遠州報国隊は、慶応4年(1868年)2月、討幕軍が東下するのに際して、見付・浜松の神官や国学者を中心に結成された民兵隊である。江戸幕府が倒れ、天皇を中心とする新たな国家が誕生しようとしていた激動期に、遠州の地に居住していた幕臣や神官たちは、それぞれの立場でこのうねりに巻き込まれていった。見付大久保家資料目録で紹介した淡海國玉神社の神官・大久保家は、この報国隊の中心となった一族である。
- 遠州報国隊は慶応4年(1868年)2月、討幕軍の東下に際し、浜松・見付の神官や国学者を中心に結成された民兵隊。淡海國玉神社の神官・大久保忠尚が中心人物の一人となった。
- 川西(浜松側)は見付の渡辺などを中心に、川東は天竜川の渡河警備を担うなど、地域の神社・神官のネットワークがそのまま組織基盤となった。
- 結成の背景には、賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と連なる国学の系譜が遠州で隆盛したことがあり、大久保家もこのネットワークに連なっていた。
- 報国隊に参加した大久保春野は、維新後に陸軍幼年学校からフランス留学を経て、日清戦争にも従軍し、後年には陸軍大将・男爵となった。
公式情報の整理
- 結成
- 慶応4年(1868年)2月
- 中心地
- 見付・淡海國玉神社、浜松・諏訪神社
- 性格
- 討幕軍(東征軍)の東下に際して結成された、神官・国学者主体の民兵隊
- 中心人物
- 大久保忠尚(淡海國玉神社神官)、大久保春野 ほか
- 解散
- 戦後、報国隊は解散し、隊士はそれぞれの道へ進んだ
このページでは、遠州報国隊の結成経緯と隊士たちのその後を、磐田市歴史文書館 第15回企画展「遠州報国隊と日本の近代〜激動期を生きた神官と幕臣〜」(平成27年/2015年9月5日〜9月13日)の資料に基づいて整理する。パンフレットの文面はそのまま写さず、見付大久保家資料目録で扱った大久保家の歩みと結びつけて再構成する。
結成の背景 ── 遠州における国学の隆盛
遠州報国隊の結成を理解するには、幕末の遠州で国学が盛んだったという背景を押さえておく必要がある。国学者・賀茂真淵は浜松庄屋の生まれで、江戸に出て本居宣長・荷田春満らに連なる国学の系譜を築いた。本居宣長自身も遠州を訪れ、浜松諏訪神社の神官・岡部政信の三男に生まれた高林方朗に師事している。こうした国学のネットワークは、淡海國玉神社の神官家である大久保家にも及んでいたとみられ、大久保忠尚も国学を修めた一人であった。尊皇思想を核とするこの国学的な素養が、報国隊という形での討幕軍への協力につながったと考えられる。
結成と進軍
遠州報国隊は、慶応4年(1868年)2月、討幕軍が江戸へ向けて東下するのに際して結成された。浜松・見付、伏見の戦いなどの情勢を知った大久保春野をはじめとする従軍者は、大総督府への従軍を願い出て、これが許可された。浜松諏訪神社、見付の淡海國玉神社に集結し、各地の警備や彰義隊の取り締まりに任じられたと伝えられる。川西(浜松側)は見付の渡辺などを中心とする民兵隊が、川東は見付の淡海國玉神社に集結して江戸城の警備に加わり、天竜川の渡河にあたる隊もあったという。九月には、会津への従軍を望む声も内部から上がったが、静岡が新政府軍に鎮圧されると決まり、東北地方が新政府軍に鎮圧されると、その役目を終えて解散することになった。
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 1月3日 | 大坂城で、幕府勢が薩摩・長州藩兵と会合、鳥羽・伏見の緒に会し、決戦を約す(鳥羽伏見の戦い)。 |
| 1月23日 | 従軍を願うため、賀茂・鈴木寛之助ら、原野、大久保らが西上し、桑名城の残党討伐に協力することを許される。 |
| 2月9日 | 浜松杉浦家に会し戦を四方に取り決す。3日目にして200余名が参集。 |
| 2月17日 | 大久保忠尚ほかの面々が、隊を発足。討幕軍が到着。 |
| 3月5日 | 大総督、静岡に着陣。同7日まで滞在。 |
| 3月15日 | 隊員を許可し、87名の名簿を敷き、有幸に叙せられ、出仕87名・出仕69名・留守11名。 |
| 4月8日 | 大総督、江戸に到着。討幕軍を迎え、大砲陣に従軍する。 |
| 4月11日 | 大総督、江戸城西の丸に入る。これを供奉し旧幕臣を警衛とする。 |
| 4月29日 | 御守衛を大砲隊を続け、報国隊より27人、赤心隊より10人を提供。 |
磐田市歴史文書館所蔵大久保家文書「遠州報国隊の歴史」より、判読できた項目を抜粋。原文の判読が難しい箇所は割愛している。
大久保忠尚・春野 ── 神官家から陸海軍へ
報国隊に加わった大久保忠尚は、淡海國玉神社の神官として、維新後は招魂祭の祭主を務めた。慶応4年6月、戊辰戦争で亡くなった官軍の兵士たちを慰霊する招魂祭が江戸城で行われた際には大久保春野が祭主を務め、翌年建てられた招魂社では忠尚が祭事主宰に命じられている。この動きは、後の靖国神社へとつながっていく(詳しくは見付大久保家資料目録を参照)。
大久保春野は、報国隊での従軍を経て、明治政府の陸海軍でのキャリアを歩んだ。招魂祭の神官として活動する一方、横須賀海軍用所長などを務めた記録が残り、討幕軍時代の同志の勧めでフランスに留学したとも伝えられる。帰国後は主計局・会計局を歴任し、日清戦争にも従軍した。その後、明治40年(1907年)には華族に列して男爵となり、日露戦争でも活躍したのち、陸軍大将にまで昇った。淡海國玉神社の一神官の家から出た人物が、明治国家の陸軍中枢まで上り詰めたことになる。
鳥羽伏見の戦況が伝わってから、わずか数週間。遠州の神官たちは武器を取り、天竜川の両岸に立った。その先に、招魂社の祭主となる者もいれば、陸軍大将にまで昇る者もいた。
参考資料
- 磐田市歴史文書館 第15回企画展「遠州報国隊と日本の近代〜激動期を生きた神官と幕臣〜」図録(平成27年/2015年9月5日〜9月13日)
- 磐田市歴史文書館所蔵大久保家文書
- 磐田物語「見付大久保家資料目録」
本文は上記資料の記載内容を転載せず、事実関係を整理したうえで独自に再構成したものです。大久保忠尚と春野の親族関係、および報国隊隊士個々の詳しい経歴については、企画展資料に記載された範囲にとどめ、それ以上の推測は行っていません。