磐田の相給村 ──
一つの村に、いくつもの殿さま
相給とは何か
相給とは、一つの村の田畑と百姓を、二人以上の領主が分け合って支配する形態をいう。村がまるごと一人の大名の領地になるのではなく、「この村の石高500石のうち、300石は旗本A殿の知行(ちぎょう)、200石は天領(てんりょう、幕府直轄領)」というように、帳簿の上で村が切り分けられるのである。二人の領主で分けるなら「二給(にきゅう)」、三人なら「三給(さんきゅう)」と呼び、細分化が進んだ村では五給、六給に及ぶこともあった。
ここで大切なのは、分けられるのがあくまで「年貢の取り分」であって、村の土地そのものに境界の柵が立つわけではない、という点である。田んぼが物理的に分割されるのではなく、A家に年貢を納める百姓と、幕府に年貢を納める百姓とが、同じ村のなかに混在する。隣り合う二枚の田で、耕す者は隣どうしの顔なじみなのに、年貢を納める相手が違う ── 現代の感覚では奇妙に思えるこの状態こそが、相給村のありふれた日常だった。一つの村が、目に見えない支配の線で、複雑に縫い分けられていたのである。
なぜ磐田に相給が多かったのか
相給は全国どこにでもあったが、磐田はとりわけその入り組みが激しい土地だった。理由は、この地方の歴史にある。徳川家康が関東へ移り、のちに天下を取ると、故地に近い遠江は、徳川にとって特別な意味を持つ土地となった。ここは大きな外様大名にまとめて与えるのではなく、幕府の直轄領(天領)と、将軍直属の家臣である旗本(はたもと)への知行地とに、細かく編成し直されたのである。
磐田の中心部には中泉代官所が置かれ、広大な天領を差配した。そしてその周囲に、江戸に住む旗本たちの知行地が、数百石単位でモザイクのようにはめ込まれていった。皆川陣屋の旗本皆川氏(1800石)のように、現地に陣屋を構えて直接支配する例もあったが、多くの旗本は江戸に住んだまま、代官や用人を派遣して年貢だけを取り立てる不在領主だった。一つの大名が広い領国をまとめて治める城下町とは対照的に、磐田では、幕府の代官所と無数の旗本知行、さらには近隣諸藩の飛び地までが、複雑に重なり合っていた。磐田に相給が多いことは、裏を返せば、この土地が徳川にとって手放しがたい直轄色の濃い土地だったことの、何よりの証しなのである。
江戸時代の磐田市域が天領(中泉代官所支配)・旗本領などの錯綜する土地だったことは、市域の近世史資料で確認できる。一方、個々の村がいつ・何給で、どの領主に分けられていたかは村ごとに変遷があり、本稿では特定の村の給数を断定していない。個別の村の支配関係は、旧高旧領取調帳や各村の古文書での確認が必要である。
なぜ知行は細かく分かれたのか
そもそも、なぜ一つの村がこれほど細かく分割されることになったのか。背景には、旗本という存在の性格がある。旗本は、将軍から知行を与えられた直参の家臣だが、その所領は必ずしも一か所にまとまっていなかった。恩賞として少しずつ加増されるたびに、あちこちの村に飛び地のように知行が積み重なっていったのである。また、旗本の家で相続の際に所領を子どもたちに分け与える「分知(ぶんち)」が行われると、一つの村の知行がさらに細かく分かれることもあった。
こうして、幕府が意図的に設計したというより、加増と分知と代替わりの積み重ねの結果として、遠江の村々は、知行の継ぎはぎ細工のような姿になっていった。相給の複雑さは、二百数十年にわたる徳川の統治が、村の上に静かに堆積させた「時間の地層」でもあるのだ。だからこそ、一つの村の給の構成を丹念に調べれば、そこに幕府や旗本家の歴史が、いくつも折り重なって見えてくる。
相給村の暮らし ── 帳簿は別、暮らしは一つ
相給村の運営は、外から見るより複雑で、しかし内から見ると案外に単純だった。まず、複雑な側面である。年貢の勘定は領主ごとに別々に行われ、その帳簿を作る庄屋(名主)や、年貢の割り付けも、給ごとに分かれる場合があった。そのため、一つの村に庄屋が二人、三人と並び立つ、という現代では考えにくい事態も起こり得た。村の代表者が、支配の系統ごとに複数いたのである。
ところが、暮らしの側面から見ると、話は単純になる。用水の管理、道や橋の普請、水争いの調停、祭りの運営、そして村の治安 ── こうした村の共同の営みは、給の線をやすやすと越えて、村全体で行われた。これを可能にしたのが「村請制(むらうけせい)」という江戸時代の支配の根本原則である。幕府や領主は、年貢の徴収も治安の維持も、個々の百姓にではなく、村という共同体にまとめて請け負わせた。だから、帳簿の上で村がいくつの給に分かれていようと、村人にとっての生活の単位は、あくまで一つの村だった。帳簿の上では切り分けられ、暮らしの上ではしっかりつながっている ── 相給村は、近世社会の「支配」と「共同体」という二つの層の関係を、最も鮮やかに見せてくれる存在なのである。
やっかいごとの種として
もっとも、領主が複数いることは、村にとって面倒の種でもあった。同じ村なのに、年貢率や賦課のタイミングが給ごとに違えば、百姓のあいだに不公平感が生まれる。訴えごとや願いごとを起こすにも、「これはどの領主に出すべき案件か」を、まず見きわめねばならない。複数の領主にまたがる問題なら、それぞれに別々の願書を出す手間もかかった。助郷(すけごう)のような街道の夫役(ぶやく)が村に課されるときも、村の中で「どの給が何人・何頭を出すか」という負担割りの調整が必要になり、しばしば内輪の争いの火種になった。
こうした複雑さのなかで、村が自らを保つために発達させたのが、村独自の自治の仕組みである。福田村の五人組帳が示すような、村の掟(おきて)と五人組の編成、村役人の取り決め ── これらは、支配がばらばらだからこそ、村が内側からまとまるために磨き上げた、自己組織化の道具だったと見ることができる。皮肉なことに、支配の複雑さが、かえって村の結束と自治の力を鍛えたのである。相給という一見やっかいな仕組みは、磐田の村々を、したたかで自立した共同体へと育てる、思わぬ鍛錬の場でもあった。
明治維新 ── 相給の解消
何世代にもわたって続いた相給の入り組みは、明治維新で一気に整理される。版籍奉還と廃藩置県によってすべての領主権が消滅し、村々は等しく県の管轄に入った。さらに地租改正によって、年貢は領主への米納から国家への金納地租に変わり、「誰の給か」という問いそのものが意味を失う。旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)という明治初年の全国調査台帳に、各村の旧領主の名が記録として書き留められたのを最後に、「相給」は生きた制度ではなく、歴史の語彙になった。二百数十年にわたって村々を縫い分けてきた支配の線は、わずか数年のあいだに、きれいさっぱり消えたのである。
しかし、制度が消えても、その痕跡までがすぐに消えたわけではない。村ごと・字(あざ)ごとに微妙に異なる土地の慣行、用水の分配の取り決め、帳簿の系譜、そして家々の力関係には、複数の殿さまに仕えた時代の記憶が、その後も長く尾を引いた。いまも旧家に伝わる古文書や、地区ごとの慣習の違いのなかに、かつての相給の名残を見いだせることがある。制度は消えても、土地の記憶は簡単には消えない ── それを掘り起こすことが、地域史の一つの役目でもある。
相給を知ると見えてくるもの
| 相給 | 一村を複数領主が分割支配する形態。二給・三給〜六給も |
|---|---|
| 磐田の支配構造 | 中泉代官所の天領+旗本知行+諸藩飛地の錯綜(城下町なし) |
| 村の実態 | 年貢は給ごと、用水・普請・祭りは村全体。村請制が共同体を保った |
| 解消 | 明治の版籍奉還・廃藩置県・地租改正で消滅。旧高旧領取調帳に痕跡 |
ここまで見てきたことを、一つの逆説にまとめておきたい。磐田の近世を「殿さまのいない土地」と呼ぶのは、正確ではない。正しくは、「殿さまが多すぎた土地」である。浜松のような城下町の威容も、藩というまとまりも、磐田にはなかった。しかし、その代わりに、代官所と無数の旗本知行が織りなす複雑な支配の網の目があった。
そして、この複雑さこそが、かえって村の自治の力を鍛えたのである。領主が頼りにならず、支配がばらばらだからこそ、村は自らの手で用水を守り、争いを裁き、祭りを営み、共同体としてまとまらねばならなかった。この自治の経験の蓄積が、やがて明治の名望家たちを生み、報徳運動のような自助の思想を受け入れる土壌になり、近代の磐田を担う人材を育てていく。派手な城も大名もない、地味きわまりないテーマに見える相給 ── しかし、そこにこそ、磐田という土地の近世の、そして近代へと続く骨格が隠されているのである。城下町の物差しで測れば「何もない土地」に見える磐田の底力は、この殿さまの多すぎた歴史のなかで鍛えられた。
主な参考資料
- 旧高旧領取調帳(明治初年。近世村の領主関係を知る基本台帳)
- 磐田物語「石高が語る、元禄の磐田」「中泉代官所と、徳川の天領を治めたまち」「皆川陣屋跡と稲荷山」「福田村五人組帳」
個別の村の給数・領主構成は本稿では断定せず、一般的な仕組みと磐田の支配構造の記述にとどめている。
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