安政東海地震と磐田 ──
嘉永7年11月4日の記憶
嘉永7年11月4日、朝
嘉永7年11月4日(西暦1854年12月23日)の朝、駿河湾から遠州灘、熊野灘にかけての広い海域を震源とする、巨大地震が発生した。安政東海地震(あんせいとうかいじしん)である。推定されるマグニチュードは8.4程度。東海道筋の宿場町は軒並み倒壊し、あちこちで火の手が上がり、そして沿岸には大津波が押し寄せた。ちょうど遠州の海岸線を正面から襲う位置に震源があり、磐田を含む遠州は、まさにその被害の直撃を受ける、震源域の真上ともいえる地域だった。他人事ではなく、この土地そのものが激しく揺れたのである。
さらに恐るべきことに、破局はこれで終わらなかった。この東海地震のおよそ32時間後 ── わずか一日半ほどのちに、今度は紀伊半島沖を震源とする安政南海地震(あんせいなんかいじしん)が続発したのである。二つの巨大地震が、立て続けに西日本を揺さぶった。避難した人々が、まだ余震におびえているさなかに、次の巨大地震が来る。人々の恐怖と混乱は、想像を絶するものだったろう。なお、この地震は翌年に「安政」と改元されたため後世「安政地震」と呼ばれるが、実際に地面が揺れたその日は、暦の上ではまだ嘉永7年の、冬の朝だった。
『一代咄』── 掛塚の商人が見た地震。 地震のような突発的な災害は、その瞬間を生きた人が書き残さなければ、記憶が失われてしまう。磐田市域における安政東海地震の、得がたい記録の一つが、別稿(竜洋を襲った地震)で扱った掛塚の記録『一代咄(いちだいばなし)』である。天竜川河口の湊町・掛塚で商いをしていた一人の人物が、自らの一代の見聞を書き残したこの記録には、宝永・安政・そして時代を下って昭和の東南海と、繰り返し地震に襲われてきた竜洋の土地の記憶が刻まれている。
なぜ、湊町の商人がこうした記録を残したのか。それは、海に面した掛塚が、内陸とは比べものにならない恐怖を、地震のたびに味わってきたからにほかならない。海抜の低い湊町にとって、地震は、単なる「揺れ」の災害ではなかった。揺れがおさまったあとに、津波が押し寄せる。地面が液状化して、家が傾き、水が噴き出す。砂丘と防風林のわずかな陰で暮らす人々にとって、大地震は、揺れ・津波・液状化という三重の脅威を意味した。だからこそ、その恐怖と教訓を、なんとしても次の世代に伝えねばならない ── 『一代咄』を書き残した掛塚の商人の筆には、そんな切実な思いがこもっていたのだろう。海辺に生きる者の、災害と向き合う覚悟が、この一冊には記されている。
安政東海地震の発生日・規模・広域被害、掛塚の『一代咄』が地震の記憶を伝えることは、既存の資料・別稿で確認できる。一方、見付・中泉など磐田内陸部の被害の具体的な記録(倒壊数・死者数など)は今回の調査では確認できておらず、村方文書・寺社の記録・過去帳での掘り起こしが課題である。本文で述べた見付宿の被害や旧家の建て替えとの関連は、周辺宿場の被害状況からの推定であり、直接の史料に基づくものではない。地震の間隔(約90〜150年)も過去の主な地震からの概算である。磐田市の自然災害伝承碑の登録が現在0基であることは別稿で確認したとおりで、災害の記憶の記録化は喫緊の課題といえる。
内陸の磐田では何が起きたか
では、掛塚のような海沿いだけでなく、見付や中泉といった内陸の町では、何が起きたのか。正直に言えば、その被害を伝える具体的な数字は、手元の調査ではまだ確認できていない。しかし、状況からの推定は十分に可能である。東隣の袋井宿・掛川宿、そして西隣の浜松宿は、いずれも安政東海地震で大きな被害を受けたことが記録に残っている。その真ん中に位置する見付宿だけが、無傷で済んだとは、どう考えても思えない。見付もまた、相応の揺れと被害に見舞われたはずである。見付の旧家や町家・蔵の多くが幕末以降の建築であることの背景には、じつはこの地震による倒壊と、その後の建て替えが影響しているのかもしれない。
ここで重要なのが、同じ磐田でも、土地によって被害がまるで違ったはずだ、という点である。しっかりした地盤の磐田原台地の上と、やわらかい沖積地の今之浦や天竜川沿いの低地とでは、揺れの大きさが違い、低地では地面が泥水のようになる「液状化(えきじょうか)」の被害も加わった。海に近い低地では、津波の危険もあった。地震は、土地の条件をあらわにする災害なのである。南部の低地で、集落が微高地(びこうち)に寄り添うように営まれてきたのは、洪水を避けるためだけではない。地震のときにも、少しでも地盤の固い場所を選ぶという、先人の経験の積み重ねが、そこには込められていたと考えられる。土地の使い方そのものが、繰り返す災害の記憶によって、静かに鍛えられてきたのである。
さらに視野を広げれば、安政東海地震が起きた嘉永7年という年は、時代の大きな転換点だった。前年の嘉永6年(1853年)にはペリーが浦賀に来航し、日本は開国を迫られて騒然としていた。そのさなかに、この巨大地震が列島を襲ったのである。天災と外圧が重なり、人々のあいだには「世の中が大きく変わろうとしている」という不安が広がった。地震のあとに流行した鯰絵(なまずえ)── 地震を起こすとされた大鯰(おおなまず)を描いた版画には、災害への恐れと、既存の秩序が揺らぐことへの複雑な思いが込められている。磐田の人々もまた、揺れる大地と揺れる時代の、二重の不安のなかにいた。安政の地震は、幕末の動乱へと向かう時代の、不吉な前触れの一つでもあったのである。
繰り返す地震の系譜のなかで
ここで、視野を大きく広げてみたい。安政東海地震は、けっして単発の災害ではない。それは、遠州を繰り返し襲ってきた巨大地震の系譜の、一つの節目にすぎないのである。図1に見たとおり、安政東海地震は、宝永4年(1707年)の宝永地震から数えて約150年後の再来だった。そして、その安政からさらに約90年後には、昭和19年(1944年)の東南海地震が起きている。
これらは、決して遠い教科書のなかの出来事ではない。田原地区の記憶や竜洋の学校の記録が生々しく伝える昭和の震災は、安政の悲劇の、まぎれもない再演だった。同じ場所が、同じような揺れと津波に、繰り返し襲われてきたのである。そして、この系譜は、過去で終わってはいない。その延長線上に、いま高い確率で発生が予測されている南海トラフ地震がある。
宝永から安政まで約150年、安政から昭和東南海まで約90年。過去の地震の間隔を思えば、私たちがいるのは、次の巨大地震がいつ来てもおかしくない時期である。だとすれば、安政東海地震の記憶は、過ぎ去った「歴史」として懐かしむべきものではない。むしろ、これから起きることの「予告編」として、身を引き締めて読むべきものなのである。過去の地震を知ることは、そのまま、未来への備えなのだ。
遠州を襲った主な海溝型地震
| 地震 | 年 | 磐田周辺の様子 |
|---|---|---|
| 宝永地震 | 宝永4年(1707) | 遠州灘沿岸に津波。『一代咄』等が記憶を伝える |
| 安政東海地震 | 嘉永7年(1854) | M8.4程度。東海道筋の宿場が倒壊・火災、沿岸に津波。32時間後に南海地震が続発 |
| 昭和東南海地震 | 昭和19年(1944) | 戦時下の震災。田原・竜洋などに被害の記憶(h007・u043・r030) |
| (想定)南海トラフ地震 | 将来 | 安政・昭和の記憶が防災の前提になる |
記録を防災につなぐ。 ここまで見てきたように、安政東海地震の磐田での被害は、その全体像がまだよく見えていない。しかし、それは「被害がなかったから」ではない。単に、記録の掘り起こしが進んでいないからだと考えるべきである。手がかりは、決して失われてはいない。寺の過去帳に残る、その年の死者の傾向。村役人が領主に出した被害の願書(ねがいしょ)。蔵や家の普請(ふしん)がいつ行われたかという年代。地震の翌年に建て直された神社の棟札(むなふだ)── そうした断片を丹念に集めていけば、嘉永7年の冬、磐田を襲ったあの一日の姿は、きっと復元できるはずである。
そして、この作業には、単なる懐古を超えた切実な意味がある。磐田市の自然災害伝承碑の登録が、現在0基であるという現実 ── それは、この土地の災害の記憶が、まだ十分に形にされていないことを示している。過去の地震がいつ、どこを、どう襲ったのかを正確に知ることは、次に必ず来る南海トラフ地震に備えるうえで、何よりの土台になる。安政の記憶を掘り起こすことは、過去を懐かしむためではなく、まさに未来の命を守るためなのである。170年前にこの土地を襲った揺れを知る者だけが、次の揺れに、本当の意味で備えることができる。この土地の地震の記憶を一つずつ記録し、次の世代へ手渡していくこと ── それが、磐田物語がこのテーマで果たすべき、最も重い課題である。
主な参考資料
- 安政東海地震(嘉永7年11月4日)に関する地震史資料
- 『一代咄』(掛塚の商家の記録。r040参照)
- 磐田物語「竜洋を襲った地震」「東南海地震と戦時下の岩田村」「田原の地震と戦争の記憶」「天竜川の堤防・洪水碑・水害記録」
磐田内陸部の被害の具体的数字は未確認であり、本文中で推定と事実を区別して記している。
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