失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 日清・日露戦争と磐田
磐田共通 | 近代・戦争の記憶

日清・日露戦争と磐田 ──
忠魂碑が建てられた時代

磐田物語の戦争・平和特集は、太平洋戦争の記憶を39人の証言で記録した。しかし、村の若者が国家の戦争へ送られる時代は、その半世紀前に始まっている。日清戦争と日露戦争 ── 村々に忠魂碑が建ち始めたこの時代の磐田を、制度と碑の側からたどる。

徴兵制 ── 村と国家を結んだ新しい義務

近代の戦争が磐田の村にもたらした、最も根本的な変化 ── それは徴兵制である。明治6年(1873年)の徴兵令(ちょうへいれい)は、それまで武士の特権であり義務でもあった「戦うこと」を、士族に限らず国民全体の義務へと転換した。「国民皆兵(こくみんかいへい)」の時代の幕開けである。

この変化が村にとってどれほど大きかったかは、江戸時代と比べればわかる。江戸の村人にとって、戦は基本的に武士の仕事だった。長州征伐のときの見付宿で見たように、村が負ったのは、通行する軍勢への人馬や物資の提供という「後方支援」であって、村人自身が兵として戦うことは、原則としてなかった。ところが徴兵制は、この関係を根本からくつがえした。磐田の農家に生まれた次男坊・三男坊が、二十歳になれば徴兵検査を受け、合格すれば兵営に入り、やがて大陸の戦場へ送られる ── そういう時代が始まったのである。徴兵検査は戸長役場・町村役場の重要な事務となり、兵事係(へいじがかり)の帳簿が、村の若者一人ひとりの運命を記録するようになった。兵にとられることを恐れて徴兵を逃れようとする者もいたが、制度は年を追うごとに整備され、逃れがたいものになっていった。戦争は、もはや遠い場所の出来事ではなく、どの家の息子にも直接ふりかかる、身近な現実になったのである。

徴兵制 ── 村の息子が兵士になる 村の若者(20歳) 農家の次男・三男も 徴兵検査 町村役場が事務 兵営・入営 戦場(日清・日露) 帰らぬ者も 戦は武士の仕事から、どの家の息子にもふりかかる現実へ
図1 徴兵制のしくみ。村の若者が検査を経て兵となり、戦場へ送られる時代が始まった。

日清戦争から日露戦争へ

明治27〜28年(1894〜95年)の日清戦争は、徴兵制で育った世代が経験した、最初の本格的な対外戦争だった。そして、それから十年後の明治37〜38年(1904〜05年)の日露戦争は、動員の規模を桁違いに拡大させる。全国で100万人を超える兵力が動員され、戦死者は8万人余に達した。旅順(りょじゅん)や奉天(ほうてん)の激戦の名は、遠い大陸の話でありながら、磐田の村々にも重くのしかかった。この地の町村からも多くの男たちが出征し、そして少なからぬ者が、生きて帰ることはなかった。

日露戦争は、村の社会そのものも変えた。大正期の村の政治を扱った別稿に描かれる「在郷軍人会(ざいごうぐんじんかい)」や「戦友会」といった組織は、この日露戦争を戦った世代が、除隊後の村に持ち帰ったものである。彼らは村の消防や祭り、青年団の活動の中核を担い、軍隊で学んだ規律や序列の感覚を村の暮らしに持ち込んだ。戦地で生死をともにした戦友との絆は、村の枠を越えた新しい人間関係も生んだ。戦争の経験は、大陸の戦場だけにとどまらず、除隊した兵士たちを通じて、村の人間関係や年中行事のなかに、深く組み込まれていったのである。

確認できること・できないこと
徴兵令(明治6年)、日清・日露戦争の概要、忠魂碑という石造物の一般的な性格、磐田市の慰霊碑が明治以来の戦没者1,617柱等を祀り昭和53年(1978年)に再建されたことは、公的資料で確認できる。一方、磐田市域の日清・日露戦争の出征者数・戦没者数の内訳、市域内の個々の忠魂碑の建立年・所在・碑文の網羅は、今回の調査では確認できておらず、今後の掘り起こし課題である。慰霊碑の1,617柱という数は明治以来の戦没者を合わせた総数であり、そのうち日清・日露それぞれの内訳は本稿では特定していない。数値は公表資料に基づく概数として扱う。

兵士を送り出す村

戦争を担ったのは、戦場の兵士だけではない。彼らを送り出す村の側にも、重い負担がのしかかった。一家の働き手である若者が兵にとられれば、その分、田畑の労働力が失われる。とりわけ農繁期に召集がかかれば、残された家族の暮らしは苦しくなった。出征する兵士のために、村では幟(のぼり)を立て、盛大な見送りが行われた。「祝出征」「武運長久」の幟がはためくその光景は、名誉の門出であると同時に、二度と会えないかもしれない別れでもあった。

兵士が戦死すれば、村は今度は葬送と慰霊を担う。遺骨を迎え、村葬(そんそう)を営み、遺族を支える。戦傷者が帰れば、その後の暮らしも村が引き受けた。こうして、戦争は、出征・見送り・戦死・慰霊・遺族の扶助という一連の営みを通じて、村の共同体の仕事の一部になっていった。国家の戦争を、村という共同体が末端で支える ── その仕組みのなかで、次に述べる忠魂碑のような「戦争の記憶を刻む装置」が、村ごとに必要とされたのである。

忠魂碑 ── 村が建てた戦争の記憶装置

日露戦争のあと、全国の村々に一斉に建てられたのが「忠魂碑(ちゅうこんひ)」である。地域出身の戦没者の霊を顕彰する石碑で、日清戦争後から現れ、日露戦争後に一般化した。多くは学校の校庭や神社の境内、村を見下ろす高台に建てられ、碑の背面や台座に戦没者の名が刻まれた。在郷軍人会が建立を担い、招魂祭には村人と学童が参列する ── 忠魂碑は、単なる石ではなく、村が戦争と戦没者をどう記憶するかを形にした装置だった。庚申塔や道祖神が、村の内側に向かう素朴な祈りの石だとすれば、忠魂碑は、村と国家とを結びつける、近代ならではの石造物だった。それは、地域の若者の死を「お国のための名誉の戦死」として意味づけ、その記憶を石に刻んで後世に伝えるための、いわば近代の記憶装置だったのである。

忠魂碑の建立と、その前で営まれる招魂祭(しょうこんさい)は、村の人々に、自分たちが「国民」であり「銃後(じゅうご)」であるという意識を、繰り返し植えつけていった。学童が整列し、遺族が参列し、在郷軍人が捧げ銃をする ── その光景を通じて、国家は村の心のなかへ入り込んだ。秋葉常夜灯石造物とはまったく性格の異なるこの新しい石が、明治末から昭和にかけて、磐田の村々の風景に加わっていったのである。磐田市域の各地区にも忠魂碑・慰霊碑が残るが、その全体像を一基ずつ記録する調査は、災害伝承碑と同じく、これからの大きな宿題として残されている。

1,617柱 ── 磐田の碑が刻む数字

磐田市には、明治以来の戦争で帰らなかった1,617柱と、戦禍に倒れた学徒・勤労者ら218名を祀る慰霊碑があり、昭和53年(1978年)、市制30周年を機に再建されている。1,617という数字には、太平洋戦争の犠牲者とともに、日清・日露以来の戦没者が含まれている。非核平和都市宣言に至る磐田の慰霊の営みは、昭和の戦争だけでなく、明治の二つの戦争から数え始められているのである。碑の前に立つとき、その1,617という数字の最初の一人が、明治27年に大陸へ渡った日清戦争の一兵士だったかもしれないことを、思い出しておきたい。

この数字を、単なる統計として眺めてはならない。1,617柱の一つひとつが、この土地に生まれ、家族に見送られて出征し、そして帰らなかった、名前を持つ一人の人間である。その最初の一人から最後の一人まで、半世紀を超える戦争の時代を、磐田の人々は生きた。慰霊碑は、その長い戦争の記憶を、一つの数字に束ねて後世へ手渡している。数字を刻むことは、忘れないための最初の一歩である。だが、ほんとうに大切なのは、その数字を、名前と顔を持った一人ひとりへとほどいていくことなのだろう。

磐田の慰霊は、明治の戦争から始まっている 日清戦争 1894〜95 日露戦争 1904〜05 諸事変 大正〜昭和 太平洋戦争 〜1945 1,617柱 磐田市慰霊碑 半世紀を超える戦争の犠牲者が、一つの碑に束ねられている
図2 磐田の戦没者慰霊の系譜。日清・日露に始まり太平洋戦争に至る犠牲が、慰霊碑の1,617柱に束ねられている。

日清・日露と磐田 ── 関連年表

出来事
明治6年(1873)徴兵令。国民皆兵の時代へ
明治27〜28年(1894〜95)日清戦争。徴兵制世代最初の対外戦争
明治37〜38年(1904〜05)日露戦争。動員100万人超・戦死8万人余。磐田の町村からも出征
明治末〜大正各地に忠魂碑建立、在郷軍人会結成。招魂祭が村の行事に
昭和53年(1978)磐田市慰霊碑再建。明治以来の戦没者1,617柱等を祀る

記録の空白を埋めるために

太平洋戦争については、市民39人の証言という得がたい記録が残された。証言してくれる人がいたからこそ、あの戦争の記憶は、生々しいかたちで後世に伝えられている。しかし、日清・日露戦争の磐田については、状況がまったく違う。体験者はとうの昔に世を去り、直接の証言を得ることはもうできない。残された手がかりは、村役場の兵事書類、出征兵士の従軍日記、遺族に伝わる手紙、そして各地に立つ忠魂碑の碑文 ── そうした断片的な記録だけである。

だからこそ、忠魂碑の悉皆(しっかい)調査は急がれる。どの神社の境内に、どの学校の跡地に、村を見下ろすどの高台に、忠魂碑が立っているのか。その台座に刻まれた戦没者の名簿に、どの家の、どんな名前の若者が記されているのか。碑は風化し、移設され、あるいは戦後に撤去されたものもある。いま記録しておかなければ、明治の磐田の若者たちが確かにこの土地から戦争へ赴いたという事実そのものが、静かに忘れられていきかねない。一基ずつ、一名ずつ、忠魂碑を記録していくこと ── それが、磐田物語がこのテーマで次に果たすべき仕事だと考えている。数字の向こうにいる一人ひとりの名を、もう一度この土地の記憶に呼び戻すために。

主な参考資料

磐田市域の日清・日露の出征・戦没の内訳、個々の忠魂碑の所在は未調査であり、本文中で課題として明示している。

あわせて読みたい

← トップへ戻る 関連記事 ── 二十一世紀に伝えたい戦争体験 →

この地域の家・土地・空き家について

古い地名や集落の成り立ちを調べていると、 家や土地には、登記簿だけでは分からない地域の記憶が残っていることがあります。

相続した家、空き家、使わなくなった土地について、 「売る・貸す・残す」の前に、一度整理して考えたい方は、 富士ヶ丘サービス株式会社までご相談ください。

この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料をもとに、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。