものは消えていない。下万能の「健康ゆ空間 磐田ななつぼし」のようなスーパー銭湯、刑部島の厚生会館の入浴施設など、車で向かう広域型の温浴施設へ移っている。歩いて行く町内の湯から、駐車場を備えた郊外の湯へ。ここにも見付の生活圏の広がりが表れている。

四、食べ物屋と小売店の衰退

見付本通りには、旅人のための茶店から、地域の食卓を支える小売店まで、食に関わる店が多くあった。江戸時代には、宿場の端にうどんや饅頭を出す茶店があり、明治から昭和にかけては八百屋、魚屋、精肉店、菓子店、喫茶店、酒屋、茶葉店が商店街を形づくった。

中大橋商店の蔵、近江屋の蔵、谷口園、又一庵、八百庄、マル好果実店など、資料に現れる名前からは、見付本通りが生活の買い物の場であったことが伝わる。現在、蔵や古い建物の一部は文化展や見学の対象として価値を持っているが、日々の買い物を支える店としては姿を変えたものも多い。

「パンの木」の歩みは、見付の店舗空間がどのように代謝してきたかをよく示している。平成11年(1999年)に寺小路の喫茶店跡でパン屋として開業し、平成26年(2014年)には見付本通り沿いへ移転した。その移転先は、店主の実家が営んでいたお茶の販売店だった。喫茶店がパン屋へ、茶葉店がパン屋へ。業態が変わりながら、建物と場所は次の使い方を受け入れてきた。

しかし、すべての空間が次の店を得られたわけではない。郊外型大型店の利用が増え、買い物が車前提になると、本通りの小さな店は日常の主役から外れていく。店主の高齢化や後継者不足も重なり、個店は少しずつ閉じていった。

消えた機能と移った先

かつての機能本通りでの姿変化した先
宿泊本陣、脇本陣、旅籠、割烹旅館。駅前・幹線道路沿いの宿泊、または宿泊機能そのものの縮小。
入浴小路沿いの銭湯。近隣住民の社交の場。郊外のスーパー銭湯、公共入浴施設、家庭の内風呂。
食と買い物茶店、菓子店、八百屋、魚屋、茶葉店、喫茶店。郊外型大型店、コンビニ、買い物支援、別業態への転用。

五、買い物難民と宮本茶屋の試み

店が減ることは、景色が寂しくなるだけの話ではない。自家用車を使えない高齢者にとって、徒歩圏の八百屋や魚屋、惣菜店がなくなることは、日々の食事の調達に直結する。

見付地区の東側では、近くの商店が廃業し、日々の買い物に困る声が出てきた。そこで見付地区社会福祉協議会などによる「宮本茶屋」の取り組みが始まった。住吉町公会堂を拠点に、月1回、高齢者の買い物支援と多世代交流を行う試みである。

子どもや中学生が高齢者と一緒に買い物へ出かけたり、買い物代行をしたり、会場で野菜を販売したりする。これは、商店街や銭湯が自然に担っていた顔の見える関係を、現代の形で組み直そうとする動きである。消えた店の機能をそのまま戻すことは難しい。それでも、買い物と会話の場をつくり直すことはできる。

六、消えた店の記憶を残す意味

見付本通りから消えた店を追うと、まちの変化が一つの線でつながる。宿場町の本陣と旅籠は、鉄道と交通体系の変化で役目を失った。銭湯は内風呂の普及と設備負担の中で消えた。食べ物屋や小売店は、郊外型大型店と車社会、後継者不足の中で細った。

この変化は、単に「昔はよかった」と言えば済むものではない。家庭に風呂があること、車で大型店へ行けること、郊外の温浴施設で一日過ごせることは、それぞれ便利さをもたらした。けれども、その便利さの陰で、歩いて行ける店、偶然に会う場所、店主と客の会話、湯上がりの世間話は失われていった。

大三河屋門のように、建物の一部が移され、戻され、文化財として残る例もある。中大橋商店や近江屋の蔵のように、商いの跡が建物として読める場所もある。宮本茶屋のように、失われた買い物と交流の機能を別の形で支えようとする動きもある。

見付本通りの記憶を残すとは、消えた店の名前を並べるだけではない。そこにあった宿泊、入浴、食、買い物、会話の役割を思い出し、今のまちに何が足りないのかを考えることでもある。店がなくなった後にも、土地と道は残る。その上に、次の使い方をどう重ねていくか。見付本通りの課題は、そこにある。