堂山古墳の存在を、今どれだけの人が知っているだろうか。堂山古墳は古墳時代中期、およそ1,600年前の全長約110mの静岡県最大級の前方後円墳である。この堂山古墳は昭和30年代の東部小学校建設の際の造成地などとして墳丘が削られ、現在は周溝と墳丘の一部が残るのみとなっている。当時行った発掘調査によって、県内では他に見られない量の大型形象埴輪や鉄製品などが見つかり、これらの出土品は県指定文化財になっている。
- 全長約110mを測る、静岡県最大級の前方後円墳。古墳時代中期(およそ1,600年前)の築造と考えられる。
- 昭和30年代、東部小学校建設に伴う造成で墳丘の多くが削られ、現在は周溝と墳丘の一部が残るのみ。
- 当時の発掘調査で、県内でも他に見られない量の大型形象埴輪や鉄製品が出土。円筒埴輪、甲冑や靫(ゆぎ)、鞘形・鶏形などを模した形象埴輪など、県内で最も多種・多量な埴輪が出土した。
- 畿内の埴輪製作技術が用いられた埴輪も出土しており、ヤマト王権とのつながりが見て取れる。
公式情報の整理
- 文化財名
- 堂山古墳(出土遺物は県指定・考古資料「堂山古墳出土遺物」u026として別途指定)
- 所在地
- 磐田市御厨・東貝塚
- 規模
- 全長約110mの前方後円墳(静岡県最大級)
- 年代
- 古墳時代中期(およそ1,600年前)
- 現況
- 昭和30年代の東部小学校建設に伴う造成等で墳丘の大部分が削られ、現在は周溝と墳丘の一部が残るのみ。
- 調査状況
- 昭和30年代の建設に伴う発掘調査で大型形象埴輪・鉄製品等が出土。令和8年は発掘から70年にあたる。
このページでは、規模・現況・出土品を、磐田市文化財課発行の「いわた文化財だより」および企画展資料に基づいて整理する。パンフレットの文面はそのまま写さず、御厨古墳群との関係から独自に再構成する。
静岡県最大級、しかし失われた墳丘
堂山古墳は、古墳時代中期のおよそ1,600年前に築かれた、全長約110mを測る前方後円墳である。この規模は静岡県内でも最大級にあたる。しかし、堂山古墳は昭和30年代、東部小学校建設の際の造成地などとして墳丘が削られてしまった。現在は、周溝と墳丘の一部が残るのみである。かつての全容を、現地で直接目にすることはできない。
令和8年は、堂山古墳の発掘から70年を迎える節目にあたる。学校建設という戦後の開発のなかで、地域最大級の古墳が大きく姿を変えてしまったことは、文化財と都市の発展がしばしば緊張関係にあったことを示す一つの記憶である。
県内屈指の量と種類を誇る埴輪
堂山古墳(東貝塚)の発掘調査では、円筒埴輪や、甲冑や靫(ゆぎ、貴人にさしかける傘)、鞘(弓を射るときに手首に装着する防具)や鶏などを模した形象埴輪など、県内で最も多種・多量な埴輪が出土した。これほど多くの種類の形象埴輪がまとまって出土した例は、静岡県内でも珍しい。
畿内の埴輪製作技術が用いられた埴輪も出土しており、ここでもヤマト王権とのつながりが見て取れる。埴輪の製作技術そのものが遠江へ伝わっていたことは、単なる完成品の授受を超えた、人や技術の往来があったことを示唆している。
御厨地区出身の磐田市文化財課職員によれば、これらの出土品のうち「鞘形埴輪」は、現在、磐田市埋蔵文化財センターの最も目立つ場所に展示されているという。JR御厨駅(令和2年開業)の南口にも、鞘形埴輪のモニュメントが設置されている。
御厨古墳群とのつながり
堂山古墳は、松林山古墳をはじめとする御厨古墳群(u027)と同じく、御厨地区に点在する大型古墳の一つである。松林山古墳が古墳時代前期(4世紀後半)の築造であるのに対し、堂山古墳は古墳時代中期の築造と考えられており、御厨の地に、時代を超えて有力者の大型墳が築かれ続けたことを示している。
令和8年度の磐田市文化財課企画展「イワタの巨大古墳〜兜塚から堂山へ〜」(磐田市立中央図書館展示室、2026年7月25日〜8月30日)では、堂山古墳出土の埴輪や鉄製品などを展示し、被葬者やその周辺の人々が活躍した姿を紐解くとともに、兜塚古墳(m125)や二子塚古墳(u038)など、その前後の時期の古墳の出土品から、堂山古墳出現の背景や、堂山古墳被葬者による支配以降のイワタと周辺地域の様相についてもさぐるという。
校舎の下に眠る、静岡県最大級だった前方後円墳。地表から姿を消しても、掘り出された埴輪たちが、御厨の地に築かれた大首長の記憶を語り続けている。
参考資料
- 磐田市文化財課「いわた文化財だより」第256号(令和8年7月1日発行)
- 磐田市文化財課企画展「イワタの巨大古墳〜兜塚から堂山へ〜」(磐田市立中央図書館展示室、2026年7月25日〜8月30日)
- 磐田物語「堂山古墳出土遺物」u026(県指定・考古資料としての出土品の解説)
- 磐田物語「御厨古墳群」u027(松林山古墳ほか、御厨の古墳群との関係)
本文は上記資料の記載内容を転載せず、事実関係を整理したうえで独自に再構成したものです。