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磐田物語 / 古墳が神社になった土地
磐田共通 | 古墳・信仰

古墳が神社になった土地 ──
磐田の信仰空間の継承と地名の記憶

磐田には、古墳のすぐ上や隣に神社が建っている場所が、いくつもある。偶然ではない。古墳という「死者の空間」が、時代を経て神社・寺院という「生者の信仰空間」へと受け継がれ、さらに「地名」となって今に残る――磐田原台地には、そういう信仰の重なりが刻まれている。

なぜ古墳の上に、神社が建つのか

磐田原台地の縁には、寺谷銚子塚古墳兜塚古墳御厨古墳群など、古墳時代の王たちの巨大な墓が点在している。興味深いのは、これらの古墳の上や隣に、後の時代の神社や寺院が建てられている例が少なくないことである。巨大な人工の丘は、後世の人々にとって、神霊が降臨する「神奈備(かんなび)」や「磐座(いわくら)」に似た、神聖な高まりに見えた。古い聖地の上に新しい権威を「上書き」することで、新たな宗教は、人々が土地に対して抱く畏敬の念を、そっくり引き継ぐことができたのである。御厨・見付・豊岡の三つの地区は、この「信仰空間の継承」を、それぞれ違った形で見せてくれる。

御厨 ── 王の墓域が、伊勢の杜になった

御厨地区では、磐田物語の別稿(御厨古墳群)で扱った松林山古墳などの大古墳群の真只中に、鎌田神明宮が鎮座している。社伝によれば創建は白鳳2年(651年)、伊勢から豊受大神が白羽の箭(矢)となって降り立ち、3日後に農具の「鎌」とともに飛来した――その神託にちなんで、この地は「鎌田」と呼ばれるようになったと伝わる。矢は神霊の降臨と王権の武力を、鎌は稲作の豊穣を象徴する。磐田物語の別稿(鎌田御厨)で扱ったとおり、平安時代にはこの地が伊勢神宮の神領地「鎌田御厨」となり、鎌田神明宮はその惣鎮守として、太田川右岸の広い範囲の信仰を束ねた。古代の王を葬った墓域が、そのまま伊勢信仰の杜として受け継がれた――これが御厨の継承の形である。

見付 ── 葬送の氏族が、学問の神になった

見付地区には、もっとも劇的な継承の物語がある。兜塚古墳や、その近くの土器塚(かわらけづか)古墳など、5世紀の中期古墳が密集するこの一帯の被葬者は、遠江国造(くにのみやつこ)であった「土師氏(はじし)」の一族だった可能性が指摘されている。土師氏は、大和王権において天皇や皇族の葬儀・陵墓の造営・埴輪の製作を世襲した、葬送と祭祀の専門氏族である。「土器塚」という地名も、土師氏が祭祀に用いた土器(かわらけ)や埴輪の製作に由来する可能性が高い。

ここに、驚くべき因縁がある。土師氏は8世紀末、喪葬の職能から離れるために天皇に願い出て、大枝(大江)氏・秋篠氏・菅原氏などへと改姓した。学問の神・菅原道真は、この菅原氏の出――つまり土師氏の末裔である。そして正暦4年(993年)、見付の矢奈比賣(やなひめ)神社に菅原道真が勧請され、「見付のお天神様」として祀られることになった。5世紀に兜塚古墳や土器塚古墳を築いた土師氏の土地に、数世紀の時を経て、その末裔である道真が「天神」として帰ってきた。葬送を司った氏族が、めぐりめぐって学問の神になり、かつての自らの墓域の近くに祀られる――この見事な円環は、見付という土地の記憶の深さを物語っている。

確認できること・できないこと
菅原氏が土師氏から改姓した一族であること、正暦4年(993年)に矢奈比賣神社へ菅原道真(菅原大神)が勧請されたことは、複数の資料で確認できる。一方、見付の中期古墳群の被葬者が「遠江国造・土師氏」であるという点は、考古学上の有力な仮説であって、被葬者を特定する確定した史実ではない。本記事では、この因縁を「興味深い符合」として記し、断定は避けている。

見付天神をめぐる、信仰の重なり

矢奈比賣神社は、菅原道真を迎える前から、延喜式にも載る古社であった。主祭神の矢奈比賣命は、安産・子育て・良縁の神として信仰されてきた。ここに天神(菅原道真)信仰が重なり、さらに霊犬「悉平太郎(しっぺいたろう)」の怪物退治伝説が加わる。人身御供を求めた怪物(狒々)を、信濃から呼ばれた霊犬・悉平太郎が退治したというこの伝説は、厄除け・魔除けの信仰として今も生きており、磐田市のイメージキャラクター「しっぺい」の由来にもなっている。加えて見付には、国司が国内の神々をまとめて祀った遠江国の総社・淡海國玉(おうみくにたま)神社もある。女神信仰・天神信仰・霊犬説話・総社信仰が、見付という一つの土地に幾重にも折り重なっているのである。

豊岡 ── 古墳が、神社になり、城になった

豊岡地区の社山(やしろやま)は、この「継承」をもっとも端的に示す場所である。磐田物語の別稿(社山と古代・中世の山岳信仰・砦の記憶)で扱ったとおり、この丘には社山古墳群や新豊院山古墳群があり、古墳時代前期の首長の墓が築かれていた。やがて山頂には八幡神社が鎮座し、山そのものが「社(やしろ)」すなわち神聖な領域とされ、「社山」という地名が生まれた。さらに戦国時代には、この神聖な丘が「社山城」として城塞化され、武田・徳川の争奪戦の舞台となった。古墳(王の墓)→神社(神の山)→城塞(軍事拠点)。同じ丘が、時代ごとに最高の権威を象徴する場所として使われ続けた。社山という地名は、その三段の変転を封じ込めている。

地名は、土地の履歴書である

ここまで見てきたように、磐田の地名の多くは、その土地がかつて担っていた機能を保存する「アーカイブ」として機能している。「御厨」は伊勢神宮へ神饌を納めた神領地であったこと、「鎌田」は矢と鎌の農耕神話を、「土器塚」は葬送氏族・土師氏の祭祀を、「社山」は古墳が神聖視されたことを、それぞれ地名の形で今に伝えている。ふだん何気なく口にしている地名の一つひとつが、実は千年以上前の土地の履歴書なのである。

御厨御厨古墳群 → 鎌田神明宮(伊勢神領の惣鎮守)。地名「御厨」「鎌田」に神領・農耕神話が残る
見付兜塚・土器塚古墳(土師氏?) → 見付天神(土師氏の末裔・菅原道真)・淡海國玉神社(総社)。地名「土器塚」に葬送氏族の記憶
豊岡社山古墳群 → 八幡神社 → 社山城。地名「社山」に古墳→神社→城の三段変転

主な参考資料

本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものである。古墳の被葬者を土師氏とする点など、考古学的な仮説にとどまる事項は、確定した史実と区別して記している。なお冒頭の資料で銚子塚古墳に付されていた「T062」は、記事制作のための整理テーマ番号であり、古墳の名称や史実ではない。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。