失われる前に、磐田の記憶を記録し、次の世代へ手渡す
磐田物語 / 消えた古墳・塚地名の調査
古墳・伝承 | 磐田原台地

消えた古墳・塚地名の調査 ──
経塚古墳・堂山古墳と、名だけが残る塚

磐田原台地には500基を超える古墳が分布していたとされるが、そのすべてが今日まで形を保っているわけではない。鉄道の工事、土取り、宅地化――さまざまな理由で姿を消した塚がある。ここでは、記録として確認できる「消えた古墳」の事例と、地名だけが残り実体を確かめられない「塚」について、史実と伝承を分けて整理する。

「塚」という地名が語ること

磐田市内を歩くと、経塚、堂山、兜塚、土器塚など、「塚」や、それに類する語を含む地名にしばしば出会う。これらの多くは、実際にその場所にかつて古墳(塚)があったことに由来すると考えられているが、地名だけをもって「ここに古墳があった」と断定することはできない。土地の記録や発掘調査によって、名称と古墳の実体が明確に結びつく例もあれば、地名だけが残り、古墳そのものの痕跡がすでに確認できなくなっている例もある。この記事では、前者の確実な事例を軸にしながら、後者について踏み込みすぎないよう留保をつけて記す。

磐田原台地は、古墳時代を通じて有力者の墓域として使われ続けた土地であり、その総数は500基を超えるともいわれる。これに対して、国や県の指定文化財として今日まで保存されているのはごく一部である。残る大多数の古墳がどうなったのか、その記録は乏しい。宅地化や耕地整理、道路工事などによって、気づかれないまま削られ、地形からも記憶からも消えていった塚が少なくなかったであろうことは、想像に難くない。ただし、個々の事例を具体的に特定する一次資料は、今回の調査では十分に確認できなかった。この点は「確認できていない」とはっきり書き記しておきたい。

経塚古墳 ── 東海道線の工事で消えた前方後円墳

磐田市に伝わる経塚古墳(きょうづかこふん)は、全長約90メートルの前方後円墳であったと伝わる。しかしこの古墳は、明治18年(1885年)の東海道線敷設工事の際に破壊され、現在は現存しない。台地上に眠っていた大型の前方後円墳が、近代化を象徴する鉄道敷設という国家的な事業によって、ほとんど記録らしい記録を残さないまま失われたという事実は、この土地の古墳がどれほど脆い条件のもとに存在していたかを物語っている。

ただ、経塚古墳の場合、工事の最中に副葬品の一部が発見され、それが今日まで伝わっているという点で、他の多くの消えた古墳とは異なる幸運があった。工事中に出土したのは、三角縁四神四獣鏡(さんかくぶちししんしじゅうきょう、直径約22センチメートル)で、大陸から伝わった舶載鏡とみられる。この鏡は、大阪府の万年山古墳から出土した鏡と同じ鋳型(同笵)で作られたことが確認されており、遠く離れた地域の古墳どうしが、同じ鏡の系統でつながっていたことを示す資料となっている。鏡は磐田市内の連城寺(曹洞宗)に保存され、平成8年(1996年)3月22日、静岡県指定有形文化財(考古資料)に指定された。

「経塚」という名は、経文を土中に埋納した塚を指す「経塚」信仰に由来する可能性も考えられるが、これは名称からの推測であり、古墳がどのような経緯でこの名で呼ばれるようになったのか、確定した史実として説明できる資料は確認できていない。古墳が壊された後も地名だけが残り、その地名の由来がさらに別の信仰と結びついて語られる、という幾重にも重なった記憶のかたちが、ここにはある。

堂山古墳群1号墳 ── 明治の土取りが奪ったもの

磐田市東貝塚に所在する堂山古墳群は、前方後円墳1基、円墳3基、方墳3基、合わせて7基からなる古墳群である。このうち唯一の前方後円墳である1号墳(堂山古墳)は、墳丘長約110メートルという、静岡県内でも最大級の規模を持つ大型前方後円墳であったと推定されている。しかし明治期に行われた土取り(土砂の採取)によって墳丘の大部分が削られ、現在ではかつての形をほとんどとどめていない。

幸い、明治期の土取りの際には、鏡・玉類・刀・金銅製帯金具などの副葬品が確認されており、これらは今日「堂山古墳出土遺物」として磐田市指定文化財に指定され、伝えられている。築造時期は古墳時代中期、5世紀中葉ごろと推定される。墳丘そのものは失われても、そこに納められていた副葬品が文化財として今日まで残り、かつての姿を推し量る手がかりになっている点は、経塚古墳の場合とよく似ている。

史実と伝承の区別
経塚古墳・堂山古墳1号墳は、いずれも消失の経緯・出土品が公的な記録・指定文化財として確認できる事例である。一方、「塚」を含む地名一般が、必ずすべて実在した古墳に由来するかどうかは、個々の裏づけがない限り断定できない。本記事で扱うのは、記録として確認できた範囲にとどめている。

改変されながら残った例 ── 兜塚古墳と銚子塚古墳

すべての塚が完全に消えたわけではない。見付のかぶと塚公園内に保存されている兜塚古墳は、直径80メートル・高さ8メートルという静岡県内最大級の円墳として、現在も墳丘を見ることができる。ただし、この古墳も無傷で伝わってきたわけではない。戦時中、塹壕を掘削する工事の際に墳頂部が発掘され、三神三獣鏡や玉類、大刀などの副葬品が出土した。戦後も周辺への建物設置などにより、墳丘の一部に改変が加えられている。経塚古墳や堂山古墳のように完全に姿を消したわけではないが、近代から現代にかけて、幾度も人の手が入りながら、かろうじて塚としての輪郭を保ち続けてきたというのが実情である。

天竜川を望む磐田原台地西縁に築かれた銚子塚古墳も、現存する前方後円墳ではあるが、明治時代に後円部の中心が掘られ、銅鏡が見つかったという記録が残っている。これは学術的な発掘調査というより、盗掘に近い行為であったとみられる。銚子塚古墳・小銚子塚古墳そのものの詳しい内容は別記事に譲るが、現存する古墳であっても、近代の間に少なからぬ人為的な改変を受けてきたという点は、経塚古墳・堂山古墳の消失とあわせて読むと、磐田原台地の古墳群がたどってきた共通の受難として見えてくる。

地名だけが残るということ

経塚古墳・堂山古墳のように、消失の経緯と出土品の記録が両方そろっている例は、じつのところ稀な部類に入る。多くの「塚」地名は、古墳の実体を裏づける発掘記録を伴わないまま、土地の呼び名としてのみ受け継がれてきたと考えられる。宅地化や耕地整理が進むなかで、小規模な塚が記録されることなく削られ、後には地名だけが残った、という経過をたどった例は、磐田原台地に限らず各地でありふれた現象である。しかし、磐田市内で個別にそうした事例を特定できる一次資料は、今回の調査の範囲では確認できなかった。

したがって、「〜塚」「〜山」という地名に出会ったとき、そこにかつて古墳があったと想像することはできても、断定することは慎みたい。確実に言えるのは、経塚古墳・堂山古墳のように記録が残る例が実在すること、そして、記録に残らないまま消えていった塚がおそらく他にも数多くあっただろう、という留保つきの見通しである。地名は、記憶の手がかりではあっても、証拠そのものではない。磐田市の文化財課や埋蔵文化財センターに問い合わせることで、個々の地名についてさらに詳しい情報が得られる可能性はあり、気になる塚があれば、そうした窓口で確認するのも一つの方法である。

塚が消えても、その土地はなくならない。経塚古墳の跡地は東海道線の線路として、堂山古墳1号墳の跡地は住宅や畑として、今も誰かの暮らしの場であり続けている。古墳という形は失われても、その土地に人が住み、手を入れ続けてきたという営みそのものは途切れていない。空き家や古い土地の相談を受けるなかで、その土地の来歴に古い塚の記憶が眠っていることに気づく場面もある。地名の由来を確かめる作業は、単なる歴史趣味にとどまらず、自分の暮らす土地がどんな時間を重ねてきたかを知る、地に足のついた手がかりにもなる。

主な参考資料

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この記事について

著者
大石浩之(富士ヶ丘サービス株式会社 代表取締役/磐田物語 運営者)
参考資料
佐口行正氏所蔵資料、磐田市・静岡県等の公開資料、現地確認、郷土史関連資料を参考にしています。記事ごとに主要な参考資料がある場合は、個別に追記してください。
作成方針
本記事は、資料の文章をそのまま転載するのではなく、史実・地名・地理・時代背景を確認しながら、読みやすい地域史コンテンツとして再構成しています。誤りや補足情報がある場合は、運営者までお知らせください。