中泉社会史 / 講・災害復興
府八幡宮の鳥居講
安政地震からの再建
安政元年(1854年)の東海大地震で、府八幡宮の石鳥居が倒れた。すぐには再建できなかったため、氏子たちは「鳥居講」を組み、掛金を集め、必要な人へ利子付きで貸し、その利息も積み立てた。文久元年(1861年)に鳥居を再建するまでの記録は、信仰、金融、災害復興が一つの地域組織で結ばれた姿を伝える。
1. 安政東海地震で倒れた大鳥居
府八幡宮編・発行『府八幡宮ものがたり』によれば、東海道に面した大石鳥居は、正保4年(1647年)に代官で神主の秋鹿内匠が「唐石」で建てたと村方明細書上帳に記される。柱回り7尺3寸、直径約70センチ、高さ3間4尺、柱間3間とされ、200年近く立っていた。
安政元年11月4日、マグニチュード8.4とされる地震が遠州を襲い、鳥居は倒壊した。袋井宿では火災も起き、中泉の東町では18軒、西町では20軒が倒壊したと冊子は記す。境内南側に残された石材は、参詣口の目印だけでなく神社の象徴を失った災害の痕跡だった。
2. 17人がつくった「鳥居講」
倒れた翌年に石垣は修復できたが、鳥居再建には多額の資金が必要だった。氏子は講を結び、安政5年(1858年)に17人が1月と9月に集まり、1口3両ずつ掛金を出す仕組みを始めたという。
参加者には秋鹿・大場の両神職家に加え、見付寺、山田勘兵衛、山田徳左衛門、味噌屋孫八郎、太田清太夫、大橋平兵衛など中泉の有力者が並ぶ。町村明細から見付の人物も含まれた可能性が冊子では示される。鳥居再建が一町内に閉じない事業だったことが分かる。
17人。神職家、商家、地域有力者が加わる。
複数口を出す者がいて計27口。
冊子掲載文書では80両余に達した。
3. 掛金を貸し、利息を再建費へ戻す
世話人10人は鳥居完成まで掛金を集め、まとまった資金を必要な人へ貸し付けた。利子の一部を借り手へ返し、残りを積み立て、落札者から座料を受けて飲食の準備もしたと冊子は説明する。頼母子講・無尽に近い相互金融の仕組みである。
安政5年の「八幡宮御鳥居講掛金控帳」には掛金と受取済みの記載が残り、複数口で入札した例もあるという。現金を一度に集めるだけでなく、貸付と利息で資金を育てた点に鳥居講の工夫がある。
| 段階 | 仕組み | 役割 |
|---|---|---|
| 掛金 | 参加者が口数に応じて拠出 | 共同資金をつくる |
| 入札・貸付 | 必要な人が資金を借りる | 地域内の資金需要に応える |
| 利息 | 利息の一部を積み立てる | 再建資金を増やす |
| 再建 | 石材・工事費へ支出 | 共同目的を実現する |
4. 岡崎から二之宮、今之浦へ石を運ぶ
資金が整うと、講は石屋へ鳥居を注文した。冊子は石工を新居町中之郷と豊橋市の人物かと推定する。石材は三河の岡崎方面から船で福田へ運び、今之浦川を川舟で二之宮河岸へ上げ、そこから人足で神社まで運んだと考える。
文久元年(1861年)に再建されたことは棟札で確認される。棟札には神主秋鹿左馬助藤原朝道、大場図書藤原周久・大禰宜藤原重光、村役人、大工、世話人の名があり、末尾に「総百姓中」と記されたという。個人の寄進ではなく、氏子全体の事業として位置づけられた。
5. 残金59両が学校建設へ
鳥居が完成しても講はすぐ解散せず、明治4年(1871年)時点で59両の残金があった。冊子によれば「学校え差出候」と記され、学校建設資金へ寄付された。
秋鹿神主家の玄関・書院も仮校舎として利用され、明治6年(1873年)に中泉小学校の前身が開校した。鳥居を再建した共同資金が、次には近代教育へ向かったのである。秋鹿家と学校の記事と合わせると、神社を核にした地域組織が学校成立へ接続したことが見える。
6. 文書をどう読み直すか
基礎資料の『府八幡宮ものがたり』は、中央図書館に残る鳥居講文書5冊、棟札、村方明細書を要約した二次資料である。掛金控帳、入札名前年帳などは一次史料だが、本稿では冊子掲載写真と解説を介して読んでいる。
今後は5冊の全文翻刻、17人の身分・居所、27口と80両余の計算、貸付利率、返済期間、石工・石材産地、輸送経路を照合したい。境内の建築と石造物、府八幡宮総合史へつなぐことで、一基の鳥居から幕末中泉の社会経済を復元できる。
参考資料
- 府八幡宮編・発行『府八幡宮ものがたり』2007年10月1日、14〜17頁
- 同冊子が紹介する「八幡宮御鳥居講掛金控帳」ほか鳥居講文書5冊、再建棟札、村方明細書上帳(原本未照合)
更新履歴
2026年7月31日 初版公開。