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磐田物語 / 三ヶ野坂・物見の松・本多忠勝伝承
戦国・伝承 | 御厨・見付

三ヶ野坂・物見の松・本多忠勝伝承 ──
七つの時代の道が重なる坂

既稿では三ヶ野坂を台地・低地・微高地という地形の側から読んだ。この記事では同じ三ヶ野坂を、七つの時代の道が重なって残るという交通史の側から、そして「物見の松」と本多忠勝をめぐる言い伝えの側から読み直す。

七つの時代の道が重なる場所

三ケ野には、鎌倉時代から平成にいたるまで、実に七つの異なる時代の道筋が、重なるように残っているとされる。鎌倉の古道、江戸期の東海道、明治27年(1894年)の道、大正6年(1917年)の道、昭和30年(1955年)の道・国道1号、平成2年(1990年)の道・磐田バイパス、そして質屋に通うための「質道」――七つの道が、一つの狭い地域に折り重なっているのである。同じ場所を、時代ごとに少しずつ経路を変えながら、人々が通行し続けてきたことになる。全国的に見てもかなり珍しい地域とされ、道の歴史を一望できる稀有な場所だといえる。

旧東海道と国道1号・県道の主役交代で扱ったように、見付の旧東海道はやがて国道1号となり、磐田バイパスへと主役を譲っていった。三ケ野の「七つ道」は、この主役交代の物語を、より長い時間軸(鎌倉時代から)、より狭い一地点(三ケ野)に凝縮して見せてくれる場所である。一本の道が消えては次の道に置き換わるのではなく、複数の時代の道筋が同時に地表に残っているという点で、t038で扱った道路史とは異なる角度からの資料になる。

七つの道、それぞれの時代

七つ道の内訳を見ると、この場所がどれほど長く交通の要であり続けたかがわかる。もっとも古い鎌倉の古道に始まり、江戸期の東海道が続く。近代に入ると、明治27年(1894年)の道、大正6年(1917年)の道と、時代ごとに道が付け替えられていく。昭和30年(1955年)には国道1号としての道筋が生まれ、平成2年(1990年)には磐田バイパスが加わった。さらに、質屋へ通うための生活道「質道」も残るという。国家の幹線道路の変遷と、庶民の生活道が、同じ狭い地域に共存して残っている点は興味深い。道路の付け替えは、通常であれば古い道筋を消してしまうことが多いが、三ケ野では地形の制約(台地の縁という高低差)ゆえに、新旧の道が完全には重ならず、結果としてそれぞれの時代の痕跡が並存する形で残ったのではないかと考えられる。

物見の松という観測地

三ケ野の大日堂境内の東側には、袋井方面を松の間越しに眺められるよう設けられたとされる観測用の施設があり、「物見の松」と呼ばれている。台地の縁という高所に立地する三ケ野坂周辺は、見晴らしのよさゆえに、古くから物見・偵察の場として機能しやすい地形だったと考えられる。一言坂の戦いで触れたように、元亀3年(1572年)の武田信玄遠江侵攻に際し、家康は本多忠勝らを物見(偵察)に出したと伝えられており、三ケ野坂周辺の高所がこうした物見の役割を担った可能性は、地形上十分に考えられる。

確認できること・できないこと
三ケ野の大日堂境内に、袋井方面を眺められる観測用の施設(「物見の松」)が存在することは地域資料で確認できる。一方、この物見の松が本多忠勝によって実際に使用された、あるいは忠勝個人と直接結びつく記録があるかどうかは、今回のWeb調査では一次資料への到達ができず、確認できていない。「本多忠勝が使ったと伝わる」という言い伝えのレベルで扱い、史実として断定はしない。

兜塚という、もう一つの言い伝え

磐田市見付には「かぶと塚」と呼ばれる塚があり、現在は「かぶと塚公園」として整備され、園内の甲塚古墳は市指定天然記念物のクロガネモチが育つ古墳として磐田物語でも既に紹介している(甲塚のクロガネモチ)。一方で、この「兜塚」という名の由来について、一言坂の戦いの折に本多忠勝が兜を置いた場所であるという言い伝えも伝わる。もしこの言い伝えが史実だとすれば、古墳時代の墳丘(考古学的な事実)に、戦国時代の合戦にまつわる後世の物語(伝承)が重ねられたことになる。ただし、この「本多忠勝の兜」という由来そのものは民間伝承の域を出ず、古墳としての兜塚の性格とは切り離して理解する必要がある。

なぜ三ケ野に伝承が集まるのか

三ケ野坂周辺に、七つ道・物見の松・兜塚という複数の言い伝えが集まっているのは、偶然ではないと考えられる。既稿で扱ったように、三ケ野坂は磐田原台地の東縁から低地へ下る高低差のある坂であり、旧東海道がこの高低差を越える結節点だった。人・物・情報が集まりやすい場所には、道の記憶(七つ道)、軍事上の記憶(物見・合戦)、それらが後世に語り継がれる過程で生まれる伝承(本多忠勝の物見・兜塚)が、幾重にも積み重なりやすい。三ケ野という一地点に複数の物語が集中していること自体が、この場所が長く交通と軍事の要であり続けたことの証といえる。

物見・伝承・地形が重なる三ケ野

三ケ野坂という一つの場所には、①七つの時代の道が重なる交通史、②本多忠勝が使ったと伝わる物見の松、③兜塚という戦国伝承、④既稿で扱った台地・低地・微高地の地形、という複数の層が同時に存在している。一つの坂道を、地形・交通・軍事・伝承という異なる角度から重ねて読むことで、三ケ野という土地の厚みがより立体的に見えてくる。

七つ道鎌倉の古道、江戸の東海道、明治27年(1894)、大正6年(1917)、昭和30年(1955)・国道1号、平成2年(1990)・磐田バイパス、質道。
物見の松大日堂境内東側。袋井方面を眺められる観測施設。本多忠勝との関係は伝承レベル。
兜塚見付のかぶと塚公園・甲塚古墳。本多忠勝が兜を置いたという言い伝えがあるが、古墳としての性格とは別。
地形台地縁と低地の境という三ケ野坂の立地(既稿u019)。

主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。