失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す

磐田物語向陽地区 / 馬坂有料道路

向陽地区・街道と交通史

馬坂有料道路
――明治17年、民間人が山を開削した有料道と「抜け道」の顛末

明治中期、見付宿と周智郡山梨・森町を結ぶ「見付山梨街道」の最大の難所・馬坂(うまざか)に、民間の手で開削された有料道路が存在した。明治17年、有志8名が私財を投じて山腹を切り拓き、道銭を徴収したものの、無料の「抜け道」の出現によってわずか8年で料金徴収は破綻した。近代の地域交通史に埋もれた民間有料道の足跡を追う。

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向笠史談会編『ふる里向笠』(1984年)102~106頁「馬坂有料道路」および106~110頁「柿の木様」。向笠村誌の道路沿革記録および地域古老の聞き書きをもとに、明治17年から25年にかけて運用された馬坂の民間有料道路の経緯と、近接する山すその民間信仰を伝えている。
馬坂有料道路と抜け道の位置関係図谷底の旧道、山腹に開削された有料道路と番所、迂回路となった桜の谷(抜け道)の模式図谷底の旧道(水没・泥水で通行不能)馬坂有料道路(明治17年開削・延長400m)番所(鬼ばば)桜の谷(抜け道・無料の間道)緩勾配で人足が集中 → 後の県道ルートへ柿の木様
『ふる里向笠』の叙述に基づく馬坂の道路関係模式図。有料道路を避けて踏み固められた「桜の谷」の間道が、後に県道の基礎となった。

泥水が洗う谷底の旧道と山腹への新道開削――馬坂の原風景

現在、磐田市見付と森町方面を結ぶ主要道路といえば静岡県道40号掛川天竜線(旧見付山梨線)が知られるが、近代初頭以前の道筋はまったく異なっていた。古くからの見付山梨街道は、見付東坂で東海道から北へ分岐し、茨木坂、元天神を経て磐田原台地の東縁を下り、向笠竹之内、笠梅、敷地川、小薮川、太田川を渡って山梨村へと至る重要な物資連絡路であった。

この街道のなかで最大の難所として人馬を苦しめていたのが、磐田原台地と低地を連絡する「馬坂(うまざか)」である。『ふる里向笠』が記録する古老の伝承によれば、もともとの馬坂は丘陵の中腹ではなく、最も低い「谷底」を通っていた。谷底を通る旧道は、排水路と路面の区別がまったくない悪路であった。ひとたび雨が降れば、台地や山腹からの雨水が奔流となって路面を洗い流し、大雨ともなれば道なのか川なのか判別がつかない泥水路と化したのである。

雨が止んだ後も、道の真ん中には巨大な水溜まりが残り、行き交う牛馬や荷車の車輪によって膝上まで深くえぐられ、村人たちは毎年の補修に追われながらも殆ど手を通せない状態に困り果てていた。台地からの赤土と低地の粘土が混ざり合い、乾燥すれば轍が固まって車輪を阻み、湿れば底なしの泥濘となって荷車を呑み込んだ。当時の荷車(大八車)引きたちは、馬坂の手前に差しかかるたびに息を詰め、荷物を半分に降ろして二往復するか、余分な人足を雇って後押しを頼まねば登り切ることができなかった。

明治に入り、東海道線開通の気運や製茶・林産物の流通拡大に伴って交通量が増加するにつれ、この谷底の旧道は地域経済の決定的な隘路となった。そこで、ぬかるむ谷底を放棄し、「山の中腹」を切り拓いて新たな道路を付け替える計画が持ち上がったのである。坂の延長は約400メートル以上におよび、当時の土木技術としては山を削り谷を埋める相当な大工事であった。行政に頼る資金のないなか、民間人が自力で山腹を切り拓く決断を下した背景には、日々の通行に限界を感じていた地域住民の切実な悲鳴があった。

馬坂の旧道がこれほどの悪路であったのは、磐田原台地を構成する洪積層(赤土・粘土)の地質的特性にも起因していた。降雨があると、台地上の水はけの悪い土壌から大量の泥水が谷底へと集中し、路面の表土をことごとく削り取って深い洗掘溝(クレバス)を刻んだ。歩行者はぬかるみに足を取られて草鞋(わらじ)が千切れ、荷物を積んだ馬は蹄を滑らせて谷へ転落する危険が常に付きまとった。特に秋の収穫期や長雨の季節には、見付の町方へ米や茶、木炭を運ぶ農民たちの往来が完全に寸断され、周辺の村々の経済活動に深刻な打撃を与えていた。このため、谷底を避けて乾いた山腹を切り開き、安定した路盤を持つ新道を造成することは、地域全体の産業振興にとって避けて通れない最重要の課題であった。

明治17年、有志8名による民間有料道路の発起――道銭による費用償却

この大工事を主導したのは、行政(県や郡)ではなく、街道を利用する民間有志たちであった。見付山梨道は複数の町村にまたがっており、町村ごとの修繕負担では統一的な大改修ができなかったためである。町村境が複雑に入り組む地域では、誰がどの区画を直すかで紛争が起きやすく、事実上道路の体裁をなさないまま放置されていた。

明治17年(1884年)、沿道の有力者8名が立ち上がり、私財を投じて道路の大改良を発起した。向笠村誌に記録された発起人の顔ぶれは、見付町東坂の平野忠二郎、向笠西村の高塚太郎平、杉田源蔵、笠梅村の鈴木治平、深見村の伊藤藤七郎、内藤平馬、山梨村の岩本直吉、加藤九郎平の8名である。この顔ぶれを見ると、見付宿の商人から、向笠・笠梅の地主層、さらに北方の深見、山梨村の商業有力者に至るまで、街道全体の流通網に関わる関係者が一体となって結集していたことが分かる。なかでも高塚太郎平は、明治初年に全財産を投じて見付北方の新道を拓いたことで知られる人物であり(高塚太郎平新道参照)、ここでも民間土木の主導的役割を果たしていた。

山腹を削り、幅員を広げ、荷車が安全にすれ違える道路を新設するためには、莫大な工事費が必要であった。発起人たちは資金を立て替えて工事を完工させたが、その投下資本を回収・償却するために採用されたのが、通行者から「道銭(通行料)」を徴収するという方法であった。すなわち、民間資金でインフラを整備し、利用料によって投資を回収する、近代初頭における「民間有料道路(ターンパイク)」の試みであった。

静岡県令(当時の県知事)の認可を取り付け、正式な徴収期間を定めて発足した馬坂有料道路は、地域の期待を一身に背負って開通した。急勾配が緩和され、泥水に洗われる心配のない山腹の平坦路は、開通当初、多くの牛馬や大八車に歓迎され、近代的な流通の大動脈として機能し始めるかに見えた。

明治17年という時代背景にも注目する必要がある。この時期は明治政府による松方デフレ政策の最中にあり、地方の農村経済は極めて困窮していた。公的な道路整備予算が絶望的に不足するなか、地域の有力者たちが自発的に私財を拠出して大規模土木工事を起こしたことは、遠州地方に深く根づいていた「自助自立」の精神を象徴している。高塚太郎平や杉田源蔵らは、単に自分たちの利便性のためだけでなく、地域全体の近代化を民間の手で牽引しようという気概を持っていた。道銭の徴収による費用償却という仕組みも、欧米の近代交通制度をいち早く学び取り、受益者負担の原則を地方の山道に適用した先駆的な試みであった。発起人たちはそれぞれの集落で借入金をまとめ、工事資材を調達し、地域総出の人足動員を取りまとめた。

坂上の番所と「鬼ばば」の徴収記録――地域の記憶が伝える料金所

馬坂有料道路の料金徴収体制と「桜の谷」迂回構造図坂上の番所における通行料徴収基準と、料金を避けて人足が集中した桜の谷抜け道の利用比較【坂上番所】道銭徴収の仕組み番人:「鬼ばば」と呼ばれた老女が監視• 大人・小児:1人につき数厘〜1銭• 荷車・大八車:1台につき2〜3銭• 村内農民の耕作通行:無料(特例)※頬被りで耕作者を装う脱税トラブルも多発【桜の谷】無料の抜け道への流出実態:人足や荷車が間道へ自然集中• 坂下の柿の木様付近から分岐する谷筋• 日常利用の人足が数厘の支払いを回避• 有料道路の収入激減、8年で徴収廃止※後に桜の谷のルートが静岡県道として整備
馬坂有料道路の番所徴収基準と「桜の谷」迂回構造図。厳格な徴収と日々の支出を惜しむ人足の知恵比べが、無料の抜け道を幹線へと押し上げた。

馬坂有料道路が開通すると、坂の頂上付近に「番所(番小屋)」が設置され、厳格な料金徴収が開始された。向笠史談会の古老の聞き書きは、当時の徴収風景を生き生きと今に伝えている。

料金徴収の総責任者は発起人の杉田源蔵らであったが、日々の現場を任されていたのは毎日番所に詰めていた一人の老女であった。この番人の老婆は極めて剛直な性格で、その面相も恐ろしげであったため、通行人からは「鬼ばば」と呼ばれて恐れられていたという。老婆は頑丈な銭箱を前に据え、道を行き交う人びとを鋭い眼光でにらみつけていた。もし道銭を払わずに素通りしようとする者がいれば、脱兎のごとく追いかけてどこまでも料金を取り立てた。

ただし、村内の農民が坂周辺の自分の田畑へ耕作に通う場合は「通行料無料」と定められていた。これを利用して、一般の通行人が村内の耕作者を装い、手拭いで頬被りをして農民のふりをして通り過ぎるなど、知恵比べのような脱税(すり抜け)も行われた。時には老婆に見破られて怒声を浴びせられ、銭箱の前で押し問答になることも日常茶飯事であった。

当時の具体的な通行料の額面は古老の記憶から失われているが、大人、小児、車馬などの区分があり、大人一人で一銭〜五厘、荷車で二〜三銭程度であったと推測されている。米一升が数銭の時代、日々の往復で小銭を支払うことは、零細な農民や行商人にとって決して小さな負担ではなかった。この現金の痛みが、やがて有料道路の運命を大きく狂わせる引き金となっていく。

料金所となった番所は、粗末な木造の小屋であったが、街道を行き交う人びとにとっては、まさに現代の高速道路料金所(インターチェンジ)のような存在であった。番人の「鬼ばば」と呼ばれた老女は、発起人たちから厳格な徴収の全権を委託されており、その責任感の強さは並大抵のものではなかった。雨の日も風の日も、早朝の薄暗い時間から夕暮れ時まで番所に陣取り、街道の坂上を睨みつけていた。通行人の中には、小銭を惜しんで番所の手前で立ち止まり、老婆の目を盗んで一気に走り抜けようとする血気盛んな若者もいたが、老婆は驚くべき健脚で追跡し、大声で叱責して道銭を徴収したという。この厳格さと知恵比べの光景は、明治の片田舎における素朴な日常の一コマとして、村人たちの語り草となって長く記憶されることとなった。 通行人たちは「あの坂を越えるには鬼の目を掠めるか、正直に銭を払うかの二つに一つだ」と苦笑しながら語り合い、日々の労苦のなかに小さな笑い話を見出していたのである。

「桜の谷」の抜け道と有料道路の挫折――県道採用と柿の木様

厳格な徴収体制が敷かれたにもかかわらず、馬坂有料道路の経営はわずか8年で破綻を迎えた。有料道路を破綻に追い込んだ最大の原因は、行政の介入ではなく、民衆の足が自然に生み出した「抜け道」の存在であった。

馬坂の本道の東側には、通称「桜の谷(さくらのたに)」と呼ばれるなだらかな谷筋が存在していた。人だけで歩く場合、馬坂の本道に比べて距離は少し遠回りになるものの、坂の勾配が非常に緩やかで、息を切らさずに台地へ登ることができた。道銭を節約したい歩行者たちは、次第にこの桜の谷へと足を向け始めた。初めのうちは木々の間をくぐり、雑草を踏み分けて歩くかすかな踏み分け道に過ぎなかったが、利用者が集中するにつれて地面が踏み固められ、日が経つにつれて誰でも歩ける立派な間道(抜け道)へと成長していった。

こうして、歩行者や身軽な旅人は皆「桜の谷」を抜けてしまい、急坂の馬坂を通るのは、無料の地元耕作者と、荷物を満載して間道を通れない大八車・牛馬だけになってしまった。番所で待ち構えても肝心の通行料が入らず、抜け道を取り締まる法的な手段もなかったため、料金徴収は完全に不能に陥った。明治25年(1892年)、発起人たちは当初認可されていた徴収年限の途中で道銭徴収権を放棄し、道路を完全無料開放することを決断した。償却しきれずに残った多額の工事負債は、平野忠二郎、高塚太郎平、杉田源蔵ら発起人各自が自腹を切って負担し、発起人たちは経済的に大きな痛手を被った。

しかし、この民間人の挑戦は無駄にはならなかった。明治30年頃、静岡県によって「見付山梨間県道」の整備計画が具体化した際、台地を登る第一の有力ルートとして選定されたのが、皮肉にも馬坂の料金徴収を破綻させたあの「桜の谷」であった。台地を登る自然の地形勾配として、桜の谷が最も優れていることは、抜け道を利用した無数の人びとの足が証明していたのである。地主の反対等によって最終的な路線選定には曲折があったものの、馬坂の有料道路と桜の谷の競争は、近代道路の最適ルートを見つけ出す社会実験の役割を果たした。

一方、山腹に切り拓かれた馬坂の登り口には、古くから地域の人びとに親しまれる「柿の木様」が鎮座している。台風で倒されながらも自力で起き上がり、幹から幾本もの枝を直立させて蘇った柿の巨木を祀ったもので、足腰の平癒や神経痛除けの霊木として信仰され、男はわらじ、女は草履を奉納する風習が今に伝わる。急な坂道を登り降りした人馬の労苦、道銭をめぐる葛藤、そして足腰の無事を祈った素朴な祈り。馬坂の地に残る記録は、近代の幕開けとともに地域の人びとが切り拓いた交通の生々しい息づかいを物語っている。

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参考資料・史料上の限界

  • 向笠史談会編『ふる里向笠』、1984年、102~106頁「馬坂有料道路」および106~110頁「柿の木様」。
  • 発起人8名の氏名および明治17年発起・明治25年放棄の記述は、同書所引の向笠村誌道路沿革記録による。
  • 料金徴収所(番所)の様子、番人の老女、抜け道(桜の谷)の経緯は、同書が採録した地域古老の聞き書きに基づく。

更新履歴

  • 公開。明治17年の馬坂有料道路開削、有志8名の発起、番所の徴収、桜の谷抜け道と県道化の顛末を整理。

この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。