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磐田物語 / 大区小区制と戸長役場
磐田共通 | 明治・行政

大区小区制と戸長役場 ──
明治初期、磐田の村はどう治められたか

庄屋や名主が村を仕切った江戸時代と、市町村役場のある現代のあいだには、あまり語られない約20年間の空白がある。番号で呼ばれる「大区」「小区」、聞き慣れない「戸長役場」。制度の試行錯誤が続いたこの時代を知らないと、磐田の村々の明治は読み解けない。

庄屋の廃止 ── 千年の村役人が消える

明治新政府がまず取りかかったのは、江戸時代の身分制度と固く結びついた村の支配機構を、解体することだった。江戸の村を仕切っていたのは、庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・年寄(としより)・組頭(くみがしら)といった村役人である。彼らは百姓身分でありながら、代々その家柄で村政を担い、領主と村人のあいだをつなぐ要の存在だった。新政府は、明治4年(1871年)の戸籍法の施行にあわせて、この旧来の村役人の呼称を廃止し、かわりに戸籍事務を担う「戸長(こちょう)」「副戸長」を置くことにした。

福田村の村役人表が、庄屋・組頭・百姓代の名を慶応4年(1868年)まで律儀に載せて、そこでぷつりと途切れているのは、まさにこの制度の切れ目を映している。もっとも、呼び名は変わっても、実際に戸長の職に就いたのは、多くの場合、旧来の庄屋層その人だった。制度の衣だけが替わり、それを着る人の顔ぶれは、かなりの部分そのまま続いたのである。この「制度は変わっても人は続く」という構図は、以後の目まぐるしい変転を通じて、磐田の村を支え続ける底流になっていく。

大区小区制 ── 村を番号で呼んだ時代

明治5年(1872年)ごろから全国で施行された大区小区制(だいくしょうくせい)は、それまでの村のあり方を根本から無視した、大胆な制度だった。府県の下に「大区」を置き、そのなかに複数の村をまとめた「小区」を配する。大区には区長、小区には戸長が置かれ、村々はそれぞれ「第◯大区第◯小区」という、そっけない番号で呼ばれることになった。何百年と受け継いできた村の名は、行政の表からいったん姿を消したのである。

歴史ある村名を無視し、地図を機械的に区切っていくこのやり方は、いかにも中央集権を急ぐ新政府らしいものだった。しかし、番号で呼ばれる区割りは土地の実情に合わず、住民にも、実務を担う戸長たちにも、すこぶる不評だったと伝えられる。長年の生活圏や地縁を断ち切る区割りは、かえって行政を混乱させた。磐田市域の村々も、この時期は浜松県(のち静岡県に統合)のもとで、大区・小区に編成されていた。古地図に村の名を探すで扱うような明治初期の文書に「第◯大区」という肩書きが現れたら、それは、この短命に終わった番号行政の時代の、確かな痕跡である。

村の呼び名は、20年で五度変わった 江戸〜明治4 庄屋・名主の村 明治5〜11 大区小区(番号) 明治11〜 郡+村名の復活 明治17〜 連合戸長役場 明治22〜 近代町村 番号行政の失敗を経て、古代以来の「郡」と「村名」が呼び戻された
図1 明治初期の地方制度の変遷。庄屋の村から番号行政を経て、郡と村名が復活し、近代町村へ至る。
確認できること・できないこと
戸長への切り替え(明治4年ごろ)、大区小区制(明治5年ごろ〜11年)、郡区町村編制法(明治11年)、連合戸長役場(明治17年ごろ〜)、町村制(明治22年)という制度の流れは、地方制度史の概説で確認できる。磐田市域の各村が具体的に第何大区第何小区に属したかの割当てや、連合戸長役場の管轄の組み合わせは、本稿では網羅しておらず、旧村文書・静岡県史・各地区の沿革資料での個別確認が必要である。本稿は全国共通の制度の流れと、磐田の村がその中に置かれていたという枠組みを示すにとどめる。

郡の復活と戸長役場 ── 明治11年の軌道修正

住民に不評だった大区小区制は、わずか数年で行きづまった。そこで政府は方針を転換し、明治11年(1878年)の郡区町村編制法(ぐんくちょうそんへんせいほう)によって、番号行政を廃止する。ここで呼び戻されたのが、古代以来の由緒を持つ「郡」だった。磐田郡・山名郡・豊田郡といった、律令の昔から人々になじんだ郡が、行政単位として復活したのである(郡の再編については別稿参照)。そして村には、番号ではなく、再び固有の名前と戸長が戻ってきた。人為的な区割りより、歴史に根ざした枠組みのほうが、結局は行政をうまく回す ── 番号行政の失敗は、そのことを政府に教えた。

さらに明治17年(1884年)ごろからは、数か村をまとめて一つの「連合戸長役場(れんごうこちょうやくば)」を置く方式が広がった。一人の官選(かんせん、官が任命する)戸長が、複数の村をまとめて受け持つ仕組みである。財政の乏しい小さな村を、単独で運営させるには無理があった。そこで、いくつかの村を一つの単位にまとめて効率化を図ったのだが、これは結果として、その先に来る町村合併の、いわば予行演習になった。このとき組まれた連合の組み合わせが、のちの明治22年の大合併で誕生する新しい町村の輪郭を、かなりの程度まで先取りしていたのである。制度は迷走しているように見えて、じつは少しずつ、近代の自治体へと近づいていた。

明治22年、町村制 ── 「村」が生まれ変わる

そして、二十年に及ぶ試行錯誤の到達点が、明治22年(1889年)の市制町村制(しせいちょうそんせい)である。これによって、近代的な自治体としての町村がようやく発足した。単なる行政の区割りではなく、独自の財産と議会を持ち、自らの手で運営する「自治体」としての町村の誕生である。磐田市域では、見付中泉をはじめ、無数の江戸の村々が合併し、見付町・中泉町・御厨村・福田村といった、より大きな新しい町村にまとめ直された(各地区の合併の経過は「まちの成り立ち」連載と各地区の「成り立ち」記事に詳しい)。

このとき生まれた枠組みは、驚くほど長持ちしている。江戸時代の一つひとつの村が、そのまま新しい町村の「大字(おおあざ)」となって名を残し、その大字を束ねた町村が、今日の地区(旧町村)の骨格になった。私たちがいま使っている「磐田市○○(旧町村名)△△(大字)」という住所の二重構造は、まさにこの明治22年に形づくられたものなのである。目の前の住所の一行に、二十年の制度の試行錯誤と、その先にある江戸の村の記憶が、幾重にもたたみ込まれている。ふだん何気なく書いている住所は、じつは明治の地方制度史の、生きた化石なのである。

明治22年 ── 村が町村へ、旧村は「大字」に A村 B村 C村… 江戸以来の村々 合併 ○○町・○○村 近代の自治体(議会・財産) 旧村=大字 今の住所に残る
図2 明治22年の合併。江戸の村々が一つの町村に統合され、旧村名は「大字」として現在の住所に生き残った。

制度の変遷 ── 早わかり年表

制度村のかたち
〜明治4年(1871)江戸以来の村請制庄屋・名主・組頭が村を運営
明治4〜5年戸籍法・戸長設置庄屋廃止、戸長・副戸長へ
明治5〜11年大区小区制「第◯大区第◯小区」の番号行政
明治11年(1878)郡区町村編制法郡の復活。村名と戸長の復権
明治17年(1884)ごろ連合戸長役場制数か村で一役場。合併の予行演習
明治22年(1889)市制町村制合併により近代町村が発足

なぜ、これほど制度は変わったのか

庄屋の村から近代町村まで、わずか二十年で五度も枠組みが変わったのはなぜか。背景には、明治新政府が抱えた根本的な難題があった。新政府は、徴税、徴兵、就学(小学校)、戸籍といった、近代国家に不可欠な仕事を、全国津々浦々の村まで行き渡らせねばならなかった。ところが、江戸時代の村は、身分制と結びついた古い自治のかたちのままで、そのままでは近代の行政の受け皿になりにくい。そこで政府は、村の枠組みをどう組み替えれば効率的に統治できるかを、試行錯誤で探り続けたのである。

大区小区制の失敗は、「効率だけを優先して歴史や地縁を無視すると、かえってうまくいかない」という教訓を残した。その反省の上に、郡と村名を復活させ、連合戸長で規模を整え、最後に自治体としての町村にたどり着く。二十年の迷走は、無駄な回り道ではなく、近代の地方自治にふさわしい「村のかたち」を手探りで見つけていく、必要な過程だったともいえる。磐田の村々は、その全国規模の実験の、一つひとつの現場だった。

制度の隙間を埋めた人々

ここまで、庄屋の廃止から町村制まで、二十年間の制度の変転を追ってきた。番号で呼ばれ、郡が復活し、連合戸長が置かれ、そして自治体としての町村が生まれる ── 上から見れば、これは目まぐるしく迷走する制度改革の連続である。しかし、下から、村の側から見ると、少し違った風景が見えてくる。

めまぐるしく変わる制度の下で、実際に村を回し続けたのは、旧庄屋層を中心とする地元の名望家(めいぼうか)たちだった。磐田の村を動かした「名望家」で描いたように、地主であり、ときに教員であり、村役人でもあった彼らは、戸長として、連合戸長として、そして新町村の村長・助役として、制度が衣替えするたびに、新しい肩書きをまとって同じ顔で現れた。制度の名は変われど、村の実務を担う人は、そう簡単には変わらなかったのである。

だから、明治の地方制度史は、条文がどう変わったかという「制度の歴史」であると同時に、そうした地元の人々が、どんな制度の下でも村の暮らしと実務を途切れさせなかった、「人の歴史」でもある。地租改正の煩雑な実務も、小学校の設立も、戸籍の整備も、みな彼らの机の上を通っていった。制度は二十年間、番号だ郡だ連合だと迷走した。しかし、村そのものは迷走しなかった ── その底の安定こそが、磐田の明治初期の実像に、いちばん近いのではないだろうか。国家が上でめまぐるしく制度をいじるあいだも、村は、それを受けとめる地元の人々の力によって、静かに、しかし途切れることなく回り続けていたのである。制度の変転を語る歴史の陰に、そうした無名の担い手たちがいたことを、忘れずにおきたい。

主な参考資料

磐田市域の大区小区の具体的な区割りは未網羅であり、本文中でその旨を明示している。

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。