失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

見付に残る幻の城 | 子5・中泉御殿との比較

「秀吉に配慮した城」の正体――中泉御殿との混同を解く

城之崎城の廃城には秀吉が関わりにくい。では「秀吉に配慮した城」とは何だったのか。答えは、同じ磐田市内の中泉に、十数年後に築かれた「中泉御殿」にある。城之崎城の伝承を解く鍵として、中泉御殿の性格を比較しながら整理する。

城之崎城の放棄から十数年後の中泉

城之崎城が放棄されたのち、家康は浜松、駿府へと本拠を移していく。それから十数年を経た1584年から1587年ごろ(天正12年から15年ごろ)、家康は同じ磐田市内の中泉に「中泉御殿」を築いたとされる。この中泉御殿の性格にこそ、「秀吉に配慮した」という言い伝えの本来の姿が対応すると考えられる。なお、このページは見付の城之崎城伝承を解くための比較記事であり、中泉御殿そのものの詳細は、既存の 中泉御殿のあった町 にゆずる。

中泉御殿の起こりについては、家康に仕えた府八幡宮の神主・秋鹿(あいか)氏が献上した土地に、まず小規模なとりでのような施設が設けられたのが最初とする伝えがある。資料によって築造開始の時期には天正6年(1578年)ごろとする説と、天正12年(1584年)以降とする説があり、完成時期についても1587年ごろとする記述が見られるなど、年代には幅がある。いずれにせよ、家康が東海道を行き来する際の宿泊・休憩の場としてだけでなく、密談や軍略を練る拠点としても機能していたと伝わっている点は、複数の資料で共通している。

「御殿」と名乗った、政治的な理由。 1584年(天正12年)3月から11月にかけて、尾張・美濃・伊勢など各地を舞台に、羽柴秀吉方と織田信雄・徳川家康方が争った小牧・長久手の戦いが起きた。この戦いは局地戦で家康方が優位に立つ場面もあったものの、秀吉が信雄を個別に説得したことで同年11月に講和が成立し、家康は秀吉を攻める大義名分を失う形で戦いは収束した。この戦いを境に、秀吉は家康に対する上洛・臣従の要求を強めていったとされる。この時期、家康と秀吉の関係は緊張をはらんだ状態にあり、秀吉の勢力圏からの進軍ルートにあたる東海道の要衝・中泉は、いざというときの防衛拠点としての性格を帯びることになった。ただし家康は、この施設を「城」とは呼ばなかったとされる。新たな城郭を築くことは、豊臣政権に対して敵対の意思を示す強いシグナルになりかねない。そこで「鷹狩りや上洛の際の宿泊施設」という名目を用いることで、秀吉の警戒を和らげようとしたと考えられている。

「御殿」でありながら備えていた防衛機能。 名目上は宿泊・鷹狩り用の施設であったが、中泉御殿には堀・土塁が備わり、南側には大池・今之浦とつながる湖沼群が天然の水堀として機能していたと伝えられる。その敷地は水堀に囲まれておよそ1万坪に及んだと伝わり、単なる休憩所を大きく超える規模を備えていた。西光寺(見付)には中泉御殿の表門が、西願寺(中泉)には裏門(主殿とともに)が、常楽寺(堀之内)には書院が、それぞれ移築されたと伝わり、西光寺表門・西願寺裏門はいずれも磐田市指定有形文化財となっている。江戸幕府の体制が安定した後の寛文10年(1670年)ごろに御殿としての役目を終えて廃止され、建物は周辺の寺院に払い下げられたとされる。「御殿」という名目の内側に、実質的な防御性を備えていたという二重性が、この施設の特徴である。

比較項目城之崎城中泉御殿
時期1569年ごろ〜1570年ごろ1584年ごろ〜1587年ごろ
場所見付・城山周辺中泉周辺
主に想定された相手武田信玄豊臣秀吉
公にした名目城郭御殿・宿泊施設
実態地形上の弱点により造営を断念したとされる堀・土塁・大池を備えた、実質的な防衛拠点であったとされる
秀吉との関わり時代的に直接関わりにくい大きく関わると考えられる

秀吉配慮説は、対象を取り違えている

以上を整理すると、「秀吉に配慮して城を築けなかった」という言い伝えは、城之崎城についてはあてはまりにくく、むしろ中泉御殿の造営思想にこそ対応すると本稿では整理する。見付特集としては、中泉御殿そのものを掘り下げすぎず、城之崎城伝承を解くための比較対象として位置づけたい。二つの史実がなぜ一つの物語として重なっていったのかは、次の「伝承はなぜ生まれるのか」で考察する。

城之崎城は「城」を名乗りながら未完に終わり、中泉御殿は「御殿」を名乗りながら実質的な防衛拠点として機能した。この対照的な二つの経緯こそ、遠江における家康の立場が、武田信玄への対抗という軍事的な緊張から、豊臣秀吉という統一政権への配慮という政治的な緊張へと移り変わっていったことを象徴している。同じ磐田市域に残された二つの遺構を比較することで、戦国末期から近世初頭にかけての約15年間に、家康を取り巻く力関係がどのように変化していったかを、具体的な土地の記憶として読み取ることができる。

  • アップロード資料「家康の磐田築城伝説」
  • 磐田市立図書館所蔵資料(中泉編)
  • 磐田市文化財だより関連資料
  • 現地確認写真(公開時に撮影日を記載)
  • 静岡新聞「中泉御殿 密談・軍略の拠点に利用」(大御所の遺産探し 家康公顕彰400年)
  • 磐田市公式ウェブサイト「市指定文化財」一覧
  • 「小牧・長久手の戦い」Wikipedia項目

中泉御殿の造営年・規模・防衛機能の詳細は資料によって幅がある。本文は「とされる」「伝わる」の表現で断定を避け、既存の中泉御殿関連ページとあわせて読むことを想定している。

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