一言坂の戦いで名高い一言坂の北、およそ500メートルの崖上一帯は、「稲荷山」と呼ばれてきた。この地に陣屋を構えたと伝わるのが、江戸幕府の旗本・皆川氏である。一言村・西之島村・匂坂中村・下岡田村の4村にまたがり、合わせて1800石余を治めた旗本の記憶を読む。
この記事の要点
- 一言坂の北、約500mの崖上一帯は「稲荷山」と呼ばれ、旗本・皆川氏が祭った稲荷があった。
- 稲荷は三河国宝飯郡西島から迎えられたと伝わる。
- 皆川氏は一言村・西之島村・匂坂中村・下岡田村にまたがり合わせて1800石余を治めた旗本で、陣屋があったとされる一帯は今も「陣屋」の地名で呼ばれる。
旗本とは何か、1800石とは
江戸幕府における旗本とは、将軍直属の家臣のうち、石高1万石未満で御目見え(将軍への謁見)の資格を持つ者を指す。禄高は家によって大きく異なり、数百石程度の小身から、数千石規模の大身までさまざまだった。皆川氏の1800石余という石高は、旗本としては比較的大きな部類に入る。一言村・西之島村・匂坂中村・下岡田村という4つの村にまたがって知行地を持っていたということは、皆川氏の支配が豊田町域の広い範囲に及んでいたことを示している。
三河から迎えた稲荷
稲荷山に祭られた稲荷は、三河国宝飯郡西島(現在の愛知県豊川市周辺とみられる)から迎えられたと伝わる。皆川氏がなぜ三河の稲荷をわざわざ迎えたのか、詳しい経緯を示す記録は『町内史跡めぐり』からは確認できないが、旗本家が知行地に自らゆかりの神仏を勧請することは、江戸期にはしばしば見られたことである。三河は徳川家発祥の地でもあり、皆川氏と三河との間に何らかの縁故があった可能性も考えられるが、これは推測にとどめておきたい。
今も残る「陣屋」の地名
皆川氏の陣屋があったとされる一帯は、現在も「陣屋」という地名で呼ばれている。陣屋とは、大名や旗本が自らの知行地に置いた統治のための拠点施設で、城とは異なり、比較的簡素な構えであることが多かった。地名だけが残り、建物そのものは失われているが、「陣屋」という呼び名そのものが、かつてここに支配の拠点があったことを、今日まで静かに伝え続けている。
一言坂の戦いで有名なこの一帯は、戦国の合戦の記憶だけでなく、その後の江戸時代を通じて、旗本による地方支配の拠点でもあった。合戦の記憶と統治の記憶が、同じ一言の地に重なり合っている。一言坂の戦いを読んだあとに、稲荷山・陣屋の地名をたどってみると、戦国から江戸へと移り変わる時代の重なりが見えてくる。
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