見付に残る幻の城 | 子6・伝承の考察
伝承はなぜ生まれるのか――城之崎城と中泉御殿が一つの物語になるまで
城之崎城と中泉御殿は、時代も、場所も、仮想敵も異なる。それでも見付・中泉の記憶のなかでは、一つのドラマチックな物語として重なってきた。伝承を誤りとして切り捨てるのではなく、地域が何を覚えてきたかを示す資料として読み直す。
二つの「不可解な事実」が残した記憶
見付・中泉の人々の記憶には、戦国期から近世にかけて、二つの強い記憶が刻まれてきたと考えられる。一つは、城之崎城に土塁や堀を築きながら、工事が途中で止められ、未完のまま浜松へ本拠が移されたという「未完の城」の物理的な記憶。もう一つは、のちに中泉に堀・土塁を備えた広大な施設が築かれながら、それが決して「城」とは呼ばれず、「御殿」と呼び続けられたという「城と呼べなかった御殿」の記憶である。
城之崎城は、1569年(永禄12年)、家康が山本帯刀成氏に命じて旧塁を崩し、新たに縄張りをさせた城とされる。だが同年5月、掛川城の今川氏真を攻略して遠江の掌握を進めるなかで、武田信玄への備えを優先する必要が生じ、家康は引馬城(のちの浜松城)へ本拠を移すことを選んだ。その結果、城之崎城は本曲輪・二の曲輪・東曲輪などの縄張りを持ちながら、完成を見ないまま放棄されたと伝わる。一方の中泉御殿は、1578年(天正6年)に築かれ、1587年(天正15年)には秋鹿氏からこの地が献上されたことが、現在の地名の由来にもなっているとされる。二つの施設は、いずれも家康が関わりながら、成立の経緯も、放棄・完成の事情もまったく異なる出来事だったのである。
時系列のずれと、敵対者の違いが薄れていく。 城之崎城の放棄(1570年ごろ)と中泉御殿の造営(1580年代半ば)の間には、十数年のずれがある。仮想敵も、前者は武田信玄、後者は豊臣秀吉と異なる。しかし、江戸時代を通じて口伝として語り継がれるうちに、この時系列のずれや敵対者の違いは薄れ、「城之崎に立派な城の跡があるが、あれが完成しなかったのは、後に家康公が秀吉公に配慮して城(中泉御殿)を公に築けなかったのと同じ理由に違いない」という形で、二つの史実が一つの因果関係として結びついていったと考えられる。
中泉御殿が築かれた土地そのものにも、見過ごせない歴史の重なりがある。1978年(昭和53年)の発掘調査では、この地から奈良時代の文字が記された木簡や土器が出土しており、弥生時代から連綿と人が暮らしてきた土地であったことが確認されている。さらに、この場所が遠江国分寺の中心線を真南に延長した位置にあたることから、奈良時代の遠江国府の役所が置かれていた地ではないかとも考えられている。中泉御殿は、単に家康が新たに選んだ土地に築かれたのではなく、古代から遠江の政治的な中心であり続けた場所の上に重ねて築かれた施設だった可能性がある。城之崎城が選ばれた見付もまた、かつて遠江国府が置かれた地であったことを踏まえれば、家康が見付・中泉という一帯を選んだ背景には、古代以来この地域が持ち続けてきた政治的な求心力があったと考えることもできるだろう。
二つの史実が一つの伝承になる流れ
- 城之崎城が、対武田戦を想定した地政学上の弱点や水不足から、未完のまま放棄される。
- 十数年後、中泉に堀・土塁を備えた施設が築かれるが、秀吉への配慮から「城」ではなく「御殿」と呼ばれる。
- どちらの出来事にも、同じ徳川家康が関わっている。
- 江戸時代を通じて、見付・中泉で二つの出来事が口伝として語り継がれる。
- 時代や敵対者の違いが薄れ、「秀吉に配慮して城を築けなかった」という一つの伝承にまとまる。
伝承は、地域が何を覚えてきたかを示す資料である。 本稿で整理してきたように、史実として見れば、城之崎城の廃城と中泉御殿の性格は、別々の時代・別々の相手を想定した出来事である。しかし、それを「誤り」として切り捨ててしまうのは惜しい。見付と中泉は、家康の戦略のなかでそれぞれ異なる意味を持ちながら、磐田の記憶のなかではひとつにつながっている。史実を整理することと、地域が語り継いできた記憶を尊重することは、両立できるはずである。
そもそも伝承というものは、史実を正確に記録するための装置ではない。年月日や固有名詞よりも、その出来事が地域にとってどれほど重要だったか、どれほど強い印象を残したかという、感情の重みを伝えるための装置である。城之崎城の未完という物理的な痕跡と、中泉御殿が「城」と呼ばれなかったという名称上の不可解さは、どちらも見付・中泉の人々にとって、説明を求めずにはいられない「引っかかり」であった。二つの出来事が一つの物語にまとめられていった背景には、同じ徳川家康という人物が関わっているという共通点だけでなく、両者とも合理的な説明を欲する地域の側の心理があったと考えられる。伝承の成立過程を追うことは、単なる史実の誤りを正す作業ではなく、地域がどのような出来事を重要だと感じ、どのように記憶を整理しようとしてきたかを読み解く作業でもある。城之崎城の記憶に関する情報をお持ちの方は、磐田物語の掲示板からお寄せいただきたい。
参考資料
- アップロード資料「家康の磐田築城伝説」
- 磐田市立図書館所蔵資料(見付編、中泉編)
- 磐田市観光協会・磐田市文化財だより関連資料
- 磐田市観光協会「城之崎城跡」解説
- 中泉御殿・中泉陣屋関連資料(城郭放浪記ほか)
- 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)
伝承の成立過程は、口伝の性質上、正確な経路をたどることが難しい。本文は資料から導ける蓋然性の高い流れとして提示するものであり、断定するものではない。
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