笠梅の中沢川改修
――安政地震の沈下から挑んだ排水トンネルと新水路
安政元年(1854年)の安政東海地震によって、向笠・笠梅の大海集落は地盤が沈下し、敷地川の水位より低くなった。水は引かず、美田は20年にわたって葦と水鳥の棲む泥の海と化した。明治初期、わずか13戸の住民が家財を売り、私有地を担保に差し入れながら挑んだトンネル掘削の失敗と、新水路開削の30年におよぶ苦闘を記録からたどる。
向笠史談会編『ふる里向笠』(1984年)99~101頁「中沢川改修の苦闘史(笠梅)」。安政元年から明治初中期にかけて大海(おおみ)部落で起きた排水工事の推移、借入金と返済、当時の人びとの生活を記録した地域誌である。工費や返済年数は同書の記述に基づく。
安政の大地震と20年の水没――美田が「泥の海」へ変わった悲嘆
嘉永7年(安政元年・1854年)11月4日午前に発生した安政東海地震は、遠江一円の地形と水利を根本から覆した。安政東海地震の記録に見られるように、沿岸部を襲った巨大津波や天竜川河口・太田川下流の堤防決壊が広く語り継がれているが、内陸の丘陵地や台地沿いの谷筋でも、地殻変動による深刻かつ長期的な被害が発生していた。
磐田原台地の東縁、敷地川が流れる向笠地区・笠梅の大海(おおみ)集落では、激震によって水田地帯が一面にわたって「震り凹み(ゆりへこみ)」を起こし、地盤が大きく沈下した。この局地的な陥没により、大海の耕地面の標高は、隣接して流れる敷地川の川床や水面よりも低くなってしまったのである。河川よりも田面が低くなれば、自然流下による排水は一切不可能となる。
さらに致命的であったのは周辺の地形条件であった。北方の社山(やしろやま)以南の丘陵地から流れ下る自然排水がすべてこの窪地へと集まり、加えて磐田原台地の東斜面に降った雨水も一気に大海の底地へと落ち集まった。出口を失った雨水と湧水は窪地に滞留し続け、大海の水田は一夜にして一面の巨大な湖水の如き沼地へと姿を変えた。水深は深く、水草や雑草が生い茂り、無数の水鳥が集まるばかりで、人手によって田に戻す見込みはまったく立たず、集落は絶望と悲嘆に包まれたまま20年もの歳月が流れることとなった。
江戸時代末期から明治維新を挟むこの20年間、大海の人びとは先祖代々受け継いできた農地をすべて水底に奪われた状態におかれた。向笠史談会編『ふる里向笠』は、当時の農民たちの過酷な生活を次のように書き留めている。
「その間土地の人々は本業を棄てて樵夫(きこり)を業とし、或は北海道に出て、諸藩通行の諸荷物の運搬で生活して来た。」
農業による生活の道を閉ざされた住民たちは、山に入って薪炭を伐り出す樵(きこり)となったり、遠く蝦夷地・北海道への出稼ぎに赴いたり、あるいは東海道や見付山梨街道を行き交う諸大名・商人の荷物を運ぶ駄賃稼ぎや人足となって、日々の糊口をしのいだ。地域には「嫁にやるなら大海よし(やめなさい) 前が田んぼで、うしろが山で、雨が三つぼで泥の海」という痛烈な俗謡が生まれた。わずかに雨が降るだけで集落全体が泥の海と化し、家財も農地も水浸しになる生活の過酷さが、この短い唄のなかに凝縮されている。
近隣の村々からは「あの低地はもう人の住める場所ではない」と見放され、かつて豊かであった集落の共同体そのものが崩壊の瀬戸際に立たされていたのである。それでも人びとは故郷の土地への執着を捨てず、いつの日か再び稲穂を実らせる日を夢見て、過酷な日雇いや出稼ぎの苦難に耐え忍んでいた。
明治7年・保六寺山トンネルの開削と崩落――第1期工事の挫折
明治7年(1874年)、近代日本の幕開けとともに、長きにわたる絶望に沈んでいた集落に転機が訪れた。文明開化の気運が高まるなか、地元住民たちは水害を根本から排除し、沈下した田地を再び美田へと蘇らせるための排水事業を起こすことを決議したのである。
当初試算された事業費は600円であった。米一石が7円前後であった当時、寒村のわずか13戸の集落にとって600円は家屋敷の価値に匹敵する巨額の資金である。住民たちは協議を重ね、各家庭にある余分な物品や家財道具、山林の樹木などを売却して出資金を捻出した。さらに遠州地方で広く実践されていた二宮尊徳の教え、すなわち報徳思想の指導者であった伊東七郎平の指導を仰ぎ、集落内に「報徳社」を組織した。日々の生活を切り詰め、勤倹貯蓄に励むことで、工事資金を一銭一厘から積み立てていったのである。
明治7年5月11日、待望の排水工事が起工された。施工には当時、地域の土木工事で高い技術力と経験を持っていた宇藤平半に請負が委託された。計画された工法は、集落の東側を塞いでいる「保六寺山(ほろくじやま)」の丘陵をトンネル(隧道)によって掘り抜き、山向こうへと水を一気に逃がすという、当時の農村土木としては極めて大胆な地下排水路計画であった。
過酷な手掘り作業が続けられ、同年9月には保六寺山トンネルが見事に貫通・完成した。水没していた大海の沼から水がトンネルへと吸い込まれ、20年ぶりに干上がった地面が現れたとき、集落の人びとは歓喜に沸いた。しかし、その喜びは一瞬にして打ち砕かれた。保六寺山の地質は脆い砂礫と粘土が混ざり合った軟弱な断層帯であり、通水によって周囲の土壌が急速に緩み、トンネル内部で大規模な土砂崩落(崩れ落ち)が連発したのである。
関係者は昼夜を徹して土留めの杭を打ち、崩落箇所の防御に百方を尽くしたが、山の圧力と湧水による崩壊を止めることはできなかった。将来にわたってトンネルを維持する見込みは完全に失われ、明治8年(1875年)5月に至るまでに総工費750余円を費やした末、第1期工事として挑んだトンネル計画は、完全な失敗という残酷な結末を迎えることとなった。
トンネル掘削の工法は、近代的な重機が存在しない時代の手掘り工事であった。ツルハシとノミ、そして提灯や行灯のわずかな灯りを頼りに、暗黒の山腹へ向かって水平に坑道を穿ち進める命がけの作業であった。工事請負人の宇藤平半は、地盤の緩みを見越して木材による支保工を組んだものの、保六寺山の山体は古くからの崩壊地形堆積物であり、ひとたび地下水脈に触れると砂と泥が液体のように流れ出す「山津波」に似た性状を示した。9月に一度は貫通し、排水の通水テストに漕ぎ着けたものの、流れる水がトンネルの壁面と底面を急速に削り取り、支保工の足元をすくい取ってしまったのである。轟音とともに発生した崩落事故により、坑口付近は大量の土砂で埋没し、再度の掘削も直ちに崩落に見舞われるという絶望的な悪循環に陥った。
11棟移転と敷地川への新水路開削――集落を動かした第2期工事
巨額の出資金を失い、再び水没の危機に直面した大海の人びとは、それでも立ち止まらなかった。山を貫く地下水路が不可能であるならば、地表を開削して新たな川を掘り、敷地川まで導水する明渠排水路を新設する以外に道は残されていなかった。
しかし、地表を掘削して敷地川へとつなぐためには、集落の南側に広がる向笠村字川坂(かわざか)の人家や敷地を通過しなければならない。山腹の開削だけでは済まず、他人の土地を切り拓き、既存の建物を立ち退かせるという、極めて困難な地域交渉が必要であった。
明治8年5月、村民たちはこれ以上の追加出資に耐えるため、前代未聞の決断を下す。各自が所有していた旧地(水没地を含む田畑)18町余歩のすべてを静岡県庁へ「差上地(さしあげち)」、すなわち公的な担保物件として差し入れたのである。この土地から得られる年貢米(徳米)を県庁へ納めることを条件として、県庁の立ち会いのもとで工事施行の支援を取り付け、厳格な誓約書を取り交わした。
明治8年6月22日、崩落した保六寺山トンネルの正式な廃止が決定された。新たな計画は、南の向笠村字川坂へ向けて幅広の新水路を開削し、敷地川へと合流させるルートであった。この開削線上に位置していた民家、納屋、土蔵など、実に11棟もの建物を移転させるという難事業が集落全体の合意によってまとめられた。
県庁からは、差し入れた旧地18町余歩を担保として600円の拝借金(公的融資)が下付された。利息は年1割2分(12%)という高利であったが、そのうち5分(5%)は「御救助」として公費補助される指令が下りた。実質年利7%での借入であった。
明治8年8月9日、川坂へ向けた新水路の開削工事が再起工された。真夏の炎天下、手作業による掘削と11棟の家屋移転、そして頑丈な堤防の築造が猛烈な勢いで進められ、着工からわずか1か月足らずの同年9月6日、新水路は見事に竣工した。これが、今日まで笠梅と向笠の低地を潤し排水を担う「中沢川」の誕生である。第1期のトンネル工事と第2期の開削工事を合わせた堤防の総延長は488間5尺(約890メートル)、投じられた総事業費は1,825円66銭4厘に達した。当時の米価一石7円28銭から換算すれば、現代の数千万円に匹敵する大事業であった。
新水路の開削は、単に土を掘るだけの作業ではなかった。11棟の人家・土蔵の移転にあたっては、移転先の敷地の造成、家屋の解体と部材の運搬、新たな基礎の据え付けなど、集落総出の「結(ゆい)」による助け合いが行われた。農繁期の合間を縫い、老若男女が総出でモッコを担ぎ、リヤカーや大八車のない時代に土砂を運び出した。敷地川の合流点にかけては、洪水の逆流を防ぐための水門(樋門)の設置も必要であり、石積みの護岸と土羽(どほ)による強固な堤防の築造が求められた。真夏の過酷な気象条件のなか、疫病や過労で倒れる者を出しながらも、わずか1か月という驚異的な短期間で通水に漕ぎ着けたのは、「今年こそは米を作りたい」という集落全体の悲願の結実であった。
13戸が背負った借財と中沢川の記憶――明治39年完済と防空壕への転用
中沢川の新水路が完成したことで、20年にわたり泥の海に沈んでいた大海の田畑はついに水面上に姿を現した。しかし、それは同時に、集落の住民たちにとって長く重い「借財返済の苦闘」の始まりでもあった。
開削されたばかりの川筋と急造の堤防は、大雨のたびに各所で欠壊を繰り返した。完成翌年の明治9年から明治16年までの9年間、堤防の修復や補強工事のために、大海集落は毎年平均して400円以上もの追加費用を負担し続けなければならなかった。この過酷な維持管理費と工事負債を背負ったのは、大海集落のわずか13戸の農家であった。
1戸あたりの負担額は、最も多額を出資した有力農家で300円以上、最も少ない家でも30円を下らなかった。米一石が7円の時代に1戸300円の負担は、現代の感覚でいえば数百万円から千万円近い借金を各農家が背負ったことに等しい。それでも住民たちは誰一人として夜逃げや放棄をすることなく、団結して返済を続けた。
明治16年(1883年)7月、県庁からの拝借金600円のうち元金300円の返還を完了した。残る300円については、同定から明治20年までの8年間にわたる無利息年賦返済への条件緩和が認められた。その後、堤防の地盤が年々締まるにつれて水害被害は減少し、維持費も年平均100円程度に落ち着いていった。
そして明治19年(1886年)5月26日、村民たちは一丸となって現金120円を繰り上げ返納し、ついに県からの借入金を清算した。地域誌の記録によれば、関連するすべての負債と土地整理が完全に結了したのは、起工から30余年の星霜を経た明治39年(1906年)のことであった。西尾雄一郎、本多喜四郎、伊藤七郎平、寺田新太郎ら歴代の区長・役員を中心とする住民たちの不屈の執念が、この30年の完済記録に刻まれている。
一方、明治8年に崩落して放棄された「保六寺山のトンネル」は、意外な形で昭和の歴史に再登場した。太平洋戦争末期、遠州地方が米軍のB-29による空襲や沖合の米戦艦による艦砲射撃にさらされた際(遠州地方空襲記参照)、山中に残されていたこの頑丈な素掘りトンネルが、近隣住民の避難用「防空壕」として活用されたのである。明治の先人が命がけで掘り進めた地下の遺構が、半世紀を経て子孫たちの命を守る盾となった。草むす廃隧道と、今なお水を流し続ける中沢川のせせらぎは、自然の猛威に屈しなかった人びとの生き抜く意志を今に伝えている。
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参考資料・史料上の限界
- 向笠史談会編『ふる里向笠』、1984年、99~101頁「中沢川改修の苦闘史(笠梅)」。
- 工費、借入条件、返済年数、移転戸数、人名は同書の記載による。当時の静岡県庁行政文書や誓約書原本との直接照合は未了。
- 米価(一石7円28銭)の対比および各戸負担額は、同書が伝える当時の伝承・集計に基づく。
更新履歴
- 公開。安政地震による地盤沈下、保六寺山トンネルの崩落、敷地川新水路開削と13戸の借財返済の歩みを整理。