ヤマハ発動機と企業城下町としての磐田 ──
1955年の分離独立から御厨へ
楽器メーカーから飛び出した、もう一つのヤマハ
ヤマハ発動機株式会社は、1955年(昭和30年)7月1日、日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ株式会社)から分離独立して誕生した。初代社長には、日本楽器製造の社長でもあった川上源一が就任している。楽器メーカーであった日本楽器製造が、なぜオートバイや船外機を手がける会社を独立させたのか。戦後の混乱期、遊休化していた工作機械や技術者の力を、新しい分野――輸送用機器の製造へと転用しようとした試みが、この分離独立の背景にあった。
磐田工場の稼働と、量産体制の確立
ヤマハ発動機にとって大きな転機となったのが、磐田工場の建設である。1961年(昭和36年)、磐田工場の新設が正式に決定され、1963年(昭和38年)から本格的に稼働を開始した。この工場の整備によって、二輪車と船外機の両方を大量生産できる体制が整えられたことは、その後のヤマハ発動機の成長にとって決定的な意味を持った。磐田という土地が、単なる一工場の立地先から、企業の中核を担う生産拠点へと重みを増していった時期である。
分離独立の年月日、初代社長、磐田工場の新設決定・稼働開始年、本社の御厨移転年については、公的な情報源等で確認できる。一方、磐田工場が具体的にどのような経緯で立地先として選ばれたのか(用地取得の詳細な経緯等)については、今回のWeb調査の範囲では確認できていない。
本社が、御厨へやってきた
1972年(昭和47年)2月、ヤマハ発動機は本社を磐田市新貝(しんがい)に移転した。磐田物語の別稿で触れたとおり、新貝は古代の国分寺瓦を焼いた窯跡が残る土地でもある。古代の「ものづくり」の記憶が眠る土地に、現代の機械工業を担う本社が置かれたことは、単なる偶然というより、この一帯が古くから生産と製作に適した土地であり続けてきたことの、一つの表れなのかもしれない。
「やらまいか」気質が生んだ企業
磐田物語の別稿(遠州弁辞典)で触れたとおり、遠州地方には「やらまいか(一緒にやろうじゃないか、とにかくやってみよう)」という言葉に象徴される、進取の気性を尊ぶ気質があるとされる。失敗を恐れず新しいことに挑むこの気質は、ヤマハ発動機やスズキといった、遠州を代表する企業を生んだ風土的な支柱ともいわれている。日本楽器製造という老舗企業のなかから、あえて畑違いの輸送用機器という新分野に挑む部門を独立させたヤマハ発動機の成り立ちそのものが、この「やらまいか」気質を体現する事例だったと見ることもできるだろう。
企業城下町としての磐田、御厨の現在
本社移転以降、磐田工場を中心とする周辺地域は、ヤマハ発動機とともに発展を続けてきた。磐田物語の別稿(御厨駅と現代の御厨)で触れたとおり、現在の御厨地区は、ヤマハ発動機の本社・工場群と、Jリーグ・ジュビロ磐田のホームスタジアム「ヤマハスタジアム」を擁する、産業とスポーツの拠点となっている。ジュビロ磐田自体も、もともとヤマハ発動機のサッカー部を母体としたクラブであり、企業の存在が、地域のスポーツ文化の形成にも直接つながっている。近年は「Town eMotion」という名称で、ヤマハ発動機と地域住民が協働してまちづくりに取り組むプロジェクトも進められており、単なる「工場のある町」から一歩進んだ関係が模索されている。
磐田市域には、城之崎遺跡のように、ヤマハ発動機の社員寮建設計画がきっかけとなって発掘調査が行われた場所もある。企業の経済活動が、意図せず地域の考古学的な記憶を掘り起こす契機になった例であり、ヤマハ発動機と磐田という土地との関わりが、単に雇用や税収にとどまらない、多層的なものであることをうかがわせる。
| 1955年7月1日 | 日本楽器製造から分離独立。初代社長は川上源一 |
|---|---|
| 1961〜1963年 | 磐田工場の新設決定、本格稼働。二輪車・船外機の量産体制を確立 |
| 1972年2月 | 本社を磐田市新貝に移転 |
| 現在の御厨 | 本社・工場群、ヤマハスタジアム、Town eMotionによる協働まちづくり |
主な参考資料
本記事は、上記資料を参考にしつつ、磐田物語の編集方針に基づいて独自に再構成したものである。磐田工場の立地選定の詳細な経緯等は今回のWeb調査では確認できておらず、本文中で確認できた点とできない点を区別して記している。
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