磐田郷土史研究紀要
大石浩之の磐田論考 第6号(中泉・国府研究 一)
遠江国府と府八幡宮 ──「国府」を名のる土地の千三百年
国府の所在をめぐる論点と府八幡宮・総社の位置
1 富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役
要旨
遠江国府が現在の磐田市域に置かれたことは、地名・神社名・遠江国分寺跡などの状況から研究上ほぼ確実とされる。しかし、その中核である国庁そのものの位置は、いまなお確定していない。本稿は、中泉地区に残る地名「国府台(こうのだい)」と、「府」を名にもつ府八幡宮を手がかりに、遠江国府の所在をめぐる諸説──遠江国分寺跡北側説、磐田駅南の御殿・二之宮遺跡説、国府台周辺説──を、史実・通説・推定・伝承の四つの確度層に腑分けして比較する。あわせて、国内の神々をまとめてまつる総社の制度と、見付の淡海國玉神社が遠江総社とされる位置づけを検討し、国府をめぐる中枢圏が見付・中泉の両地区にまたがる広がりをもった可能性を論じる。所在論は遺構の発掘によってのみ前進するのであり、本稿は結論を急がず、地名・社名という史料が古代の記憶をどこまで運びうるかを、その限界とともに記述する立場をとる。
キーワード:遠江国府/府八幡宮/国府台/総社/淡海國玉神社/遠江国分寺/中泉
1. 問題設定 ── なぜ「国府」の所在は一点に定まらないのか
磐田駅の北西、中泉地区の一画に「国府台」という地名がある。読みは「こうのだい」で、現在の磐田市役所もこの一帯に立地する。そのすぐ近くには「府八幡宮(ふはちまんぐう)」が鎮座し、地元では「国府八幡(こくふはちまん)」とも呼ばれてきた。地名の「国府台」も、神社名の「府」も、いずれも古代の「国府」、すなわち遠江国を治めた役所に由来する名である。土地の名と社の名が、そろって千年をこえて「府」の記憶を運んできたことになる。
遠江国府が現在の磐田市域に置かれたこと自体は、地名・神社名・特別史跡である遠江国分寺跡の存在などから、研究上ほぼ確実とみてよい。ところが、その中核となる国庁がどこにあったのかを問うと、答えは一点に収束しない。国分寺跡のように礎石や区画が残り、位置の定まった遺跡とは異なり、国庁そのものの所在地はいまなお確定しておらず、複数の説が並び立っている。本稿の出発点は、この不確定そのものを研究対象とみなす点にある。どの説が唯一の正解かを裁定するのではなく、各説がどのような資料に支えられ、どの程度の確からしさをもつのかを腑分けすることを課題とする。
この姿勢をとる理由は、所在の確定それ自体を目的としないからである。地域史の記述において大切なのは、正解を一つ選び出すことよりも、いま示されている複数の見方が、どのような資料的根拠のうえに立ち、どこまで信頼できるのかを、読者が自分で判断できる材料として提示することにある。断定を急げば、確度の低い推定を史実のように語り、あるいは価値ある手がかりを根拠薄弱として切り捨てる誤りに陥りやすい。国府所在論はまさに、この誘惑の強い主題である。地名という魅力的な手がかりがあるだけに、それを決め手と取り違える危険もまた大きい。
そこで本稿では、あらかじめ四つの確度層を定義し、以下の検討を通じてこれを一貫して用いる。第一に史実、すなわち編纂物・文書・確定した遺構など史料によって確認できる事柄。第二に通説、学界で広く支持されているが一点で確定はできない事柄。第三に推定、根拠はあるが未確定の事柄。第四に伝承、地域で語り継がれてきた事柄である。この四層を語の水準で書き分け、層をまたいだ断定を避ける。あわせて「未確認」と「記載なし」も区別する。ある事柄について一次史料に突き当たっていない状態(未確認)と、そのような史料が存在しないと断定できる状態(記載なし)とは、まったく別のことだからである。以下ではまず制度と地名を押さえ、続いて所在の諸説を検討し、府八幡宮・総社の位置づけを経て、千三百年の連続と結論に至る。なお本稿は、一般読者向け解説記事である国府台と府八幡宮の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。
2. 制度と地名 ── 国府・国庁・国分寺と「国府台」
所在の諸説に入る前に、そもそも「国府」とは何かという制度を押さえておく。国府とは、律令制のもとで国ごとに置かれた地方行政の中心地であり、中央から派遣された国司が政務をとった場である。狭義には国司の役所そのもの、すなわち国庁を指し、広義には国庁を中核として、国司の館、税を納める正倉、文書を扱う役所、市、さらに国分寺・国分尼寺・総社といった施設が一帯にまとまった、古代の地方都市の全体を指す1。したがって「国府はどこか」という問いには、この都市全体を指す場合と、その中核の国庁を指す場合とがあり、両者を区別しないと議論が混乱する。本稿で所在が未確定とするのは、主として後者の国庁である。
遠江の国府が磐田にあったことは、なぜ確実といえるのか。最も有力な傍証は、遠江国分寺跡の存在である。聖武天皇が741年(天平13年)の詔によって全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じたことはよく知られるが、国分寺は一般に国府の近くに置かれた。遠江国分寺跡は磐田市内にあり、特別史跡として位置が確定している。国分寺の位置が定まっているということは、その近傍に国府があったことの強い手がかりとなる2。遠江国分寺の沿革については遠江国分寺のページに詳しい。国分寺跡という確かな定点があるからこそ、そこからの距離と方位を頼りに国庁の位置を推し量る、という所在論の基本的な手続きが成り立つ。
国庁の同定がなぜ難しいのかも、あらかじめ述べておきたい。国庁は、正殿・脇殿などからなる方形の区画をもつことが多いとされるが、こうした官衙的な建物配置は、国司の館や郡家といった他の官的施設にも共通しうる。したがって、発掘によって大規模な建物跡が現れても、その配置だけから「これが国庁である」と断ずるには慎重を要する。国分寺のように瓦や礎石、寺域の区画といった性格の明瞭な遺構と異なり、行政施設の遺構は、その機能の同定そのものが一つの研究課題となる。国庁の所在が長く未確定であり続けてきた背景には、この同定の難しさがある。所在論を読む際には、位置の候補が挙がっていることと、その候補が国庁と同定されていることとを、分けて受け取らねばならない。
この点は、確度の層をわきまえるうえで重要である。すなわち、遠江国府が磐田市域にあったこと、遠江国分寺跡が特別史跡として確定していることは史実として扱ってよい。一方、国庁そのものの位置は、いずれの説をとっても推定の段階にとどまる。この二つを混同し、「磐田に国府があったことは確実だから、国庁の位置も定まっている」と論を飛躍させてはならない。国府都市が磐田にあったという確実さと、その中核の一点がどこかという未確定とは、別の層に属する事柄である。
次に地名「国府台」を検討する。国府台は中泉地区にある地名で、旭ケ丘・泉町・久保町・坂上町・桜ケ丘・中央町・西新町・本町といった町名を含む市街地であり、市役所もこの範囲に立地する。読みが「こうのだい」であることは、千葉県市川市の国府台をはじめ全国にある同系の地名と語源を同じくすることを示し、「国府の(あった)台地」の意と解される。地名が「国府」を千年こえて名のり続けてきたこと自体が、この一帯が古代の中枢と何らかの関わりをもったことを強くうかがわせる。地名は土地の記憶を最も長く保つ器であり、文字資料の乏しい古代地方史においては、遺構と並ぶもう一つの史料群として重視される。
ただし、ここに一つの落とし穴がある。地名「国府台」が現在指す範囲と、古代の国庁が実際に置かれた場所とが、必ずしも一致するとは限らないことである。地名は時代とともに範囲が動き、指し示す区域がずれていく。「国府台」の名は古代の中枢の近傍を示す貴重な手がかりではあるが、それだけで国庁の正確な位置が定まるわけではない。地名を所在推定の一材料として重んじつつ、それを決め手と取り違えない──この節度こそ、所在論を読むうえで最初に据えるべき前提である。以下では、この前提のうえに立って諸説を検討する。
3. 遠江国府はどこにあったか ── 所在の諸説
遠江国府、とくに国庁の位置については、いくつかの説が並び立ち、決着していない。ここでは代表的な三つの見方を、それぞれが依拠する資料の性格とともに整理する。あらかじめ断っておけば、これらは互いを完全に排除し合う関係にあるとは限らず、依拠する資料の層も一様ではない。したがって、どれか一つを選んで残りを捨てるのではなく、各説がどこまでを語りうるのかを見極めることが眼目となる。
各説の検討に入る前に、以下で用いる評価の物差しを示しておく。本稿は各説を、依拠する資料の種類(一般則・遺構・地名や社名)と、その資料が国庁の一点をどこまで絞り込めるかという二つの軸で評価する。制度史上の一般則は、蓋然性の高い方向を示すが一点は指さない。地下の遺構は、現地の実態に迫るが機能の同定を要する。地名・社名は、記憶の器として近傍を示すが範囲が動く。いずれの手がかりにも固有の強みと限界があり、それを取り違えないことが、所在論を健全に読むための条件となる。以下、この物差しを各説に一貫してあてる。
遠江国分寺跡北側説
説の骨子。国分寺は一般に国府の近くに置かれたという通例を前提に、位置の確定している遠江国分寺跡を定点とし、その北側から磐田北小学校付近の一帯に国庁を想定する見方である。古代の国府と国分寺が近接して営まれた例は各地に見られ、この推定は制度史上の一般則に支えられている。
この説の説明力。確定した遺跡を起点に方位と距離から中枢を推し量るという、所在論の最も手堅い手続きに立脚している点に強みがある。定点そのものが揺るがないため、議論の土台が安定する。古くから有力視されてきた見方の一つであり、遠江国府をめぐる遠江国府の議論でもしばしば言及される。
資料的裏づけと限界。国分寺と国府が近接するという一般則は強い傍証だが、両者の具体的な距離や方位は国によって一様でない。北側という比定も、国庁の遺構そのものが確認されて初めて確定するのであって、現時点では推定の域にとどまる。定点からの類推である以上、その定点が動かないことと、類推された一点が正しいこととは、なお別の事柄である。
御殿・二之宮遺跡説
説の骨子。磐田駅の南側、御殿・二之宮遺跡の一帯に、大規模な建物跡や官衙的な遺構が確認されており、これを国府に関わる施設の候補とみる見方である。地名や一般則からの推定にとどまらず、実際の発掘成果を根拠とする点で、近年とくに注目されている3。御殿・二之宮遺跡の詳細は御殿・二之宮遺跡のページに譲る。
この説の説明力。地下から現れた遺構という物証にもとづく点で、他の説にない具体性をもつ。官衙的な建物配置が確認されれば、それは机上の推定を一歩こえて、現地の実態に迫る手がかりとなる。発掘は今後も継続が見込まれ、成果の蓄積によって議論が前進しうる余地が大きい。
資料的裏づけと限界。ただし、官衙的な遺構が見つかったとしても、それが国庁そのものか、付属する役所か、あるいは別の施設かを断定するには、なお慎重な検証を要する。大規模な建物跡は国府以外の官的施設でもありうるため、遺構の性格の同定が課題として残る。したがって現段階では、有力な候補地として推定の層に置くのが穏当である。
国府台周辺説
説の骨子。「国府」を残す地名「国府台」と、「府」を冠する府八幡宮の存在を根拠に、この周辺に国府があったとみる見方である。文字資料の乏しい古代地方史において、地名・社名は土地の記憶を長く伝える貴重な手がかりであり、二つの名がそろって残ることの意味は軽くない。
この説の説明力。地名と社名という、遺構とは別経路で伝わった証言に立脚する点に特色がある。地名は人の口を通じて、神社は祭祀を通じて、それぞれ「府」の記憶を運んできた。この二つが同じ一帯に重なることは偶然とみなしにくく、古代の中枢がこの近辺にあったことを示唆する。
資料的裏づけと限界。ただし前節でみたとおり、地名の指す範囲は時代とともに動き、社地も移されたり後世に再建されたりしうる。地名・社名は中枢圏の近傍を示す傍証ではあるが、それ単独で国庁の一点を確定する決め手にはなりにくい。この説は、他説を補強する材料として重んじるべきものであって、単独で所在を決するには弱い。
4. 諸説の比較と史料批判
三説は、しばしば「どれが本当か」という択一の問いのもとに並べられる。しかし各説は、依拠する資料の性格が異なる。国分寺北側説は制度史上の一般則に、御殿・二之宮遺跡説は発掘された遺構に、国府台周辺説は地名・社名にそれぞれ基盤を置く。資料の層が異なる説を同一平面で優劣化するのは方法として適切でない。以下の比較表は、各説を性格・想定位置・根拠・留意点において対等の粒度で並べ、確度の水準を可視化することを目的とする。特定の説を優位に置く書式を避け、各行の情報量をそろえることで、読者が自ら判断できる状態をつくることを心がけた。
| 説 | 確度の層 | 想定位置 | 依拠する根拠 | 留意点(史料批判) |
|---|---|---|---|---|
| 国分寺北側説 | 通説的推定 | 遠江国分寺跡の北側〜磐田北小学校付近 | 国分寺は国府の近くに置かれたという制度史上の一般則。確定した国分寺跡を定点とする。 | 定点は動かないが、距離・方位は国により一様でない。国庁遺構の確認をまつ。 |
| 御殿・二之宮遺跡説 | 発掘にもとづく推定 | 磐田駅南、御殿・二之宮遺跡の一帯 | 大規模建物跡・官衙的遺構という物証。近年の発掘成果。 | 遺構が国庁そのものか付属官衙か別施設かの同定が課題。検討途上。 |
| 国府台周辺説 | 地名・社名による傍証 | 地名「国府台」および府八幡宮の周辺 | 「国府」を残す地名と「府」を冠する神社の存在。 | 地名は範囲が移ろい、社地も移動しうる。単独では決め手にならない。 |
この比較から見えてくるのは、三説が単純に競合しているというより、それぞれ異なる種類の証言に光を当てているという事実である。国分寺北側説は制度の一般則を、御殿・二之宮遺跡説は地下の物証を、国府台周辺説は地名・社名という記憶の器を、それぞれ手がかりとしている。三者はいわば、同じ問いに制度・遺構・地名という別々の入口から迫っており、互いを打ち消すより補い合う関係にある。一つの手がかりだけで所在を決めようとすると、他の証言が視野から抜け落ちてしまう。
史料批判の観点からは、いずれの説にも「国庁の位置を直接に確定する遺構・史料が、現時点では確認されていない」という同一の限界が課される。この限界は三説に等しく課されるのだから、それを理由に特定の説だけを退けることはできない。むしろ問うべきは、各説がどの資料層に立脚し、その層の資料がどこまでを語りうるのか、という点である。制度の一般則は蓋然性を、発掘の遺構は現地の実態を、地名・社名は土地の記憶を、それぞれ異なる仕方で証言する。どの説も単独では所在を確定できず、また確定できないことをもって説の価値を否定することもできない。
さらに踏み込めば、これらの説は必ずしも互いに排他的とは限らない。国府都市は時代を追って区画が移動・拡張することがあり、ある時期は国分寺の北側、別の時期は御殿・二之宮遺跡の側というように、中心が移ろった可能性も否定できない。この見方に立てば、複数の説が指す地点は、それぞれ異なる時期の中枢を捉えているのかもしれない。これは魅力的な仮説ではあるが、あくまで推定であって、各地点の年代を確定する遺構によって裏づけられて初めて成り立つ。時期差による移動という便利な説明に、確定していない諸説をまとめて押し込めてしまわないよう、ここでも節度が要る。
この整理の作業は、郷土史の記述にとって一定の含意をもつ。地域の歴史を書くとき、私たちはしばしば「本当のところはどこか」という問いに引き寄せられ、複数の説のなかから一つの正解を選び取ろうとする。しかしその態度は、確度の異なる推定を無理に一つの平面へ押し込め、選ばれなかった手がかりを切り捨てることにつながりやすい。ここで採った確度層の腑分けは、そうした性急な一元化を避け、それぞれの説を、それが属する層のなかで正当に評価するための手続きである。確定した遺跡は史実として、推し量られた位置は推定として、その位置を保ったまま書き留める。これは国府所在論に限らず、地域史一般に適用できる記述の作法であると考える。
5. 府八幡宮 ──「府」を名にもつ社
地名「国府台」と並んで、「府」を名にもつもう一つの重要な手がかりが府八幡宮である。中泉地区に鎮座するこの社は、地元で「国府八幡」とも呼ばれてきた。社名の「府」は国府を指し、遠江国府に付属して、あるいは国司の崇敬を受けてまつられたと伝えられる。各地の国府の近くには、しばしば国司や国府に縁の深い八幡社、いわゆる「府八幡」「国府八幡」が見られ、府八幡宮もこの系譜に連なるものと理解されている。社名に「府」を冠すること自体が、この神社を国府と密接に結びつくものとして位置づけてきた証左である。府八幡宮そのものの由緒は府八幡宮のページに詳しい。
社伝では、府八幡宮の創建を奈良時代に求め、遠江守として赴任した桜井王(さくらいおう)の勧請を起源とすると伝える4。ここで確度の層を明示しておかねばならない。桜井王勧請の由緒は伝承の層に属し、創建の年代を直接に裏づける一次史料は本稿の範囲では確認できていない。もっとも、桜井王という人物自体は、万葉集に遠江での歌を残した実在の人物として知られ、その歌の比定については本論考シリーズの万葉集の遠江歌と「大の浦」で別に論じた。社伝が実在の遠江守の名を伝えていることは、この由緒が単なる後世の付会ではなく、古代の遠江と国司をめぐる記憶に根ざしている可能性を示す。とはいえ、それは創建年代の確定とは別の事柄であり、由緒を史実へと繰り上げることはできない。
府八幡宮の位置を所在論の材料として用いる際には、さらに一段の慎重さが要る。神社の現在地が古代以来一貫していたかどうかは、別途検討を要する問いだからである。社地が移されたり、後世に再建されたりした例は各地にあり、現在地をそのまま古代の位置とみなすことには慎重でなければならない。したがって、府八幡宮の鎮座地を国府所在推定の定点の一つとして扱いうる可能性はあるものの、それは「現在地が古代以来動いていない」という前提が確かめられて初めて成り立つ。この前提自体が推定である以上、府八幡宮を決め手とする議論には、二重の不確定が含まれることになる。
それでもなお、府八幡宮の存在意義は小さくない。地名「国府台」と社名「府八幡宮」が、いずれも国府を指す「府」を共有してこの一帯に残っていることは、二つの独立した経路が同じ古代の中枢を指し示しているとみることができる。地名は人の口を通じて、神社は祭祀を通じて、それぞれ別の仕方で「府」の記憶を運んできた。一方の手がかりが弱くとも、二つが同じ場所に重なることで、傍証としての力は相互に補強される。府八幡宮は、単独で所在を決する定点ではないが、地名とあわせて読むことで、古代の中枢圏がこの近辺にあったことを支える証言となる。
6. 総社淡海國玉神社と国府祭の記憶
国府の周辺を理解するうえで、「総社」という制度も知っておくと見通しがよくなる。総社とは、国内の主要な神々をまとめてまつった神社である。国司は赴任にあたって国内の神社を一社ずつ巡拝することになっていたが、その巡拝にかえて総社に参拝することで済ませたとされる。総社は多くの場合、国府の近くに置かれた。その成立自体が国府の統治と不可分であり、総社の位置は国府の位置を推し量るもう一つの手がかりとなる5。
遠江国の総社については、見付の淡海國玉神社(おうみくにたまじんじゃ)がこれにあたるとされる。淡海國玉神社は見付に鎮座し、古くから遠江総社と位置づけられてきた。神社の詳細は淡海國玉神社のページに譲る。ここで一つの論点が生じる。総社(淡海國玉神社)は見付にあり、国分寺跡・府八幡宮・地名「国府台」は中泉にある。すなわち、国府に関わる施設が、見付と中泉という二つの地区に分散して残っているのである。
この分散をどう読むか。一つの解釈は、古代の国府都市が、現在の見付・中泉という二つの市街地にまたがる広がりをもっていた、というものである。総社を含む宗教施設群が両地区に分かれて残っていることは、古代にはこの一帯全体が一つの中枢圏を形づくっていた可能性を示唆する。見付と中泉が近代以降に別々のまちとして発展した経緯は、中泉の生い立ちを扱った中泉の記事などで論じられているが、その分かれ目のさらに前、古代にはひとつの圏域であったとも考えられる。ただし、これはあくまで施設の分布から導かれる推定であって、両地区を一体の国府都市とする具体的な区画が遺構によって確認されているわけではない。
ここで、総社の位置を国府所在の手がかりとして用いる際の限界も確認しておく。総社が国府の近くに置かれたという一般則は、あくまで多くの場合にあてはまる傾向であって、例外もある。総社と国庁との距離は国によって一様でなく、遠江の場合、総社とされる淡海國玉神社が見付にあることは、国府の中心が見付寄りにあったことを必ずしも意味しない。総社はしばしば国府域の一角、あるいはその外縁に営まれたからである。したがって、総社の位置は国府圏のおおよその広がりを推し量る材料にはなるが、国庁の一点をそこから逆算することはできない。ここでも、傍証がどこまでを語りうるかという層の見極めが求められる。
総社の存在は、もう一つの背景を照らし出す。氏神が総社へ渡御するという祭礼形式は、地域の神を国という一段大きな秩序のなかに位置づけ直す所作として読むことができ、そこには国府祭の記憶が投影されている可能性がある。国司が国内の神々を総社に集めてまつったという制度は、国府が単なる行政の府であるにとどまらず、国内の信仰を束ねる宗教的な中心でもあったことを示す。見付の裸祭にみられる総社渡御を、この国府祭の系譜に連なるものとみる見方もあるが、渡御形式の成立時期や、それが国府祭の直接の後継であることを証する一次史料は、本稿の範囲では確認できていない。したがってこの点も、地理と祭礼形式から導かれる推定として提示するにとどめ、史実として断じることはしない。
7. 千三百年の連続 ── 地名から現代へ
所在論は未確定だが、はっきりしていることがある。古代の「国府」を起点とする名が、長い時間をまたいで現在まで生き残っているという事実である。年表のかたちに置き直すと、その連続が見えてくる。7〜8世紀、律令制のもとで遠江国に国府が置かれた。位置は磐田市域とされるが、国庁の詳細は未確定である。奈良時代には、府八幡宮が国府に縁の社としてまつられたと伝わる。741年(天平13年)には聖武天皇の詔により遠江国分寺が国府の近くに建立された。ここまでのうち、国分寺建立は史実、府八幡宮の創建由緒は伝承と、確度の層は分かれる。
平安期以降、国府の機能はしだいに衰え、政治の中心は時代とともに移っていった。だが「国府」の語は、地名と社名のかたちで土地に残り続けた。中世から近世にかけて、見付は東海道の宿場町として、中泉は徳川直轄地すなわち天領の代官所の町として、それぞれ新たな性格を帯びて発展する。天領中泉の統治については本論考シリーズの中泉御殿と天領中泉で詳しく論じたが、こうした近世的な発展のなかにあっても、「府八幡宮」「国府台」といった古代由来の名は失われることなく受け継がれた。近現代には、地名「国府台」が市街地の住所として継承され、現在では磐田市役所がこの国府台に立地している。
この連続には、地形という背景も関わっている可能性がある。国府台は文字どおり「台(台地)」の地形上にあり、「坂上町」のように台地のへりを映した町名も含まれる。台地は低地よりも水害に強く、見晴らしがきき、周囲を治める拠点として適している。古代の役所を置く立地としても合理的だった可能性があり、国府がこの台地の一帯に営まれたとすれば、地形と古代の政治中枢、そして現代の市役所の立地が、千三百年を隔てて同じ台地の上でゆるやかに重なることになる。もっとも、これは地形からの推定であって、裏づけには遺構による検証が欠かせない。
ここで、古代の行政中枢圏と現代の行政中心が「重なる」という言い方には、慎重な留保を付しておきたい。市役所が立地する国府台は古代の国府に由来する地名であり、その意味で古代と現代の中心はゆるやかに重なっている。しかし、これは地名を介した象徴的な連続であって、市役所の場所が古代の国庁跡そのものであることを意味しない。国庁の正確な位置は未確定であり、「市役所の敷地=国庁跡」とまでは言えない。地名の連続という確かな事実と、位置の一致という未確認の事柄とを、ここでも取り違えてはならない。連続しているのは名であって、必ずしも地点ではない。
8. 結論 ── 所在論から重層の記述へ
本稿は、遠江国府の所在をめぐる国分寺北側説・御殿二之宮遺跡説・国府台周辺説の三説を、史実・通説・推定・伝承の四層に腑分けして検討した。得られた見取り図は次のとおりである。遠江国府が磐田市域に置かれたこと、遠江国分寺跡が特別史跡として確定していることは史実であるが、その中核の国庁がどこにあったかは、いずれの説をとっても推定の段階にとどまる。三説はこの同じ限界を共有し、依拠する資料の層を異にしながら、制度の一般則・地下の遺構・地名と社名という別々の証言によって、同じ問いに迫っている。
これだけの手がかりが並ぶと、「結局どこが国庁跡か」と一点へ還元したくなる。しかし所在を一元化することは、この土地が抱え込んできた複数の証言を切り捨てることにほかならない。国分寺の定点、御殿・二之宮遺跡の遺構、地名「国府台」、府八幡宮の社名、そして見付の総社淡海國玉神社──これらは、古代の中枢圏がこの一帯に営まれ、その記憶が地名・社名・遺構という別経路で現代まで運ばれてきたことを、それぞれの仕方で証している。国庁の一点が定まらないことは、この土地の記憶の弱みではない。むしろ、国府をめぐる中枢圏が見付・中泉の広い範囲にまたがり、多くの手がかりを後世に残してきたことの反映とみるべきである。
したがって本稿の立場は明確である。国府所在論は「唯一の一点を探し当てる作業」から「複数の手がかりを確度の層に分けて記述する作業」へと組み替えられるべきである。史実・通説・推定・伝承を混同せず、「未確認」と「記載なし」を区別し、地名という傍証を遺構の代わりに用いず、推定を確定説と偽らない。この禁欲的な手続きこそが、国府の記憶を後世の調べものに耐える形で残す方途であると考える。とりわけ、地名の連続という確かな事実を、位置の一致という未確認の事柄へと滑らせない節度が、この主題では決定的に重要である。
最後に、本稿が扱いえなかった課題を明記しておく。第一に、国庁の位置は、御殿・二之宮遺跡をはじめとする発掘調査の継続と、遺構の性格の同定によってのみ前進する。地名・社名の検討がなしうるのは、その発掘に方向を与える傍証の提示までである。第二に、府八幡宮の社地が古代以来一貫していたかどうかは、社伝と考古の双方から別途検証されるべきである。第三に、国府都市が見付・中泉にまたがったとする見方は、両地区を結ぶ古代の区画・道路の解明を待って、はじめて推定から通説へと押し上げられる。これらはいずれも、本稿が設定した四層の枠組みのなかで、未確認を史実へ、推定を通説へと押し上げていく作業に属する。所在を一つに決める誘惑を退け、確度の層を保ったまま資料を積み上げていくこと──その地道な手続きの先にこそ、「国府」を名のり続けてきたこの土地の全体像が、少しずつ像を結んでいくはずである。
注
- 「国府」「国庁」の語義については、コトバンク所収『日本大百科全書』『国史大辞典』ほかの「国府」「国庁」の項による。狭義の国庁(政務・儀式を行う中心施設)と、広義の国府(国庁を中核とする都市域)とを区別して用いる。↩
- 遠江国分寺跡は特別史跡に指定されている。指定内容は文化庁「国指定文化財等データベース」を参照。国分寺が一般に国府の近くに置かれたことは、律令期の官制・地方制度の通例として知られる。↩
- 御殿・二之宮遺跡における大規模建物跡・官衙的遺構については、静岡県・磐田市の埋蔵文化財発掘調査報告による。遺構が国庁そのものか付属官衙かの同定はなお検討途上にある。↩
- 府八幡宮の社伝は、奈良時代に遠江守桜井王が勧請したことを創建の起源とする。これは社伝=伝承であり、創建年代を裏づける一次史料は本稿の範囲では確認できていない。↩
- 総社の制度、および淡海國玉神社を遠江総社とする位置づけについては、コトバンク所収各辞典の「総社」の項および淡海國玉神社由緒書による。↩
付記:本稿は一般読者向け記事 n019「国府台と府八幡宮」の内容を、郷土史研究者向けに史料批判の観点から再構成した論考版である。確度の層(史実・通説・推定・伝承)を語の水準で区別し、遠江国府が磐田市域にあったこと・遠江国分寺跡が特別史跡であることを史実、国庁の所在(各説)を推定、府八幡宮の桜井王勧請由緒を伝承として扱った。
参考文献・参考資料
- 磐田市『磐田市誌』通史編(磐田市、該当章)。
- 磐田市『磐田の文化財』(磐田市教育委員会、該当項)。
- 角川書店『日本地名大辞典22 静岡県』(「国府台」「中泉」「府八幡宮」の項)。
- 平凡社『日本歴史地名大系 静岡県の地名』(同上の項)。
- 静岡県・磐田市の埋蔵文化財に関する発掘調査報告(御殿・二之宮遺跡ほか官衙関連遺構)。
- 府八幡宮 由緒書。
- 淡海國玉神社(遠江総社)由緒書。
- 『延喜式』巻九・十(神名帳)遠江国条。
- 佐口行正氏所蔵史料。
- 文化庁「国指定文化財等データベース」特別史跡・遠江国分寺跡の項 https://kunishitei.bunka.go.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- コトバンク(『日本大百科全書』『国史大辞典』ほか)「国府」「国庁」「総社」の項 https://kotobank.jp/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- ウィキペディア「遠江国」「遠江国分寺」「府八幡宮」「磐田市」(沿革・所在地論・現行町名) https://ja.wikipedia.org/ (最終閲覧:2026年7月25日)。
- 磐田物語 n019「国府台と府八幡宮 ──「国府」を名のる土地の千三百年【解説】」 https://iwata-monogatari.net/n019.html (最終閲覧:2026年7月25日)。