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見付に残る幻の城 | 子1・概要

城之崎城とは何か――城山球場・城山中学校に眠る未完の城

磐田市見付、城山球場と城山中学校が並ぶ丘陵一帯に比定される城之崎城。徳川家康が縄張りを命じたとされるこの城は、本曲輪・二の曲輪・東曲輪を備えた平山城として計画されながら、未完のまま姿を消した。まずは城そのものの姿を整理する。

城山球場・城山中学校に比定される城域

城之崎城(きのさきじょう)は、現在の磐田城山球場・城山中学校周辺の丘陵に築かれたとされる城である。1569年(永禄12年)ごろ、徳川家康が家臣の山本帯刀成氏に命じて縄張り(設計)を行わせ、以前からあったとされる旧塁を修築・拡張する形で工事が進められたと伝わる。城の守備には福釜松平親俊や大久保党といった家臣が配置されたとされ、単なる仮の陣ではなく、本格的な拠点として計画されていたことがうかがえる。

1569年(永禄12年)は、家康にとって遠江経略の総仕上げの年であった。同年5月、家康は掛川城に籠城していた今川氏真を攻略し、事実上、遠江一国をほぼ掌握する。城之崎城の築城が始まったのは、まさにこの遠江平定の総仕上げと並行する時期であり、国府が置かれ古代以来の政治的中心地であった見付に、新たな支配拠点を築こうとする狙いがあったと考えられている。しかし翌1570年(元亀元年)、家康は武田信玄への備えとして、天竜川を背に戦う不利や、岡崎城・織田信長との連携のとりにくさから造営を中止し、引馬(浜松)へ本拠を移した。この経緯は、城山球場西側の入口付近に立つ磐田市教育委員会文化財課の現地解説板(令和5年〈2023年〉2月設置)にも記されている。城之崎城は縄張りの途中で工事を中断されたまま、未完の城として歴史に埋もれることになった。廃城に至る事情の検証は、子ページ「城之崎城はなぜ未完に終わったのか」でさらに詳しく読む。

本曲輪・二の曲輪・東曲輪の構成。 城之崎城は、本曲輪を中心に、二の曲輪、東曲輪などを備えた平山城であったとされる。中世城館の資料に基づく比定では、現在の磐田城山球場周辺が本丸(本曲輪)にあたり、その北側に位置する城山中学校の敷地や山住神社周辺が、東曲輪を含む外郭を形成していたと考えられている。城の南側には、平安時代の陰陽師・安倍晴明の伝説が伝わる福王寺が鎮座しており、軍事拠点が見付の宗教・生活空間とごく近い位置に築かれようとしていたことが分かる。

福王寺の山号「風祭山」は、この安倍晴明伝説に由来すると伝えられる。天暦8年(954年)、この一帯を激しい暴風が襲った際、たまたま通りかかった安倍晴明が福王寺の南西の高台に祭壇を設けて祈祷を行ったところ、風がぴたりと止み、晴天が戻ったという。この故事にちなんで山号が「風祭山」と改められたと伝わっており、福王寺は今も遠州三十三観音霊場の一つとして参拝者を集めている。国府所在地であった見付の地には、こうした古代からの信仰・伝承の積み重ねがあり、城之崎城の築城計画は、その厚みのある土地の記憶の上に構想されたものであったといえる。

本曲輪 (磐田城山球場 周辺) 東曲輪ほか外郭 (城山中学校・山住神社 周辺) 福王寺 (城域南に近接) ※ 位置関係を理解するための概念図。正確な測量地図ではない。

城之崎城の想定範囲と現在地の位置関係(概念図)

縄張りを伝える唯一の絵図――遠州見付古城図

城之崎城の姿を今日に伝える絵図は、いまのところ一点しか確認されていない。名古屋市の蓬左文庫(ほうさぶんこ)が所蔵する「遠州見付古城図」である。城山球場西側の入口付近に立つ磐田市教育委員会文化財課の現地解説板(令和5年〈2023年〉2月設置)は、この絵図を「現在残る唯一の絵図」として掲げ、城之崎城の縄張りを知る手がかりに位置づけている。

絵図には、三方を入江で囲まれた最高所に本曲輪が置かれ、それを取り囲むように他の曲輪が幾重にも描かれている。図の周囲には「入江」「沼」といった書き込みが見え、城の南に広がっていた今之浦の低湿地が、天然の堀の役割を果たしていたことがうかがえる。北側には東海道が走り、城が水と地形に守られた要害の地に構想されていた様子が、一枚の絵図から読み取れる。

ただし、この絵図がいつ、誰の手で作られたのかは明らかでない。描かれた縄張りが、未完に終わった築城計画のどの段階を写したものなのかも、現時点では断定できない。前節で触れた山本帯刀成氏による縄張りの伝えについても、この絵図と直接結びつけて論じられるだけの史料的な裏づけは、いまのところ確認できない。絵図が伝える曲輪の配置と、次に見る現地の地形とをどう重ね合わせるかは、なお今後の検討にゆだねられている。

いまも残るとされる土塁・横堀。 現在も、城山球場のスタンドや外周通路の付近には、当時の遺構とされる土塁や横堀の一部がL字型に残ると伝えられる。ただし、これらの高まりのすべてが城之崎城の時代までさかのぼるかどうかは、現時点で断定できる材料が十分ではない。「残っている」「眠っている」という表現は、あくまで地域で語られてきた比定・伝承として扱い、正確な範囲や年代の確認は、今後の文化財資料・発掘調査の成果にゆだねたい。

より具体的には、本曲輪(球場)を三方から囲んでいたとされる外周の土塁が、現在の球場スタンドの盛り土に転用されているという見方が城郭愛好者の間で語られている。球場の北側、山住神社に隣接する箇所には、櫓台の跡ともいわれる小高い地形が残り、球場東側の外周通路沿いには、堀の名残と見られる窪地状の地形も指摘されている。磐田市は、球場西側の入口付近に城之崎城跡を紹介する案内看板を設置しており、令和5年(2023年)11月18日には「いわた城之崎城フェスタ」が磐田城山球場で開催され、「家康が夢見た『幻の城』」をテーマに、子ども向けの武将なりきり企画や絵画展示などを通じて、この未完の城の物語を地域で伝える試みも行われている。

見付の暮らしと隣り合っていた軍事拠点

城之崎城の南に隣接する福王寺、周辺の山住神社など、城之崎城は見付の宗教・生活空間と地続きの場所に計画された。見付は古代以来の中心地であり、そこに新たな城郭を築くという判断は、家康にとって遠江支配の拠点をこの地に定めようとする、並々ならぬ意図の表れであったと考えられる。城が置かれようとした理由については、次のページ「なぜ家康は見付を選んだのか」で、地政学の面から詳しく読む。

結果として城之崎城は完成をみることなく歴史の表舞台から姿を消したが、見付という土地に軍事拠点を置こうとした発想そのものは、後年の中泉御殿の造営や、江戸期に東海道の宿場として見付宿が整備されていく流れにも、間接的につながる伏線であったとも読める。一度は未完に終わった城の構想が、形を変えながらこの土地の歴史に痕跡を残し続けている点に、城之崎城という城の物語の厚みがある。

  • 磐田市教育委員会文化財課「城之崎城跡」現地解説板(令和5年〈2023年〉2月設置)
  • 遠州見付古城図(名古屋市蓬左文庫所蔵)
  • 磐田市立図書館所蔵資料(見付編、磐田の戦国武将物語)
  • 磐田市観光協会「城之崎城跡」関連資料
  • 攻城団「城之崎城の見所と写真」(静岡県磐田市)
  • 磐田市公式ウェブサイト「いわた城之崎城フェスタ」告知ページ
  • 中遠昔ばなし「福王寺[風祭山と安倍晴明]」(磐田市)
  • 「縄張りを伝える唯一の絵図――遠州見付古城図」節を追加。あわせて造営中止・浜松移転の年次を元亀元年(1570年)に改め、中止理由と出典(磐田市教育委員会文化財課の現地解説板・令和5年2月)を明記した。

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