失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語大石浩之の磐田論考 / 延喜式内社と磐田

磐田郷土史研究紀要

大石浩之の磐田論考 第9号(古代磐田の信仰 一)

延喜式内社と磐田 ── 千年前の台帳に載った神社たち

『延喜式神名帳』遠江国条から読む古代磐田の神々

大石浩之1

1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役

公開日
2026.07.25
資料検証
公開資料による検証済み
対象地区
磐田市(市域)

要旨

『延喜式』巻九・十の神名帳は、10世紀初頭に国家が幣帛の対象として公認した全国の神社を、国・郡ごとに書き上げた台帳である。遠江国には62座が載り、そのうち磐田域には淡海國玉・矢奈比賣・鹿苑・須波若御子といった社が数えられてきた。本稿は、これらの式内社を、式内社という制度の性格と、帳簿上の社名を現存の神社へ結びつける「比定」の問題に留意しつつ検討する。神名帳は郡名と社名しか記さないため、後継を称する論社が並び立ち、比定には諸説が生じる。本稿はいずれかの説を断定せず、確度の層を史実・通説・推定・伝承に腑分けし、「未確認」と「記載なし」を区別する立場から、古代磐田の神々の分布が国府の周辺に濃く集まる事実の意味を読み解く。式内社の分布は、在地の信仰の古層の上に律令国家の公認という層が重ねられた、二枚の地層として立ち現れる。

キーワード:延喜式神名帳/式内社/淡海國玉神社/矢奈比賣神社/総社/比定・論社/遠江国府

1. 問題設定 ── 「式内社」の語は何を保証するか

磐田の古い神社の由緒書きを繰ると、しばしば「式内社」という語に出会う。多くの読者は、この四文字を社の古さを保証する印として受け取る。実際それは誤りではない。しかし、式内社とはいったい何を保証し、何を保証しないのか、という点を突き詰めて考える機会は、案外少ない。本稿の出発点は、この一見自明に見える語を、いま一度その根拠までさかのぼって問い直すところにある。

式内社とは、平安時代に編まれた『延喜式』の神名帳に名を載せられた神社を指す。10世紀初頭に国家が公認した社である、という点は動かない。ところが、その台帳は郡名と社名しか記していない。所在地の詳細も、祭神の説明も、そこにはない。したがって、帳簿の上の一社が、現在われわれが目にするどの神社にあたるのかを見定める「比定(ひてい)」という作業が、どうしても必要になる。そしてこの比定こそ、千年という時間の厚みのなかで、いくつもの揺らぎを抱え込んできた。

そこで本稿は、確度の異なる情報を同じ平面で混同しないための枠組みを、あらかじめ設定しておく。すなわち、史料によって確認できる史実、学界で広く支持されるが一点では確定しがたい通説、根拠はあるが未確定の推定、地域で語り継がれてきた伝承──この四つの層を語の水準で書き分ける。神名帳という台帳が存在すること、そこに遠江の社が載ることは史実であるが、その一社を特定の現存社に結びつける比定は、多くの場合、通説ないし推定の層に属する。両者を混同しないことが、以下の検討の基本姿勢である。

この四層の腑分けは、単なる用語の整理ではなく、記述の作法そのものにかかわる。一般向けの解説記事であれば、式内社を古社の由緒として紹介し、その古さを読者に印象づければ用は足りる。しかし郷土史研究の水準では、その古さがどの史料に支えられ、どの現存社への比定がどの程度確からしいのかを、一つずつ点検して示さねばならない。断定を急げば、確度の低い比定を史実のように語り、あるいは価値ある社伝を根拠薄弱として切り捨てる誤りに陥りやすい。本稿が制度と比定という二つの論点に的を絞るのは、この点検の作業を、一般向け記事よりも一段深く行うためである。

本稿が対象とするのは、磐田市域に伝わる式内社、すなわち淡海國玉神社・矢奈比賣神社・鹿苑神社・須波若御子神社である。これらは一般向けの解説記事「延喜式内社と磐田」で扱った四社にあたるが、本稿はその内容を、郷土史研究者向けに、制度と比定という二つの論点に絞って再構成する。とりわけ、どの現存社をどの式内社にあてるかという比定の問題については、いずれか一説を断定するのではなく、諸説を対等に併記したうえで、本稿の立場を明示する方針をとる。

以下ではまず、式内社を生んだ延喜式神名帳という制度そのものを押さえ、続いて遠江国62座のなかに磐田郡を位置づける。そのうえで磐田域の各社を順に検討し、比定の難問を論じ、最後に、国府の周辺に神々が集中するという分布の事実が何を語るのかを読み解く。台帳の一行を古さの証言として尊重しつつ、その内実に折りたたまれた揺らぎを見落とさないこと──それが本稿の一貫した禁欲である。

2. 延喜式神名帳という制度

『延喜式(えんぎしき)』は、平安時代の延長5年(927年)に完成した、律令の施行細則をまとめた膨大な規則集である。律令という基本法を実務のレベルまで細かく定めたもので、全五十巻に及ぶ。そのうち巻九・巻十が「神名帳(じんみょうちょう)」と呼ばれる部分で、朝廷が毎年の祈年祭(としごいのまつり)に幣帛(へいはく、神への供え物)を捧げる対象として公認した全国の神社を、国・郡ごとに書き上げている。その数、およそ2,861社・3,132座に及ぶ(座は祭神の数え方である)。この帳簿に載る神社を式内社、載っていない神社を式外社(しきげしゃ)と呼ぶ1

神名帳の神社は一様ではなく、格付けがなされていた。とくに霊験あらたかとされた社は大社(たいしゃ)、それ以外は小社(しょうしゃ)に分けられ、さらに幣帛を国家が直接届ける官幣社(かんぺいしゃ)と、国司が国の予算から届ける国幣社(こくへいしゃ)の別もあった。つまり式内社とは、10世紀初頭の時点で国家が公式に把握し、税を用いてその祭りを支えていた神社を意味する。そのことは、当該の社が遅くとも千年以上前から存在していたことの、動かぬ証明にほかならない。地方の神社にとって「式内社」は、いわば国家が発行した最古の由緒書きであり、いまなお社格を語るときの最も古い基準として重んじられている。

毎年2月の祈年祭は、その年の五穀豊穣を祈る国家的な祭りであり、幣帛はそのために神々へ配られる供え物であった。式内社に列するとは、この幣帛の配分にあずかる社として国家の帳簿に登録されることを意味した。裏を返せば、神名帳は信仰の記録である以前に、国家の祭祀行政の台帳であった。どの神に、誰の負担で、どれだけの幣帛を届けるか──その配分の対象を確定するための実務文書だったのである。式内社という格の重みは、この国家財政に裏打ちされた公認という性格に由来している。逆にいえば、どれほど地域で篤く祀られていても、国家の配分対象に登録されなければ式外社であり、神名帳には名を残さない。

『延喜式』神名帳(延長5年・927年) 全国 約2,861社・3,132座 遠江国 62座 磐田郡 淡海國玉・矢奈比賣・鹿苑・須波若御子ほか
図1 延喜式神名帳の入れ子構造。全国の公認社のなかに遠江62座があり、そのなかに磐田郡の式内社が含まれる。座数の全国計は史料上の概数である。

ここで注意しておきたいのは、式内社という平安初期の枠組みが、その後さらに別の序列を重ねていく点である。平安後期から中世にかけて、国内の神社に一之宮(いちのみや)・二之宮・三之宮という格付けが生まれ、赴任した国司がまず参拝すべき順序が定められた。加えて、これらの神々を一か所で拝めるように国府の近くへまとめて祀った「総社(そうじゃ)」が設けられる。式内社という平安初期の公認、一之宮・二之宮という中世の格付け、総社という巡拝の集約──磐田の見付・二之宮の神社群には、古代から中世にかけての神社制度の三つの層が、地名と社格のかたちで折り重なって残っている。

とりわけ総社の存在は、この地の神々を考えるうえで要となる。国司が任期のあいだに国内の一之宮から末社までを一つひとつ巡拝するのは大きな労力であり、それを国府の近くに勧請してまとめて祀ったのが総社である。総社の成立は、国府の統治そのものと不可分であった。氏神が総社へまとめられるという形式は、在地の神が「国」という一段大きな秩序のなかに位置づけ直される所作でもある。磐田においてその役割を担ったのが、後述する淡海國玉神社であった。

式内社 平安初期 国家の公認 一之宮・二之宮 平安後期〜中世 巡拝の格付け 総社 巡拝の集約 国府の近く 神社制度の三層 ── 磐田の社群に折り重なる 式内社(古代の公認)の上に、中世の格付けと総社の集約が積み重なる。
図2 神社制度の三層。磐田の見付・二之宮の社群には、式内社・一之宮二之宮・総社という三つの制度の層が、地名と社格として残っている。

もっとも、制度としての神名帳には、はっきりとした限界がある。それはあくまで官社の一覧であって、祭礼の内容も、祭神の由来も、社の所在も記述する性格の史料ではない。神名帳から引き出せるのは、その社が国家に把握された「格」をもつ神であったという一点であり、それが現在のどの社にあたるのか、どのような祭りを営んでいたのかまでは語らない。式内社という語が保証するのは、あくまで古代における社の格である。この限界を踏まえておくことが、次章以下で個々の社と、それらの比定の問題を扱う前提となる。

3. 遠江国62座と磐田郡の位置

遠江国では、あわせて62座が神名帳に記載されている2。この62という数字は、遠江が古代において決して辺境ではなく、多くの神々を祀る成熟した地域社会を抱えた国であったことを物語る。東海道の一国として都と東国を結ぶ要衝に位置し、律令国家の視野のなかにしっかりと組み込まれていた。神名帳に載る座数は、その国の社会的な厚みを測るひとつの目安であり、62座という規模は、遠江が相応の人口と生産力を備えた国であったことをうかがわせる。

遠江国は、いくつもの郡から成る国であった。磐田郡はそのうちの一つであるが、国府が置かれた点で他の郡とは性格を異にする。国府とは国の役所であり、国司が政務を執り、税を集め、神々を祀る、いわば国の首府にあたる。その首府の所在する郡に格の高い社が集まるのは、後述するように、神祭りが国家の統治と結びついていたことの当然の帰結である。62座という遠江全体の数字の内側で、磐田郡がどれだけの座を占めるかを一点に確定することは難しいが、国府を擁する郡が信仰の面でも枢要であったことは、社の分布の傾向から読み取れる。

この遠江国のなかで、磐田郡は特別な位置を占める。磐田は遠江国府が置かれた地とされ、国の政治的な中心であった。神名帳に載る磐田郡の社は、その国府の周辺に集まっている。ただし、ここで慎重を期しておかねばならないのは、磐田郡内の式内社の正確な座数や、その全社の確定については、なお断定を避けるべき部分が残るという点である。素材とした一般向け記事もこの点を明記しており、本稿もその態度を踏襲する。これは「そうした社が存在しなかった」という意味ではなく、「郡ごとの内訳を一点に確定するだけの材料を、本稿の範囲では十分に握っていない」という未確認の状態を指す。史料に記載がないこと(記載なし)と、調査が及んでいないこと(未確認)とは、峻別しておかねばならない。

磐田の社を考えるとき、国名「遠江」の由来にも一言しておきたい。遠江は「遠つ淡海(とおつあわうみ)」、すなわち都から遠い淡水湖(浜名湖)に由来する国名である。これに対して都に近い淡海が近江(琵琶湖)であった。国名そのものが湖という水の記憶を負っているこの国の総社が「淡海國玉(おうみくにたま)」という名を負うのは、後述するように偶然ではない。国名と社名が同じ「淡海」を共有している事実は、この社が遠江という国そのものと結ばれた神であったことを、名の水準で示している。

なお、中世の格付けである一之宮・二之宮についても、遠江の場合は諸説がある。遠江国の一之宮は、現在の周智郡森町にある小國神社(おぐにじんじゃ)とする見方と、同じ森町の事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)とする見方があり、資料によって異なる3。二之宮については、磐田・二之宮の鹿苑神社にあてるのが一般的である。ここで重要なのは、一之宮・二之宮という序列が中世に成立した層であって、式内社という古代の層とは由来を異にする点である。二つの層はしばしば地名や社伝のなかで混ざり合うが、制度史としては切り分けて扱う必要がある。

4. 淡海國玉神社 ── 遠江総社と「国の魂」

磐田域の式内社として、まず筆頭に挙げるべきは淡海國玉神社である。見付に鎮座し、のちに遠江国の総社となった。国名「遠江」が「遠つ淡海」に由来することを思えば、「淡海國玉」という社名は、この国そのものの魂を祀る名にほかならない。淡海國玉神社の本殿と棟札は、市の文化財に指定されている4。式内社であること、そして総社であることの二つが、この社に古代・中世を通じた別格の重みを与えてきた。

総社に定められたということは、遠江国じゅうの神々の祭りを代表する社として、国司の崇敬を一身に集めたということを意味する。前章で述べたように、総社は国司の巡拝を効率化するために国府の近くへ神々を勧請してまとめた社であり、その成立自体が国府の統治と分かちがたい。淡海國玉神社が総社であったという事実は、この社が単に一村の氏神であったのではなく、国という広がりのなかで機能する公的な神であったことを物語る。淡海國玉神社と遠江の神々が集うまちという主題は、まさにこの総社の性格を軸に据えたものである。

淡海國玉神社の鎮座する見付は、遠江国府の推定地に近く、古代から中世を通じて遠江の政治・信仰の中心地であり続けた。総社がこの地に置かれたのは偶然ではなく、国司が政務を執る国府の膝下に、国内の神々を代表する社を構えることに意味があったからである。国司にとって、任国に着いてまず果たすべき務めの一つが、任地の神々を祀ることであった。国内の主要な社を一つひとつ巡拝するかわりに、総社に詣でれば国じゅうの神々に幣帛を捧げたことになる──この省力の仕組みが、総社を国府の近くへと引き寄せた。淡海國玉神社が背負う別格の重みは、こうした国府と総社の一体性から生まれている。

この総社の成立を、より大きな文脈のなかに置くには、遠江国府そのものの歴史をたどる必要がある。国府がいつ、どこに置かれ、どのように機能したのか──この問いは、本論考シリーズの第6号「遠江国府と府八幡宮」で論じたところである。総社が国府の近くに設けられる以上、総社を論じることは国府を論じることと地続きであるが、その国府の具体的な所在をめぐってはなお複数の説があり、一点に確定しているとは言い難い。総社渡御や総社の立地を国府と結びつける推論は、この国府所在という別の未確定の問いの上に立っていることを、あらかじめ明記しておく。

磐田原台地 遠江国府(推定) 淡海國玉神社〈見付・総社〉 矢奈比賣神社〈見付天神〉 鹿苑神社〈二之宮〉 須波若御子(合祀と伝わる) ※ 位置は概略。国府の推定地を中心に、式内社(比定社を含む)が近接して分布する。
図3 磐田の式内社(比定社を含む)の分布。国府の推定地の周辺に神々が集まっているのが読み取れる。国府の正確な位置には別途論点が残る。

5. 矢奈比賣・鹿苑・須波若御子 ── 三つの式内社

矢奈比賣神社。いまでは「見付天神」の名で親しまれ、悉平太郎伝説裸祭で全国に知られる社である。しかし菅原道真を祀る天神信仰は、この社に後世重ねられたものであって、本来の姿は、女神・矢奈比賣命を祀る式内の古社であった。天神信仰そのものは、道真の没後、平安中期以降に全国へ広まった比較的新しい信仰である。したがって、矢奈比賣神社を古代の式内社として論じる場合、天神としての性格は後世に重畳した層であって、式内社としての本源とは区別すべきである。この社が九世紀の国史に神階授与の記事をもつことは、天神信仰の伝来より前から、この地の有力な神として国家に把握されていたことを示している。九世紀の『続日本後紀』『日本三代実録』に見える矢奈比賣神への神階授与の記事は、いずれも国家的な編纂物にもとづく史実であり、この社の古さを社伝の水準ではなく史料の水準で裏づける。見付天神という華やかな呼称と、悉平太郎や裸祭の名高さのゆえに、その古層はしばしば覆い隠されがちであるが、式内社としての矢奈比賣神社を論じる本稿の関心は、まさにこの覆われた古層のほうにある。

鹿苑神社。二之宮に鎮座し、遠江二之宮とされる式内社である。「二之宮」という地名それ自体が、遠江国で二番目に格の高い神社を意味する古い呼び名の名残であり、中世の神社序列の生きた化石といってよい。ただし、前章で述べたとおり、二之宮という格付けは中世に成立した層であり、式内社という古代の層とは由来を異にする。鹿苑神社の場合、式内社としての古さと、二之宮としての中世的な格とが同じ社に重なっている点に注意が要る。この社が近世以降どのような変遷をたどり、なぜ中泉と一つになっていったのかは、別稿「二之宮はなぜ中泉と一つになったか」に詳しい。

須波若御子神社。四つめに挙げるのが、この須波若御子(すわわかみこ)神社である。現在は淡海國玉神社に合祀されていると伝えられる。単独の社殿を失いながらも、帳簿の上の神が総社のなかに生き続けている──これは式内社のたどった運命の、一つの典型である。ただし、いつ・どこから、どのような経緯で合祀されたのかを示す確実な史料は乏しく、社伝と地名を手がかりにした推定に頼らざるを得ない。合祀の経緯を示す一次史料は、本稿の調査範囲では確認できていない。これもまた、記載がないと断ずるのではなく、未確認とすべき事柄である5

以上の四社を一覧にまとめたものが表1である。ここで留意すべきは、この表がいずれも「比定社を含む」という留保のもとに成り立っている点である。淡海國玉・矢奈比賣・鹿苑の三社は比較的比定が安定しているが、須波若御子のように合祀で単独の社殿を失った例では、比定の確からしさは一段低い。表の各行は、確定した事実の羅列ではなく、確からしさの層が異なる情報の集合であることを、あらかじめ断っておく。

表1 磐田域の式内社(比定社を含む) ── 鎮座地・現況・確度の層
神社鎮座地現況・比定確度の層
淡海國玉神社見付遠江国総社。本殿・棟札は市指定文化財。式内社としての比定は安定。史実(社の格)/比定は通説
矢奈比賣神社見付見付天神。女神・矢奈比賣命を祀る。天神信仰は後世に重畳。史実(式内・国史)/天神性格は後世
鹿苑神社二之宮遠江二之宮とされる。中世の序列と式内の古さが重なる。史実(社の古さ)/二之宮比定は通説
須波若御子神社淡海國玉神社に合祀と伝わる。合祀の経緯を示す一次史料は未確認。伝承・推定

6. 「比定」という難問 ── 論社と諸説の併記

式内社の研究で最も厄介なのは、繰り返し述べてきたとおり、神名帳に書かれているのが「郡名と神社名」だけだという点である。所在地の詳細も、祭神の説明も、一切ない。ただ「遠江国 磐田郡 ○○神社」と、名が並んでいるだけである。そのため、帳簿上の一社が現在のどの神社にあたるのかを特定する比定の作業が必要になり、これが一筋縄ではいかない。式内社という語の確かで重々しい響きの内側には、この比定という不確かな作業が、つねに潜んでいる。

比定が困難である理由は、千年という時間の長さそのものにある。社名が変わった神社、火災や戦乱で別の場所へ移った神社、村の衰退とともに廃絶して別の社に合祀された神社が、あまりに多いからである。結果として、一つの式内社の後継を名のる神社が二つ三つと並び立つことも起こる。これらは論社(ろんじゃ)と呼ばれ、どれが本来の式内社かをめぐって、いまも議論が続いているものがある。一つの帳簿上の社名に対して複数の現存社が候補として立つ、この一対多の関係こそ、式内社研究の宿命的な難所である。

論社が生じる典型的な経緯は、いくつかに整理できる。第一に、社名の改称である。祭神の呼び名が時代とともに変わり、あるいは別の神を勧請して社名が上書きされると、もとの式内社名との対応が見えにくくなる。第二に、遷座である。火災・水害・戦乱、あるいは村の移動にともなって社地が移れば、旧地に別の社が残り、新地の社と後継を争うことになる。第三に、廃絶と合祀である。村が衰えて社を維持できなくなると、近隣の有力な社へ神を合わせ祀る。磐田の須波若御子神社は、この第三の経緯をたどった例と伝えられる。いずれの場合も、確実な移動の記録が残らなければ、比定は社伝と地名からの推定に頼らざるを得なくなる。

神名帳の一社 郡名+社名のみ 現存社A(論社) 現存社B(論社) 合祀・廃絶社 「比定」の一対多構造 帳簿の一社に、複数の現存社(論社)が後継を名のる。断定を避け、諸説を併記する。
図4 比定の一対多構造。神名帳の一社に対して複数の論社が並び立つため、いずれか一つに断定せず、諸説を対等に併記するのが本稿の作法である。

ここでもういちど、本稿が冒頭に立てた「未確認」と「記載なし」の区別を、比定の問題に即して確認しておきたい。須波若御子神社の合祀のように、いつ・どこから移されたのかを示す確実な史料が残らない事例では、われわれは社伝と地名を手がかりにした推定に頼るほかない。このとき、「そうした史料は元来作られなかった、あるいは失われて現存しない(記載なし・不存在)」のか、「史料は伝わっているが、本稿の調査がまだ突き当たっていない(未確認)」のかは、それ自体が別個に検証を要する問いである。この二つを混同して「史料がないのだから合祀は虚構だ」と断ずるのも、逆に「合祀は確実な史実だ」と言い切るのも、ともに方法上の誤りである。

したがって本稿は、磐田の式内社を論じるにあたり、比定に諸説がある場合はいずれか一説を確定説として押し出すことをせず、諸説を対等に併記したうえで、確からしさの層を明示する立場をとる。素材とした一般向け記事が四社を「比定社を含む」と断って挙げているのは、まさにこの慎重さの表明である。式内社という語の重々しさに引きずられて比定を確定事実のように語ることは、千年のあいだに生じた記憶の揺らぎを覆い隠すことにつながる。断定を避けることは、ここでは学問的な誠実さの別名である。

7. 分布が語る古代磐田 ── 国府と信仰の地図

比定の一つひとつには揺らぎが残るとしても、そのおおよそが正しいとすれば、一つの明快な構図が浮かび上がる。図3に見たとおり、磐田の式内社は、遠江国府の推定地の周辺、見付から中泉・二之宮にかけての一帯に集まっているのである。国内にまんべんなく散らばっているのではなく、国府のまわりに濃く固まっている。この偏りは、比定の細部が多少動いたとしても揺るがない、大きな傾向として読み取れる。

史実 史料で確認 通説 学界で支持 推定 根拠あり未確定 伝承 地域で語り継ぐ 確度の四段階 ── 混同しないための弁別 式内社の存在は史実、個々の比定は通説・推定、合祀伝は伝承に属する。
図5 確度の四段階。式内社の存在そのものは史実だが、帳簿の社を現存社へあてる比定は通説・推定の層に、合祀の伝えは伝承の層に属する。層をまたぐ断定を避ける。

この分布の偏りは、偶然ではない。別稿(遠江国司の人々)で見たように、国司は任国の神々を祀ることを重要な職務とし、赴任すると国内の主要な神社を巡って幣帛を捧げた。やがて、その巡拝を効率化するために、国府の近くに国内の神々をまとめて祀る総社が設けられる──それが淡海國玉神社であった。国家の帳簿に載る格の高い神社が国府のまわりに集中するのは、古代の神祭りが、国家の行政と分かちがたく結びついていたことの表れである。式内社の分布図は、そのまま国司の統治が及ぶ範囲の地図でもある。

しかも、この分布は二枚の地層の重なりとして読むことができる。一つは、この地に古くからあった在地の信仰の層である。古墳が神社になった土地で見たように、磐田原台地の縁辺には、古墳という祖先祭祀の場が、のちに神社へと転じた例が少なくない。もう一つは、その古い信仰の上に律令国家が「公認」という新しい層を重ねた、制度の地層である。式内社の分布は、古代磐田の「信仰の地図」であると同時に、「国家権力の地図」でもある。二枚の地層が同じ土地の上で重なっているところに、磐田の神社の古層の厚みがある。

この二枚の地層という見方は、磐田の神々の性格をよく言い当てる。在地の信仰は、その土地に生きた人々が、祖先や自然の力を祀ってきた古い層である。それに対して律令国家の公認は、都の制度が地方の社を国家の秩序のなかに位置づけ直した、新しい層である。式内社とは、この二つの層が出会った地点にほかならない。国家に公認されたからといって、在地の信仰が消えたわけではない。むしろ在地で篤く祀られていたからこそ、国家の帳簿にも載ったと考えるほうが自然である。台帳の一行の背後には、公認以前からその社を守ってきた人々の長い歳月が横たわっている。

この見取り図は、郷土史の記述にとっても一定の含意をもつ。地域の神社を語るとき、私たちはしばしば「式内社」という古さの称号に引き寄せられ、その一語で社の由緒を語り尽くした気になりやすい。しかし本稿が見てきたように、その称号の内側には、制度の三層と、比定の揺らぎと、在地信仰と国家公認という二枚の地層とが、幾重にも折りたたまれている。台帳の四文字を古さの証言として尊重しつつ、その内実に折りたたまれた複数の層を一つずつ開いていくこと──それが、磐田の神々を後世の調べものに耐える形で書き留める方途である。

8. 結論 ── 台帳の神々をどう記述するか

本稿は、『延喜式神名帳』遠江国条に載る磐田域の式内社を、式内社という制度の性格と、帳簿上の社名を現存社へ結びつける比定の問題に留意して検討してきた。得られた見取り図は次のとおりである。神名帳の存在とその成立年、遠江国62座の記載、そして淡海國玉・矢奈比賣・鹿苑・須波若御子といった社が式内社(またはその比定社)として伝えられていることは、各種の神社史資料によって確認できる史実の層に属する。だが、帳簿の一社を現在のどの社にあてるかという比定は、多くの場合通説ないし推定の層にとどまり、須波若御子神社の合祀のように、その根拠が社伝と地名にしか求められない伝承の事例もある。

ここから導かれる本稿の立場は明確である。比定に諸説がある場合は、いずれか一説を確定説として押し出すことをせず、論社の諸説を対等に併記したうえで、それぞれが属する確からしさの層を明示する。「未確認」と「記載なし」を区別し、史料に突き当たっていないことを、史料が存在しないことと取り違えない。合祀の伝えのような伝承を、史実の劣位に置いて切り捨てることもしない。式内社という語の重々しさに引きずられて比定を確定事実のように語ることは、千年のあいだに生じた記憶の揺らぎを覆い隠すことにほかならないからである。

この態度は、一見すると煮え切らない留保の連続に映るかもしれない。だが、確度の層を区別して書き分けることは、記述の精度を上げるための積極的な作法であって、判断の放棄ではない。史実は史実として確言し、推定は推定として根拠を示し、伝承は伝承として尊重する。そうして各情報をそれが立つべき層に置き直すことで、読者は自分の足でこの神々の歴史をたどり直すことができる。式内社をめぐる断定の誘惑を退けることは、地域の神々を後世へ手渡すうえで、遠回りに見えて最も確かな道である。

最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、磐田郡内の式内社の正確な座数と全社の確定は、なお未確認の部分を残しており、地方の史料や神社明細帳の博捜によって一歩前進させる余地がある。第二に、須波若御子神社の合祀の時期と経緯は、社伝と地名に頼る推定の段階にとどまっており、確実な史料の発見が俟たれる。第三に、遠江の一之宮を小國神社とするか事任八幡宮とするかという比定は、二之宮・総社の位置づけと併せて、なお検討を要する。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。台帳の一行を古さの証言として受けとめつつ、その内実の揺らぎを併記し続けること──その禁欲的な手続きの先にこそ、古代磐田の神々の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。より広い一般の読者に向けては、解説記事「延喜式内社と磐田」を併せて参照されたい。

927延喜式成る 平安後期一之宮・二之宮 中世総社の集約 現在いまの杜 台帳から、いまの杜へ ── 千年の連続 神名帳の一行が、制度の層を重ねながら、いまも生きた神社として立ち続けている。
図6 台帳から現在の杜へ。927年の神名帳の記載が、制度の層を重ねつつ、現在の神社へと千年の連続を保っている。年代は制度史上の目安である。
本稿の舞台である見付や中泉・二之宮には、古い社とともに、長く受け継がれてきた家や土地が数多く残る。筆者は磐田・袋井で不動産と介護の実務に携わる立場から、こうした土地の記憶にも向き合ってきた。家・土地・空き家の整理について相談することができる。歴史を書き留めることと、その舞台となった土地を次の世代へ手渡すことは、地続きの営みだと考えている。

  1. 『延喜式』は延長5年(927年)完成、全五十巻。巻九・十が神名帳にあたる。全国の座数「約2,861社・3,132座」は概数であり、数え方や底本により異同がある。
  2. 遠江国の式内社は62座とされる。ただし郡ごとの内訳、とりわけ磐田郡内の正確な座数・全社の確定については、本稿では断定を避け、未確認とする。
  3. 遠江一之宮を小國神社とするか事任八幡宮とするかは資料により異なる。二之宮は磐田・二之宮の鹿苑神社にあてるのが一般的である。いずれも中世に成立した格付けであり、式内社という古代の層とは由来を異にする。
  4. 淡海國玉神社の本殿・棟札は磐田市指定文化財である。指定名称・指定年の詳細は市の文化財関係資料を参照。
  5. 須波若御子神社は現在、淡海國玉神社に合祀されていると伝えられる。合祀の時期・経緯を示す一次史料は本稿の調査範囲では未確認であり、社伝・地名にもとづく推定にとどまる。「記載なし(不存在)」と「未確認」は区別する。

付記:本稿は一般読者向け記事 c109「延喜式内社と磐田」の内容を、郷土史研究者向けに、制度と比定という二論点に絞って再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、神名帳の存在・遠江62座・各社の式内社としての位置づけを史実の層、個々の比定を通説・推定の層、須波若御子の合祀伝を伝承の層として扱った。

参考文献・参考資料

  • 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条。延長5年(927年)完成。
  • 『続日本後紀』承和7年(840年)条(矢奈比賣神への神階授与関連記事)。
  • 『日本三代実録』貞観2年(860年)条(関連記事)。
  • 磐田市『磐田市史』通史編(磐田市、古代の章)。
  • 静岡県神社庁『静岡県神社誌』(該当項)。
  • 淡海國玉神社(遠江総社)由緒書。
  • 矢奈比賣神社(見付天神)由緒書。
  • 佐口行正氏所蔵史料。
  • 「延喜式神名帳」ウィキペディア日本語版 https://ja.wikipedia.org/wiki/延喜式神名帳 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 「淡海國玉神社」ウィキペディア日本語版 https://ja.wikipedia.org/wiki/淡海国玉神社 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 玄松子の記憶「延喜式神名帳 東海道 遠江國」 http://www.genbu.net/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 磐田物語 c109「延喜式内社と磐田 ── 千年前の台帳に載った神社たち」 https://iwata-monogatari.net/c109 (最終閲覧:2026年7月25日)。
  • 大石浩之の磐田論考 第6号「遠江国府と府八幡宮 ── 『国府』を名のる土地の千三百年」 https://iwata-monogatari.net/oishi-ronko/006/ (最終閲覧:2026年7月25日)。