向笠村の明治畦畔改良
――田・道・水路を作り直した事業
明治31年(1898年)1月、向笠村は曲がりくねった畦、形のそろわない田畑、荷車が通れない細道を組み替える事業に踏み出した。完成まで約10年。途中で洪水が繰り返し、日露戦争期の負担も重なった。それでも村が工事を続けた理由を、面積と費用の記録から読む。
向笠史談会編『ふる里向笠』(1984年)44~46頁「明治の田畑畦畔改良(土地改良)事業」。刊行の約80年前に行われた事業を地域でまとめた記録であり、工事当時の帳簿や設計図そのものではない。以下の年月・面積・費用は、同書に記載された数値として示す。
曲がった畦と細い道――工事前の風景
『ふる里向笠』が描く工事前の耕地は、田畑の形が一枚ずつ異なり、畦は曲がり、道は細かった。長く耕されてきた土地では、所有と利用の境がそのまま畦になり、水の流れや地形に沿って不規則な区画が残る。人が歩き、牛馬を入れて耕す段階では使えても、荷車の利用が広がれば、曲がり角や幅の狭さが作業の妨げになる。
冊子は、荷車、なかでも大八車が使われるようになり、耕作しやすい整った形の田畑が求められたことを事業の背景に挙げる。ここでいう畦畔改良は、畦を少し削って直すだけではない。隣り合う田畑の境を引き直し、通路を確保し、水の出入りを調整しながら、一帯の区画を組み替える仕事であったと読める。
計画には「六尺道」が含まれた。冊子はこれを約2メートルの道として説明する。当時の村内には「そんな広い道が必要か、もったいない」という声があり、測量によって田畑の面積がはっきりすれば損をするという反対意見もあったという。これは会議録の逐語記録ではなく、後年まで伝えられた地域の記憶である。しかし、新しい道が将来の利益になるという考えと、いま耕している土地が減るという不安がぶつかったことは、改良事業の性格をよく表す。
道を広げれば、その分だけ誰かの耕地に触れる。畦を直せば水口の位置が変わり、上流と下流の条件も変わる。測量で面積を確定することは、税や負担、所有の境を明確にすることでもあった。工事は土木技術だけで進まず、土地を持つ人、借りて耕す人、道を使う人の同意を積み上げる必要があった。
明治31年から40年へ――地区ごとに進んだ10年
向笠村での事業は、明治31年(1898年)1月に始まったと『ふる里向笠』は記す。県費の補助があり、村民協議を経て実施に踏み切ったという。事業は村全体を一度に掘り返したのではなく、笠梅、向笠竹之内、向笠西、篠原、向笠新屋などで着工と竣工の時期を分けながら進められた。
地区ごとの日付が並ぶことは、この工事が一回の式典で終わる事業ではなかったことを示す。測量、境界の調整、土の移動、道と水路の施工、完成確認を区域ごとに繰り返したはずである。ただし、冊子には各地区の設計内容や施工主体、用地の交換方法までは示されていない。工区ごとの差を確定するには、向笠村の行政文書や土地台帳、工事費帳簿を探す必要がある。
完成日は明治40年(1907年)12月18日と記される。開始から数えれば、およそ10年を要したことになる。近代的な耕地整理制度の全国史と向笠の事業を結び付けるには法令・県資料との照合が要るが、少なくとも村では、荷車と合理的な農作業に対応するための長期事業として記憶された。
完成年だけを見ると、計画どおり段階的に工事が進んだように見える。だが、その途中には、工事の前提となる田畑そのものを壊す洪水があった。向笠の畦畔改良を理解するには、整然とした区画の完成図だけでなく、何度も水に崩された工事期間を含めなければならない。
洪水と村の負担――工事を止めなかった背景
着工した明治31年(1898年)の6月4日と5日、地域は大豪雨に見舞われた。冊子によれば、太田川、小藪川、敷地川が大洪水となり、堤防が各所で決壊し、農作物にも大きな被害が出た。改良中の田畑や道について、どの工区がどれだけ損傷したかは同書から分からないが、村の労力と資金が復旧にも割かれたことは想像できる。
さらに明治37年(1904年)7月1日と10日にも大雨があり、前年と同様の被害になったと記される。この「前年」がどの災害記録を指すか、被害額がいくらだったかは、原資料との照合なしに補えない。同年は日露戦争のさなかであり、冊子は村民の疲弊が極度に達し、多額の工事費を負担することが困難だったと振り返る。
ここで重要なのは、洪水が単なる工事の遅れではなく、事業目的そのものに関わった点である。田の区画を整えても、排水できず、堤防が切れれば耕作を続けられない。道を通しても、川があふれれば土砂で塞がれる。畦、道、水路を一体で考える必要は、工事中の災害によって一層明確になったはずである。
向笠の太田川治水が河川と堤防の側から水害を扱うのに対し、この事業は田の内側を作り替える取り組みであった。川を外へ押しとどめる治水と、耕地内で水を導き排す改良は別の仕事だが、向笠では同じ水系に向き合う連続した課題だった。洪水年と工区の進捗を重ねた資料が見つかれば、どの工事が災害後に変更されたかを検討できる。
冊子は、村が「あらゆる難問題」を越えて完成させたと評価する。これは刊行時の顕彰的な言い方であり、反対者の人数、負担の配分、工事から利益を得にくかった土地の存在までは伝えない。成功の記憶を尊重しつつ、合意の過程と負担の偏りを調べることが、事業を村全体の美談だけにしない読み方となる。
災害と事業の関係を確かめるには、豪雨日ごとの被害図と工区表を重ねる必要がある。冊子に挙がる三つの川は流域と規模が異なり、同じ雨でも越水、破堤、内水のどれが田畑を損なったかで復旧方法は変わる。洪水の記述だけから、特定の堤防や工区が壊れたとは決められず、場所ごとの確認が欠かせない。
また、戦争期の「疲弊」を人口や徴兵だけで説明することも避けたい。村費、税、物価、働き手、資材価格、出征家族への支援など、複数の負担が重なった可能性がある。1904年の村予算と工事支出を確認できれば、地域誌が記した困難を家計と行政の両面から、時間の推移を含めて具体化できる。
面積と費用の記録――数字が示すもの、示さないもの
『ふる里向笠』は、工事の旧反別、新反別、差引増反別、総事業費を掲げる。単位は町・反・畝・歩、金額は円・銭である。以下は原記載を現代の算用数字へ置き換えたもので、現在の面積や貨幣価値への換算値ではない。
| 項目 | 冊子の記載 | 読むときの注意 |
|---|---|---|
| 改良前の反別 | 165町7反6畝27歩 | 工事対象として集計された旧反別 |
| 改良後の反別 | 193町2反7畝15歩 | 再測量・区画整理後の新反別 |
| 差引増反別 | 27町5反18歩 | 新旧集計の差。新規開墾だけを意味するとは限らない |
| 改良事業費総額 | 14,996円23銭 | 名目額。現在価値や家計負担への換算には別資料が必要 |
数字のうち、とりわけ注意が必要なのが「増反別」である。改良前後の差が大きくても、すべてが荒地を新しく開墾した面積とは限らない。従来の測量誤差、畦や道路の扱い、工事対象区域の変更、土地種目の組み替えが数値へ影響した可能性がある。冊子は差を掲げるが、計算の元帳や測量方法は示していない。
総額14,996円23銭も、それだけで負担の重さを現在の感覚へ置き換えることはできない。県の補助額、村費、土地所有者の分担、労働による負担がどう組み合わされたかを知る必要がある。米価や村予算と比較する場合も、同じ年の数値を用いなければ意味を取り違える。
それでも、面積と金額が地域誌に残されたことには意味がある。事業が記念的な出来事として語られただけでなく、土地を測り、費用を割り当て、完成を確認した行政的な仕事だったことが分かるからである。数値は完成の規模を示す入口であり、同時に、原簿へさかのぼるための検索語でもある。
旧反別と新反別を比較するときは、道や水路が耕地面積の外へ置かれたのか、共有地がどう処理されたのかも問題になる。境界線が短くなれば畦に使う土地は減る一方、六尺道や水路には新しい用地が必要になる。増減を一つの理由で説明せず、工事前後の地目別集計を得て初めて内訳を論じることができる。
費用についても、工区ごとの地形条件を無視できない。低地の排水、河川沿いの護岸、台地寄りの切土では必要な作業が違う。総額を反別だけで割った平均は規模の目安にはなるが、各集落や各戸の実負担を表さない。冊子に載る反当たり金額を詳しく検討する場合は、算定の分母と補助金控除の有無を原簿で確かめたい。
本稿は冊子の数値を訂正せず、そのまま「冊子記載」として掲げた。原設計書、工事費精算書、土地台帳との照合は未了であり、増反別の内訳と負担者別の金額は現時点で確定できない。
田・道・水路を一緒に見る――村づくりとしての畦畔改良
畦畔改良は、収穫量を増やすためだけの農業工事ではなかった。六尺道が通れば、肥料や収穫物を荷車で運びやすくなる。田の形が整えば、耕起や田植えの動線を短くできる。水路の位置が整理されれば、取水と排水の順序を共有しやすくなる。田、道、水路は別々の施設に見えて、日々の作業では一つにつながっている。
道路の価値は農作業に限らない。人の往来、学校や寺社への移動、災害時の避難や復旧にも関わる。ただし、現在残る直線道路をすべて明治の工事によるものと断定することはできない。後の圃場整備、河川改修、舗装、宅地化で線形が変わっているため、旧地籍図と現在図を年代別に重ねる必要がある。
向笠地区の成立をたどると、向笠村は複数の旧村と集落をまとめた行政単位であったことが分かる。畦畔改良が地区ごとに進められたのは、土地条件と合意形成が一様ではなかったからだろう。笠梅、竹之内、西、篠原、新屋の工程を比較すれば、同じ村の中でも水害、台地、低地、既存道路の条件が異なった可能性を確かめられる。
向笠新屋の開墾と水辺の暮らしは、耕地が集落へ変わる過程を考える記事である。そこへ畦畔改良の記録を加えると、土地を拓くことと、拓いた土地を測り直して共同で使える形へ整えることが、別の段階だったと見えてくる。村は自然の地形に従うだけでなく、道と境界を引き直しながら生活圏を作った。
事業の評価を深める次の手掛かりは、向笠村会議事録、県の補助記録、工区別の字図、工事費帳簿である。完成記念の写真があっても、それを本文へ転載するには権利確認が要る。まず文書から、誰が提案し、どの土地を交換し、洪水後に何を変更したかを確かめたい。
『ふる里向笠』が残した10年の輪郭から分かるのは、近代化が外から一度に持ち込まれたのではなく、村内の反対、災害、費用不足を抱えながら進んだことである。整った田の一枚、荷車が通る道、水を流す溝の背後には、土地の使い方を話し合い直した時間があった。向笠村の畦畔改良は、耕地の形とともに、村の共同作業の形を作り直した事業だった。
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参考資料・史料上の限界
- 向笠史談会編『ふる里向笠』、1984年、44~46頁。
- 着工・完成年月、反別、事業費、豪雨日は同書の記載による。向笠村の工事原簿、村会議事録、県補助記録、地籍図は未照合。
- 冊子は地域の史談会が後年に編集した二次資料であり、反対意見や工事評価は刊行時まで伝わった地域記憶として扱った。
更新履歴
- 公開。明治期の畦畔改良を、工程・災害・面積・費用・交通の観点から整理。