遠州報徳運動と磐田 ──
勤倹と推譲が村を立て直した
報徳とは ── 至誠・勤労・分度・推譲
報徳(ほうとく)は、小田原藩領に生まれた農政家・二宮尊徳(にのみやそんとく、通称・金次郎、1787〜1856)が説き、実践した思想である。薪を背負って歩きながら本を読む少年像でおなじみの尊徳は、貧しい農家に生まれ、辛苦のなかで学び、やがて荒れ果てた村々を次々に立て直す名手として知られるようになった。その手法の根底にあったのが、道徳と経済は対立するものではなく、一体のものだ、という考え方である。「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は寝言である」── のちにこう要約されるこの思想が、報徳の核心だった。
報徳の教えは、四つの柱で成り立っている。第一に、何ごとにも誠を尽くす「至誠(しせい)」。第二に、こつこつと身を惜しまず働く「勤労(きんろう)」。第三に、自分の収入の身の丈を知り、それに応じて支出の上限をあらかじめ定める「分度(ぶんど)」。そして第四に、分度を守って生まれた余剰を、借金の返済や将来のための貯蓄、あるいは他者や次の世代への譲りにあてる「推譲(すいじょう)」である。単なる精神論に終わらず、村や家の収支を帳簿で正確に把握し、計画的に積み立てるという、きわめて具体的で実務的な技術を伴っていた点に、報徳の強みがあった。だからこそ、飢饉や借金で荒れ果てた農村を実際に立て直す、確かな処方箋になり得たのである。
安居院庄七 ── 遠州に種をまいた行商人
尊徳の教えは、本人が住んだ相模・下野を中心に広まったが、それを遠く遠州へ運んだのは、意外な人物だった。相模国出身の安居院庄七(あぐいしょうしち、義道。1789〜1863)である。庄七はもともと行商人だった。全国を歩いて商いをするなかで尊徳の報徳の教えに出会い、深く傾倒する。そして、商いのかたわら、あるいは商いをなげうって、遠州の村々を歩き、報徳の実践を熱心に説いてまわったのである。学者でも役人でもない一介の行商人が、思想の種を運ぶ ── 報徳が遠州に広まる出発点は、そんな草の根の伝道だった。
弘化4年(1847年)、庄七の勧めによって、現在の浜松東部の下石田(しもいしだ)村に、神谷与平治(かみやよへいじ)を中心とする報徳社が結成される。これが、遠州における報徳結社の始まりとされる。注目すべきは、この下石田村が、天竜川を挟んで磐田のちょうど対岸にあたる村だったことである。報徳の火は、磐田のすぐ近くで灯された。飢饉と貧困に苦しむ村を、藩や幕府の救済にすがるのではなく、村人自身の勤倹と積立、そして助け合いによって立て直す ── この自助・共助の方法論は、大きな藩の保護を持たない天領・旗本領の入り組む遠州の村々の実情に、驚くほどよく合っていた。頼れる殿さまがいないなら、自分たちで立て直すしかない。報徳は、まさにそういう土地の思想として、遠州に根を下ろしたのである。庄七がまいた一粒の種は、磐田のすぐ隣の村で、確かに芽を吹いた。
報徳王国・遠州
庄七がまいた種は、幕末には遠州各地で芽を出し、明治に入って一気に広がった。あちこちの村に報徳社が生まれ、やがて乱立する結社をまとめる必要が生じる。明治8年(1875年)には、それらを束ねる遠江国報徳社が組織され、のちに掛川を本拠とする大日本報徳社(だいにっぽんほうとくしゃ、明治44年改称)へと発展した。この大日本報徳社は、いまも掛川に明治期の立派な講堂を残し、報徳運動の総本山として全国に知られている。遠州が報徳の中心地であったことの、動かぬ証しである。
その広がりは、群を抜いていた。明治末期には、全国にあった報徳社のじつに大半が、この遠州に集中していたとされる。二宮尊徳が一度も定住したことのないこの土地が、報徳運動の最大の拠点になったのである。人々はこれを「報徳王国」と呼んだ。なぜ遠州でこれほど広まったのか ── その答えの一つは、報徳が単なる道徳の教えにとどまらず、実際に役立つ経済の仕組みを備えていたことにある。村人が少しずつ金を出し合って共同の基金をつくり、必要な者に無利子や低利で貸し付け、返済によって基金を維持していく「報徳金」の仕組みは、金融機関の乏しい農村にとって、まさに救いの仕組みだった。
別稿(遠州の学問の土壌)で扱ったとおり、竜洋の寺子屋教育の系譜にも、報徳運動の影響は流れ込んでいる。勤倹・積立・共同 ── この報徳の型は、明治以降、産業組合(さんぎょうくみあい、農協の前身)や信用組合といった近代の協同組織の受け皿にもなった。みんなで出し合い、みんなで支え合うという発想は、報徳から近代の協同組合へと、なめらかに受け継がれていったのである。遠州の農村が、明治の激動のなかで比較的しぶとく近代化を進められた背景には、この報徳が育んだ、自分たちのことは自分たちで立て直すという自助・共助の文化があったといってよい。頼れる殿さまを持たなかったこの土地は、報徳を通じて、「自立して助け合う」術を身につけていたのである。
安居院庄七の事績、弘化4年の下石田村報徳社の結成、明治8年の遠江国報徳社、大日本報徳社への発展、明治末期の遠州への集中は、研究資料で確認できる。一方、磐田市域の個々の村の報徳社の結成年・活動内容・報徳金の運用実態は今回の調査では網羅できておらず、各地区の村文書・報徳社の記録での個別確認が今後の課題である。本稿は、遠州全体の報徳運動の流れと、そのただ中に磐田が位置していたことを示すにとどめる。
磐田の村々と報徳 ── これからの調査課題
では、その報徳王国のただ中にある磐田は、どうだったのか。正直に言えば、磐田市域の報徳運動の具体像は、まだ十分に掘り起こされていない。しかし、状況証拠は驚くほど揃っている。遠州最初の報徳社が生まれた下石田村は、天竜川を挟んだ磐田の対岸の隣村である。そして、運動の総本山・大日本報徳社が置かれた掛川は、磐田のすぐ東隣である。地図を広げれば一目瞭然だが、磐田は、報徳運動の「発祥地」と「中心地」に、西と東からぴたりと挟まれた回廊のような位置にあった。この土地に報徳の影響が及んでいなかったと考えるほうが、むしろ不自然である。人と物と思想が行き交う遠州のただ中で、磐田だけが報徳と無縁でいられたはずはない。
名望家たちが村の立て直しに携わった時代、磐田原の開発や水利の共同管理、あるいは明治の村の運営のような「みんなで力を出し合い、積み立てて、みんなで直す」型の事業の背後に、報徳的な発想がどれほど働いていたのか。校庭に立つ二宮金次郎像は、たまたま全国で流行したから建てられたのか、それとも遠州ならではの報徳の伝統の表れなのか。こうした問いに答えるべく、各地区に残る報徳社の記録や、地元の指導者たちの事績を一つずつ確かめていくことが、磐田物語がこのテーマで果たすべき、次の大きな宿題である。答えはきっと、意外なほど身近な場所 ── 地元の古い集会所や、旧家の蔵、あるいは学校の沿革のなかに、静かに眠っているはずである。
遠州報徳運動のあゆみ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 天保年間〜 | 安居院庄七、二宮尊徳の教えに傾倒し遠州で布教 |
| 弘化4年(1847) | 下石田村(現浜松市東部)に遠州最初の報徳社。神谷与平治ら |
| 文久3年(1863) | 庄七没 |
| 明治8年(1875) | 遠江国報徳社の組織化 |
| 明治44年(1911) | 大日本報徳社と改称(本拠・掛川)。明治末期、報徳社は遠州に集中 |
「やらまいか」と「報徳」── 遠州の両輪
最後に、遠州という土地の性格について考えてみたい。遠州には、進取の気性を尊ぶ「やらまいか」の気質(別稿)がある。とにかくやってみよう、挑戦してみようという、前へ出る気風である。これが遠州のアクセルだとすれば、報徳は、そのブレーキであり、貯金箱だったといえる。分度を守り、身の丈を知り、堅実に積み立てる ── 報徳は、挑戦の勢いを、無謀な破綻から守る役割を果たした。
攻めの「やらまいか」と、守りの「報徳」。一見正反対に見えるこの二つの気風が、同じ遠州の土地に同居していたこと ── そこにこそ、遠州の農村と、のちの遠州の産業(ヤマハやスズキを生んだ土壌)のしぶとさの、秘密が隠されているのかもしれない。大胆に挑み、しかし堅実に足場を固める。この二つの気風のバランスが、この土地を鍛えたのである。校庭のすみに立つ二宮金次郎の像は、多くの人にとって見慣れた風景の一部にすぎない。しかしその像が、遠州にとっては、単なる全国的な流行ではなく、この土地に深く根を張った報徳の伝統の象徴なのだということ ── それを磐田の子どもたちに語り直すためにも、この土地の報徳の記憶は、いま掘り起こしておく価値がある。一介の行商人が運んだ思想の種が、遠州じゅうの村を立て直し、やがて近代の協同組合へと実を結んでいった ── その静かな歴史は、地味に見えて、この地方の底力を語るうえで欠かせない一章なのである。
主な参考資料
- 農林中金総合研究所「協同組合の原点「二宮尊徳の報徳」を広めた安居院庄七」
- Wikipedia「安居院義道」、森町「報徳報本社の成立と地域社会」
- 磐田物語「遠州の学問の土壌」「磐田の村を動かした「名望家」」「磐田の水争いと村の共同体」「磐田の相給村」
磐田市域の個々の報徳社の記録は未網羅であり、本文中で課題として明示している。
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