EDUCATION | 見付の教育史 ── 一つの学校が歩んだ150年
見付地区の学校史と地域教育
── 見付学校から磐田北小学校へ
見付の学校史を概観する
見付における近代学校の歴史は、明治6年(1873年)8月、宣光寺・省光寺を仮校舎とした見付学校の開校に始まる(前史となる寺子屋・私塾については別稿「旧見付学校以前の寺子屋教育」を参照)。明治8年(1875年)8月に恒久校舎(のちの旧見付学校)が落成し、明治16年(1883年)には3階部分が増築されて「見付の五階」と呼ばれる姿になった。
この校舎は大正11年(1922年)まで小学校として使われたが、学校という組織自体はそこで終わったわけではない。校名を変えながら、現在の磐田市立磐田北小学校まで一続きの歴史をたどることができる。
| 年 | 校名・出来事 |
|---|---|
| 明治6年(1873年)8月 | 見付学校開校(宣光寺・省光寺を仮校舎)。「第二大区第十二番中学区第一小学」とも称されたと伝わる |
| 明治8年(1875年)8月 | 恒久校舎(旧見付学校)落成 |
| 明治16年(1883年) | 3階部分を増築、五階建ての姿に |
| 明治41年(1908年)頃 | 見付尋常小学校が廃止され、見付尋常高等小学校と見付女子尋常高等小学校に分離 |
| 大正2年(1913年)頃 | 女子校舎を城之腰に新築 |
| 大正11年(1922年) | 五階校舎、小学校としての使用を終える。見付第一・第二尋常高等小学校に改称したとされる時期を経て、同年4月〜7月頃、県立見付中学校が五階校舎を仮校舎として使用(後述) |
| 大正14年(1925年) | 男女の学校が合併し見付尋常高等小学校に統一 |
| 昭和16年(1941年) | 磐田町立見付国民学校に改称 |
| 昭和23年(1948年) | 磐田市立磐田北小学校に改称、現在に至る |
男女別学の時代 ── 見付尋常高等小学校と女子校
明治41年(1908年)頃、それまでの見付尋常小学校が廃止され、見付尋常高等小学校と見付女子尋常高等小学校という、男女別の2校体制に分かれたと伝えられる。大正2年(1913年)頃には、女子校のための校舎が城之腰に新築されたとされる。これは、近代日本の教育制度が、地方の一小学校においても男女別学という国の方針を反映していたことを示す具体例である。
この男女別学の体制は、大正14年(1925年)に両校が合併し、再び一つの見付尋常高等小学校となることで解消されたと伝えられる。約15〜17年間続いた男女別学の時代は、見付の学校史の中でも比較的知られていない一章であり、女子校舎がどこにどのような規模で建てられ、統合後にどう使われたかについては、今後の調査で明らかにしていきたい部分が残る。
幻の見付中学校 ── 五階校舎を借りた3か月
見付の学校史の中でも特に興味深いのが、大正8年(1919年)の静岡県議会で設立が決定された県立見付中学校(現・静岡県立磐田南高等学校の前身)にまつわる史実である。新設校である見付中学校には、開校当初、独自の校舎がまだ整っていなかった。そこで、大正11年(1922年)4月から7月までのおよそ3か月間、小学校としての役目をちょうど終えようとしていた旧見付学校の五階校舎が、暫定的に見付中学校の授業に使われたと伝えられる。
つまり、明治の小学校建築として名高い旧見付学校の五階校舎は、その生涯の最後の数か月間、県立中学校の仮校舎という、もう一つの役割を担っていたことになる。この事実は、旧見付学校を「小学校の建物」としてだけ理解するのでは見落としてしまう側面であり、見付という土地が、小学校教育だけでなく、中等教育の受け皿としても機能した瞬間があったことを教えてくれる。
見付中学校がその後どこに正式な校舎を構え、現在の磐田南高等学校へどうつながっていったかについての詳細な沿革は、本ページでは深追いせず、旧見付学校の五階校舎が果たした「つなぎ役」としての側面に絞って紹介した。磐田南高等学校側の沿革の詳細は、同校の公式情報を参照されたい。
国民学校から磐田北小学校へ
昭和16年(1941年)の国民学校令により、見付尋常高等小学校は磐田町立見付国民学校へと改称された。この改称は、全国一律の制度変更であり、竜洋地区の学校が同時期に「竜洋町立掛塚国民学校」(別稿「竜洋の学び舎の歩み」参照)となったのと同じ流れの中にある。
戦後、昭和22年(1947年)の学校教育法公布によって六三制が発足し、義務教育は小学校6年・中学校3年の9年間となった。見付国民学校は、この学制改革を経て、昭和23年(1948年)に磐田市立磐田北小学校と改称され、現在に至っている。「見付」という地区名ではなく「磐田北」という校名が採用された経緯の詳細な議論の記録までは確認できていないが、市域の拡大・再編の中で、地区名ではなく方位名を用いる校名が選ばれた例として理解できる。
現在の学校区と地域教育
現在の磐田市立磐田北小学校は、東坂町・住吉町・宿町・清水町・天王町・地脇町・馬場町・二番町・幸町・美登里町・北見町・元宮町・緑ヶ丘・水堀・中川町・新通町・元倉町といった見付地区中心部の町内を学校区としている(磐田市公式の避難所情報等に基づく)。旧見付学校の校地に隣接する見付2352番地に校舎を構え、旧東海道沿いの町並みと重なる形で学校区が設定されている点は、見付という宿場町の空間構造が、現代の学校区にもなお影響を及ぼしていることを示している。
見付地区にはこのほか、明治8年当時からの直系ではないが、地域の中学校教育を担う見付中学校(現行制度下の中学校)も存在する。両校の学校区の詳細な比較や、戦後の学校統廃合の経緯については、本ページでは深く扱わず、今後の調査課題としたい。
用語解説
- 尋常小学校・高等小学校
- 明治から昭和戦前期の初等教育機関。尋常小学校が基礎課程、高等小学校がその上級課程にあたる。
- 国民学校(こくみんがっこう)
- 昭和16年(1941年)の国民学校令により、それまでの尋常小学校・高等小学校を改めて設けられた学校。初等科6ケ年・高等科2ケ年。
- 六三制(ろくさんせい)
- 昭和22年(1947年)の学校教育法により発足した、小学校6ケ年・中学校3ケ年を義務教育とする学校体系。
- 県立見付中学校
- 大正8年(1919年)の静岡県議会で設立が決定された旧制中学校。現在の静岡県立磐田南高等学校の前身とされる。
むすび ── 建物を離れても続く学校の記憶
旧見付学校の白い校舎は、大正11年(1922年)に小学校としての役目を終えた。しかし、そこに宿っていた学校という営みは、見付尋常高等小学校、見付国民学校を経て、現在の磐田北小学校まで、途切れることなく続いている。校舎という「器」が変わっても、地域が子どもを育てるという営みそのものは連続していた。この連続性こそが、見付の教育史の本当の主役かもしれない。
建物の保存活用がどれほど大切であっても、それだけでは学校の歴史は語り尽くせない。見付という土地に150年以上続いてきた「学校という営み」の系譜を知ることも、地域の記憶を次世代へ手渡す一つの方法である。
参考資料
- Wikipedia「旧見付学校」
- 磐田市公式ウェブサイト「旧見付学校附磐田文庫」指定文化財情報
- 磐田市立磐田北小学校公式ウェブサイト(学校区・避難所情報)
- 磐田物語「旧見付学校と、学びのまち磐田」「磐田文庫と幕末・明治の地域知性」「旧見付学校以前の寺子屋教育」
本ページは上記資料をもとに、磐田物語編集部が独自に再構成したものである。校名変遷の年月については情報源により表記に幅があり、確定できない箇所は「〜頃」「〜とされる」と明記した。見付中学校(磐田南高校前身)のその後の沿革は本ページでは深追いしていない。誤りにお気づきの場合は掲示板からお知らせいただきたい。
この地域の家・土地・空き家について
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この記事について
- 著者
- 大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
- 参考資料
- 佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
- 作成方針
- 本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。